第7話 『フランカの告白』
※2019年7月の末に大々的な改稿が完了しました。前回のシーンとは大幅に異なってる箇所がありますが、ストーリー全体としては問題ありません。ですが、かなり文字数がかさんでしまいました……。もしお読みになって煩わしく感じられたら申し訳ないです……。
「………………」
――キッチンの奥を横切った所にあるダイニング。
俺は食卓横の安楽椅子に腰掛け、天井のシャンデリア(らしきもの)をボーっと眺めながら無為な時間を過ごしていた。
出血し過ぎたせいか、上手く頭が働かない。フランカが見覚えのある『ニコレットの塗り薬』を鼻と額に塗ってくれた後、包帯を両鼻にブチ込み、呪文を描いた小さな羊皮紙を患部にパックするかのように貼ってくれたところまでは覚えている。
だが、そこからのダイニングまで足を運んだ記憶がおぼろげだ。もしかすると、フランカに何かと迷惑をかけたのかもしれない。
悪いことをした……。
そこまで思い至った時、キッチンからフランカがティーセットを持って現れた。盆の上には小型のガラスピッチャーもあり、おそらく酔いを覚ますために持ってきてくれたのだろう。
「ふぅ、ようやく炊事場の掃除終わりました。どうですか、気分は。まだどこか優れないですか?」
俺の隣の椅子に腰かけ、フランカはガラスピッチャーから透明なグラスにトポトポと水を注ぎながら俺の身を案じる。
普段は天然なのに本当に気が利くよな、と俺は気怠い頭を擡げ、フランカからグラスを受け取った。
「ああ……。まだ額はじんじんするけど、単なる鼻血ぐらいだしもう大丈夫だ」
元気の証拠として、俺は腕に力瘤を作ってみせる。
ここ一ヶ月、何かと重い物を運ぶ機会が多かったからか、貧弱な二の腕が些か逞しくなっていた。とは言っても、運動部で汗水流す高校生には劣る筋力だと思うが。
女を一撃で惚れさせる“黒光りマッスルボディー”を手にする道のりは険しそうだ。
「ホッ……良かった~。ユウさんの鼻血が中々止まらなかったので、一時はどうなることかと……」
肩から力が抜けたように、フランカは胸を撫で下ろす。
しかし俺には、その嫌味を一切含まない快活な声が耳に痛かった。
何せ貴重な昼休憩に、自分の失態でフランカに手間を一つ増やしたのだ。幾らフランカが“度”を超えたお人好しであっても、彼女はあくまで『LIBERA』の店長兼看板娘である。無論多忙であるが故に休息を欲しないはずがない。それは、俺が一ヶ月の間、フランカの隣で過ごしてきたからこそ言えることだった。
「…………んな」
「ほえ? 何ですか?」
――だからこそ、彼女に今すべきことがある。
俺はバツが悪そうに頭を掻くと、食卓の上で二人分のお茶を注いでいたフランカの方に向き、
「……その、心配かけてごめん――」
と、言いかけたその時。
遠くの方――おそらく店内かと思われる――で、誰かが大声を張り上げているのを耳にする。
フランカもほぼ同時に気が付いたのか、耳をピンと逆立てた。
「おーい、ここには誰かおらんのかね! 仕事関係で少し探し物をしていて、店先の看板に“雑貨屋”と書いてあったから立ち寄った者なんだが!」
――男だった。
それに声を聞く限り、どうも一見さんのようらしい。
しかし不思議なことに、今は昼の休憩時間中である。
と言うのも、休憩時間の際は『LIBERA』の玄関である緑の扉に『ただいま、店内準備中』と書かれた掛け看板をぶら下げているはずだからだ。
一体どうして、客人は店内へ入って来たのか……。
すると、小首を傾げていたフランカが途端に目の色を変え、パタパタと尻尾を振って焦り始めた。
「あ! も、もしかして、扉に掛け看板をするのを忘れてたんじゃ……! あわわわ……どうしようどうしよう! ああ、でも取り敢えず接客しに行かなきゃだし」
見よ、これが『お客様は神様だ』というお客様精神に富んだ者の権化。当店自慢の看板娘だ。
俺ならまず間違いなく居留守を決め込むが……。
「ゆ、ユウさんっ! そんなわけなので、とにかく行ってきます!」
「お、おう……焦って転ぶなよ」
「大丈夫です!」
そう短く告げると、フランカは慌ただしくキッチンの方へ小走りに向かっていった。
変な感じで話が逸れてしまい、俺は行き場を失って喉につっかえていた言葉を飲み込むと、誤魔化すように後ろ頭を掻く。
――が、キッチンへ消え入る寸前、フランカは何かを思い出したかのように再び俺の方へ向き直ると、
「少しだけ、待っていてください。またしばらくしたら戻ってきますので。……その時に、話の続きをしましょう」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
俺は時々思うことがある。
“フランカは俺に気を遣っているのではないか”、と。
太陽のように素敵な笑顔が似合う彼女だからこそ、純粋で真面目過ぎる彼女だからこそ、『嫌悪感』や『不快感』といった負の感情を内側に押し込み、表面上で取り繕っているのではないかと。毎日客人に対して振る舞っている対応と同じように。
確かに俺は、普段からバカなことをしてフランカを困らせている。だが彼女は、それでも変わることのない眩しさで笑っていてくれた。
もしかすると、俺はそんな彼女の笑顔に、どこか安心していたのかもしれない。
「って、今さら何を言ってるんだ、俺は……。こんな冗談の塊みたいな奴が突然センチメンタルとか、ハハッ、笑うにも笑えねぇな」
無意識のうちに瞑目していた両目を開く。
まったく情けない、と妙に気恥ずかしくなった俺は頭髪を強めに掻き回した。
フランカがいなくなって一人になってしまったからか、どうも先程から落ち着かない。余計な思考に耽ってしまう。
「にしても……遅いな」
無理矢理思考を断ち切るように、俺は腰掛けていた椅子から立ち上がった。
そして壁に掛けてある時計を見ようと――と、ここに時計は無いんだったと思い出し、椅子に座り直す。
「…………」
はぁ、と。空虚なため息が一つ、口から零れる。
……やはり落ち着かない。
体感する一秒が一秒ではないみたいだった。まるで、早送りされているような……二秒、三秒と普段の何倍もの早さで時間に追われているような感覚。
そんなはずはないと分かっていても、感じてしまう。
また今もこうして過ぎ去っていくそれが、下水へ流れ出ていく金銭と同等の価値を秘める“何か”に思え、俺の身体をムズムズさせる。
焦燥感には違いないのだが、しかしそれ以上にとても気持ちの悪いものだった。
「……。よし」
