第八十三話 無題
「今日は宿でのんびりして、準備は明日に回したほうがいいぞ」
食事を終えて酒場を出たところで、急にエドワードがそんなことを言った。これから店を回るよりも、一日を休養に充てたほうが良いという。
しかし、先行しているバルザークに追いつく必要がある。守護者はまだ倒されていないだろうが、あまり悠長にしているわけにもいかない。俺は予定通り今日のうちに準備を済ませ、明日の早い時間から炎熱回廊に向かうべきだと考えていた。
「クラウ商会が取引をしている良い店がある。明日案内してやるから。それほど時間は変わらんさ」
結局、今日のところは予定を変えてすぐに休むことにした。
宿屋を探して四人分の部屋を取った頃には、段々と夕闇が迫って来ていた。風呂を貸してもらい、湯で体を洗い、綺麗にする。それからベッドに腰を下ろし、ステータスを表示する。
その時、扉を叩く音が聞こえた。立ち上がり扉を開けた先には、エドワードが立っていた。よく見ると顔は赤く、息からは酒の臭いがする。
「……何かあったのか?」
「ああ。ちょっと付き合えよ。良いワインを仕入れたんだ」
「いや、俺は……」
「飲まなくてもいいから、話し相手になれよ。下で待っているからな」
言葉を放り投げるようにして、エドワードは階段を下りて一階に向かった。
何なんだ、一体……。
そんなふうに思いながらも、結局後をついていくことにした。
宿屋の一階、入り口付近はテーブルと椅子がいくつか並べられている。泊り客が食事をするための場所だろう。たまたまか、あるいは客の入りが少ないのか、席にいるのはエドワードだけだった。
「ほら、とりあえず一杯。置いておくぞ」
ふと、誰かが階段を下りてくる音が聞こえてきた。現れたのはメルだった。
「メル? 一体どうしたんだ?」
「少し眠れなかったので……。お二人はここで何を?」
「見れば分かるだろう? 酒を飲んでいたのさ。お嬢様も一杯どうだ? 嫌なことを忘れられて、すぐに眠れるぞ」
エドワードが空いている木製ジョッキにワインをなみなみと注いで差し出す。メルは無言のままジョッキをしばらく眺めていたが、受け取ると椅子に座った。何となく、メルにしては意外な行動に思えた。
「ファティナは?」
「ファティナさんは、お風呂から上がった後に部屋を魔術で涼しくしていたら寝てしまいました」
「獣人だとここの暑さには慣れないんだろうな。そのまま寝かせておいた方がいいだろう。さて、こっちは酒盛りだ」
それから、俺もメルも、エドワードと一緒に酒を飲んだ。会話はほとんど一方的だった。エドワードの話──チェスターの情けない話や、仕事で酷い目に遭った話、聞いているだけで御者の苦労が伝わって来るようなものばかりだった。てっきりダンジョンに関する話でもするのかと思っていたが、当てが外れた。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。エドワードは瞼を閉じて腕組みしながら舟を漕いでいる。しこたま酒を飲んだせいか、眠気がきたらしい。
結局、俺もメルも、気付けば三杯ほど飲んでしまっていた。言っていた通り、酒は美味かった。
「少し外の空気を吸ってくる」
「あ、私も……」
酔いを醒ますため、席を立つ。入口の扉を開けて、二人で外に出た。
太陽がすっかり沈んだ後のメティスの町の通りには、心地よい夜風が吹いていた。涼しくて昼よりも過ごしやすい。だが、ボルタナやトラスヴェルムに比べれば明かりが少なく、薄暗かった。
「はぁ……何だかいい気分です」
「酔ったのか? 酒は初めてじゃないだろう?」
「はい。ですが、気分が良くなるほど飲んだのは今日が初めてです。それに……今だけは、嫌なこと全部、忘れられる気がしますから」
嫌なことというのは、今まさに彼女が直面している問題であろうことは想像できた。
過去にはアレン、現在はバルザークと、父親であるクレティア国王……ごく一部の人間だけが知る、定められたレベル上限を引き上げるというこの世界の仕組みを無視するほどの力を持つアイテムを巡る戦い。その重荷が、常にメルの心を追い詰め、平穏を与えまいとしているのではないだろうか。そんなふうに思った。
「大丈夫か? 何かあるなら、助けになれるかもしれない」
「……いつも、そう言ってくれるのですね」
不意に、背中の真ん中辺りを押されるような感触があった。僅かな面積だが、ほのかに温かい何かが寄り掛かっているような、そんな感覚だった。
「私は、アークさんやファティナさんのように強くはなれません。弱いから……誰かに頼ることでしか、生きていくことができないから」
「そんなことはない。俺だって弱い」
