第百五話 アナイアレイション
新しく覚えた《アナイアレイション》は強力な魔術だが、一発目を外すわけにはいかない。
この魔術を俺が使えることをバルザークはまだ知らないが、一度避けられれば警戒される。そうなれば当てるのは難しくなる。最悪、逃げられてしまう可能性もあるだろう。
《アナイアレイション》を使えば俺の寿命は半分になる。そのことについてはもうどうでもいい。
いくらそれを考えたって、意味がない。
今問題なのは、どうにかしてバルザークにこの魔術を当てなければならないということだ。
いまや広場内はバルザークが生み出した影によって埋め尽くされている。
ゆっくりとこちらに向かって進む亡者どもの影は、ある程度まで距離を詰めたら一斉に襲い掛かって来るだろう。
バルザークの姿はまだ見えない。どこかに隠れ潜んでいるようだ。《エクスティンクション》が目に見えない魔術であることには既に気付いているので、姿をくらまして攻撃の隙を窺っているのだろう。
思考を巡らせよう。
もしも俺がバルザークであったなら、どうやって勝つだろうか。
剣を交えた際、奴は影のみで俺を倒すのは困難だという手応えを感じたはず。それはいくら影を増やしたところで覆ることは無い。
かといって、迂闊に姿を晒せばまだ見ていない技によって即死する可能性がある。
では、どうして影を増やしたのか。
……そうか。
向こうにもまだ見せていない手が存在するのだ。
奴がそれを出してきて、勝利を確信した瞬間が突破口となる。
即死魔術しか扱えず、応用の利くスキルを持っていない俺は、それが繰り出された際の、ほんの僅かな隙を突くしかない。
バルザークを油断させる必要がある。
だが、緻密な計画を立てていられるほどの時間は残されていない。一発勝負だ。
そもそも、即死魔術という魔術自体が常に賭けなのだ。
だから、俺はこんなにも苦労している。もっと言えば知恵も足りない。
勝負は一瞬で、それを逃せば負ける。
しかし、もし勝つことができれば──鍵さえ手に入ればまだ希望はある。
俺とバルザークには、その置かれている立場において異なる点が一つだけ存在する。それはバルザークも知らない。
バルザークは、俺が《アナイアレイション》のような何かしらの大技を残していることにとっくに気付いているのかもしれない。しかし、そのことが関係なくなるほどに、意味がなくなるほどの機会を待てば──あるいは。
突然、影の行進が止まった。
不審に思って身構えると、影達は広場の中央に集まり始めた。
大小様々な影は粘性のある水のようにドロドロと混ざり合い、沢山の手が生え出た異形の塊へと姿を変えた。影だから、人間の姿でなければならないという制約が存在しない訳か。
使うなら、これだ。
巨大な影は、俺を捕まえようと這いずりながら無数の真っ黒な腕を伸ばしてくる。
身をかわしながら剣でその腕を斬り落とす。これではキリがない。
《エクスティンクション》を放つが、腕ごとに影が独立しているためか黒い塊そのものは消えない。
まだバルザークが視認できない。《アナイアレイション》は使えない。
機会を待て。そう自分に言い聞かせる。
一旦広場の端まで走って距離を取り、そこから影の塊めがけて突撃する。
無数の真っ黒な腕をかいくぐり、胴体を直接狙う。
そのすぐ後ろに、奴がいるはず。
すると──
突然、まるで最初からその場には何もなかったかのように影が消えた。
消えた影の代わりに、大剣を構えたバルザークが俺に向かい直進してきているのが見えた。
奴もまた、無策で斬り込んで来るような愚か者ではない。何かを仕掛けてこようとしている。
直感的に、今しかないと感じた。
互いの距離が近付き、ついにその時が来た。
最も接近するまで、《アナイアレイション》を撃ってはならない。
いつでも発動できるように、構えた。
「……え?」
──急に、寒気がした。
何かが身体に突き刺さって、それ以上前に進むことができなくなった。
影だ。
沢山の影が、細長い棘のような形状となって俺の全身を串刺しにしていた。
