第百九話 祈れ、ただひたすらに
「許しを請いなさいアーク! 今すぐに!」
もう何度目かのメルレッタの催促が聞こえる。
こいつの言葉には二度と従わないと心に決めている。
黒竜と化したルルエの着地と同時に走り寄る。今はただ地上に降りている間に接近戦を挑むしかない。再度飛ばれる前に距離を詰めることを意識する。
踏み潰そうとしてくる前足をそのまま直進してかわし、股下を走り抜け後ろ足に斬りつける。だが分厚い鱗を一つ砕いたのみで傷を負わせることはできない。
『ガアアアアァァァーーーー!』
ルルエが狂ったように暴れ回る。なんとか剣で防ぎながら後退する。
時間はあまり残されていない。
少し離れた空中ではラギウスとアルベインが戦っている。もしもラギウスが負けた場合、イリアとアルベインの相手を同時にしなければならなくなり勝機はほぼ無くなる。最悪の事態に陥る前にケリをつけなければならないだろう。
「頼むからもう死んでくれ、イリア」
剣を構え直し、率直な言葉を伝える。
彼女もまた、こんな展開を望んではいなかったに違いない。
イリアが矢をつがえ、射る。しかし、なぜか矢はあらぬ方向の地面に突き刺さった。
「……?」
わざと外したのか?
もしかしてこちらの声が聞こえているのか。
一瞬そんな考えが頭をよぎったところで、またすぐにルルエが魔力を収束させ始めた。
「させるか!」
跳躍してルルエの頭に向け剣を叩きつける。切断こそできなかったが、方向を制御することはできたはずだ。
頭部が下を向いたと同時に波動が発射された。
ルルエの放った波動は床を溶解させ、突き破った。
地面が揺れる。今の一撃で広場全体が崩れ始めていた。
まずい。このままではいずれ足場が無くなってしまう。
いや、冷静になれ。
この状況を打開する方法が必ず何かあるはず。
そういえば、戦いを通じて少しだけ不思議に思うことがある。
あれからルルエが一向に飛ぼうとしないことだ。
空中に逃げながら戦えば優位を保てるはずなのに、敢えてしないのは何故なんだろう。
理由があるのだろうか。
飛ぶ……いや、遠く離れた際に困ることがあるとすれば、それは何だ?
ひょっとして、国王と王女を守っている?
精神操作を受けた場合、何かしらの命令に従って動いていることになるはずだ。その命令が、『二人の生命を守ること』であるならば納得がいく。
ルルエが飛べばその間は二人が無防備になってしまう。だから離れることができないのだ。
この推測が正しければ、そもそも隙を作る必要などなく魔術を当てることができるはず。
「聞こえているんだろう、イリア!」
再び声を掛けると、矢が放たれた。
また外れた。
この奇妙な動きには覚えがあった。
俺がファティナを殺そうとした時、心のどこかで抵抗できたようにイリアもまた彼女の持つ精神力で耐えていたんだ。
「俺にはお前を救うことはできない。だが解き放ってやることはできる」
ルルエが攻撃を止め、魔術防御を展開する。
まるで俺がこれからしようとしていることを察したかのようだ。それに対して、身を挺し主人であるイリアを守っているように思える。
ルルエ……お前はそんな姿になってもなお彼女を助けようというのか。
けれど、どちらか一方しか生き残れない。俺は敗れるわけにはいかない。
剣先をルルエへと向ける。
「破滅よ、全てを食らい無へと還せ」
──クアドラプルを起動する。
「≪ルイン≫」
詠唱が終わると、急に辺りが真っ暗になった。
薄暗くなったという次元じゃない。完全なる暗黒だ。
雨も風も炎も、国王や戦っているラギウスたちの姿も全て消えている。この空間内に存在しているのは俺とルルエ、そしてイリアだけだった。
ステータスを開く。
生命力と魔力が尋常ではない速さで減少している。数値の回り具合から見るに、このままではあっという間に枯渇してしまうだろう。
ゆっくりと闇の中から這い出てきたのは、≪ルイン≫を使う時に現れる死神──その大きさはこれまでと比較にならないほど巨大で、ルルエをはるかに超えていた。鎌は持っておらず、代わりに腕が六本に変化している。『クアドラプル』による単純な四倍撃ではない、何か別の仕組みにも思える。
骨の腕が一斉にルルエへと伸びる。展開されている魔術防御を四方から包み込み、握り潰し、砕こうとしている。
バチバチと火花のようなものが飛び散り、そのたびに障壁にヒビが入っていく。
『ギアアアアアアア!!!!!』
痛々しい叫びが空間内にこだまする。それはルルエの苦しみだった。
