107 いつか空は晴れて
『愚かなる人間どもに告ぐ! 我が名は魔王アルシアザード! 妾は二百年の封印より解き放たれた!! 妾はこれより人間どもに宣戦を布告する!!!』
その映像と音声は大陸の遥か上空、成層圏のさらに上を漂う複数の魔導衛星から人口密集地めがけて大陸の北半球全土に照射されていた。
未知の魔法とその規模もさることながら、魔王の復活と人類に対する宣戦布告という衝撃的な内容に各国は一瞬にしてパニックに陥った。
「これは、大変なことになりましたね」
ゼフト村にある冒険者ギルドの窓から空を見上げていたギルドマスターのヘンケンは、思わず呟いた。その隣では額から捻れた一本角を生やした魔族の男、ギリアンが同じように上空を睨みつけている。
眼下の中央広場でもざわめきが広がりつつあるが、多くの者は呆けた顔で上空の映像を眺め続けている。
『劣等種に虐げられている我が同胞たちよ! 貴公らは現状に満足しているか? 優れた能力を持ちながら惨めな底辺に甘んじていることに疑問を感じたことはないか? その心に怒りが!誇りがあるのなら、立ち上がれ! 魔界は貴公らを受け入れよう! 出自は問わぬ。妾もかつては奴隷闘士であった! 間もなく劣等種の支配は終焉を向かえるだろう! その時に貴公らの立つ場所はそこではない!』
ギリアンは舌打ちをすると煙草に火を点けた。
「ちっ……分断にきやがったか。開戦したところで東方諸国にまではたいした影響はないだろうと踏んでたが、面倒なことになりそうだ。実際、不満を抱えてる魔族は多いからな」
魔王アルシアザードの演説は続いている。
「魔王アルシアザード……封印は解けていたのですね……」
「ああ……」
茫然と呟くヘンケンに生返事をしながら、ギリアンは映像の女を睨み小さな声で呟いた。
「……誰だ、あいつ? ぶん殴りてえ」
◆◇◆◇◆
「んん!? 誰だよ、あれ」
映像を見上げていたカイトは、上空に映る女がアルシアザードと名乗り演説をはじめると、困惑した顔で呟いた。
女は特長こそ真似てはいるが、ルシアとは明らかに別人である。
だが、カイトはすぐにはっとして窓から離れると部屋のなかに目を向けた。
部屋のなかは騒然としており、兵士たちは困惑しながらもタッカーたちが席を離れないように見張っている。ユキは顔をこわばらせていたが、すぐに声の違いに気づいたのか「おや?」、という顔をしてキョロキョロしはじめた。そして、やはりカイトを見つけて目が合う。
カイトが黙って頷くと、ユキは察して安心した顔を見せた。そしてカイトはミハエルに目を向ける。
ミハエルは肘掛けに手を置き足を組んだ姿勢で、ただ一人落ち着いた様子で演説を聞いていた。
「なるほど……そういうことか。でも、これは都合がいいな」
カイトは呟くと、ニヤリと笑いを浮かべた。
△▼△▼△
ほんの少し時間は戻る。
「で、元老院は、なんと?」
キルラメディナはグレイフィールド城の中でも最上級の客室で椅子に座ったままゼノギアの報告を聞いていた。
「は。たいそう御怒りでしたね」
ゼノギアは眉間に深くしわを刻んだ厳めしい顔で答えた。キルラメディナは苦笑して口角を吊り上げる。
「まあ、そうであろうな」
ゼノギアの報告では『工場に巡回に行くと既に施設は破壊され使い物にならなくなっていたため、建物ごと廃棄した』ということになっている。
完成間近だった合成魔獣製造工場の消失に元老院は激怒した。本来ならゼノギアには事態を未然に防げなかった責任を取らせ、降格した上で魔神の眷族相手の最前線にでも飛ばしたいところだろうが、処分に関する言及はなかった。それは、長年の実績もさることながら、いま万が一にでもゼノギアに謀反を起こされると不味い事情が元老院にはあるからだ。ゼノギアになんらかの処分が下されとすればキルラメディナが魔界に戻ったタイミングになるだろう。