手持ち無沙汰のまま、ただボーっと椅子に座ってフランカを待つのはどうも居た堪れない。――そろそろ鼻血も止まったようだ。
ならば昼食の準備だけでも先に始めていよう、と俺は再び椅子から腰を上げた。
キッチンに向かい、そこで調理台――俺の鼻血の痕は綺麗さっぱり消えていた――の上に置いてあった二人分のバスケットを手にダイニングへと戻る。
準備……と言っても、机を軽く拭いた後、せいぜいバスケットの上に被せてあるナプキンをそれぞれ敷くだけだ。それでは呆気ないので、俺はバスケットの中から漂ってくる禁断の誘惑に生唾を飲み込みつつ、ナプキンの向きを調整したりシワを伸ばしたりして、可能な限り上等な食事の席を拵える。
でも、なぜだろう……。
いつも待ちきれない昼食の時間――とてもワクワクする作業のはずなのに、どうしてか高揚感は薄暗い心の陰に引っ込んだままだ。
いや、もしかすると気のせい、なのだろうか……。
「……あ」
そういえば、と俺はついでにキッチンからもう一つグラスを取ってくる。
そしてグラスの隣に、先程フランカが俺のために持ってきてくれたもう一つのグラスを置き、そこへグラスピッチャーから水を注ぎ入れる。
トポトポと、静かな音を立てながら、透明な水は透明な容器を一つ、あっという間に満たしていった。
「…………」
もうしばらくだけ、待ってみることにした。
――が、
「うーむ、それにしても長い……。かれこれ十五分ぐらいは経ってるんじゃないか? たかが一人の接客にそんな時間がかかるわけもないし、一体何をしているんだフランカは……」
今度こそ手持ち無沙汰になった俺が最終的に落ち着いた場所は、結局椅子の上だった。
食事の準備は整えた。昼食はいつでも食べられる。
――だがしかし、本来ならば空席に座っているはずの彼女が一向に帰ってくる気配がない。
それに気付けば、店内の方から全く物音がしていなかった。
俺は腕組みをし、ひっそりとした空間にカツカツと不格好な靴音を奏でては、幾度かキッチンの方へ視線を投げる。
少なくとも、在庫に商品を探しに来たフランカの足音とか、買い物を済ませた男が店を出る際に鳴らすドアベルの音とか聞きそうなものだが……。
「…………」
いよいよ心配になってきた俺は、「ちょっと様子でも見に行くか」と、三度椅子から腰を上げようとする。
と、
「――――」
ギュッと。
誰かが俺の背後から首に手を回してきた。
「――ッ!?」
危うく口から心臓が飛び出そうになり、俺は即座に背後を振り返ろうとする。
が、自分の胸の前に垂れ下がった両腕を見て静止した。
なぜならそれは、とても見慣れた――いや、忘れるはずのない赤いエプロンドレスの袖としなやかな両手だったからだ。
「ふ、フランカさん……?」
「え、えへへ……」
首を後ろに回すのを止めて頭上を見上げると、やはり忘れるはずのない白の三角頭巾が視界に映り、加えて妖精の双子か天使の従姉妹かと思わせるような、愛くるしい童顔がこちらを覗いていた。
はにかんだ笑顔はほんのりと赤く色付いており、透き通った翡翠色の瞳は若干ながら揺れ動いている。
その相も変わらない美貌を拝むまでは拍動も早鐘を打ったようだったが、今は沈静して思考に余裕も出てきたため、次は必然的に至極当然の疑問が浮上してくるわけだが、
「…………いつからここへ?」
「……内緒です」
「ふーん。…………で、これは何をしていらっしゃるので?」
「あー……えーっと、これはあの、そのですね……」
明らかに言い訳を考えている素振りで、フランカはおろおろと視線を泳がせながら言い淀んでいる。
先程も言ったが、彼女は純粋で真面目な性分なのだ。つまりそれは、嘘が苦手ということでもあり、何より一度上に向けた視線を斜め下に下げていくのは彼女の悪癖を暴露しているようなものだった。
「あ、あの……ユウさん?」
「ん?」
やがて、もじもじしていたフランカの柔和な声が室内に響く。
「えへへ……。私がいない間に、わざわざ昼食の準備をしてくださったんですね。ありがとうございます。……でも、私の分の昼食は、このバスケットじゃないんですよ」
「あ、すまん。そうだったのか……」
「いえ、いいんです。私が今から取りに戻ればいいだけの話ですから。それよりも、休憩時間になった時に『お腹ペコペコだ』ってユウさん言ってたのに、こんなにお待たせしてすみませんでした」
「いや、俺もそれは別に構わないんだが……」
何か一つ、フランカに言い忘れているような気がする。
そういう気がしなくもないのだが、今となってはどうでもいいような気もする。ということは、おそらくそれは大したことではなかったのだろう。
ならば今は、そんなことより彼女にかけてあげるべき言葉があるはずである。それは一体何だろうか……?
俺は迷った末、しかしそんなに熟考せずとも見つかった単純な一言をフランカに言った。
「おかえり」
フランカはその丸々とした瞳をさらに見開き、驚いたような表情を見せる。――が、それはすぐに崩れ去り。
そして俺に、ニッコリ笑ってこう答えた。
「ただいまです。お昼にしましょう」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――ところで、ユウさんって装飾品とか付けたりしないんですか?」
「えっ?」
フランカが俺にそう尋ねてきたのは、お互いが席に着き、昼食を開始してしばらくしてからのことだった。
フランカは早くも皿の上にあった四つの“ハムカツ玉子サンド”の内の二つ目に手を伸ばし、美味しそうに頬張っている。無邪気な子供さながらの可愛げのある食いっぷりで、口角が黄色いカローシで彩られても気付かないほどだ。
一方の俺は……まだ一つも、手を付けてはいなかった。
「装飾品……? どうしてまた」
ゴクリ、とフランカは先に口の中のモノを胃に押しやり、それから口を開いた。
「あ、いえ。ユウさん……例えばアミュレットとか、そういう耳飾りとか首飾りを身に付けたら似合うんじゃないかなぁって、今ユウさんを見ていたらふと思っただけで……」
「なるほどな。んー、装飾品……アクセサリーなぁ……」
特段そういう類の話に詳しいわけではないが、一般的に“装飾品”と聞いて思い浮かべるような外形をぼんやりと頭の中に描いてみる。
それから自分の、赤みの強い黒色のボサ髪を数本指で摘まみ、
「似合うかなぁ……」
そもそも昔から服装や格好といった、いわゆる“オシャレ”には人並みに気を遣うぐらいで興味はほとんど無かった。
