第四話 一日目の終わり
「いってえ……」
不意打ちを食らい、視界が揺れる。相当強い力を込めていたようだ。
顔を上げようとするも、首元に剣が突きつけられていた。少しでも彼女の機嫌を損ねれば、即座に頭が胴体からおさらばするだろう。
「私はもう『転身』してる。貴方の思い通りにはならない」
「何の話だ」
「その腕はどうしたの?」
「生まれつきだ。最初から無い」
「そう」
女が剣を下ろし、ゆっくりと後退する。
「貴方達、ボルジャナートの冒険者?」
先に平手打ちした理由を説明すべきではないかと思うが、言えるような雰囲気でもなかった。
「そうだ。今日登録をしたばかりだが」
「でしょうね」
まるで最初から知っていたかのような口ぶりだ。
森に足を踏み入れる人間は少ないだろうから、推測するのは難しくないが。
「ところで、なぜ貴女がここにいるの?」
今度はリーンが問われる。
「私は彼の幼馴染です。一緒に暮らしています」
「そんなのどうだっていいわ。アレン達はどこに行ったの?」
「アレンという人は知りません。人違いだと思います」
「それは残念ね。全員まとめて再起不能にするつもりだったのに」
二人の間に不穏な空気が漂い始める。
リーンとこの女の相性が最悪だということだけは、なんとなく理解できた。
「命を救ってくれたことには感謝するが、俺達は薬草を摘みに来ただけなんだ。争うつもりはない」
敵意が無いことを伝えると、獣人達が女を見た。
「どうしますか?」
「放っておきなさい。どうせ何もできやしないから」
女は別の獣人が持っていたランタンを手に取ると、俺に押し付けた。
辺りはすっかり暗闇に包まれている。どういう風の吹き回しかは知らないが、明かりが得られたことは大きい。
「町に戻るなら、この先をまっすぐ進めばいい。だけど忘れないで。過去を全部捨てて幸せになれるだなんて……そんな都合のいい話があるはずないのだから」
そう言い残すと、女は仲間と共に森の奥へと去っていった。
「……どういう意味だと思う?」
「獣人の考えることなんて知るわけないでしょ。それより早く町へ戻らないと」
「そうだな。エリックも待っているだろうし」
遠くから狼らしき遠吠えが聞こえてきて、思わず顔を見合わせる。
夜の森から抜け出すために、俺達はとにかく走った。それからどうにかボルジャナートの門を潜り抜け、命からがら冒険者ギルドまで戻ることに成功したのだった。
「遅すぎだ。何をどうすりゃこんなに時間がかかるんだ」
ギルドに駆け込むと、エリックが不満を露わにした。
昼間には大勢いた冒険者達の姿はすっかり消えていて、建物内の明かりも大半が灯っていない。今日の業務を終える準備に入っているようだ。
乱れた呼吸を整えつつカウンターまで進むと、エリックの視線が俺の持つランタンへと移った。
「良い物を持っているじゃないか。持ち主に謝るなら手伝ってやるよ」
「誤解だ。こっちはモンスターに襲われて大変だったんだ」
「モンスターに? だから手前までにしておけと言っただろ」
「森の奥から現れた男が、大きな狼に姿を変えて追いかけてきたんだ」
「そいつはすごいな。この町始まって以来の大事件だ」
「逃げた先で異様に強い獣人の女に会った。このランタンも彼女がくれたんだ」
そこまで説明すると、饒舌だったエリックが一転して静かになる。
「それで、薬草は?」
「ここにあります」
リーンが麻袋を差し出す。エリックが受け取り、手を突っ込みながら中を覗く。続いて書類にペンを走らせた。
「あの獣人は何者なんだ?」
「ここらじゃ有名な奴だ。もう森の奥には行くなよ」
「ああ。それと仕事を紹介してくれて助かった」
「引き受ける奴がいないから紹介したまでだ。ほら、今回の報酬だ」
硬い音を立ててカウンターに置かれたのは、全部で八枚の銅貨だった。
銅貨の価値はおおよそ理解しているのでなんとも複雑な心境だ。一人ならまだいいが、二人で暮らしていくには厳しい。
「銀貨や金貨が出てくるとでも思ったか?」
顔に出てしまったらしく、エリックは愉快そうに笑った。
「……現実は厳しいな」