「ごほっ!」
そうこうしているうちに体中に激痛が走り、吐血した。視界が歪み始める。
あとはどちらの命が先に失われるかだ。
意識をしっかりと保て。俺が気絶すれば恐らくこの術は解けてしまう。
「あぐ……! あああああっ!!」
イリアが弓を投げ捨て、被っている兜を両手で押さえる。痛みに耐えているかのようだ。
以前戦った際にはこんなことはなかった。恐ろしい魔術による強化によってルルエとの繋がり方が変わり、操り手自身も感覚を共有したのかもしれない。
もう抵抗しないでくれ。
トラスヴェルムでイリアと会話した時のことを思い出す。声を聞くことがだんだんと辛くなってくる。
そんな俺の願いに応えるかのように、ついにバキンという音と共に障壁が完全に破壊された。
──ありがとう。
閃光の中で、そんな言葉がどこからか重なって聞こえた気がした。
「はっ……はっ……」
周囲に色が戻ってくる。
そこは先程までいた広場だった。≪ルイン≫によって展開された奇妙な空間は跡形もなくなっている。
ぐらりとルルエの体が傾いて、そのまま横倒しになった。
イリアの身体が投げ出され、兜がカランカランと音を立てて落ちる。以前は青く綺麗だったその長い髪は、今は真っ黒に染まっていた。
雨に打たれる一人と一匹が動き出すことは、もうなかった。
『特殊なモンスターを倒したことにより、新たな能力を獲得しました。』
新しいメッセージが表示されたが、すぐに消す。
見たくもない。
ルルエの魂を吸い取ったことで体力は回復している。ためらうことなく、すぐに奥にいる国王と王女のもとへと走った。
「何をしたのか知らないけど、どうやら私の負けみたいね」
二人は抵抗らしい抵抗をしなかった。王女は不敵に笑い、国王はただ濁った目でこちらを見ている。
「そうだ」
「なら、とっとと殺せばいいわ。貴方はそれで満足なんでしょう?」
微笑みながら、メルレッタが両腕を広げた。何かの罠にも思えなかった。
だから、俺は迷うことなく──その胸元に刃を突き立てた。
「うっ……ぐ……」
剣を引き抜くと、メルレッタは呻きながらその場に崩れ落ちた。
赤いドレスにじんわりと血が滲んでいる。まだ息はあるが、放っておけばこのまま死ぬだろう。
「やはり私には無理だったか」
国王はぼそりと呟き、呆然と佇んでいた。
その身を思いきり蹴り飛ばす。
クレティアの王であった男はただの一言も発することなく場外へと吹き飛び、落ちていった。
信じられないほどあっけない終わり方だった。それでも命乞いをされるよりかはマシだったかもしれない。
「……終わったんだ。ファティナ」
ようやく正されたんだ。歪んでしまった俺たちの旅が。
この歪みのせいで、ファティナもリーンも死んでしまった。
俺にはもう何も残されてはいなかった。ただどうしようもない虚しさだけが心の底に沈殿している。
「アーク! 鍵を使うのだ! 早く!」
ラギウスの声が聞こえた。こちらの状況に気が付いたらしい。
「決闘中に他人の心配とは大した余裕だなラギウス」
アルベインが棒切れを振ると、暗い魔力の波動が一直線に放射される。ラギウスがそれを魔術防御で防ぐ。
「もうやめようアルベイン……こんなことをしてもシャルナは喜ばない」
「知ったふうな口を利くな! お前に何が分かる!」
アルベインが激昂する。
シャルナという名前を聞いたのはこれで二度目だ。たしかファティナが似ていると言っていた。二人の共通の知り合いなのだろうか。
「もうお前を救う術はないのだな」
ラギウスが祈るように両手を合わせると、ここからでも感じ取れるほどの密度の魔力が辺りに充満する。何かを仕掛けようとしている。
しかし──
「かかったなラギウス!」
突然アルベインが嗤うと、魔力が霧散した。
ラギウスはまるで石像にでもなったかのように空中で硬直し、そのまま地面に落下してしまった。
「お前がアスタル様から時間操作の術式を授かっていたことは予測がついていた。≪改竄≫が見事成功したぞ」
何が起こっているのかほとんど理解できないが、ラギウスがしくじったことだけは分かった。
「術の解析は記憶を覗いたあとでじっくりするとして、さて──」
ゆっくりと、老魔術師が降りてくる。視線の先にいるのは俺だ。
「本来の目的に戻るとしよう」
「本来の目的……?」
「左様。私がここに来たのは即死魔術の異能を持つ人間を抹殺するためなのだ。即ち、お前を殺しに来たのだよ」
俺を殺すため?