だから、大学に入って『OIY計画』を実行に移す際にも染髪はしなかった。正直に言うと、そこまで自分を変える勇気が無かった。
今思えば“染めときゃ良かったかな”と思わなくもないが、しかし俺は、『OIY計画』を完遂した暁にチャラ男やヤンキー、あるいはプレイボーイやホストに変身したいわけではないのだ。
上手くは言えないが、“普通から脱する”ということは、少なくともそういう意味合いではないと考えている。
そうして眉を八の字にして小首を傾げていると、フランカは大きく頷き、正体不明の自信によって形作られた輝かしい笑顔をこちらに向けた。
「はい。私はとても似合うと思いますよ」
「そ、そうか。……でも俺、昔から興味とかほとんど無かったからなぁ、そういうの」
「へぇ~、意外ですね」
僅かに瞠目し、驚く素振りを見せるフランカは手に持っていた食べかけのサンドイッチを小さく齧った。
俺は思わず苦笑してしまった。
「意外? そこまで言うほどか?」
ついでに、手に持ったっままだったグラスを少し傾け、少量の水を口に含んで喉を潤す。
するとフランカは――モグモグ、ゴクンと。
サンドイッチを飲み込み、またも真っ直ぐ俺を見つめ返してきた。今度は少しばかり胸も張って。
「だってユウさん、私が取り敢えず『LIBERA』の店内に並べてあるだけの装飾品の種類とか名前とか教えた時も覚えるのスゴく早かったですし、それに、そういう類の物をお求めになられたお客さんの対応も随分と慣れているようでしたから」
「それは、“俺に装飾品が似合う”という自信の根拠になり得るのか……?」
人差し指をピンと立て、まるで自分のことのように得意げに語るフランカに疑問符を浮かべる俺。
が、
「はい! 多分なり得てるんだと思います。えへへ」
いよいよ音符が飛び出そうな、その指揮棒のように宙で踊る指を曲げようとはしない。
「多分って……なんじゃそりゃ」
全く以って意味不明で理解不能な天然少女の思考ではあるが、褒められている気がしなくもないのでちょっぴり嬉しい。
俺は再びグラスを傾け、余分に喉を潤した。
それからグラスの中で揺れる水面を見、
「似合う、ね……」
中の水を軽く回すと、
「……まぁ、確かに……初対面の相手に『チャラチャラしてそう』とか『不真面目そう』とか、何回か言われた覚えはあるな……」
「え……違うんですか?」
「――いや違いますけど!? 俺紳士ですけど!?」
「紳士だったんですか!?」
「そこは自信持って頷くトコですフランカさんッ!!」
小気味良い言葉の応酬に、思わず笑いが込み上げそうになる。
が、対してフランカは「そ、そんな……そんな……」と青ざめた顔で愕然とし、「まさか……まさか……」とわなわな戦慄いている。その様相は正しく、強大な捕食者を前に為す術なく打ち震えるだけの獲物も同然。
しかしそれでも、ガタガタと鳴って上手く噛み合わない歯で、フランカはなんとか食べかけのサンドイッチを食べようと試みる。
昔遊びに行った友達の家で飼っていたハムスターや学校で飼育していたウサギに餌をやったことがあるが、確か丁度こんな風に食べていたような……。いや、それよりも……。
――ちょっと待て。おい、なんなんだこの、“衝撃のカミングアウト”的な反応は……。普段から口癖のように散々言ってるじゃないか。……まぁ、態度が少々紳士的でないところが時々あったりなかったりするのは否めないが。
それじゃあこれまでの間、一体俺を何だと思って接してきたんだ、フランカは……。
「それはさて置き……。それを言うなら、お前の方がよっぽど似合いそうじゃないか」
「ほえ……?」
俺はグラスを持っていた手の人差し指でフランカを指し示し、そう言った。
思えば先程から俺ばかりが話題の主役になっている。それでは不公平な気がしたので、引き継ぎとしてフランカにも表舞台に立ってもらおうと考えたのだ。
フランカは、恐怖を紛らわすためなのか、一心不乱にサンドイッチを高速で噛み砕いていた――が、全てが口の中へ消失した直後、きょとんとした表情で顎を上げた。
……本当はさて置きたくない話題だったのだが、もし仮に“俺のことをどう思っているのか?”という何気に告白紛いの質問をした時のフランカの返答が怖いのも本音だ。
好意的な返事であれば無論言うことはないが、だが逆に素っ気ない返事――いや、それぐらいで済めばまだマシだが、罵倒の上に罵倒を重ね、さらにその上に罵倒を塗りたくったような返事をもらうようであれば、俺は今日の夜にでも『LIBERA』で手頃な大きさのロープを探すことはほぼ間違いない。(フランカの性格上、その可能性はかなり低いと思うが……。)
「だからぁ、装飾品だよ。装飾品」
手巾で手の汚れを拭き取っている、今度こそ完全に我に返ったであろうフランカに、俺は首元や腕を軽く摩って見せる。
するとフランカは、どこか間の抜けた動作で俺と同じように首元に触れ、
「はあ……。装飾品……私に、ですか?」
「そうそう」
頷き返すと、まるでその言葉を咀嚼するかのように暫し黙考するフランカ。
やがて首元から手を離すと、なぜか顔を俯かせて視線を斜め下へと下げる。
「に、似合いませんよ、私に装飾品なんて……」
口調もそうだが、つい先程の朗らかな態度とは打って変わり、両の手を膝の上に置いたりして全体的に身を強張らせていた。
その羞恥――あるいは悲哀とも見受けられる面持ちに、俺が小首を傾げる程度の違和感を抱くのは当然だった。
「どうして? 俺より格段に似合う要素が詰まってるのは明白だと思うのだが……案外悲観的なのな。それこそ、そういうのに興味アリアリなのかと」
「いえ、好きかどうかと言われれば勿論興味はありますし、好きなのですが……ただ、私には似合わないというだけの話ですよ。私は元々、村の男の子たちと外で遊び回っている方が好きなお転婆でしたし、これまであまり女の子らしい格好をしてこなかったと言うか……。あ、でも興味を持ち始めたのは魔術師を志し始めた時ぐらいだったかな……。それでも今みたいに身嗜みに気を遣うようになったのは、お師匠様に出会ってからのことでして」
「ふーん」
「だから、その……はい。だから多分、私にそういうのは似合わない、と思います」
そう言うと、フランカは自信無さげに小柄な体躯をさらに縮こませた。
ふーむ、なるほどなるほど。
つまりフランカは、これまでキャピキャピした着飾りだとかお化粧だとかをしてきた経験があまりなかったから、それで自信が持てないと……。
ん? でも待てよ。それってやっぱり、“私に装飾品が似合わない”という根拠になるのか……?
