第八十二話 イリアの帰還
クレティア王国のほぼ中心に位置する王都セイラムの王城、その謁見の間で騎士のイリアはひざまずいていた。
白い柱が等間隔にいくつも並ぶ大きな部屋の中は、まるで古い神殿のようにも見える。床には赤い絨毯が敷かれ、段差を上がった先には手の込んだ金銀の装飾がなされた木製の玉座が一つ。白髪混じりの立派な口髭をたくわえた初老の男がそこに座っていた。
男は赤い上等なローブを羽織り、その頭上には金色の王冠が輝いている。右手に長細い変わった形の杖──王笏を握るその姿は、どのような素性の人物であるか説明を必要としないほどの威厳に満ち溢れていた。
普段は近衛兵が警護しているはずの部屋の中にいるのは、三人だけだった。イリア、国王、そして皺だらけの顔の老人。
──宮廷魔術師のダルムド……。
ダルムドは黄土色の薄汚れた外套に身を包み、手を袖の下に入れた格好で、玉座に腰掛ける王のすぐ脇に立っている。国王の御前であるにもかかわらず深くかぶっているフードの下から見える黒い瞳は、イリアをじっと見ていた。
イリアはダルムドが苦手だった。いや、苦手というより嫌悪していると言ったほうが適切だ。
城の中を歩いていると、配下の魔術師を従えた彼と廊下ですれ違うことが何度かあった。その際に、決まってこの老人が、自分に妙な視線を送っているように感じたからだ。
この老魔術師は表の場には決して姿を現さない。王女であるメルレッタですら指で数えられる程度にしか目にしていないため、ほとんど記憶に残っていないだろう。
どこからやってきて、どういった理由でこの薄気味の悪い老人が王の側近をしているのか……そしてなぜ、今日に限って自分の前に出てきたのか。イリアには不可解だった。
「よくぞ戻った。面を上げよ」
声が響いた。イリアは顔を上げ、自らの君主を見た。こうして面と向かって話すのは、イリアにとっても初めての出来事だった。
だが、決して誇れるような状況ではない。これから自分がしようとしていることを考えると、イリアの胸中は複雑だった。
「イリアよ。そなたを呼び出したのは他でもない。此度の一件について、直に話を聞こうと思ってな」
──それはつまり、他の者には聞かれたくないということか。
そんなふうに考えながら、イリアは頭の中でこれまでの出来事を思い返す。
王女が伝えたこと、そしてトラスヴェルムで起きた一部始終をこの目で見た今となっては、真偽については最早聞くまでもない。
クレティア国王が、王国騎士団だけでなく城内の人間達にすら一切を語らずに、何かよからぬことを秘密裏に行っているのは明白だった。
「はい、陛下。メルレッタ様捜索の状況について、ご報告いたします」
──ここで、変に勘繰られるわけにはいかない。
イリアは慎重に言葉を選びながら、王都に戻るまでに考えていた話をクレティア国王に伝えた。ボルタナで王女らしき人物を発見し、追跡したが見失ったこと。冒険者アレンからトラスヴェルムに王女がいるという情報を伝えられたが、彼女は偽物であり、更にはアレン達がアイテムによって呼び出したエルダードラゴンと戦闘したことなど。
最後に、その戦闘によって兵士達が恐怖に駆られ統率が取れなくなったため、止む無く帰還したことを付け加えた。アークやファティナの存在については一切触れなかった。
「以上がトラスヴェルムで私がこの目で見た一部始終にございます」
「ふむ……」
国王は玉座のひじ掛けに頬杖をつきながら、イリアを見つめている。説明を終えたイリアは、後ろめたい気持ちになり下を向いた。事情が事情とはいえ、君主に偽りの報告を行うのは騎士としてあるまじき行為だと感じていたからだ。
「イリアよ。お前も余を裏切るのか」
「──っ!」
あまりにも唐突な言葉だった。だが、その一言でイリアは理解した。
──国王は、これまでの鍵を巡る一連の騒動について、そのすべてを把握している……。
そのうえで聞いたのだ。イリアが自分に対して、どのように事の次第を説明するのか……。
身が強張るのと同時に、心の中から焦りが溢れ出てきて思わず顔を上げる。国王の、すべてを見通すかのような翠色の瞳が光った気がした。
──ここにいてはいけない!
