123 海上都市、運命の瞬間
反射的に振り向き、永井は辺りを見回した。顔をしかめ、片耳を手で押さえる。
「……何だ? おい、何が起こったんだよ」
地面を振動させるほどの、すさまじい音の暴力。間断なく鼓膜を叩く轟音の中で、永井は精一杯声を張った。
「リ、リーダー、見て下さい。壁が」
部下たちは皆、恐れおののいていた。彼らが指さす先を見て、永井も例に漏れず愕然とした。
街を囲んでいたはずの壁。そのうちの一つ、自分たちがいる北端にある壁だけが、徐々に下がり始めている。高さ五十メートルはあったはずの壁は、今では四十メートルほどにまで低くなっていた。
「もしかして、お前たちが何か細工をしたのか」
ほとんど当てずっぽうに近い推測をして、永井は冴を睨みつけた。しかし、彼女は慌てて首を振った。
「違うに決まってるでしょう。私たちだって、何が何だか分からないわよ」
明らかに冴は狼狽していた。とりあえずは彼女の言うことを信じることにして、永井も部下に倣い、壁の変化を見守った。
壁は、毎秒一メートルほどの速さで下降している。下がった部分はどうなるのだろう。地中には、壁を格納するようなスペースが設けられているのだろうか。
もはや戦いどころではなかった。両グループは武器を収め、突如として動き始めた壁を途方に暮れた顔で眺めていた。
「……でも、考えてみれば、壁が動くこと自体は不自然ではないわね」
やや間があって、冴がぽつりと口にする。
「この壁がずっと動かずにそびえていたんだとしたら、私たちを街へ入れるには、空から放り込むしかなかったはず。デスゲームの主催者が、そんな非現実的な方法を取ったとは思えない。壁は最初から可動式になっていて、必要なときだけ低くできるようになっていたんじゃないかしら」
「だとしたら、かなり大がかりな仕掛けだってことになるぜ。街を管理してる奴は、よっぽど資金が潤沢だったんだろうな」
ガラガラ、と壁が下がり続ける音に負けまいと、永井も叫ぶようにして言った。
「けど、おかしいんじゃねえか。主催者が言っていた三か月の期限には、まだ早いはずだろ。戦績上位の百名を脱出させるならともかく、奴らは何の用があって壁を下げてるんだ? これじゃまるで、『ここから逃げていいですよ』って言ってるようなものだぜ」
「そんなこと、私に聞かれたって困るわ」
こっちが聞きたいくらいよ、と冴が叫び返す。
やがて、壁の下がるスピードが緩やかになった。残り三メートル、ついには高度ゼロになり、壁の向こうの世界が露わになる。
音が止み、しんと静まり返った街で、彼らは息を呑んだ。
出現した光景は、永井たちにとって信じがたいものだった。
「……う、海⁉ どうなってんだよ。俺たちはずっと、海の上に浮かぶ街で暮らしてたってことか?」
まさか、本当に「背水」の陣になるとは思いもよらなかった。
素っとん狂な声を上げ、永井はさっきまで壁があった場所へ駆け寄った。下を見ると、海中に壁が沈んでいるのが確認できる。
飛行能力を持つ荒谷によって、能見たちは既に真実を知っていた。この街はいわば海上都市であり、付近に船やボートの類はない。また、空には電磁バリアが張り巡らされている。自力での脱出がきわめて困難だと判断したからこそ、彼らは「管理者と交渉できないか」と考えたのだ。
だが、その事実を知っているのはほんの一握りの被験者だけだ。ナンバーズでない一般の被験者は知らぬまま過ごしており、ゆえに永井たちの反応は自然なものだった。
壁が消えた先には、一面の大海原が広がるばかりであった。陸地などどこにも見えない。あまりのことに、永井はあんぐりと口を開けていた。
「なるほど。これなら確かに、壁がなくなっても逃げられる心配はないわね」
何とか冷静さを保とうと、冴が自身に言い聞かせるように呟く。
「……でも、どうして? なぜこのタイミングで、ゲームの主催者は北側の壁を下げたのかしら」
彼らは知らなかったが、永井と冴は今、この街にとって運命的な瞬間を目の当たりにしようとしていた。
ボーッ、と遠くで汽笛が聞こえた。陽の光を背に受けて、一隻の船が海上を滑り、こちらへ近づいてくる。
それは大型のフェリーであるようだった。水線より下は鮮やかな赤色、それより上はほぼ白一色で彩られた、簡素なカラーリング。乗客を優に数百人は収容できるであろう、大きくてたくましい船体。
「そうか。あれはきっと、救助船に違いないぜ」
永井はしばらく呆然としていたが、突然手を叩いた。
「俺たちがいなくなったのを心配して、海上保安庁かどこかが助けに来たんだ。そうに違いない」
彼の目はいつになくキラキラしていた。部下を見回し、満面の笑みで続ける。
「つまり、このデスゲームも今日で終わりってことだ。あの船に乗って、日本に帰れる」
「……もしかしてリーダー、こうなることを予想してたんですか⁉」
「わざわざ北側に移動したのは、救助船に一番乗りするためだったんすか⁉」
「フッ、まあな」
どう見てもただの偶然だったが、永井はドヤ顔で胸を張った。調子のいい男である。
「……いえ、違うわ。あれは救助船なんかじゃない」
彼とは対照的に、冴の表情は強張っていた。
「どうしたんだ、緑川。こんなときくらい、素直に喜べばいいのによ」
永井はきょとんとして、聞き返した。
「船が来たんだぞ。あれに乗せてもらえれば、日本へ帰れる可能性も低くないんだぞ」
「じゃあ聞くけど、船が来たのと壁が下がったタイミングとが同じなのはどうして?」
「そりゃ、偶然じゃ……」
途中まで言いかけて、永井がはっと顔色を変える。
「まさか。いや、そんなはずは」
「たぶん、あなたが考えている通りね」
仲間たちを不安がらせないようにと、冴は声を落とした。小さく頷き、永井の意見を認める。
「この街の管理者は、あの船が来ることを知っていた。だから前もって壁を下げて、船が接岸しやすい状態にしておいたのよ」