「なんかさ、“お気に入り”みたいなやつとか無いの? 子供の頃お母さんからプレゼント――あー、お古をもらったりだとか、何かのお祝いの記念に誰かにもらったりだとかさ。女の子って結構そういうの持ってるイメージあんだけどなぁ。ま、俺の勝手なイメージだけど」
「あー……えっと、そういうのもあるにはありました。確かに。母が昔、お転婆だった私を少しでも着飾ろうとしてそういうのを一時期集めていました。私ほどではないですが、母もどちらかと言うと、あまり着飾る方ではないので……。魔術師を志し始めてからは、何度か付けてみたりはしたのですが……」
「へぇ~、なら今も付ければいいのに。フランカならきっと何でも似合うだろうに」
「……いえ。今はここに無いんです。家を出たあの日に全部置いてきましたから。“加護”として持って行くにしてもいつか感傷に浸ってしまうことは自分で分かっていましたし、大勢の反対を押し切ってまで家を出たんですから、意地でも戻りたくなかったんです。それに……」
と、そこでフランカは一旦言葉を切る。
「母が折角私のために集めてきてくれたものを、どこかで落としたり、誰かに盗まれてしまったりするのは……もっと嫌でしたので」
その表情には、どこか憂いの陰が差しているようにも見えた。
「…………」
無意識に天井を見つめていたことに気付く。
理由を聞き、それを理解した上で色々と考えた結果、結局俺は素直な気持ちを彼女に述べることに決めた。
「そうかなぁ~。似合うと思うけどな――俺は」
「――!」
ハッ、と息を呑む気配がしてそちらを向く。――が、フランカはまだ項垂れたままだった。
ただ、
「……。そ、そうですか……。…………ありがとうございます……」
フランカは、ほんの僅かだったが頭巾越しに耳を上下に動かすと、か細い声で一言、そう呟いた。
けれど俺には、その声だけは普段の調子を取り戻しているように思えた。
――と、
「――あ。でも……」
言い忘れていたことでもあったのか、フランカが小さく声を上げた。
「どうした?」
もう一度フランカに視線を投げると、久しく拝んでいない気がする丸々とした翡翠色の瞳が、俺の声に反応して真っ直ぐこちらを見つめ返してくる。
しかし、その瞳の輝きはもっと別の“何か”を彼女に映し出し、視線の彼方に俺という存在は認知されず、寧ろ背後にいる何者かを捉えている――そんな“眼”だった。
そして、フランカの口がゆっくりと開いた。
「あ、いえその……。……そういえば、ウェヌスさんが私にペンダントを渡して――――」
「……? ペンダント……? 何の話だ?」
「…………」
要領を得ない内容を、これまた覚束ない口調で語るフランカ。幻影とでも会話しているのだろうか、心ここに有らずといった感じだ。
と思っていたら、直ぐに本来の瞳の輝きを取り戻し、
「……いえ、別に何もないです。ごめんなさい、えへへ」
「え、えぇ……なんじゃそりゃ」
そんなん言われたら、めっちゃ気になるやん。
ペンダント……フランカは今、確かにはっきりとペンダントと言ったよな……?
誰かにもらったのか……? ん? そういやその前に名前らしき単語を口走ってたような気がするが……。
考えれば考えるほど、謎のベールを幾重にも折り重ねていく先程の発言。
実際こんな些末なことに対して真剣に考える方がバカらしいし、無駄に違いないのだが、フランカと過ごす日常の中でこういった他愛のない会話を繰り広げるのは毎度のことである。だから特に気にはしない。まぁ、雑談の延長線みたいなものである。
ペンダント、ペンダント……と、こうして釈然としない五文字の単語に弄ばれている俺は、フランカの首元――おっと、決して胸元じゃないぞ――に視線を注ぐ。
次第に視線は、産卵のために川を上る魚の如く自然とその御尊顔に達し――。
ふと、“それ”は視界に紛れ込んだ。
「……?」
言うなれば“それ”は、完璧な彫刻に付いた一片の傷、完璧な絵画に付け足した蛇足、完璧な演奏の一律の乱れ……。
異物の正体は、なんてことのない、ただのパンズーの切れ端だった。それがフランカの口元にホクロのように付着している。
あくまで個人的主観で物事を語らせてもらえるのであれば、つまり“それ”は俺にとってそういう意味に値するのである。
「あの……ユウさん。あ、あまりジロジロと見つめられるのも居心地が悪いと言うか、気恥ずかしいと言うか……」
声に気付くと、完璧が訝しげに眉根を寄せ、眉間にシワをも作っていた。
「あ、ああ……すまん。いやさ、口元にパンズーの切れ端が付いてたから」
自分の口元を指で指し示しながら説明すると、たちまちにして彼女の眉間の異物が洗濯したての衣服のようになった。
「? 何か付いてるんですか?」
「あー、違う違う。もっと右だよ右」
「右……ここ、ら辺ですか?」
「んぁ~、いきすぎいきすぎ。ちょい左、そんでちょい斜め上」
「……? ここですか……?」
「んがぁ~! ちっがぁ~う! そこじゃなぁ~い!」
俺の指示は間違っていないし、フランカもそれに素直に従っている。
が、(あるあるな話ではあるが)フランカが目標物から絶妙な角度と距離で狙いを外しているのだ。彼女に悪気が無いのが分かっているだけになんとももどかしい。ユーフォーキャッチャーが下手くそな友人を傍から眺めているような気分だ。
……仕方がない。
「はぁ……。ほら、ちょっとじっとしてろ」
「は、はいっ」
いよいよ面倒になってきたので取ってやることにした。
椅子から腰を上げ、上半身を少し机に乗り出す形で前屈みになると腕を伸ばし、例の異物を指先で掬い取った。
ふぅ、スッキリスッキリ。
「な、付いてただろ?」
冗談ではないことを証明するために、俺はフランカの目の前に証拠を提示する。
「……あ、ホントですね。ありがとうございます、ユウさん」
――ひょいパクっ!
