第百六話 最後の裏切り者
『アークよ……よくぞすべての鍵を集めた』
ついに鍵が揃うと、天空より厳かな声が響き渡った。
声の主はラギウスで、ようやく戦いが終わりを迎えたことを知る。
『お前は我の課した試練を見事乗り越えた。多少の介入はしたが、これは紛れもなくお前自身の力で成し遂げたことだ』
なにが試練だ。
ラギウスが直接出向けばさっさと終わっただろうに。
『お前こそ我らが長きに亘り待ち望んでいた者。その異能こそが……』
影がラギウスの形を成して、俺と向かい合うように直立する。
『さあ、お前にかけた魔術を解いてやろう』
影の眼が細まると、頭の中にあった靄が晴れた。
目の前にステータス一覧が表示され、赤いバツ印が消えていく。同時に、怒りや悲しみといった、どこか遠くに行ってしまっていた様々な感情が一気に押し寄せてきた。
「俺は今まで何を──」
これまでの出来事を思い返し、その事実に愕然とする。
正気に戻り、己の所業を認識し、身体が震えた。
俺はバルザークのパーティを全滅させたばかりか、ファティナまでも手に掛けてしまった。
「どうしてこんなことに……」
『お前への処置は精神の書き換えではなく、あくまで潜在能力を測るための軽い暗示に過ぎなかった。だから後遺症も残らない。失った寿命については心配するな。回避する手段はこれからいくらでも教えてやろう』
俺はただ二人を助けたかっただけなのに、なんでこうなってしまったんだ。
『さあ、祭壇に鍵を奉じよ。それが済んだら大切な話がある』
まるで自らの意志でも持つかのように、三本の鍵が空中に浮かび出でた。
「……嫌だ」
『なに?』
「お前は俺を操ってファティナを殺した。そればかりか、約束を破りメルの命すらも奪おうとしたな」
『そんなことよりも早く鍵を祭壇に捧げろ』
「そんなことだと!? ファティナの死が、そんなことだと言うのか!!」
急激に怒りが込み上げてきた。感情の整理がうまくできない。
「こんなものさえなければ!!」
鍵を地面に投げ捨てる。
冒険者になってすぐの頃は心の底から欲した力だったが、今はもう視界に入れる事すら心が拒んでいる。
俺が強さを求め、鍵を集めたことがファティナの死という結果に繋がったとしか思えなかった。
『何をしている! 鍵を取れ!』
ラギウスの影の形がおかしくなる。まるで子どもの描いた落書きのように、尖ったり丸まったりと輪郭が維持できていない。
「ラギウス、もうお前の思い通りにはさせない。俺は祭壇には行かない」
『助けてやった恩を忘れたのか! 我が介入しなければお前の命はとうに尽きていたのだぞ!』
これ以上好きにさせてたまるか。
俺ではラギウスには勝てない。再び精神操作をかけられるくらいなら、ここで命を絶つ。
そう決意し、剣の刃を首元に当てる。
『やめろ!!』
「ぐっ!」
瞬時にラギウスの影が伸びてきて、剣を絡め取られた。
『愚かな真似はよせ! 早く祭壇に向かえ!!』
「たとえここで死ぬことになったとしても、お前には絶対に従わない」
心臓の位置に手を当てる。即死魔術を自身に使えばどうなるのかは分からないが、他にうまいやり方が思い浮かばなかった。
『わ、分かった! もう強要はしない! そうだ! お前が望むなら、あのホムンクルスの娘を生き返らせる方法を教えてやろう!』
すぐに嘘だと分かった。
どうしても鍵を祭壇に投げ込ませたいようだが、もうその手には乗らない。
ざまあみろと思った。
わずかでも反抗することができて、少しだけ心が満たされる。けれどそれも一瞬だけで、唐突に込み上げてきた喪失感に押し潰されそうになり、その場にうずくまった。
「ファティナ、すまない……」
堰を切ったかのように涙が溢れ出した。
ファティナの死という現実を直視することが辛かった。だがどんなに後悔しても彼女が蘇ることはないのだ。
原因を作ったのは俺だ。
自分では何一つ考えようとせず、その場しのぎのためだけにラギウスと契約を交わし、意識を奪われ、その結果として彼女は死んだ。
俺の軽率な行いが、ファティナを殺してしまった。
すぐ近くで金属同士が擦れ合うような音がした。
人の気配を感じて顔を正面に向ける。メルが地面に散らばった鍵を拾い集めていた。
そうだ、メルはまだ生きているんだ。
「……守らなければ」
まだ終わってはいなかった。
ファティナはこの旅が始まってからずっとメルを守り、どんな相手であっても決して怯むことなく戦い、俺達を支えてくれた。
