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妄想論

似たような展開

作者: とびうお君

 最近ネタキレ気味と書いて始めるのが多い。今回も根底は何度も書いてること。ただその動機自体はすごく楽しみなもの。私の中で前回のエッセイで書いたことと繋がってる。何故漫画となろうは似てるのに内容は人気作の一致しないのか?これがちょっと解けたのでは?と確信を持ってる。


 過去の創作論が書いた人の思い込みでしょ?の範疇から抜け出なかったのはやり方が悪かったと思う。相対主義と絶対主義の狭間に創作論はあり、それが絶対主義的に語られるから受け取る側はおっさんの持論みたいなつまらない話が多かった。かつその後の反省から相対主義的に陥って作品の面白さなんて人それぞれでしょって極端な物言いが占めてしまう事になる。


 そりゃそうだがそれじゃ全く面白みがない。でも正しい事ならつまらない事でもそういうものだと思わないといけない。ただ極端な相対主義のダメなところは思考停止の気持ちよさになってる点。だから答えはそこにない。答えはその間にある。具体的には、ある刺激に対して面白い層と面白くない層に分かれる。


 面白くない方を例外とするには数が多すぎる。これが答えになる。逆に面白い方が数が少ない場合も例外として無視するにはやっぱり数が多すぎる。この少数派の数が多すぎるときは多数派少数派と分けるのではなく、最初から集団が違うとして分けて考えればいい。中国における少数民族の扱いじゃなくて、日本人と中国人みたいな集団の分け方になる。日本人の数は少ないが少数派として処理する話じゃないだろうと言うものになる。


 さて、まだ前置きは続く。漫画の面白さで一番重要なものは何だろう?って点で私は漫画やアニメも含めて総合的娯楽と言うのは自信がない曖昧な答えだと思ってる。ずばり漫画の面白さで一番重要なものは展開の刺激だと言える。大半の人間はここでストーリーと言うから総合娯楽と言うあいまいなものになる。


 ストーリーと言ってしまうと絵や映像、声音楽も重要だとなってしまうんだ。それは何故か?と言うとストーリーが重要だと言う言葉に何か違和感を感じるから枝葉に目が映ってしまう。


 間違いなくストーリーが重要なのだが、漫画のストーリーと文学作品のストーリーの面白さは重要な部分が違う。


 なろうの話なのに漫画の話なげーとなるが、何故か?と言うと漫画となろうの比較なので比較となる漫画についての方が書く比重が高くなるからだと思ってる。なろうは漫画論の付随する話で書ける。


 何故漫画と文学のストーリーの面白さが違うのか?と言うと、これはずっと書いてる焼き直しになる。漫画の読者層が頭を辺り使わずに娯楽を楽しむ大衆層になるからになる。間違えてほしくないのは、ここで学歴や社会階層を持ち出してそれゆえに劣った大衆層とエリート層って話はしたくない。


 漫画を楽しむときは馬鹿になって楽しむ。その読者が実際馬鹿なのか?はまた別の話。私はそういったつまらないレッテルはりには全く興味がない。事実は馬鹿になって楽しむ、あまり知的さは要求されない。ゆえにストーリーの中でそういった刺激に絞られるとなる。映画でよく言われるセックスバイオレンスもこの1つになる。


 で何か?でこれまた焼き直しだが、進撃の巨人の時に触れた展開力こそが漫画ストーリーの一番のコアになる。具体的に言うと次どうなる?とその次を見た驚きになる。何故これが重要なのか?で考えない面白さは短期刺激だと書いた。ストーリーの面白さは流れをストックする事で発生するものが多い。


 これは矛盾になる。そこでストーリーの面白さの中で短期刺激になるものは何か?で場面場面をつないでいくシーン展開は短期刺激になりやすいって点。セックスバイオレンスのような点の刺激が線の刺激であるストーリーに展開の刺激は組み込みやすい。展開の刺激に流れの記憶はないのか?ならある。だが、絶対じゃない。それに対してこういう流れかと全体の筋から刺激を受けて楽しむのは別個の刺激だと分かる。