言うや否や、フランカは俺の指の先端にあった異物を、俺の指もご一緒に丸ごと口の中に入れた。
そして丁寧に舌を滑らせて異物だけを受領すると、満面の笑みで口を開き、俺の指を送迎してくれた。
「…………」
透明な聖水に清められた自分の指を見つめ、眦を細めた俺は僅かに天を仰ぐ。
――説明しよう。
なぜ俺が魅惑的な弾力を秘めた女子の薄紅色の唇に何の躊躇いもなく触れられるのか、また指を口の中に入れられて、どうしてこうも平然としていられるのか――。
ここへ来た当初、フランカの『今からお風呂入ってきます』という言葉にでさえドギマギしていた俺が、だ。
確かに、これが初めての出来事であるのであれば、フランカよろしく俺も熟れたリンゴのように真っ赤になっていただろう。
そう――つまり、これは初めてではない。何度も起きている出来事なのだ。……主に天然フランカの行動が引き金となって。
故に俺は、これらの行為に羞恥というものをさほど感じなくなってしまったのだ。……いや、多少は恥ずかしいよ? 当たり前だけど。
ただ、今になってこういう聖水で清められた指を見たところで、あの頃の興奮は胸の奥底から沸き起こらない。
あの頃の興奮は、もう二度と返ってこないのだ。
この指は、ちょっとだけネバネバした神聖な水で濡れているだけの、ただの指に他ならない。
いつまでも少年のままだと思っていた俺の心は、いつしか大人へと移り変わっていたようだ。
寂しさはある。――しかしてそれは、裏を返せば“成長”の証とも言える。
「フッ。無意識ではあるが俺は、日に日に紳士なダンディに成長しているということか……ッ!」
目には到底見ることのできない、あまりにも小さな一歩……。けれどそれは着実に時を歩み、そして着実に俺たちの“何か”を変えていく。
人生の神秘、ここに極まれり。
さて、ではこの指を口で拭き取り――おっと失敬。“口”と言ってしまったかな? ハハハ、いやはや済まない。“布”と言おうとしたんだが……どうやら言葉を噛んでしまったようだ、許してくれ。では、改めてもう一度言い直そう。
コホン。さて、ではこの指を口で拭き取り――おっと、決して卑しい思いがあるわけじゃないんだ。また言葉を噛んでしまっただけなんだ……。本当なんだ、信じてくれ! なぜなら俺はもう“子供”じゃない、“大人”なのだから! では、今度こそ改めて言い直そう。
コホンコホン。さて、ではこの指を口で――――
「ユウさん」
「――びゃいっ!?」
思考に耽っている最中突然声をかけられ、机に身を乗り出したままだった俺は即座に体勢を元の位置に引き戻す。
ドックンドックン、と荒波を立てる拍動を宥めるためにひとまず椅子に腰を落ち着けると、なるたけ爽やかな笑みを拵えようと口角を持ち上げ、
「ん? どうしたんだ? また何か思い出したことでもあったのか?」
最高の笑顔(だと思う)を保ったまま手近にあった手巾を引っ掴み、机の下で指の聖水を高速で拭き取る。
未だ心の片隅より這い出てくる下衆な欲望は殴って黙らせておくとして、俺はフランカの次の言葉を静かに待つ。
「いえ、その……」
なぜか渋るように言葉尻を濁すフランカだったが、どうやら意を決したようで……キッとした眼差しで正面の俺を見据えてきた。
どこか真面目な雰囲気を纏ったその容貌に、俺も若干ながら眉をひそめる。
今し方認識を強められた、このダイニング全体を包み込む静寂は、紛れも無く彼女のために用意されていた。空間のありとあらゆる物が、まるで息を潜めて俺たちを見守っているようだった。
「…………」
――フランカは言った。
「……一ヶ月。ここにいて、どうでしたか――?」
「え……」
何を聞かれたのか咄嗟に判断できなかった。一瞬、言葉に詰まった。
「え、えーっと、“ここ”って…………『LIBERA』、のことだよな……?」
「はい……。どう感じましたか?」
口にした後で、“何を当たり前のことを言っているんだ”と自嘲する俺。しかし奇妙な質問だった。
それに、なぜ今そんなことを尋ねてくるのかも不可解である。
「お、おい……急にどうしたんだよフラン――」
……が、
「――――」
一点を見据えたまま動じないフランカの眼差しは、よもやこちらに何かを訴えかけるぐらい至って真剣だった。
普段何かと天然な挙動が目立つフランカだが、“根は純粋で素直で冗談や嘘をつくのが下手くそ”という性分を俺は知っている。知り過ぎている。
なぜならこの一ヵ月間、幾度となく、彼女と共に過ごす中でまざまざと見せつけられたから。
不器用なりに一生懸命働くところを。
毎日誰にでも同じ笑顔で元気に挨拶するところを。
直ぐに落ち込むところを。
でもまた直ぐに調子が戻るところを。
泣いている幼子の頭を優しく撫でるところを。
俺が揶揄うと顔を真っ赤にして怒ったり恥ずかしがったりするところを。
そういった、何事においても真摯に、そして健気な直向きさで取り組む彼女の小さな背中を――。
「…………」
俺は指で頬を掻くと、フランカに言われた通り、異世界に来てからの一ヶ月間の生活を頭の中で想起してみる。
何も畏まった返事をする必要などない。俺も素直に、正直になればいいんだ。
だから、俺は感じたことをそのまま伝えることにした。
「――楽しかったぜ? 毎日新しい発見や出逢いに溢れたりしててさ」
「…………っ」
まだ魚の小骨が喉に引っ掛かっているような釈然としていない様子だ。どうやらフランカの望んでいる答えではなかったらしい。
では、本当にどういう意味の質問なんだ……? いよいよ分からなくなってきた。
「…………」
ここでこそ、紳士になるべきだよな、と――。
グラスを掴み、俺はそこに入っていた残り僅かな水を一気に呷った。
……グラスを置く。
「……なぁ、フランカ。……。言いたいことがあるなら、今ここではっきり言っていいんだぜ?」
「……ッ!」
俺に言いたいことがあるが中々言い出せないこと――それが小骨の正体なのではないかと俺は推察した。
……いや、実はこれは俺が一番気にしていた質問だったのだ。
先程もこの質問に通ずる似通ったやり取りがあったが、俺はその極限まで膨張する恐怖と期待が綯い交ぜになった質問から目を逸らし、みっともなく逃げたのだ。
結局、逃げた先には解消しきれていない問題と後悔が再来する――“堂々巡り”という事実を痛感させられただけだった。もしかしたら、この世界もそういう風にできているのかもしれない。
だから俺は、今ここできちんとそのことに正面から向き合うことに決めた。
怖い。
けれど――逃げちゃ、ダメなんだ。
たとえフランカに何を言われたとしても――。
全てを受け止めるぐらいの覚悟で――。
「――――あの……」
彼女も色々と思考を巡らせていたのだろう、俯き加減のフランカがやっと口を開いた。随分と長い空白時間だった。
無意識に身が硬直する。
ゴクリ、と生唾が喉を通過した感触があった。
フランカはまだ躊躇っているようだったが口元を引き結び、もう一度俺を正面から見据え直すと、弱々しく揺れ動く瞳に決意の火を灯した。
そして――
「……私、その…………ユウさんに迷惑かけて、ないですか……」
「は……迷惑……?」
見当違いの発言が彼女の口から飛び出たことで、素っ頓狂な声が口から漏れる。
いや、それよりも……なんなんだ、それ。
「ははっ、迷惑って……。どうして、そう思うんだ?」
「そ、それは……」
胸の前で祈るように組んでいたフランカの両手に力が入った。
それでも目を背けてはいけまいと、彼女は危うく泳ぎそうになる視線を辛うじて留める。
「だって……私、ドジですし……この一ヶ月の間だけでも、ユウさんに何度も助けてもらったりして…………。……絶対、ユウさんの足を引っ張ってます」
「い、いやいや、そんなの些細なことじゃねぇか。何か致命的なミスを犯したわけでもあるまいし、全部笑って済ませられるようなドジだ。ま、まぁ、天然ドジもたまに度が過ぎると控えてほしいとは思うが……。けどとにかく、お前がそうやって気に病むほど俺は迷惑を被っていないってことは、今俺自身の心に聞いてみて改めて断言できる。だからそう自分を責めるなよ。な?」
大袈裟に両手を広げ、俺は半ば慰めるようにぎこちない笑みを浮かべる。雑然と散らかった心が丸見えの、下手くそな笑みを。
全部本音だ。これ以上素直になれと言われる方が到底バカげているぐらいの、今の俺の正直な気持ちに他ならなかった。
が、フランカは――。
半開きになった扉の隙間に指を捻じ込み、待ち望んだ扉の向こう側の光を全力で掴もうとするかの如く堰を切った。
「じゃあ、どうして――」
「……?」
「――ユウさんは、ここで私と一緒に働いてくれるんですか……?」
「――――」
本当に、何を言っているんだと思った。
「は――――」
完全に意味が分からなくなってしまった。フランカの気持ちも。
俺が『LIBERA』で働く理由、だと……?