それは俺が即死魔術のスキルを持っているからなのか?
このスキルにいったいどんな意味があるというのだろう。
「国王の傍にいたのも当初はラギウスが吠え面をかくのを見たいがための戯れだったが、お前が地下庭園で鍵を手に入れてからはずっと監視していた。不完全ながらも短期間で魔術結界を創り出すまでに至った努力は評価してやろう。だがあと少しだったな……ヒッヒッヒ」
不気味な気配を感じて身構えると、アルベインが棒を振った。
「は?」
急に身体が軽くなったかと思ったら、右腕が無くなっていた。
切断された腕が地面に落下する。姿の見えない何かが、いとも容易く骨まで切り裂いたのだ。
「くそ……」
「さあ、何も分からないままに己の運命を呪って死ね」
もうどうにもならないのか? ここで終わりなのか?
助けてくれる仲間も、祈るべき対象もいない。
それでも、こんなところで死んでたまるか。
「む!?」
アルベインが驚きの声を発するのと同時に、急に雨が止んだ。
空を隠していた鈍色の雲が、広場を避けるように遠ざかっていくのが見えた。
夜のはずなのに、穏やかな光が辺り一帯に射し込んでいる。
見回すと、広場の少し上の位置から一筋の虹色の光が天に向かって伸びていた。
光の起点、そのすぐ横に立っていたのは──メルレッタだった。
胸元を手で押さえ、苦しそうにしながらも無理矢理笑っているように見える。
そうだ。三本の鍵は彼女が所有していた。
彼女が祭壇に鍵を投げ込んだんだ。でもどうしてそんなことを?
「クレティアの女! またしても小癪な真似を!!」
アルベインの周囲に並々ならぬ魔力が集まる。しかし、バチンという音がして手に持っていた棒切れが宙を舞った。
「お前の負けだ! アルベイン!」
「ラギウス……またしても私の邪魔をするか」
起き上がったラギウスが、アルベインの魔術を妨害した。
「やはりあなた様は我らを見捨てずにいたのですね」
ラギウスの見つめる先、光の中に誰かがいた。
逆光でよく見えないが、何者かの影が空高くに浮かんでいる。
「ふん……どうやらまだ話し合いが必要なようですな」
アルベインはそう言うと、すぐ後ろに出現した暗闇の中に入り込んで姿を消した。
圧倒的に優勢だったはずなのに逃げたのか。それほどまでの脅威が今まさに迫っているということなのか。
助かったには助かったが、様々な出来事に気持ちの整理が追いつかず不安が拭いきれなかった。
これからどうなるのだろう。
鍵は祭壇に奉じられてしまった。メルレッタはレベル上限とスキルが消えると言っていた。想像できないほどの影響を俺たちの住む世界に及ぼすに違いない。
「……ん?」
ふと、ピリピリと奇妙な感覚がして自分の体を見た。
左手の指が先端から砂粒のように細かく消えていっている。まるで空気の中に溶けていくようだ。
「な、なんだこれは……」
慌てて腕を振るが、消失は止まるどころか全身に広がっていく。
俺だけではなく、メルレッタもラギウスも同様だった。
「アーク! 私が言ったことを必ず思い出せ!」
体の半分以上が消えながらも、ラギウスは言った。
思い出す?
こんなどうしようもない状況で何を思い出せというのか。
言葉の意味を考えるよりも早く、意識は霧散していった。