第八十五話
課せられた仕事の内には含まれないが、見つけてしまった以上、放置することはできなかった。
汚れが目に付けば綺麗にしたいと考えるのは普通の感覚だと思う。それが自分にも関係するものならば、尚のこと。
闇深い夜道の中を歩く人影が見えた。三人組。胸部だけが取り外されている板金鎧を着た男を両脇から支えながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。頼りになるべき月明かりは左右から迫るように立ち並ぶ建物によって遮られているため、大通りに出るまでは暗闇が続く。道は馬車一台が何とか入れそうな幅で、作業をするにはうってつけだった。
今この場にいるのは三人と自分だけ。そもそも、こんな時間に町中をうろつく者は滅多にいない。別に住民が健康的な生活を送っているという話ではなく、単に治安の維持に失敗しているだけで誇らしくもないのだが。
男たちの外見を観察する。Aランク冒険者だと言っていたが、実際は違う。恐らくはDかCあたりの有象無象。装備は盗品の可能性すらあった。
ふと、以前読んだ童話を思い出す。自分をドラゴンだと思い込んだドレイクが、ゼパルト山に棲む白いエルダーワームを食べようとして逆に丸呑みにされる話。メティスの教会に残る古い言い伝えが基になっている。
「うう……どうして、どうしてこんなことに……」
左側の男が、嗚咽を漏らす。
「うるせえ! つべこべ言わずにさっさと歩けよ!! うっぷ……」
「お、おい! 絶対に吐くなよ……? もし見つかったら、今度は何をさせられるか……」
「分かってるよ! ちくしょうが!」
時間をかけて酒場の床を掃除した二人は、こみ上げる吐き気を必死に抑えている様子だった。
あの猫人族の少女が命じたのだ。『食べた物を吐き出してはならない』と。今も、彼女とその仲間たちが隠れて見ているかも分からない。そのため、少なくとも宿に着くまでは辛抱するつもりなのだろう。
──Sランク冒険者、バルザークのパーティ。
ひと月ほど前にメティスにやってきた奴らは山にあるダンジョン──限られた一部の人間からは『炎熱回廊』と呼ばれる場所を探索し、町に戻った後はこうして夜な夜な『遊び』を愉しみながら小悪党から金を巻き上げていた。事件に発展しないのは、被害者側も表沙汰にできない方法で得た金だからだ。何もかも計算ずくの行動。本当に碌でもない連中だ。
それにしても、今日の仕打ちは殊更に酷かった。何かがあのイオという少女の逆鱗に触れたのだろう。純粋な暴力ばかりのバルザークよりよっぽど質が悪いかもしれない。
──いや。そもそもの問題は、Sランクにまともな人間がほぼいないことの方か。
【完璧な】アレン。
【魔剣士】リュイン。
【恐ろしき】バルザーク。
最近クレティア王国内で話題になっているのはこの辺りだろうか。この中で人間的に歪んでいないのはリュインくらいしかいない。だが、奴のパーティはボルタナを出てしばらく西に移動した後、急に行方をくらましたらしい。こちらの存在に気付いたとは考えにくいが、『鍵』が関連していると見て間違いないだろう。
──まあいい。今は目の前の仕事に集中すべきだ。
男たちは、丁度道の半分ほどまでやってきていた。そろそろ仕掛けることにする。
暗がりを歩く二人の間から、するり、と鎧の男の身体が抜けた。
「……あん? 起きたのか?」
肩にかかっていた重みが急に消えたので、自力で立ち上がったとでも思ったのだろう。後ろを振り返り──そして怪訝な顔をする。
無理もない。鎧の男の身体が、宙に浮いていたのだから。道の真ん中であり、当たり前だが自分たちがついさっき通ってきたばかりなので、支えになるような物が存在しないことは認識しているはずだ。
「……?」
二人は顔を近付けて、浮いている男の頭の上──そこにある二つの紅い光を見つけ、注目した。
「──ひっ」
手品のタネに気付いたのか、男たちが息を呑む。
光だと思っていたものは、獣の瞳だったからだ。大きな、闇色の狼のような姿。どこからともなく現れた獣が、鎧の男の頭を口にくわえていた。
「──あ?」
状況を理解し、困惑と恐ろしさを感じ始めたところで片方の男が間抜けな声を発する。獣の尖爪が胸を貫いていた。地面に血溜まりが出来上がる。共有された感覚から、生温かさが伝わった。
「ひぃ……ああ……」
残された最後の男がへたり込む。腰が抜けたのか、立つことができなくなったようだ。これでAランク冒険者を名乗るのだから笑わせる。
「た、たすけてぇ……だれかぁ……」
蚊の鳴くような声だった。人は心の芯まで恐怖が浸透した時、全身が麻痺したように硬直し大声を出せなくなる。これまでに何度も見てきた光景だった。
「お……俺が悪かったぁ……頼むから、もうしないから……」
涙を流しながら、必死に赦しを請う男。何の感慨も湧かない。あるのは仕事をきっちり済ませたいと思う気持ちだけだった。
そういう性分なのだと思う。だからこそ、他の人間が怠けているのを見ると苛立ちが募るのだ。
オズワルドにしてもそうだ。
奴は例の三人について『自分が必ず始末する』などとほざいていたが、一向に動くような素振りを見せない。怠惰な性格なのは知っていたが、如何せん遅すぎる。非協力的で、何を考えているのかいまいち掴めない。
まさか、今になって情でも移ったか。馬鹿馬鹿しい。いずれ天罰が下るだろう。
路上を進み、足元に這いつくばっている男を見やる。苦悶の表情を浮かべていたはずの男の口からは、笑い声がした。
「ひ、ひひひっ……。こ、これは悪い夢なんだ……。目覚めれば、お、俺は宿屋のベッドの上で、そしたら、今度こそ真っ当に生きる。生きるんだ……。故郷に戻って、それから──」
──現実を直視することができなくなり、ついには妄想の中へと逃げ込んだか。
「そんな訳あるか」
魔獣──ネザーウルフの前足が男の真上に置かれた。
ゆっくりと、静かに体重をかけていく。骨が砕ける音が聞こえてきた。
一度堕ちてしまった魂を救済する術はないのだ。腐った果実が、腐る前の状態に戻ることがないように……。
仕事を終えて大通りに出たところで、新しく調達したグリフォンが羽ばたいてやってくる。ネザーウルフがその両前足を掴むと、グリフォンは再び高く舞い上がり、夜空を駆けた。
明日もまた、忙しくなるだろう。