周囲を見渡すと、数えきれないほどの黒い線状の物体が頭上にあった。
数百にものぼる人間だったそれらが、すべて鋭い棘となって空中に浮いていた。
別に、生物の形をとる必要はなかったのだ。
正面を向いた時には、バルザークが目の前に迫っていた。
そして、両手で握っていた真っ黒な大剣を構えて──俺の心臓を正確に、深々と貫いた。
「がっ……あぐっ!」
口から大量の血を吐いた。バルザークの顔が鮮血に染まる。
それでも、バルザークは無表情のままだった。
激痛と熱さと窒息しそうな息苦しさによって、気がどうにかなりそうだ。
右手に握っていた剣が地面に落下した。それが合図だ。
今だと思った。
右手を奴の方へと向けて────《アナイアレイション》を発動した。
キュボ、という間の抜けた音がした。
右手から、とても暗い波動が放たれる。
想像していたよりも、ずっと巨大で、恐ろしい闇が直線状に放射され、広場を越えて、分厚い雲を貫いていく。
とっさにバルザークが剣から手を放す。もう手遅れだった。
闇に飲まれたバルザークが、もがき苦しみ始める。
どうにかしてこの空間から逃げ出そうと暴れるが、呪詛の塊のような波から逃れることができない。
暴れるたびに、何かが身体から飛び出しては消えていく。まるで、重ね着していた服が脱がされていくように。
それはバルザークが操っていた影だ。バルザークに力を与え、俺の即死を防いでいた盾が、とてつもない速さで剥がされていく。
「うああああああああ! ああああああ!!」
バルザークが両手で顔を覆いながら叫ぶ。
これまで奴が殺してきた人間達の魂とも呼べるものが、即死魔術によって再び死を迎えてゆく。
《アナイアレイション》によって生み出されていた闇は、だんだんと細くなっていき、最後にはなくなった。
バルザークが、膝をついた。
まだ生きてはいるが、もう戦う力は残されていない。
「ざまあみろ」
バルザーク。
あの日、お前は俺を取るに足らない存在だと侮った。
でもそれだけが問題だったとは言わない。本当はもっと複雑だったんだ。
お前がこれまでに積み重ねてきた罪が、悪意が、お前が今日ここで俺に殺されるという未来を導いたんだ。
あと一発、《エクスティンクション》を撃てば奴は死ぬ。そんな予感がした。
バルザークが俺を見て、口を開いた。
「お前のような──」
《エクスティンクション》が命中した。
バルザークの身体は、ゆっくりと、風に吹かれた灰のように──消えて行った。
最後に何か喋っていたが、別に興味はなかった。
身体を串刺しにしていた影が消えて、自由になる。
心臓に突き刺さった大剣だけが、そのままだった。
目の前には、消えたバルザークの代わりに赤い光があった。
炎熱の鍵だ。
紅い大きな宝石が嵌め込まれた金色の鍵が、空中を漂いながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
ようやく、すべての鍵が俺の手元に集まった。
目の前が暗くなっていく。じきに死に至るのが分かる。
しかし、そうなる前に俺は名前を呼んだ。
「ラ、ラギ、ウ、ス……」
身体が空中に浮き上がり、心臓から勝手に大剣が抜け落ちた。
ぐちゃぐちゃになっていた四肢が元通りの形になり、流れ出た血が自らの意志でも持つかのように体内に入り込んでいく。
地面に降り立った時には、すっかり体は元通りになっていた。
「さすがに危なかったな」
動作に問題がないことを確認して、落とした剣を拾い上げる。
これまでのラギウスとのやり取りで、奴は俺を自由にするつもりはないが、殺すことも本意ではないと考えた。
俺に何かをさせたがっているのだ。
何らかの計画があるとも言っていた。だから、それを逆に利用してやった。
鍵さえ集めれば、ラギウスは必ず俺を助けると。
俺にはラギウスがついている。俺とバルザークの立場が異なった点はそこだ。
相手はどうしようもない悪党だったのだから、ズルをしようがどうだっていいだろう?