第百三話 タイムリミット
──聖都セイラムの話を聞いたことはあるか?
飢えや病といった世のあらゆる苦痛が存在しないというこの永遠の都には、人語を解する白蛇を従えた女神がおわすのだとか。
最近、森に入ると偶に出くわす半獣どもは、彼女を信奉する教団が創り出したものらしい。
噂ほど、当てにならないものはない。
「もう行くぞ」
ファティナの身体を揺さぶり続けるメルをしばし眺めていたが、いい加減埒が明かなくなってきたので声を掛けた。
「お母様、お母様……ねえ、起きて……」
メルはボソボソと呟きながら、ただひたすらにファティナを揺すり続けている。
こいつは一体何をしているんだ?
今になって思えば、道中メルが話すのは国王のことばかりで、母親のことは一度たりとも口にしなかった。
メルの母親──恐らくクレティア王国の王妃であろう──は、今どこで何をしているのだろうか。
俺は王国の東にある小村の出だが、亡くなったという話や何かしらの噂を聞いたこともない。
王妃が鍵にまつわる計画に賛同していたのであれば、話に出てこないのも不自然だ。
「よく見ろ、そいつはお前の母親じゃない。ファティナだ」
そう説明すると、メルは交互に俺とファティナを見て不思議そうな顔をした。
まるで、死という概念がまだ理解できていない子どものようだ。
これまでの彼女と違って、一切の知性を感じさせない振る舞いでもあった。
仲の良かったファティナが死んだことによるショックで気が触れたか、あるいは精神操作による影響なのかもしれない。
ラギウスは、ファティナとの会話の中でメルを救う方法はないと断言していた。
奴の言葉は嘘にまみれているので安易に信じるつもりはないが、ひょっとしたら、メルは本当にもう手の施しようのない状態に陥ってしまってるのかもしれない。
「少し、どいていろ」
メルを引き離し、ファティナの身体を両手で抱えた。
身体能力は上がったはずなのに、どうしてか彼女を背中に乗せて運んだ時よりもずっと重く感じた。
近くにあった背の高い岩の前に彼女の身をもたれかけさせる。
目を閉じたファティナの顔は、死んでいるとは思えないほどに綺麗だった。
そんな彼女を見てもなお何も心に響かないのは、ラギウスが俺にかけた魔術によるものだろう。
前の俺であれば、どうしていただろうか。
カチャリ、と硬い音がしたので地面を見ると、綺麗な短剣が落ちていた。
落ち込んでいたファティナにメルが渡したものだ。
どうせもう使えないのだから、持って行くことにする。
「……あ?」
急に視界がボヤけた。
どういうわけか、涙が流れていた。
心が何も感じていないのに泣かなければならないという意味不明な状態は、不愉快で、とても苦痛だった。
「ぐっ……ぎぎ……」
こんな別れ方を体験をしたのが初めてだったからだろうか。
いや、少し前にもう一人別れた誰かがいた気がする。
しかし、それが誰だったのか、どういうわけか思い出せない。
「もう殺してくれ……ラギウス……」
今度は口から勝手に言葉が漏れた。
俺はまだ死にたくはない。
しばらくして感覚が落ち着いてきたので、外套の裾で顔を拭ってその場を離れた。
「おい、行くぞ」
声を掛けるが、メルは返事もせずにただぼんやりと立っているだけだった。
何かを見ているわけでもないどころか、そもそも目の焦点が合っていない。
仕方なく、彼女の手を引いて歩き出す。
ラギウスが命を助けると言った以上、俺もメルを見殺しにすることはできない。
連れて行ったところで、もう手遅れかもしれないが。
亡骸しかない広場を渡り切ると、また傾斜のある土の道が続いていた。
ここから目的地である祭壇に向かえるようだ。
やるべき事は、もうそれほど残っていない。
バルザークを殺して鍵を奪う。
三つの鍵を揃えて祭壇に捧げる。
アルベインが現れたらすぐに逃げる。
これだけだ。
頭の中で繰り返しながら、ただひたすらに上を目指して進むことにした。
だいぶ暗くなってきたので、ランタンに火を灯す。
あちこちで溶岩溜まりが赤々と燃えているおかげもあって、足を踏み外すこともなく移動することができた。
「喉が渇いた。水を出してくれ」
「…………」
歩き始めてから、幾らかの時間が経った。
メルは何も言葉を発することなく、ただ下を向いて俺に手を引っ張られながらついて来る。
明らかに、精神に異常をきたしていた。
炎熱回廊に入った時、メルは言っていた。
どうして神が存在すると思ったのか自分でもよく分からない、と。
この時点で既にメルの記憶には問題が生じていたのだろう。
子どものような行動ばかりを取るようになったのと、記憶の一部が欠落してしまっていることには関係があるように思える。
精神操作を受けると、昔の出来事を忘れてしまうのだろうか……。
もしかして、俺もじきにこうなるのか?