彼女の亡骸をモンスターの餌になどするものか。
故郷に返してやらねばならない。
ファティナ、君はいつも立派だった。本当によく頑張った。
だというのに、その高潔さに報いることを彼女が生きている間に何一つできなかったという事実がただ情けなかった。
それでも、彼女が守りたかったものを今度は俺が守る。それが今できるせめてもの罪滅ぼしであると思いたかった。
ここに長居すべきではない。すぐにメルを連れて去ろう。
メルの姿を探した。
彼女は鍵を握りしめたまま、広場の中心に立って天上に渦巻く雲をただ見つめていた。
『待て! このままでは計画が……これは……まず……アルベ……』
急にラギウスの声が途切れ途切れになり、影が泥のように崩れていく。
理由は定かではないが、気配は完全に消え失せていた。
「……帰ろう」
ファティナの亡骸を送り届けたら、俺は故郷の村へと戻る。
途中でトラスヴェルムに立ち寄って、リーンとこれからのことを話し合おう。
チェスターやエドワードにどう話を切り出すべきかと考えてみたが、何も思い浮かばなかった。
遠くから、ドレイクのものと思われる羽ばたき音が聞こえてくる。
モンスターが来る前に離れなければ。
「メル──」
「お父様だ!」
今までろくに会話もしなかったメルが急に大声を発したかと思うと、広場の奥へと走り出した。
空を羽ばたく翼の音は徐々に大きくなっていき──雲の中から真っ黒なそれが姿を現した。
ドレイクではなく、巨大な黒竜だった。
漆黒の鎧に身を包んだ騎士と、王冠を被り赤い外套を羽織った初老の男が竜の背に乗っている。すぐ隣にいる黄土色のローブを着た老人に至っては、足場もない空中を浮遊していた。
「無事だったか」
黒竜から降りた男がメルを懐に抱き寄せた。その風貌はいかにも地位の高い人物に見える。メルが「お父様」と呼んだことからも該当する人物は一人しかなかった。
「国王、なのか……」
冒険者に命じて鍵を集めさせていた張本人であり、このクレティアを統治する者。
そんな大物がどうして今になって現れたんだ。
俺達が炎熱回廊にいることを察知していなければ、このタイミングで現れることなど不可能なはず。
まさか、ずっと監視されていたとでもいうのか。
「ダルムド」
「ヒヒ……仰せのままに」
老人が枯れ枝のように痩せこけた手をメルの頭の上に乗せた。
何をしているかは分からないが、よくないことだと感じた。
「よせ!!」
駆け出そうとしたところで、広場に乾いた音が響いた。
メルが老人の頬を平手打ちしたのだ。
もしかして正気に戻ったのではないかと期待した。
──しかし。
「よくも汚らしい手でこの私に触れたわね」
「どうかお許しを。記憶の整合性が取れず早急な処置を要したものですから……ヒヒヒ」
「今日は気分が良いから特別に許してあげる。だけど次は無いわ」
その口調は、俺が知っているメルとはまるで別人のようだった。
これまでの優しくもあり不安も含んでいた眼差しは一変し、緑色の瞳は威圧と冷徹さを兼ね備えている。
「な、なんだ……?」
いったい何が起こったんだ。
メルはどうなってしまったんだ。
「本当に助かったわ、アーク。私がここまで来られたのは貴方のおかげよ」
「え?」
「姫様、お召し物を」
困惑していると、老人が小さな棒きれを懐から取り出してメルに向かって振った。
ボルタナを脱出する時から着ていたメルの服は、一瞬で豪奢な真紅のドレスへと変化していた。
「ようやく鍵が手に入った」
編んでいた髪を解き、一度だけ手で払うと──彼女は目を細めながら俺を見て微笑んだ。
「な、何を言っているんだ! 君は国王を止めるために城から逃げ出してきたはずだろう!?」
「そうよ。まさかこうなるとは私ですら予想していなかったけれど」
「俺たちは鍵を破壊するためにここまでやってきたんじゃなかったのか!」
「違うわ。むしろ逆よ」
「そんなはずはない! まさか、精神操作を受けたのか!?」
「それも違う。精神操作の魔術ならたった今解除されたもの。事はそう単純ではないの」
彼女の言葉の意味するところが何一つ理解できない。
「メル、君の言っていることがまったく分からない! どういうことなのか説明してくれ!」
「前にちょっとばかり悪さをしすぎたから記憶ごと書き換えられてしまったけれど、こちらが本当の私ということよ」
──クレティアの娘は頃合いを見計らって殺しておけ。術者は不明だが、精神操作を受けている。
あの時、ラギウスは確かにそう言った。