「どうしてって――――」
どうしてって……そんなの決まって――
「――――」
――決まって………………。
「…………………………」
………………。
「…………」
……。――――あれ? なんで俺、“ここ”で働いてるんだ……?
『よし……決めたぞ。俺は今日からここで“雑貨店店員”として働きつつ、“普通”な俺とおさらばできる術を身に付けようではないか……ッ!! 俺が独り立ちできるまで!』
……一ヶ月前、俺は確かにそう言った。
だから俺は、最初の一週で基本的な読み書きや初級魔術を習得できるようあれこれ奮闘し、それから“店員見習い”としてつい三日前までこの世界の知識や見識を深めた。
今だってそうだ。俺の知らないこと、未知なるモノがまだまだたくさんあるから、その都度『LIBERA』の書庫や地下倉庫で本を探しては勉強している。
これらは全て俺が独り立ちするための下準備であり、いつまでもフランカに養ってもらっていては最低限所持している男のプライドが廃ると、自分で決めて自分で勝手に始めたことだ。
……しかし、現状はどうだ。
ハラハラドキドキのまだ見ぬ冒険の旅路。――けれど俺が惹き付けられたのは、自室にあるヌクヌクフワフワの暖かな寝床だった。
ワクワクルンルンの冒険の匂い。――けれど俺が惹き付けられたのは、フランカの作るホクホクアツアツの手料理の匂いだった。
なぜ俺は、“こんな所”で働いているのか――。
再度、その言葉を自分の胸に問いかける。
そうすると、自分でも理解し得ない矛盾が灰汁のように次々と浮かび上がってきた。
「………………………………」
……意味が分からなかった。
「はぁ…………。……俺さ」
自分が今何をしているのかさえ分からない。
次に気が付くと、俺はまた天井のシャンデリア(らしきもの)をボーっと眺めていて、フランカに何かを話しかけていたようだった。
何を話そうとしていたのかも分からなかったが、ただなんとなく……俺は自分のことを話そうと思った。
「“普通”なんだよ、何もかも……。取り柄なんて何一つ無くてさ。特別頭が良いわけでもない、特別足が速いわけでもない、特別絵が上手かったり楽器が弾けたりするわけでもないし、その上特別イケメンでもない……。かと言って逆に、何かが全くできないってわけでもないんだ。それ相応に平均値をなぞれるだけ。そう――至って“普通”なんだよ、俺って人間は」
「…………」
フランカがこの話を聞いているのかどうか定かではないが、それでも俺の口は、その時だけ別の生き物にでもなったかのように自然と動いていた。
「俺は、そんな俺が嫌いだった。『別にいいんじゃない?』って周りは口を揃えて言った。家族も友達も……。寧ろ不思議がるぐらいだった。『何がそんなに嫌なの?』って。……確かにそうだ。親のおかげもあるけど、生まれてから何一つの不自由なくここまで育ってきた。それで十分なはずなんだ、本来は。日常生活を過ごす上で何の支障も危害もない。ごく“普通”の平和な生活……。それを羨む人たちが、実は世の中には少なからずいるってことも俺は知っていた。…………だけど、それらを全て踏まえた上で、俺は俺が嫌いだった」
「…………」
「特別な“何か”が欲しかったんだ。他の人には無くて、俺にだけ有る特別な“何か”……。俺にしかできない特別な“何か”……。そういうモノを持っている人たちに、昔から強い憧れを抱いてたんだ。学校の同級生でもそう、テレビの中のスポーツ選手やミュージシャンでもそう、面白いアニメを作り出した原作者でもそう……。みんながみんな、俺の憧れの対象だった。羨ましかった。スゲェなって……純粋に心の底から感心できたんだ。――ただ同時に、その人たちと自分とを見比べて俺は凄く情けなくなった。自分という存在が酷く矮小で、惨めなものに思えた。だから――だから俺は、そんな情けない自分を変えたくて――――」
「…………好きですよ」
瞬間、ハッと我に返った。
何を長々と一方的に自分語りしているのだろうか、俺は……。
これでは真面目に質問を寄越したフランカを困らせているだけではないか。
俺は頭を持ち上げ、決まり悪そうに後ろ頭を掻く。
「あー……っと……済まなかったな、脱線してどうでもいい無駄話しちまって。……で、質問の答えだよな。えーっと…………」
「――――私は、ユウさんのそういうところ……嫌いじゃないですよ……」
「…………………………は?」
その時のフランカの声と言葉だけは、どうしてか俺の耳がやけに鮮明に捉えていた。そして、先程よりも間抜けで素っ頓狂な声が俺の口から零れた。
顔を上げ――フランカを見る。
例の如く頬が徐々に紅潮して熟れたリンゴのようになっており、しかし固く引き結んだままだった口元はほんの僅かに緩んでいた。
先程まで遥か万里の彼方まで離れ離れになったように感じていた彼女は、相も変わらずそこにいた。手を少し伸ばせば届く場所にいた。
また、細かに揺れ動く翡翠色の瞳は俺の瞳の深淵――あるいは心までもを覗き込めるのではないかというほど透き通っていた。
いつものフランカじゃない……。
愚かな男は、そこでようやく異変に気付くことができた。
俺は眼前にいる彼女の瞳の美しさに言葉を失い、ともすれば俺もその翡翠色の奥底に眠る原風景を垣間見、吸い込まれそうになっていたのかもしれない。
「……。やっぱり、私が悪かったんです……。……あぁ、そもそも私がこんな話をしなければ…………。だって今日は、“はむかつたまごさんど”に一つも手を付けていないぐらいですし……あぁ……でもやっぱり私が……」
「……? フランカ……?」
頭を抱えながら、何やらブツブツと小声で呟いているフランカ。
判然と聞き取れない俺は小首を傾げ、しかし意気消沈気味の彼女に俺の言葉は届いていないようだった。
「その、ユウさんが……ユウさんの元気が無さそうだったので……」
「………………へ?」
意外なセリフの結末に思わず耳を疑い、俺は本日何度目かになる素っ頓狂な声を連発してしまう。
今日は色々とおかしい。
だから、俺は給餌を待つ金魚のように、ただ口を開けてポカンとすることしかできなかった。その呆気に取られている姿は、傍から見ればさぞ滑稽なのかもしれない。
と、漂っていた沈黙にやや遅れて気付いたのか、フランカは慌てふためくように首をブンブンと左右に振った。
「ち、違うんですっ! あの言葉は別にそういう意味じゃなくて……いや、そういう意味じゃないこともないんですけど、でも言葉のままの意味じゃないっていうか、何というか……って、何言ってるんだろ私……」
「……そ、そのままの意味じゃないって?」
ほんの少しの間なのに、随分と声を出していなかったような気がして、変な声が喉の奥から出てしまう。
すると、熱が引いていたフランカの頬がまた徐々に上気し始めた。
いつものようでいて、そうではない。