「……おい、ラギウス」
誰もいない目の前の空間に向かって話し掛ける。
「おい!!」
大声を出しても、返事はない。
頭の中に呼び掛けてくる声は、もうなかった。
代わりに空から鳴き声がした。
見れば、四、五匹ほどのドレイク達が弧を描くようにして俺達の上空を旋回していた。
それとほぼ同時に、目の前に急にステータス画面が表示され──『鍵の探索を拒否した場合、術者は死亡する』という一文が赤く明滅を繰り返した。
「ク、クククッ……」
腹の中から笑いが込み上げてきた。
途中離脱は認めないという警告に違いなかった。
ドレイク達が一斉に急降下してくる。
その場に立ち止まり、天へと手をかざして《エクスティンクション》を放つ。
群がってきたドレイク達はたちまち絶命し、互いにあらぬ方向へと墜落していった。
「イオ、お前が言ったとおりだったよ」
だんだんと物思いに耽ることが増えてきたので、頭の中を空っぽにして登ることにした。
急に傾斜がきつくなった坂を越えると、ようやく大きく平らでだだっ広い場所に出た。
頭上には分厚い雲が渦巻いていて、遮蔽物が何も無いせいか強い風が絶えず吹き付けてくる。
すっかり夜の帳が下りているのに、どうしてかこの空間だけは妙に明るかった。
広場の最奥には、長く伸びた階段の先に白い石か何かで造られた横長の祭壇があった。
祭壇の上では、燃料があるわけでもないのに大きな虹色の炎が揺らめいている。
メルの持つ古文書に記されていた女神の祭壇に違いない。
最後の鍵も、すぐそこにあった。
胸元から緑と青、二色の光が溢れ出す。
鍵の共鳴だ。
俺達の正面で、何をするでもなく座っている一人の男。
広場の中心に横たわるドレイクの頭に腰掛けながら、こちらを見つめる漆黒の鎧の主。すぐ横には、血がべっとりと付着した大剣が地面に突き刺さっていた。
その姿は、紛れもなくボルタナで見たSランク冒険者──バルザークだった。
白髪に、顔の所々に入った傷痕と、ひとたび睨まれれば生涯忘れる事はないであろうその鋭い目つき。
あの時の俺は、この男とこうして戦うことになるとは夢にも思わなかった。
「ここで待っていろ。絶対に前に出てくるなよ」
メルに入口にいるよう指示してから前へと進むと、バルザークが立ち上がった。
ここに俺が現れたということから、パーティメンバーが既に全員死んでいることも理解しているだろう。
鍵を渡すよう要求するのは言うだけ無駄。
もう会話は一切必要ない。
バルザークはゆっくりと大剣を引き抜き、構えた。
距離はまだ開いているというのに、重そうな全身鎧を着込んだあの体躯で俺の立つ場所まで一足飛びにやってこれるらしい。
普通なら冗談で済ませられる話だが、この場を取り巻く空気で分かる。
奴にはそれができて、そしてイオよりも強い。
転身したホムンクルスを超えるのだから、よほど凄まじいスキルか何かを有しているに違いなかった。
イオ達との戦いで、一つ分かったことがある。
それは、人間と戦う場合には『相手の持つスキルをどれだけ早く見極められるか』が重要だということ。
カシムの時は完全に失敗だった。
大剣一本でドレイクを斬り伏せるほどの実力があるなら、剣に関するスキルか何か……もしも複数スキル持ちで【剣聖】を所有しているとなると厄介だ。
ギルドを訪れた時にディルにもっと聞いておくべきだった。
こちらも剣を右手でしっかりと握り、いつでも動き出せるよう膝を曲げて前屈みの姿勢を取る。
当然だが、戦士系のスキルを有する相手に真っ向から戦いを挑むのは愚策でしかない。
使える手は何でも使え。
即死を通せれば俺の勝ち。それ以外は全部負けだ。
しばらくの間、ただひたすらに睨み合う。そして──
バルザークの姿が急に消えたかと思うと、次にはもう目の前に迫っていた。
「ぬっ!!」
想像以上の速さだったので、回避は間に合わなかった。
刀身を左手で押さえながら、横薙ぎの一閃を受け切る。体のありとあらゆる器官がビリビリと振動しているような感覚に陥った。
この剣でなければ体ごと真っ二つに切り裂かれていただろう。
バルザークの動きは、イオよりもさらに速かった。
本当に人間なのかすら疑わしい。
後ろに飛び退ると、バルザークも間髪容れずに大地を蹴った。
もちろん追撃してくるだろうと踏まえた上での行動。奴を誘い込むための罠だ。
お互いが空中にいるわずかな間に、左手を正面に向けて《エクスティンクション》を放つ。これならば避けられないだろう。直撃コースだ。
ホムンクルスの【超集中】でもなければ目に見えない魔術による攻撃は、バルザークの頭に見事に命中したかのように見えた。手応えも確かにあった。
しかし、どうしたわけかバルザークの突進が止まることはなかった。
俺が死ぬまで動きを止めないのかと思えてしまう。
肉体を強化するスキルとは別に、奴は何らかの能力で死を回避している。
勢いと重みの乗った豪快な突きが放たれる。
わざと剣で受けて後方に吹き飛びつつ、その反動を利用して距離を取る。
ファティナから感じていたような、凡人には理解し難い技術は今のところ発現していない。
素人の俺でも違いが分かることから、少なくともスキルは【剣聖】ではない。むしろ俺と同じようにただ力任せに剣を振り回しているような印象を受ける。
「…………」
猛攻は続くかと思われたが、何故かバルザークはこれ以上近づいては来なかった。
警戒しているのだと、すぐに理解する。
恐らくは、自分が《エクスティンクション》で攻撃されたことに気が付いたのだ。
攻撃の手を緩めたということは、無視することはできないと自己申告しているようなものだ。
そこに、勝機に繋がる何かがあるに違いない。




