001 知らない天井と女の子
目が覚めると、知らない天井があった。
白い天井に、白い壁。能見俊哉は布団に横になり、体には薄い掛け布団一枚が掛けられていた。どうやら身に付けているのは寝間着ではなく、普段着のようだ。
(――違う。ここは、俺の部屋じゃない)
意識が覚醒していくにつれて、能見の中では違和感ばかりが強くなっていった。
彼が住んでいたはずのアパートの一室は、こんな間取りではない。第一、彼はいつもベッドで寝ていたし、家に敷布団は置いていない。
パジャマに着替えず、普段着のままで寝入っていたのも彼らしくなかった。シャワーを浴びて疲れを取り、きちんと着替えてから寝るのが能見のルーティンである。よほど疲れていたということだろうか。
(夢でも見てるのか? 俺は)
そう思い、何度か瞬きをしてみる。頬をつねりもした。だが、いつまでたっても見える景色は変わらず、鈍い痛みが右の頬を襲った。残念ながら現実である。
わけが分からなかった。一体ここはどこで、自分はなぜここにいるのだろう。
混乱したまま、能見はがばりと跳ね起きた。ともかく、頭で考えているだけでは始まらない。状況を把握し、ここから脱出する必要がある。早く日常に戻らなければならないのだ。
何とはなしに上体を起こすと、すぐ隣に、もう一人分布団が敷いてあることに気がついた。すう、すう、と微かな寝息も聞こえてくる。
(嘘だろ。何がどうなってるんだ)
能見にとって、状況はますます意味不明なものになった。緊張のせいか、背中を冷や汗が流れる。
なぜなら、彼の隣の布団では、知らない女の子が気持ちよさそうに眠っていたからである。
肩に届くほど伸ばした髪には、緩やかなウェーブがかかっている。人懐っこそうな顔立ちは愛らしく、小動物的な可愛さがあった。
掛け布団にくるまった体は細く、女性らしい美しさを内包している。
「……むにゃ」
すやすやと眠っている彼女を眺め、能見は「もしかして、この部屋にはこの女の子が住んでいるんじゃないか」と仮説を立てた。何らかの理由で、自分は彼女に招かれたのかもしれない。
しかし、仮にそうだとすると、今の状況をどう説明するのか。自分と彼女には面識がない。能見自身は何も覚えていないが、これではまるで、一夜を共にしたようではないか。
(いや、それはあり得ないな)
少しだけ考え込んでから、能見は自説を否定した。女の子の顔をよく見ると、メイクを落としていないことが分かったからだ。
もし自分が彼女を抱くのなら、行為の前後にシャワーを浴びるだろう。最低限の清潔感も保たずにことに及ぶほど、彼は野蛮人ではなかった。
また、室内にはゴミ箱らしきものが見当たらず、ティッシュや避妊具もない。あるのは、部屋の隅にうず高く積まれた段ボールの山だけだ。生活感のない部屋だな、と能見は思った。引っ越してきたばかりのような印象を受ける。
というより、この子は本当にこの部屋で暮らしているのだろうか。おそらく違うのではないか。
ふああ、と欠伸が聞こえて、能見は驚いた。熟睡から覚めた彼女が、むっくり起き上がったところだった。
「うーん、よく寝たなあ。……あれっ?」
花柄のブラウスに、ロングスカートを着ているのが露わになる。掛け布団を払い除けた彼女もまた、能見同様、日常とのズレに気づいたらしかった。
それから彼女は、能見をじっと見つめた。かと思えば、途端に顔を赤らめて「きゃあ」と可愛らしく叫ぶ。
「も、もしかしなくても私たち、セックスしちゃいましたか⁉」
最低な台詞だ、と能見は思った。できることなら、女の子の口からそんな言葉は聞きたくなかった。もうちょっとオブラートに包んでほしい。
思い込みの激しいタイプなのかもしれない。呆然とした能見がすぐ反応できずにいると、彼女は「ううーっ」と呻き、頭を抱えた。
「ごめんなさい、お母さん。初めては大切な人に捧げなさいって言われてたのに、こんな適当な成り行きで経験しちゃうなんて……」
最低な台詞ランキングのワーストが、一瞬にして更新されてしまった。さりげなく処女だと暴露するのはやめてほしい。どんな顔で対応すればいいのか困る。
あと、初体験なんて大体そんなものだと思うから、必要以上に気にする必要はない。酔った勢いで、好きでもない相手とやっちゃうなんてよくあることだ。以上、能見俊哉による偏見である。
「なんかショック受けてるみたいだけど、多分やってないと思うぞ。少なくとも俺には、そんな記憶はない」
落ち込みまくっている女の子の肩を叩き、能見は声を掛けてみた。恐る恐る顔を上げ、彼女が聞き返す。
「本当ですか?」
「ああ。嘘はついてないぜ」
「良かった……」
天然っぽい女の子は安堵し、胸を撫で下ろした。しかし、「この男とセックスしていなくて良かった」と安心されているのかもと思うと、能見は少々複雑な気分である。
ともかく、彼女と自分の間に肉体関係がなさそうなことははっきりした。他の事柄についても、確かめなければなるまい。
「一つ聞かせてくれ。ここは君の家なのか?」
「いえ、違いますけど」
きょとんとした様子の女の子に、能見は「実は、俺の家でもないんだ」と告げた。
「つまり、状況を整理するとこういうことになる。俺たちは初対面で、どこかのアパートの一室に寝かされていた。いや、正確には、連れてこられたと言った方がいいかもしれない」
ここに来るまでの記憶がないことから推測するに、何者かが自分たちをさらった可能性がある。能見の推測を聞いて、彼女は怯えたような表情を見せた。
「ひょっとして、誘拐とかですか?」
「かもしれないな」
能見は否定しなかった。けれども、「誘拐」という単語がしっくりこなかった。誘拐犯の姿が見当たらないからである。もしかしたら食料品などを買いに行っているのかもしれないが、人質を放置して出かけるのは不用心すぎないだろうか。
『目が覚めたかな、モルモット諸君』
そのときだった。部屋の上部、天井すれすれに据えつけられたスピーカーから、聞き覚えのない男の声が響いてきたのは。