やはり今のフランカは、そんな感じだった。
と、窓の外で小鳥が二羽ほど呑気にさえずっていた。
いつもだったら聞き流すそれに、なぜか俺は非常に聴き入ってしまう。
「今から少しだけ、私も退屈なお話をしてもいいですか……?」
俺は返事をしなかった。
「……ユウさん、私は、この場所が好きです」
唐突に口火を切られ、最初に言われた言葉がそれだった。
これまた意図が分からずに聞き返そうとしたが、優しく微笑むフランカの表情を見て口を噤んだ。
そこにいたのは、いつものフランカだった。
「私は、十歳の時に家を出て中央大陸に行った……っていうのは朝に言いましたよね。その頃、魔術師学校の学費やら生活費やら下宿先やらで困っていた私に、偶然王都の露店街で出会ったお師匠様――ウェヌスさんに拾っていただいて、三食寝床付きの代わりとして、お師匠様が経営していた『LEBERA』で働くことになったんですけど……」
フランカはそこで一旦言葉を切り、表情に満面の花を咲かせた。
「毎日が、凄く楽しかったんです。お客さんがたくさん訪れて、学校の友だちも雑貨を買いに来たりしてくれて……。私は少しドジなところもあるから、時々店内の商品を傷付けたり割っちゃったりして、その度にお師匠様にこっぴどく叱られてました。『お前の下着を地下街の変態オヤジどもに売り飛ばすぞ!』なんて、言われたりもして……」
当時のことを思い出したのか、フランカは口元を押さえながらクスクスと笑っている。
おいおい、ウェヌスさんってどんな鬼畜野郎だよ、と俺は『ウェヌス』という人物の外形を頭の中で想像してみる。
……良い友達になりそうだった。
「――でも、こっちに移ってきて、お師匠様が急にいなくなってしまって……。しばらく塞ぎがちになってしまったんです。心にぽっかり穴が開いてしまったみたいに、空っぽになってしまいました。仕事も手に付かないし、お客さんも全く来ないしで、何もする気が起きなくて……。そうですね、お師匠様がいなくなってからのここ数年間は、あまり笑うことがなかったですね。笑ったとしても、それはお客さんに対する愛想笑いというか……。『ボッフォイ』さんは“鍛冶師”としてウチで働いてくれてますけど、元々寡黙な方なのであまり話しませんでしたし……」
しかしフランカは一転、表情に若干の影を落とした。
先程の笑顔が太陽だとするならば、これは曇り空と形容できるだろう。
声のトーンも少し下がった気がする。
あのクソジジイか……。
窓の外に映る隣の別棟を睨み上げ、俺は軽く舌打ちした。
「でも……つい一ヶ月ほど前、私はユウさんと出会った」
「…………え?」
そこで不意に自分の名前が出てきたことに、俺は驚いた。なぜそこで自分の名前が出てくるのか、分からなかったからだ。
フランカは息を吸い、続けて言う。
もう一度、満面の笑みを浮かべて。
「――――そして私は、変わったんです」
「……ッ!!」
その一言――。
その一言が、俺に電撃を浴びたような錯覚を生ませ、胸の内を抉るように掴み取った。
胸の奥底に溜まっていた、鉛のような何かを掬い上げるように。
「もう一度、笑うことができたんです。まぁ、突然着替えを覗かれたり、耳とか尻尾を見られたりして、最初の印象は最悪でしたけど……」
耳を隠している白い三角頭巾をスルリと外し、ピョンと現れたキツネ耳を撫でながら、フランカは膨れっ面をして見せる。
それから「でも」と前置きして、
「ユウさんと一緒にいて、夜遅くに魔術の勉強を一緒にしたり、お店のお仕事を一緒にしたりしているうちに、気付けば自然と笑えることができてて……。普段から、その……え、えっちなこととかしてきますけど、それを嫌がったり言い返したりしている自分は、どこか昔の自分に戻れてて……」
「フランカ……」
ポツリと俺が声を漏らすと、フランカは羞恥心を無理矢理隠すように咳払いをして話を続けた。
「不思議なんですよね。ユウさんと一緒にいると、何ていうかこう……“気を遣わなくて済む”っていうか、“本心のままでいられる”っていうか……。なぜだか分からないんですけどね、えへへ」
また、その一言があり――。
俺の胸に大きな衝撃――先程のとは全く違った種類の衝撃――が与えられた。胸、と言うよりも『心』に。
ようやく分かった。
これまでの奇妙な質問の数々やさっき言ったフランカの“告白”は、全てフランカが俺を慰めるためにしてくれていたもので、一人でいる時に頭を擡げていた不安や疑念は杞憂だったのだ。
これでやっと胸の蟠りが、しこりが、鉛のような何かが、跡形も残さずに消失する。代わりに空っぽになってしまった心を、まるで空のグラスに水を注ぐように埋め尽くしたのは温かい色をした感情だった。
俺はその感情を何と呼ぶか知っている。
『幸福』である。
「だから、私は今毎日が楽しいんです! ユウさんと一緒にお仕事ができて楽しいんです! そして、それらがあるこの場所が、この日常が、私は大好きなんですっ!!」
はにかむように微笑みながら、フランカは大声で言って退ける。
その言葉を選ぶのに、もう躊躇の影は見られなかった。本心で話してくれているのだと、俺には痛いほど分かった。
「で、その、何が言いたいのかと言うと……大変なこともあるかもしれませんが、あまり深く思い詰めたり、思い悩んだりして落ち込まないでください。心配、しますから……。私は見ての通りおっちょこちょいで危なっかしくて、頼りにはならないかもですけど、でも……何か相談事があれば、いつでも私なりの精一杯の力でユウさんを助けますので。――“力を貸す”、ということを忘れないでください」
言いたいことを全部吐き出し終えたフランカは少し冷静になってきたのか、先程から自分が言ってきた言葉を思い返して熟れたリンゴのように真っ赤になっている。
「…………」
窓の外の小鳥はいつしか鳴き止んでいた。
“退屈な話”の全てを聞き終えた俺は、優しく、ゆっくりと机の上で迷子になっていたフランカの両手を片手で掴む。
そして、その上から包み込むように自分のもう片方の手を重ねて握ると……ただ一言だけ、でもその一言にはたっぷりの愛情とありったけの感謝を込めてこう言った。
――――ありがとう、と。
「…………はいッ!」
また元気で快活な声が戻ってきたことを嬉しく思いつつ、俺はおもむろに椅子から立ち上がると、フランカの方を向いたまま――
「なーんてな。ふはっ、フハハハハハハハハハハハハッ!!」
両手を腰に添えた仁王立ちで天井を仰ぎ、高らかに哄笑した。
その突然の悪魔めいた笑い声にフランカは目を丸くし、悍ましいものでも見たかのように身を引こうとする。が、その直前、俺はフランカに指を突き付けながらこう告げた。
「何? 俺が落ち込んでいる、だと? ……フン、天然スキルも休み休み発動するんだな! 俺はお前を試すために、ワザと落ち込む“フリ”をさせてもらったまでだ!」
「わ、ワザと!?」