そうだ。だからこそ──もっと強くなる必要がある。
実際、森で遭遇したあの黒い獣には《ルイン》の効果は薄かった。いや、無かったと言ってもいいだろう。
それでも、俺には即死魔術しかない。この力をさらに強化しなければ、次に死ぬのは自分になる。失うのだ。何もかも。そうならないためにも、レベルを上げ、能力を取得し、敵を倒して能力値を増やす。それを何度でも繰り返すのだ。誰にも負けなくなるまで……。
だから俺は鍵を求めている。俺とメルの利害は一致している。彼女を助けたい気持ちがあるのは嘘じゃない。ボルタナで、ファティナの意見に流された部分もなくはない。しかし、それでも──結局は自分が強くなるための口実に過ぎないのかもしれない。
「アークさんは、弱くない。冒険者としてだけではなくて、意志の強さとか、そういうもの。私にはない、物事に真っ直ぐに向き合える強さ……」
背中のほうから、胸の辺りに腕が回される。微かに感じる程度だった温かさが、今度はもっと広い範囲で、より鮮明に伝わってくる。
「私はずっと不安なのです。これから先どうなるのかとか、これまでのこと……私を助けてくれた人たち、ボルタナの人や、侍女や騎士たちは無事だろうか。イリアは来てくれるだろうか。鍵をすべて壊した後、父と和解できるだろうか……そんなことばかりいつも考えてしまっている。目の前のことに集中しなければって。でも、どうしてもできない……」
「物事を悪い方に考えすぎじゃないか」
「もっと私の心が強かったなら、そう思えるのでしょう。でも実際は違う。今こうして触れている間でさえ、いつ『離れろ』と言われないか怯えている。それが……本当の私」
生温い風が吹き抜けた。腕に込められた力がより一層強くなった気がする。気の利いた言葉が思い浮かばず、振り返ることをためらった。
これまでの様々な出来事を経て、メルの精神は摩耗しきってしまったのかもしれない。以前、同じような夜にトラスヴェルムの屋敷で泣いていた彼女が思い起こされた。そして、今日の酒場でのイリアの身を心配していた時の表情。
クレティアの王女メルレッタと、一介の冒険者である俺では背負っているものの重さが違う。肩代わりしてやることもできない。俺にできるのは、目の前の敵を殺して、ただ前に進むことだけだ。これまでも、これからも……。
「つらいなら、明日は宿屋で待っていてくれてもいい。俺とファティナだけで鍵を取りに行く」
「それも嫌です。待っているだけなんて、もっと嫌。ますます自分の居場所がなくなっていくようで、怖いから」
理解できる気がした。どこにも居場所がなくなったときの、寂しさや虚しさ……。
俺とファティナが日頃前に出て戦うことで、さらにそう感じさせてしまっているのかもしれなかった。
だが、だとしても今日のメルはどこかおかしい。普段の彼女ならば、こんなことは絶対に言わないはず。となると、やはり酒のせいで感情が不安定になっているのだろうと思った。
「酒の飲みすぎだろう。水を飲んで、ゆっくり寝れば落ち着く。今日はもう部屋に戻るといい」
「一つだけお願いがあるのですが、聞いてもらえませんか?」
「ああ」
「ずっと、私のそばにいてくれませんか。すべてが終わった……その後も」
「分かった」
返事をして、腕を掴み、ゆっくりと放した。メルのほうへと向き直る。
「だったら、まずはお父上と話して、許しをもらわないといけないな。これで俺も王族の仲間入りだ」
もちろん、冗談。
メルはきょとんとして、それから──
「ぷっ……あははは!」
声を上げて笑った。
それから右手の人差し指を、右目の下に置いて──舌を出した。
「べー」
それはまるで、子どものような無邪気な仕草だった。
この表情こそが、王女ではなく、メルレッタとしての本来の姿なのかもしれない。そう感じられたのは、気のせいだっただろうか。
「わっ」
メルがこちらに近寄ってきたところで、転びそうになる。咄嗟に腕を伸ばし、手を掴む。
「大丈夫か?」
「平気です……あっ」
気付けば、メルの手を取ってこちらに引き寄せていた。お互いの顔がすぐ近くにあって、目が合った。少しばかり瞳が潤んで見えるのは、酒を飲み過ぎたせいだろうか。
そのままの体勢でしばらく沈黙した後……どこからか唸るような声が聞こえてきた。開け放たれた扉の奥、いびきをかいてすっかり寝てしまっているエドワードの姿が見えた。
声の主を見つけたメルは再びクスクスと笑うと、「おやすみなさい」とだけ言い残して、そのまま早足で階段を上がっていった。
眠っているエドワードの口元は、にやついているように見える。もしかして、彼はメルの精神状態に気が付いていたのかもしれない──などと思ったりもした。