ゼノギアにとってはどうでもいいことだった。こうしている間にも、ゼノギアが隠している本物のアルシアザードが暴れだすようなことがあれば、もうそれどころの話ではない。
「元老院としては魔王城を押さえる戦力を確保しておきたかったのだろうが、アルシアザードが今も健在で魔王城の中を動き回っていると知り、かなり焦っているようだな。おかげで、私には都合のよい結果になった。もはや、アルシアザードの帰る場所はない」
キルラメディナは上機嫌だが、すぐ近くにそのアルシアザードが居ると知ればどんな顔をするのか、ゼノギアは少し見てみたい気がした。
タッカー達の報告からアルシアザードが結界を抜け出す可能性があると危機感を抱いた元老院は、早急にキルラメディナを偽物のアルシアザードに仕立て上げて魔王に据えるという強行策に打って出たのだ。
元老院にとって、思い通りにならないアルシアザードは邪魔でしかないのだ。元老院は根回しのついでとばかりに開戦の準備を早め、全世界に魔王の復活と同時に宣戦布告を行うことにした。魔王の復活は各国の混乱に加えて兵たちの士気を高めるはずだ。
そして今日、その映像が世界中の上空に写し出される。壁に掛かった時計を見ると、あと10分といったところか。
すでに撮影は終えているのでキルラメディナはこの部屋でその様子を眺めるつもりらしい。壁の一面に掛けられたスクリーンには映像を投射する魔道具によって現在のガレオンの空が写し出されている。
「キルラメディナ様、私はこの後の調整がありますので、これにて失礼いたします。夜には報告に伺います」
「ああ、わかった。それと、大事なことだが……」
キルラメディナはそう言って立ち上がると、壁に掛かった金縁の丸鏡の前に立った。
古風な装飾がほどこされたその鏡はキルラメディナの所有する宝具だ。キルラメディナが短く呪文を唱えると、鏡は風に撫でられた水面のように波立ち、淡く青い光を放つ。
するとキルラメディナの金色の髪が艶やかな漆黒に変わり、瞳の色は紅玉のような赤色になる。額からは新たに捻れた細い角が生えていて、もともと二本だった角が三本に変化していた。
これは幻術ではない。鏡は映した者の姿を変える魔力を持っているのだ。
「今後、私のことはアルシアザードと呼ぶのだ。よいな」
「…………は、仰せのままに。アルシアザード様」
ゼノギアは一礼すると、部屋を後にした。扉を閉めて廊下に出ると、口のなかで小さく「偽物が」と、不快そうに呟きを漏らす。
それからゼノギアは食堂に向かうと、侍女に声をかけて自室で食べるための食事を用意してもらった。
ゼノギアが人間の国に来てまず驚いたのは、食事だった。近年、異世界人が大量に現れて様々な文化革命が起こったと聞く。これに比べると魔界の料理など家畜の餌に等しいとゼノギアは思った。
この事実は大きな危険を孕んでいた。部下たちは必用最低限の人員以外は、人間に接触しないように統制している。この味を知ってしまうと、士気に大きく関わると判断したからだ。
事実、キルラメディナは魔導艦の自室にはほとんど戻らずに城に用意された部屋で過ごすようになっている。
バスケットを片手に転移魔方陣を設置している部屋に向かって歩いていくと、にわかに周囲の様子が慌ただしくなる。
どうやら映像の投射が始まったようだ。
足を早めると、空からキルラメディナの声が響き渡った。
城の者たちが大騒ぎするのを尻目に、ゼノギアは転移魔方陣で自分専用の宿舎へと戻った。空からは相変わらずキルラメディナの演説が響いている。
ここはブライエ山の泉の畔に建設した拠点で、対魔神用魔導戦艦『アーク・レイヴン』の乗組員約3000人が生活をしている。
魔法を併用して造り出した兵舎や各種施設が設置され、すぐ近くには黒い船体の魔導戦艦アーク・レイヴンが停泊していた。人目に触れぬよう、アーク・レイヴンを中心に視覚阻害の結界が張られている。
