第九十九話 幻影の終端
ゆらりと動いた紅い外套──カシムの持つ斧の刃が、目の前で振り下ろされる。
奇跡的に身体が動いて、回避する。
「──くっ!!」
いつもなら簡単に避けられるはずの斧の一撃を、当たる寸前で後ろに下がってかわした。それと同時に、全身からどっと汗が噴き出た。
レベル1となり、唯一の能力である【即死魔術】が使えなくなった今の俺には何の力もないのだ。
生身で一撃でも受ければ、間違いなく致命傷を負うことになる。
人間を相手にしているというのに、カシムの攻撃に一切の躊躇はない。脅しなどではなく、ただ俺たちを殺すためだけに動いている。
今見えている以外にも何か武器を隠し持っている可能性すらある。お互いに能力が封じられているとはいえ、素手で何とかできる相手には到底思えなかった。
「アーク様!」
「他人の心配をしてる場合か? お前の相手は俺だ」
接近してきたライルが、ファティナに向けて赤槍で突きを放つ。
ファティナの狼のような耳が微かに震えたように見えた後、その一撃を剣の刀身で受け、逸らした。
ファティナは剣を構えず、剣先を地面に置いて攻撃に備えていた。腕力が失われたことで簡単に持ち上げられなくなったためだろう。
これまで幾度もの戦いを切り抜けてきた黒剣も、能力を失った今の彼女にとってはただの重い塊でしかないに違いなかった。
「お前、あの【剣聖】のスキルを持った冒険者なんだってな」
槍を構え直しながら、ライルが言った。
「だから何だと言うのですか」
「試してみたかったんだよ。剣と槍──その中でも最も優れたスキルを持つ者同士が、能力を失った状態で戦ったら一体どちらが勝つのか」
「そんなことをして、何の意味が!」
「意味があるかどうかは、俺が決めることだ」
続く横薙ぎを、ファティナは上手くタイミングを合わせて剣を振り、打ち払った。
しかし、技量によってそれを成功させたわけではなく、単に勢いをつけて振り回しただけにしか見えない。
「へぇ、意外と悪くない動きをするじゃねえか。獣人と人間の身体能力の差か」
「……っ」
「やっぱり獣人は、人とは違うみたいだな」
ファティナは苦虫を噛み潰したかのような顔で、ライルの言葉を受けていた。
それはまるで、そんなふうに思われたくはなかった、とでも言いたげに見えた。
「ファティナさん! 逃げて!」
メルが叫ぶが、それ以外に彼女にできることは何もなかった。
魔術が使えなくなった今、俺と同じように完全に無力な存在と化している。
せめてラギウスの剣だけでも使うことができたなら、反撃のしようもあった。けれど、今はもう持ち上げることすらままならない。
ラギウスの剣は、願いに応じない代わりにただ仄かな光を発しているのみだった。
準備不足。
油断。
後悔。
そんな言葉ばかりが、頭の中で渦巻いている。
せめて替えのショートソードの一本でも用意していたなら、この窮地を脱することができたかもしれないのに。
逃げるしかない──そう思った。
イオが言った通りであれば、カシムの持つスキルである【能力無効】によってこの現象は発生している。解除するためには、カシムを今ここで倒すか、スキルの範囲外まで逃げ切るかのどちらかしかないのだ。
「二人とも逃げろ! 来た道を戻れ!!」
「させるわけないでしょ?」
イオが短剣を握り、距離を詰めてくる。
その視線の先にいるのは、メルだ。
「メル!」
駆け寄ろうと考えた矢先、斧の刃が鼻先をかすめる。
カシムは攻撃の手を緩めず、ゆっくりと、だが確実の俺を追い詰めようと迫ってきていた。
三人とも完全に分断されてしまった。これではどうしようもない。
唯一戦えているファティナも、ライルの攻撃を受けるのが精一杯な様子だ。
「い……イヤ……」
「メル! 走れ!」
メルは青白い顔をしながら、ただ体を震わせていた。
恐怖のせいか、動くことすらままならないようだ。
「お願い、こんなことはもうやめて……」
しかし、その言葉が虚しく響いたすぐ後に──彼女の左肩にイオの持つ短剣が深々と刺さった。
「あっ……ぐ……」
「簡単には殺さないよ? あたしたちの痛みを知りながら、死んでもらうから」
イオが、ゆっくりとメルの首に手をかける。
苦しそうに呻くメルと、嘲笑うかのようなイオの声が同時に耳に入ったところで、体から力が抜けた。
もう、どうにもならないと思った。
──どうして。
一体、どうしてこんなことになってしまったのか。
酷い始まりから、ようやくここまでたどり着いたのに。
あともう少しで、目的を達成できると思ったのに。
いや、違う。
突然、そう思った。
──逆なんだ。
これまでが上手くいきすぎていたんだ。
俺が冒険者になり、【即死魔術】という特別なスキルを得て、この場所までやってきたこと。
たった三人で、鍵を集めきる寸前まで行ったこと。
それ自体が、おかしかったのではないか。
そもそも、これは本当に現実の俺が見ている光景なのだろうか。
そう考え始めた途端、これまでの日々が実際の出来事だったのか疑わしくなってきた。
ひょっとしたら、自分は冒険者になった一日目のあの時点で既に死んでいて、幻を見ているだけではないのか。
そんな怖ろしい考えさえ頭をよぎる。
誰よりも強くなるなんて、そんな考えを持つこと自体が愚かだったのか。
もしも俺が正しい道を歩んでいたのであれば、このどうしようもない状況を回避できたのではないか。
では、正しい道とは何なのか……。
鍵を集める以外に、しなければならないことが──
──もしかして。
ここに至るまでに、何か大切なものを見落としていた?
「アーク様! よけて!」
「──え」
自分でも間抜けな声を発したと思ったところで、身体が急に熱を帯びた。
気付いた時には、肩から腹にかけて──ざっくりと斬られていた。
「──あ」
一瞬、自分に何が起きたのか認識できなかった。
力が入らなくなり、すぐ後ろにあった大きな岩に背中を預けていた。
震える腕を上げてみると、手にはべっとりとした血が付いていた……。
「アーク様! 起きて! あきらめないで!」
──あきらめないで。
多分、無理だと思った。
それでも残された力を振り絞り、カシムへと右手を向ける。
「で……《デス》……」
しかし、かざした手からは何も生じない。
知ってはいた。
奇跡は、そうそう起きない。
「…………」
ほんの少しだけ警戒したかのような素振りを見せたカシムだったが、何も起きないとみるや、斧を高々と振り上げた。
刃が俺の頭めがけて振り下ろされるまで、あと幾ばくも無い。
俺はただそれを、黙って見つめることしかできなかった。
「あ、あ……」
これが俺の、冒険の果て。
なんてあっけなく、惨めな終わり方なのか。
時間の流れが、異様に遅く感じられた。
沢山の後悔の念とともに──死の間際の光景をただ目に焼き付けることしかできない。
自身の頭が砕かれるその瞬間を、ただ待った。