「上手い話は早々転がっていない。稼ぎたいならもっと頭を使え。今日だけでも学んだことが山ほどあるはずだ」
もはや言い返す言葉すら浮かんでこなかった。
「さて、もう店じまいだ。飯を食うなら裏通りで探せよ。仕事が欲しけりゃ明日また来い」
「どうも」
微妙な気持ちになりつつ、初めての報酬を手にギルドを後にする。
仕事帰りの人間が多いのか、活気に満ちた大通りに出ると自然と溜め息が漏れた。
「しょぼくれてても仕方ないでしょ」
「あれだけ苦労して銅貨八枚じゃ割に合わないだろ」
「気持ちは分かるけど、生き延びられたことは大きいわ」
「前向きなことだ」
「そう思わないとやっていけないもの」
「まあな。とりあえず飯を食うか」
裏通りで店を探す。小さいながらもそこそこ人が入っている酒場を見つけたので、入ることにした。
中央にある大きな長テーブルに二人並んで座り、一番安い銅貨五枚の料理を注文する。
しばらく待っていると、拳より一回り大きなパンと、ほとんど具の入っていない薄茶色のスープが運ばれてくる。
明らかに量が足りないが、二人で半分ずつ、分け合いながら食べることにした。
そうして食事をとっていると、同じ品がもう一つ俺達の目の前に置かれた。当然だが注文した覚えはない。
料理を運んできたいかにも頑固そうな顔の男は、「今回だけだ」と静かに言って店の奥へと戻った。
「もらっておきましょ」
「……そうだな」
食う物を食って酒場を出た後は、眠るための場所を探す。
今は春なので暖かい。節約のために道端で寝ることも考えたが、リーンが不満そうだったのでやめた。俺達は宿を見つけることにした。
銅貨三枚で泊まれる場所を探すのは困難を極めた。
ひたすらに安宿を探して回り、なんとか交渉して特別に部屋を借りることができたが、そこは物置きでベッドすらなかった。
一枚の毛布に二人で包まりながら、天井を見つめる。
眠らなければならないのに様々な事柄が頭の中を駆け巡り、解決できないまま流れ落ちては消えてゆく。
あの人狼は、どうして俺の名前を知っていたのだろうか。
とても偶然で片付けることはできない。
あの獣人の女といい、たった一日で奇妙な出来事にばかり遭遇している。
これからも、似たようなことが起きるのだろうか……。
今日は生き残った。
だが明日は?
明後日は?
一月が過ぎた頃、俺達は生きていられるか?
不可能だ。
そう遠くないうちに、俺達は間違いなく死ぬ。
モンスターに食われるか、餓えか、あるいは病気か。冬になれば寒さにやられることだってあるだろう。
エリックが言うように、もっと頭を使わなければならない。
少なくとも、薬草採取はダメだ。
仮に一日中採取をしたとして、二袋が限界だ。銅貨十六枚では状況はほぼ変わらないし、酒場も宿も今日と同じ手は使えない。
危険を冒してでも、実入りのいい仕事をこなすしかない。
そのためには武器が必要だ。
誰かに金を借りるなりして、どうにか手に入れなければ……。
せめてスキルの鑑定に失敗しなければやりようもあったのだが。
「悩んでるの?」
「そりゃ悩むだろ」
すぐ傍にいるリーンの頬を撫でる。
彼女はまだ生きている。当たり前のはずなのに、とても安心した。
「もう危ない真似はするなよ」
「それっていつの話?」
「逃げてる途中で立ち止まっただろう」
人狼から逃げている時、リーンは急に足を止めてしまった。
運良くあの獣人の女が現れなかったら、命は無かっただろう。
「願っていたの」
「何を?」
「私を守ってくれそうな誰かが、現れるようにって」
「願ってどうにかなるなら俺達は腹を空かせていないし、物置で寝てもいない」
「でも実際に現れたわ」
「そんなの偶然に決まってる。じゃあ何か? お前があの獣人の女を、呼び寄せたとでも──」
自分から言い出したことなのに、どうしてか否定できなかった。
それどころか、前にも似たようなことが起こり、それを目撃したような気さえしてくる。
「ねえ、考えるのはまた明日にしましょ」
「ああ……分かってる」
それ以上考えるのはやめにして、とにかく眠るために目を閉じた。