泉の先は断崖になっていて、その下にはグレイフィールド城と城塞都市ガレオンの街並みが広がっていた。
ゼノギアは転移魔方陣のある作業室を出ると隣の寝室へと向かう。アルシアザードは、まだそこに居るのだろうか。
昨晩、様子を見に戻ったときにはぐっすりと眠っていた。
昨日、ゼノギアとアルシアザードは合成魔獣製造工場からここへと転移した。ろくに話をする間もなくアルシアザードが眠気を訴えだし、ゼノギアのベッドで熟睡してしまったのだ。
あまりに無防備な様子にゼノギアは毒気を抜かれて目が覚めるまで放置することにしたのだった。兵を呼んで捕らえようという気はなかった。そもそもゼノギアは魔王親衛隊であり、元老院の意向がどうあれアルシアザードを護るのが職務である。
(いや、それもただの言い訳か)
心のなかで呟き、ゼノギアは嘆息する。
アルシアザードが封印されてからの二百年、元老院の指示とはいえゼノギアはその救出に動くことはなかった。
あの女はいつも氷のような無表情で、ときおり怒りを爆発させる以外は感情を表には出さない。だが、その仮面の下には常に苛立ちと悲哀が渦巻いているのをゼノギアは看破していた。それは思うようにならない周囲に向けられたものなのか、自分へと向けたものなのかは分からない。いずれにせよ救われない女だと、ゼノギアは心のなかでは冷めた目でアルシアザードを見ていたのだ。この女はいつか自滅するという確信があった。
いずれ狂気に堕ちるか、冷静さを欠いた蛮行で命を落とす。封印のきっかけとなった暴走もゼノギアから見れば驚くほどのことではない。封印から解き放ったところで、それは何も変わりはしないのだ。
だが、二百年振りに目の前に現れたアルシアザードは、決定的にどこかが違っていた。
身に纏う雰囲気もそうだが、人間に話し掛けたときの穏やかな顔は、ゼノギアが見たこともないものだった。
いったい、何があったというのだろうか。そもそも、あれがアルシアザードと同一人物なのかという疑念すら浮かんでくる。
さすがにもう目覚めているだろうが、おとなしくゼノギアを待っているという保証はない。この部屋に残っていたとしても、いま流れているキルラメディナの演説を見て怒り狂っている可能性は高かった。
ゼノギアは達観の境地で寝室の扉を開けた。
泉の冷気を含んだ風が通り抜けた。
開け放たれた窓辺に空を見上げるアルシアザードの背中があった。長い黒髪が風に靡き、その光景は一枚の芸術的な絵画のようにゼノギアの心を打った。
気配に気づいてゆっくりと振り返るアルシアザードの横顔に光るものを見て、ゼノギアは声をかけるのも忘れて立ち竦んだ。
(涙!?)
それがどういう涙なのか、ゼノギアには分からなかった。
正解は、寝ぼけ眼でぼへっと映像を眺めていたルシアが大口を開けてあくびをした拍子に涙腺が圧迫されてなんかの汁が分泌されただけなのだが、思考になんかの補正がかかったゼノギアは気づかない。
口もとに光るのはよだれなのだが、ゼノギアの過度な美化バイアスを通すと、それは美しい涙でしかあり得ないのだ。
「おお、ゼノゼノか」
「ゼノギアです。お目覚めですか、アルシアザード様」
「うむ、よく寝た」
アルシアザードは窓を閉じると穏やかな顔でゼノギアに向き直った。
「食事をお持ちしました」
「おお、気が利くではないか!」
サンドイッチとティーポットの入ったバスケットをテーブルに置くと、アルシアザードの顔がぱっと輝く。
永遠に晴れることがないと思っていた空の分厚い黒雲を割るような晴れ渡った笑顔に、ゼノギアは眩しそうに目を細めた。それは、なにかの奇跡を目の当たりにしたかのような面持ちだった。
キルラメディナの演説にも流した涙にも、もう意味はないのだと主張するような無邪気な様子に、ゼノギアは『この方は、もう魔王に戻る気はない』のだと気づいた。