「そうだ、今頃気付いたのか愛しのハニー。これは、“フランカがどれだけ俺のことを愛しているのか”ということを擬似的に測るための試験だったんだよ! よーく考えてみろフランカ。今、この俺には何がある?」
「え? うーん……あっ! この前ユウさんが割った『セピルの壺』の代金! 早めに返してくださいねー」
「違うッ! 『指火』だよ! 『指・火』ッ! (壺の件に関しましては大変ご迷惑をおかけしましたゴニョゴニョ……。)そう、『指火』を会得した俺がダ―クな気分になるなど有り得ない! なぜならあれは、心の内に潜む邪悪な魔物を正義の業火で常に焼き尽くしているからだ! 故に正しく、この俺に不可能の二文字は無いッ!!」
「え? でも、あれってただの初級魔術だったんじゃ……」
「頼むから『うん、そうだね♡』って言ってくれ! 俺のメンタルが死にかけているぅっ!」
「というか、さっきまでのが演技だったら私の言葉は何だったんですかっ! せっかく、ユウさんを励ましてあげようと思ったのに……」
ふと気付くと、いつもの俺とフランカが、いつもの他愛のない会話を繰り広げている。
そのことに、俺は思わず口元を緩めてしまう。
……フランカ。言い忘れてたけど、実は俺もこの場所が――
「ほえ? 何か言いましたか?」
「…………いや。何でもない」
そこまで言える勇気があれば苦労しないよな、と俺は自嘲気味に笑いながら真上に向かって伸びをする。
パキポキと関節の鳴る音に混じり、「ぐぅ~」とすっかり忘れていた腹の虫が再び大きな嬌声を上げ始めた。
そういえば、話に夢中で昼飯食ってなかったな……。
「フランカ、ごめん……。今日は一緒に昼食食べれなかったや。でも今から呑気に食ってると、午後からの営業に間に合わなくなっちまうし……」
「うーん、そうですねぇ……。――あ……ちょっとそこで待っててください!」
フランカは何かに気付いたのかはたまた思い出したのか、少し慌てた様子でダイニングを飛び出しキッチンに向かっていった。
「走ったら転ぶぞー」と注意すると、キッチンの方から「大丈夫でーす」とフランカの声が返ってきた。
まったく、少しは『LIBERA』の“店長”だということを自覚してほしい、と俺は嘆息した。
今回怪我をしたのが俺だから良かったものの、万が一フランカが怪我をしてしまったら一大事だ。店長兼看板娘に倒れられたら、それ即ち俺が午後の営業を一人で切り盛りしなければならない。少なくとも今日一日は。
午後からは客足も増える。二、三人の同時注文は当たり前だし、俺の知る限り、五、六人の時も一度あった。
これまでがそうだったように、『LIBERA』には様々な来客が訪れる。少量の買い物で済ませる客が大半だが、またその逆も然りで、“顔無しペッタンコ姉さん”や“文学少女紛いのマセガキ”のように大量に注文を押し付けてくる輩が数週間に一回の頻度で現れるのだ。
だからもし、俺が一人で営業している最中に運悪くそういう類の客人に出会ってしまったら、対応するには無理が生じるだろう。
そもそも、俺が『LIBERA』の正式な“店員”となったのはつい三日前の話だ。見習い期間中に、“どこに何があるか”ぐらいは把握していても、在庫の細かい整備などは全てフランカが管理していたので、店内に無い商品などは全て、あの各階の廊下にある山の中から探し出さなければならない。
しかも“そういう”輩に限って、“そういう”商品ばかり注文してくるのだ。実に腹立たしい。
要するに、フランカに倒れられると俺は非常に困る。最悪の場合、俺の対応が悪過ぎて『LIBERA』自体の評価も下がるだろう。
それに何より、フランカに怪我をされたら俺が嫌だからな。
おっ、今のはさりげないイケメンワードだったな。海馬の“長期記憶欄”にメモっておくとしよう。
そうして一人で勝手に盛り上がっていたところ、フランカがテコテコとこちらに小走りでやって来た。
手には、俺がフランカの分だと勘違いして持ってきた、例のもう一方のバスケット。
ん? なんでそれを今持ってくるんだ……? ――ハッ、まさかフランカ……“午後の営業は私一人でも最初はなんとかなりますので、ここでゆっくりじっくりスタミナ付けて後から合流してくれれば問題ないです。“はむかつたまごさんど”を残すなんて絶対に許しません! 手間もかかってますし……それに何より、ごはんはちゃんと食べなきゃですので。というわけで、罰として昼食二倍の刑ですっ! しっかり残さず食べてくださいね!”ってことか……ッ!!
ふ、フランカ様ぁ~!
「はい、どうぞ!」
喜びを噛み締め、うんうんと頷きながら、俺はフランカの手からバスケットを受け取る。
フランカの“両手”に持たれていた“二つ”のバスケットを、両手で受け取る。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
はーい、と俺はそのままキッチンに向かい、店とを繋ぐ廊下を渡り、店内に戻ってきた――。
……ん? 何かおかしくないか、これ?
俺が自分の無意識的な行動に戸惑い、なぜ店内に戻ってきたんだと思案していると、フランカが背後の廊下から店内に現れ、俺の背中を軽くポンと叩いた。
「それじゃあ、ユウさん! 私は少しポルク村まで雑貨と食料の買い出しに行ってくるので、留守番を頼んでもいいですか?」
「あ、ああ……。気を付けて行って来いよ」
快活な声で言われ、現況を上手く飲み込めない俺はそう返答するしかなかった。
……ん? 何だ、この違和感は……。
ツバの広い帽子を被り、フランカは鼻歌を歌いながら意気揚々と店を出ていく。
カランカラン、と軽やかなドアベルが鳴り、扉が閉まる直前――
「あ、そうそう。ユウさんには、少しだけ『催眠魔術』をかけさせてもらいました。今日は私を騙した罰として、ボッフォイさんと二人で昼食を食べてくださいねー」
…………は?
「ちなみに、“命令”の却下は不可能ですよ。……その答えは、ユウさんの“背中”にあります。それでは~♪」
バタン、と。
扉は完全に閉まった。
チーンと、誰も触っていないのに、カウンターベル(仏具さん)が独りでに鳴り出した。
――フランカてんめぇぇええええええええええええええええええええ!!
叫ぼうとしたその時、意識とは無関係に身体が強制的に二階へ上がろうと、カウンター横の“切り株”へと歩き始めた。
店内には二つのバスケットを両手に引っ提げた俺しかおらず、他には誰もいない。
もう、誰にも止めることはできない。
「嘘だろぉぉおおおおおお!? 完全にデジャヴだこれ! デジャヴだァああああああああッ!!」
オッパイサイコォォオオオオオオオオオオッ――――!!
発した悲叫も虚しく、俺の身体は機械的な動作で着々と歩みを進めるのだった。隣接する棟の、“機械工場・作業場”へ。
だが不思議と、そんなに悪い気分ではなかった。