きな臭さを感じたイリアは、すぐさま自らが操る竜のルルエに呼び掛けた。【竜使い】のスキルを持つ者が扱える能力の一つだ。
クレティア王国騎士団において、ドラゴンのルルエよりも早く移動できる者は少なくともイリアが知る限り存在しない。王城には【転移魔術】のスキルを持つ魔術師もいるが、戦闘向きではない。イリアはルルエを呼び出し、城から脱出することを優先した。
ところが、そんな彼女の予想を更に上回る現象が起こった。
「どうかしたのか。気分が優れないのか」
国王が退屈そうに言った。
イリアがいくら呼んでも、ルルエが一向に現れないのだ。
それどころか、呼びかけに応じた時の、頭の中に何か返事が来るような感覚がいつまで経っても訪れない。
──なぜ……どうして……。
こんなことは今まで一度もなかった。
イリアは代々クレティア王家に仕える貴族の娘として生まれた。能力鑑定によって自らのスキルがとても珍しいものだと発覚してからは、冒険者がドラゴンの巣から持ち帰った卵から孵ったルルエと共に成長してきた。
狂暴なモンスターであるドラゴンが人に懐くことはない。イリアがルルエと心を通わせることができたのは【竜使い】のスキルによるものだ。だが、それでもイリアはルルエに全幅の信頼を寄せていた。
国王が、王笏の先端──翼や手足を持たない竜に似たモンスター、ワームが巻き付いた装飾が施された水晶玉に触れた。
水晶玉の内部は光を発しているように見えた。ただ見栄のために作られた豪華な杖ではない。あれは何らかの効果を持ったアイテムだ。その力によって、妨害を受けているとでもいうのか。
正体不明の力に戦慄するイリアの顔をつまらなそうに眺めながら、国王は続けた。
「その程度の準備を余がしないとでも思っていたのか。己の身が危うくなれば、壁を壊してでも竜が助けにやってくると、この場より逃げおおせられると、本気で思っていたのか」
完全に読まれていた。イリアは思わず舌打ちする。それは国王に対してだけではない。あまりにも迂闊だった自分に対してでもあった。イリアはこの男を甘く見過ぎていた。
床に置いていた弓と矢筒に目をやる。自分が裏切り、メルレッタを庇っていることが知られてしまっている以上、どのみち無事では済まない。
だが、ここで捕まるわけにはいかない。城から脱出し、一刻も早くメルレッタ達が監視されていることを知らせねばならない。そのためには、なんとかして謁見の間を出てルルエと合流しなければ。
【竜使い】のスキルを持つイリアの力は他の人間と一線を画すが、弱点もある。心を通わせた竜が傍らにいなければ、その力を発揮できないことだ。ルルエがいない彼女はレベル上限50の弓兵の一人に過ぎない。それどころか、他のスキルを持たないイリアでは、多少レベルが低い武器スキル持ちに勝つことすら難しいかもしれない。
逃げるしかない。
そう決心したイリアだったが、不意に背後から異様な気配を感じ取り振り返った。
数歩後ろの空間に、白い全身鎧を身にまとった男が立ってこちらを見つめていた。イリアにとって見慣れた人物だった。
「ウ、ウェイン騎士団長……」
背の高い赤髪の、イリアとそれほど年が離れていないであろう騎士は、彼女の前に佇んでいた。一体いつの間に現れたのか。気配を消して、ずっと部屋のどこかに姿を隠れていたのか。もし、そうだとするならば……。
「イリア。お前の取った行動はクレティアの騎士としてあるまじきものだった。よって罰を与えねばならない」
ウェインは冷たく言い放った。
「そんな……まさか……」
国王、宮廷魔術師、騎士団長……彼らは結託している。国王がしようとしていることも、あの迷宮の事も、全部知っているのだ。知らなかったのは、自分のような末端の騎士や兵士だけだったというのか。
「ヒャヒャヒャ!!」
突然、それまで黙っていたダルムドが目を見開いて嗤い出した。所々抜けて無くなっている歯が、老魔術師の異様さを際立たせる。イリアは得体の知れない気味の悪さを感じ、身を震わせた。
「陛下。この娘、私の好きにしてもよろしいですかな?」
「ならぬ。【竜使い】のスキルは貴重だ」
「……仰せのままに」
口元の笑みはそのままに、ダルムドは目を細めた。
「……くっ!」
イリアはすぐさま弓を手に取って矢をつがえ、扉の方に立っているウェインに向けて放った。
騎士団長の持つ能力がどのようなものであるか、イリアは知らない。剣を腰に差しているので、剣に関連する何かだろう。間合いとしてはまだ遠い。矢が当たれば怪我をするかもしれないが、致命傷にはなるまい。その隙に謁見の間を走り抜けようと考えたのだった。
だが、ウェインはその場から一歩も動くことなく、自らに向かって飛んできた矢を右手で掴んだ。
「なっ──!?」
信じ難い光景を目にして、イリアはその場に立ちすくんでしまった。スキルが封じられたとはいえ、イリアの放った矢を手で掴んで止めるなど普通の人間には不可能な芸当だったからだ。
すぐに我に返ったイリアだったが、次の瞬間、ウェインの姿が視界から消えた。
「ど、どこに……! あっ!!」
イリアの腹に鉄槌で打たれたかのような重い衝撃が走る。ウェインの放った蹴りだった。
イリアは大きく吹き飛ばされ、床の上に倒れ込む。意識が朦朧として、視界が揺れる。着ていた鎧が砕けていた。
横倒しになった視界の中で、ウェインがゆっくりとこちらに近付いてくるのが見えた。剣を抜かれるまでもなく、たった一撃でやられ、手も足も出なかった。
──姫様、どうかご無事で……。
心の中で叫びながら、イリアの意識は暗闇の中に沈んでいった。