 頭の使い方が全く違うがそれを自覚出来ている受け手はあまりいない。ストーリーが面白いとあってももやもやするのは、映像や声音楽のような点の刺激と同一で語られるようなものじゃないから違和感があるからになる。ストーリーの中でもそういった点の刺激と重なりやすいものはある。


 ストーリーと言う言葉で8割近くこれを意識して語る人はまず一般的にいないだろう。だから受け手の感じてる刺激と言葉にする刺激が全く実は違っているという奇妙な現象が起きる。これがまともな創作論が出来なかった理由になる。


 さてここまでは焼き直しだ、ここから本番。くそーなげー。漫画となろうの何が違うのか?なろうは特定の好みの展開を繰り返し楽しむもので、漫画はその全く逆びっくり箱みたいに展開の刺激を楽しむもの。


 いやそうじゃないでしょ?と言う人はいる。これも一応正しい、なろうの楽しみは漫画の中の特定のジャンルに近いとなる。綺麗に漫画となろうって層が分かれるのじゃなくて、漫画全体を楽しむ人も一部特定の繰り返し楽しむジャンルがあるだろうと見ている。それがなろうと同じ人が少ないだけ。


 すべての人は興味のないジャンルだと繰り返しじゃなくて、驚きのある新鮮な展開の刺激を求める。そのすべての人は特定の繰り返しでも楽しい特定のジャンルを持っていて、その展開は似たような展開を逆にこれが見たかったと楽しむケースになる。もっと細かく言うと特定のジャンルでもこれが見たかったって展開の刺激じゃないケースもある。


 ただ特定のジャンルを楽しむ集団は特定の展開の刺激を好む人の方が多い。何故か?特定のジャンルで次々刺激的で新鮮な展開が生まれることは無いからになる。それが出来るなら多分今の状況は変わると思う。じゃ我慢してるのか?ならそれは違う。存在しないものを前提に話してるだけになる。


 悪い意味での理想論になる。ただ根本的に似たような展開でも逆にこれが見たいってのもある。展開の刺激と真逆なのだが、特定のジャンルで次々新鮮な展開の刺激が生まれるのは作り手側の問題として原理的に不可能なので、こういった集団だけが残る結果になると言うわけだ。


 ややこしい話だが、新鮮な展開の刺激を求める集団と特定の刺激の集団が綺麗に分かれるわけじゃない。特定の展開の刺激を求める集団は、特定の展開に対して細分化されるためコインの裏表のように存在する集団じゃない。おそらくこの漫画VSなろうのストーリーの面白さの違いに対する批判は全くの的外れだと思われる。


 批判者も同様に似たような好みの刺激があるはずだ。問題はその人の求める刺激がなろうの展開にないだけだ。


 それでも大きく分けて、文学などを知的刺激を求める集団。これについては基本文字表現だと言うのが大きい。これはそもそも文字と映像絵物語で大きく分かれて、だからラノベが異質になる。そのラノベもやっぱり文字を読む知的なめんどくささがある。ラノベはやっぱり存在自体が矛盾してるが、漫画の最大の刺激は結局文字である程度表現できるのでラノベは残ることになる。


 じゃ何故面倒なのか?でラノベはそれでも文字による特定の刺激が強い。特になろうよりは圧倒的に文章で楽しむ部分が大きい。じゃなろうは?内容的に絵物語映像で発達したものを無理やり文字に落とし込んでるので、そこがちょー読むのが面倒くさい。ああここ絵で伝えればもっと頭使わずに済むのにって思うシーンが無茶苦茶ある。


 ラノベなろうは面倒なので、基本映像絵物語と文字ってのは知的刺激を求める集団とそうじゃない集団に分かれやすい。次にあまり頭を使わない物語を求める集団は漫画で重視される新鮮な展開の刺激となろうで重視される特定のジャンルにおける似たような展開を楽しむ集団に分かれる。


 ただこれは注意で、漫画や実写ドラマの特定のジャンルはなろうと似た刺激を求める集団と近くなる。裏を返すとなろうで楽しんでる人も自分が興味が薄い特定のジャンルの似たような展開は、似たような展開ばかりで飽きたと多分言う。


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