109 アザートゥ
起動した巨大な積層型魔方陣から禍々しい気配が溢れ出す。その気に当てられた観客は恐怖に体を強張らせ、口から泡を噴いて気を失う者が出始めた。
いつの間にか日は翳り、空には真っ黒な厚い雲が立ち込めて大粒の雨が落ちてくる。
雷鳴と共にアルセアの背後の魔方陣から、巨大な何かが穢気を撒き散らしながら競り上がった。
円形の魔方陣いっぱいに、アルセアの指さす空を目指すように、天を衝く背徳の塔のように円柱状のそれは紫電を纏わせながら真っ直ぐに空へと伸びていく。
「嘘だ……あり得ない……」
その顔に恐怖と絶望を貼りつかせてゼノギアが戦慄する。
戦場からの叩き上げで親衛隊に抜擢されたゼノギアはそれを見知っていた。
ぬめぬめとした灰色の肉で構成された円柱には青黒い血管らしきものが走り、脈動するように伸縮している。その表面に張り付くように金属なのか角質なのか判断がつかない長い棘を備えた白い甲殻が纏わりつく。その甲殻は本来ならこの円柱全体を覆っていたのかもしれないが、ひび割れ、剥がれ落ちたその痕跡からは赤い血が流れていた。
その所々に不規則にノイズが走るのは、脳がその視覚情報の処理を拒んでいるせいだ。それをまともに認識してしまえば、精神が壊れてしまうだろう。
ゼノギアは精神が砕けそうな恐怖になんとか抵抗していたが、観客は恐慌をきたして悲鳴をあげ、闘技場はまさしく阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を呈していた。
「魔神『アザートゥ』を封じただと!? そんなものを、いったい何処に封じた!? なぜそれを召喚できる!?」
ゼノギアは狂気に呑まれそうな自分の存在を確認するように、無意識に大声を張り上げる。
この恐ろしい気配を間違えるはずがない。アルセアが喚び出したものは、この世界の敵である魔神であった。魔方陣から突き出したものは、傷だらけの魔神の腕なのだ。魔神にもランクが存在し、災害級とはいえ強力な魔物程度の物から神に等しい力を持つ物もある。魔神『アザートゥ』は確認されている中でも最悪に分類される一柱であった。
塔のように聳える腕の先で、空を掴もうとするように指らしきものが開かれた。その掌の上に眩い銀色の光が膨らんでいく。
黒雲から生じた幾つもの雷が銀光に繋がり、その手がまるで空を支えているように、或いは空を引き寄せようとしているようにも見える。
こんなものを喚び出す術などゼノギアには想像もつかないし、喚び出したところで従えることなどできるはずがないのだ。
「貴様は、なんなのだっ!?」
角から極紫色の光を放ちながらドルティギノアが杖を横凪ぎに振るった。
その軌跡から生じた獄炎が一気に前方に広がるが、アルセアの結界に阻まれその進行を止める。
しかし、その結界をすり抜けて小さな空間の歪みが波紋のようにアルセアに向かう。それは獄炎の中に潜ませた空間断裂の魔技だった。
次元刀と呼ばれる魔王の魔技はこの世界に存在するすべての物を断ち切る。アルセアもろとも魔方陣を両断すべく放たれた必殺の刃は片手を上げたまま身動ぎ一つしないアルセアに迫った。
だが、アザートゥの甲殻から生えた棘の一つが震えると、それは巨大な触手となって身をくねらせながら、びゅるりと伸びてアルセアの前に飛び込んだ。
その表面に一文字の断線が走る。次の瞬間には断線が広がり黒い斬撃の傷を晒した。
傷口から覗く深い闇は何処とも知れぬ異空間だ。次元刀の前では物質の硬度に意味はなく、その刃を止める術はない。何が立ち塞がろうと次の瞬間にはアルセアの胴体は上下に別れることになるはずなのだが、立ち尽くしたままのアルセアには何の変化もなかった。
黒い傷がピタリと閉じると、触手は仕事を終えたのを確認したかのようにスルリとその場を離れてもとの位置へと戻る。
後には冷たい目でドルティギノアを見詰めるアルセアが残されていた。
「さらばだ、古き魔王よ」
アルセアの指がドルティギノアに向けて下ろされると、連動するようにアザートゥの手がドルティギノアに振り下ろされる。
「バケモノめ……!」
真上から迫る銀色の光を見上げ、ドルティギノアは狂気染みた笑いを浮かべて呟いた。
ゼノギアは観覧席からドルティギノアが虫のように叩き潰される光景を見ていた。
巨大な手が地面に叩きつけられると視界が激しく上下に揺れる。いっさいの音は聞こえず、世界は色を失いモノクロの光景がゆっくりと流れていく。
圧縮された銀の光は爆発するような閃光を放つと一本の柱となって空へと昇り、黒い雲を突き刺した。雲は爆散して巨大な円形の青空を作り出し、眩しい太陽が顔を覗かせる。
アザートゥの腕は陽光から逃れるように魔方陣へと吸い込まれていった。
アルセアの前には深いクレーターが残され、焼け焦げたような表面には何者の痕跡も残されてはいない。その中心辺りから小さな赤く光る珠が幾つも浮かび上がり、アルセアに吸い込まれていく。
「宝物庫の継承が……行われた」
ゼノギアの呟きは魔王ドルティギノアの死を意味していた。
アルセアは闘技場の中心でゆっくりと客席を見渡す。混乱は未だ収まらず、泣き叫ぶ声があちこちから上がり続けていた。気が触れてしまった者もかなりいるのではないかとゼノギアは思う。
観衆のことなどどうでもいいとばかりにアルセアはゼノギアの居る特別観覧席を見上げて声を張り上げた。
「我が名はアルセア! 私が新たな魔王だ!!」
地獄のような光景の真ん中で高らかに宣言する新しい魔王。ゼノギアは怖れよりも、陽光を浴びて輝くように美しいその姿に心を奪われていた。