139 そして、神の領域へ
「今からでも遅くない。最後のチャンスをあげよう、トリプルシックス」
なおも近づいてくる能見を前に、スチュアートは落ち着いた口調で語りかけた。
「ナンバーズがサンプル化する例は初めてだ。強い薬剤耐性を持ちながら肉体変化に至れば、何が起こるのか――正直言って、私にも予測がつかない」
これこそが、スチュアートが今まで能見を警戒していた最大の理由であった。サンプルがたどる進化も、ナンバーズのような不良品の出現もある程度予測していたが、彼の存在だけは予想外だったのだ。
深緑の怪人は、両腕を大きく広げた。まるで能見を迎え入れようとするかのようだった。
「トリプルシックス、私とともに来ないか? 君の持つ力はすさまじい。人間の領域など、とうに超えている。私と手を組み、新たな種族の未来を切り拓こうじゃないか」
「……確かにお前たちの種族は、能力だけなら人間より優れているかもしれない。でも、一つだけ劣っていることがある」
ぴたり、と能見が歩みを止めた。今や両者の距離は十メートルに満たず、いつどちらが仕掛けてもおかしくなかった。
「なぜだ。私たちが人に優っているのは明らかだろう」
理解できないと言うように、スチュアートが初めて困惑を見せる。人ならざるものの眼差しを真っ向から受け止め、能見は険しい表情で言い放った。
「お前たちは、人を殺めることを何とも思っていない。正義の心を持たず、善悪の区別もつかないお前たちは、決して優れた存在なんかじゃない」
能見の全身から、紫電がオーラ状に立ち昇る。バチバチと激しく音を立て、稲妻が彼の体を覆った。
いつの間にか、全身を覆っていた熱は感じなくなっている。多少は動かしやすくなった足で、能見は一歩踏み込んだ。
海上都市で目覚めて以来、能見がずっと願っていた平和。
それが果たされるかどうか、すべてはこの戦いにかかっていた。
「――決着をつけよう、スチュアート。お前を倒し、街に囚われた人々を解放する。そして、この戦いを終わらせる!」
「……私の提案を蹴るとは、愚かなことを」
牙を剥き出しにして、スチュアートが咆哮する。
「その決断、地獄で悔いるがいい!」
腕を振り上げると同時に、天から雷鳴が轟く。落ちる稲妻が、能見の頭上へと迫った。
「……うおおおっ!」
対して能見は、怪人へ向かって突進した。雄叫びを上げ、前傾姿勢で走る。その所作はいつになく荒々しく、獣のようであった。
一歩踏み出すごとに、彼の肉体を紫電が包む。帯電した皮膚がしきりに熱を発するが、不思議と苦痛は感じなかった。
降り注ぐ稲妻をかわし、ひたすらに敵を追って駆ける。以前とは比較にならないスピードに、深緑の怪人が目を見開く。
「馬鹿な。何という速さだ」
スチュアートの言葉は正しかった。能見の体は、既に人の領域を超えている。「6」番の薬剤による肉体変化は、最終段階を迎えていた。
皮膚から火花が散る。体を覆いつくした高熱は、やがて衣服ごと皮膚をどろどろに溶かした。
髪の毛も抜け落ち、鼻の低いのっぺりした頭部が残る。被験者「666」番である能見俊哉の姿は、完全に失われた。
異形の姿への変身を遂げながらも、能見は足を止めない。走る速度も落とさない。
溶けた皮膚の下から、新たに生成された皮膚が現れ、体を覆う。淡いパープル色のそれはごつごつとして硬く、管理者の体表と酷似していた。手には鋭いかぎ爪がそなわり、口からは長い牙が覗いている。
驚くべきことに、彼が変身したのは管理者の言う「サンプル」ではなかった。板倉や愛海のような形態を経ずに、管理者と同じ姿へと変わったのである。
通常では考えられないことだ。サンプルとは、誕生した直後の、科学者が最初に設計した管理者の形態である。そこに薬剤を追加投与することによって、彼らは強化体となった。たとえばアイザックが「6」番を追加して雷の力を得たように、各々がパワーアップを遂げた。
だが、能見はその段階を飛ばしている。最も肉体変化の力が強い「6」番を集中的に投与されたためか、彼の進化するスピードは誰よりも速かったのだ。
「……能見くん」
彼が人の姿を失ったのを目の当たりにし、陽菜たちは息を呑んだ。彼女たちは到達しえなかった神の領域へと、彼は踏み込もうとしているようだった。




