115 後悔はしない
「もうやめて、匠!」
そのとき、アパートの正面玄関から躍り出た人影が、悲痛な声を上げた。
振り上げかけた拳を、荒谷がすんでのところで止める。予想していた痛みが訪れず、能見は恐る恐る目を開けた。
「……咲希?」
荒谷の声は、震えていた。
玄関扉にもたれて立っているのは、トリプルツー、綾辻咲希に他ならなかった。まだ熱は下がっておらず、顔が赤い。喘ぐように息をする姿が苦しそうだが、先刻よりは病状が良くなったらしい。
外が騒がしいことに気づき、目を覚まして下りてきたのだろうか。
「ダメじゃないか。今は無理をせず、寝ていなくちゃ」
能見から体を離し、荒谷は立ち上がった。急いで咲希の元へ駆け寄り、肩を貸してやる。
華奢な体を彼に支えられ、咲希はまんざらでもなさそうだった。だが、表情を一瞬だけ曇らせ、荒谷の耳元で囁く。
「……ありがとう。それと、ちょっとだけごめんね」
パン、と高い音が響いた。彼女に平手打ちされたのだ、と気づき、荒谷が狼狽する。
「な、何をするんだ⁉」
「全部見てたわよ。あたしのことを想ってくれてるのはありがたいけど、能見を殴るのはやりすぎ。反省してくれなかったら、あたし、匠のこと嫌いになっちゃうかも」
「わ、悪かったよ、咲希。お願いだから嫌わないでくれ」
咲希は明らかにご機嫌斜めだった。その膨れっ面を見て、荒谷がますます動揺するのが何だかおかしかった。
何はともあれ、咲希のビンタがよほど堪えたのだろう。荒谷は冷静さを取り戻し、すぐさま能見に駆け寄って助け起こした。「さっきの自分はどうかしていた、申し訳ない」という趣旨のことを繰り返し言い、許しを請うた。
「いいんだよ、もう」
唇に滲んだ血を手で拭い、能見は弱々しい笑みを浮かべた。元より彼は許していた。
「……あたし、後悔してないから」
荒谷に連れられ、能見もアパートへ戻ってくるのを見て、咲希はきっぱりと言った。
「何を?」
怪訝そうな顔をした能見に、彼女が微笑みかける。
「だから、あんたの力を借りたことは後悔してないって。そりゃあ今だってまだしんどいし、ゼリーを食べられないのはつらいけど。でも、あたしはあんたのこと、ちっとも恨んでないから」
無理をして、元気そうに振る舞っているのが分かる。首筋を艶めかしく伝う汗や、火照った体、ふらついた足元がそれを訴えてくる。
「あたしのことは心配しないで。それよりも、早く管理者を倒さないと承知しないんだからね」
「……分かったよ。精一杯やってみる」
涙をぐいと拭い、能見は笑みを浮かべた。
咲希だって十分つらい思いをしているのに、自分にエールを送ってくれたのだ。彼女の想いを無駄にするわけにはいかない。
咲希を助ける方法を見つけるためにも、残る管理者、スチュアートを撃破せねばならない。来たるべき最後の戦いへ思いを馳せ、能見は覚悟を決めた。
「それで、芳賀くん。話っていうのは何?」
同時刻。
陽菜は彼の部屋に呼び出され、ちょこんと床に正座していた。小首を傾げ、不思議そうに芳賀を見つめる。
食料と日用品の詰まった段ボール箱と、布団や枕などの寝具。それ以外のものが置かれていないシンプルな一室は、二人の存在を寂しく際立たせている。
能見と荒谷が外へ出て行ってから、陽菜は芳賀に呼び止められた。そして、「少し時間をくれないかな。話したいことがあるんだ」と言われたのだった。
はたして芳賀は、すぐには答えない。困ったように微笑み、手ぶりで「もう少し気楽にして」と促した。
彼は胡坐をかき、リラックスしている。
「お見合いじゃないんだから、そんなに固くならなくていいよ。もっと崩してもらって結構だ」
「お見合い……」
一方で陽菜は、芳賀が口にしたワンフレーズに囚われてしまったようだった。ぼうっとした表情で、虚空を眺めている。心なしか顔が赤い。
芳賀はあくまでジョークのつもりだったのだが、彼女は真剣に受け取ってしまったらしい。「話がある」と呼びだされるシチュエーション自体も、何やらラブロマンス的な妄想を抱かせてしまったようだ。
やがて我に返り、陽菜はぶんぶんと全力で首を振った。
「あっ、ダメですよ! もし芳賀くんが告白するつもりなら、秒でお断りします!」
「やれやれ。何でそういう解釈になるのかな」
こめかみを押さえ、芳賀がため息をつく。彼は若干イライラしていた。
そんな様子に気づく素振りもなく、陽菜は自慢げに胸を張った。
「私には、大切なパートナーがいますから。能見くんって言うんですけどね」
「パートナーって……。君たち、別に付き合ってはいないんだろう?」
呆れ顔で芳賀が指摘する。
「それは、まあ、そうですけど」
今さら恥ずかしくなったのだろうか。陽菜はうつむき、ようやく姿勢を崩した。正座ではなく、正座が片側にずれたような格好で腰を下ろす。横座り、あるいは女座りと称される座り方だ。
今日の彼女はショートパンツを履いていた。結果的に白くて細い足が強調され、芳賀はさりげなく視線を逸らした。
総じて二人の会話は微妙に噛み合っておらず、ちぐはぐだった。陽菜の天然っぷりが否応なしに発揮されている。
(……能見、君はすごいな。いつも彼女のペースについていけているだけ、すごいと思うよ)
ここにはいない戦友へ向けて、芳賀が密かに賛辞を送っていたのは内緒である。
「コホン」
本日二度目の咳払いで、場を仕切り直す。
「一応言っておくけど、僕はそういう話をしたかったわけじゃない。君を呼んだのは、真面目な話をするためだ」
「えー、違うんですか?」
口調こそのんきだったが、陽菜の表情は引き締められていた。背筋もぴんと伸びている。天然モードが終了し、ようやくスイッチが入ったらしい。
「当たり前だろう。僕が話したかったのは、今後の方針についてだよ」
芳賀が僅かに目を細める。
「能見だけでなく、咲希さんも戦えない状態になった。彼ら抜きで、何としてでもスチュアートを倒さなければならない。そして、この戦いを終わらせるんだ」




