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異世界道中のお道具屋さん  作者: 一色創
第一章  普通でない日常の始まり
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第6話 『穏やかな昼時』

 地下迷宮から戻っても何かと大変だった。


 まずゾンビの如く地下迷宮(店の奥にある隠し通路)からい出てきた俺に、「キャァァァァァァ!!」とフランカが顔面蒼白で悲鳴を上げてそのまま気絶。頬をペチペチ叩いて起こそうしたが中々起きず、一人では無理だと判断したので客人の少女にも手伝ってもらう。そうしてやっとこさ起きてきたのが二分後の話だった。

 ウチのダメ子がすみません。


「ユ、ユウさん……ッ! か、川が見えましたよ川が! 亡くなったお爺ちゃんが向こう岸から手を振ってくれてましたよ!!」


 そして散々迷惑をかけた張本人が開口一番に言ったことがそれだ。

 フランカ、非常に可愛くてよろしいけど先に謝ろうね。俺も君の頭で鼻打ったし。本当にウチのダメダメ狐っ子がすみませんっ。

 ガバッと跳ね起きて興奮気味に話すフランカに、俺より少女の方が気圧けおされているのではないかと思ったが存外そうでもなく、寧ろ口元を緩ませているように見えた。


「で、私その向こう岸まで川を渡ろうとしたんですけど、でもお爺ちゃんが『まだ来ちゃダメだ』って追い返すんですよ。まったく、まだも何も孫が久々に会いに行こうとしてるだけのに……。そうそう、私が三歳の時も――」


 まるでせきを切ったようにペラペラと舌が回るフランカ。ぶちまかれるお爺ちゃんの愚痴ぐちトークはそれからもしばし続き、俺と少女は「「はぁ……」」と同時にため息を吐いた。

 そしてお互いに顔を見合わせ、苦笑した。


「それでですね、私は孫の好意を無下にするお爺ちゃんはどうかと思うんですよ! 普通可愛い孫が会いに行くのを拒みますか普通!?」


 いやフランカ、それは逆にお爺さんに感謝するべきだと思うぞ……。




 結論から言うと、俺は三階の自室にあった『魔術基礎 〜これであなたも一流魔術師〜』を少女にあげた。

 地下迷宮で無駄骨だった挙句あげく、わざわざ三階の書庫から一苦労して本を探すのも面倒だったので、一ヶ月前からずっと大事に部屋で保管していたそれを渡せばよくねと思ったわけだ。

 無論フランカには相談して承諾しょうだくを得た。首を縦に振りづらそうだったが。


「……『ピーッコリのロウソク』二本ずつを二つ。で、最後に魔導書を付け足すので、お値段…………せ、セリウ金貨二百六十四枚、銀貨一枚、銅貨九枚――」

「その中にセリウ金貨三百枚がきっかりあると思うので、釣銭つりせんの方は結構なのですよ」

「え……えっ? 今、お釣りは結構って……」


 一瞬言葉の意味を理解できなかったのか、フランカは顔に困惑の色を浮かべる。それは俺も同様、耳を疑った。

 確かに金貨二十六枚の差額は大きい。この世界に一ヶ月ほどしか滞在していない俺でさえこの反応だ。この世界の住人――特にセリウ大陸に住んでいる者なら驚きを隠せなくて当然だろう。


 しかし、


「取っておいてください、と言っているのですよ。――あたし、この店が気に入ったものなので」


 少女は表情の一片も崩さず、静かに首を横に振り短くそう言った。

 ニコッと、今度こそはっきりと微笑みながら。


「「………………」」


 カランカラン、と大きな黒い手提げかばんを肩に、また大きな茶色い紙袋を両手に抱きかかえて店を後にする少女。

 未だ現状を上手く飲み込めていない二人は、客人を店頭まで見送るのも忘れ、少女の小さな背中をいつまでも見つめ続けていた。



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「あ! そろそろお昼になりますね」


 柔らかい音色を店内全域に奏でるオルゴール。

 この音もすっかりと耳に馴染なじんだものだ。


 朝の開店、昼休憩、そして夕方の閉店と、一日に三回鳴る仕組みになっているオルゴール。

 実を言うと、音源がオルゴールかどうかなのか定かではない。なぜなら、その音源自体が店のどこにも無いからだ。

 俺はそのことに結構早い段階で気付いていたのだが、「天井辺りから鳴ってるなー」ぐらいの感想で特には気にならない。

『オルゴール』という名前は、音色がそれっぽいので俺がそう呼んでいるだけである。


「う〜ん、そうだなぁー。昼飯にすっか」


 両手を真上に上げて伸びをすると、関節がパキポキと小気味こきみよい音を立てる。

 こういうところは、元の世界でバイトをしていた頃と何も変わっていない。


「ふふっ、ユウさんったらまた大きな欠伸あくびしちゃって。直ぐに支度したくしますね。今日もユウさんの大好きな『はむかつたまごさんど』にしましたよー」


 は、はは、はむはむはむはむはみはみカツ玉子サンド……だと!?


「おっしゃぁぁぁぁああ!!」

「わわっ!? もう、いきなり大声出さないでくださいよ!」

「だってぇ~、フランカの作るあれウメェんだもぉーん。フランカちゃん、ご褒美にハミハミしてあ・げ・る♡」


 唇をすぼめ、そのままフランカにジャンピングダイブ。今日こそ抱くぜ。


「き、気色悪いですぅー!! 今すぐ私から離れないとお昼ご飯抜きにしますよ!!」


 フシャーッ!! とフランカが全身の毛を逆立てて威嚇いかくし、不愉快極まりない生物――“イトバ”を全力で制する。

 仕方ない、今日はここで観念してやるか……。流石にあの“絶品サンドイッチ”を食えないのは惜しいしな。



 ちなみにその“絶品サンドイッチ”とは、実は俺がフランカに教えたものである。


 元の世界にいた頃、俺には行きつけの喫茶店があった。大学近くの車がよく通る広小路ひろこうじ――オフィス街の道すがらにある喫茶店で、“絶品サンドイッチ”はそこの定番メニューだった。

 大学の最寄駅から電車に乗って隣駅まで行き、そこから徒歩十分と足を運びやすい場所にあったのだが、外装がレトロというか少し小洒落こじゃれていて、しかも背の高いビル群で囲まれている中に居を構えているためか、ある種風変わりな雰囲気をかもし出している。そんな店だった。


 俺がその店に出会ったのは数ヶ月前――。

 友達と参考書を買いに、大学の隣駅にある書店へ行こうとしていた最中だった。

 丁度その時「コーヒーが飲みたいなあ」と話していたので、本当に偶然だったと俺は今でも思う。が、やはり最初は外見の第一印象から「学生身分の自分では敷居しきいが高いのではないか」と遠慮し、結局その日は横目で流すだけに終わった。


 ところが後日、店のことが頭の片隅から離れなかった俺は、もう一度友達と一緒に喫茶店へと赴くことに。身なりをきちんと整え、財布にはそれ相応に見合う大枚(とは言ってもなけなしだが)を忍ばせて。

 後は勇気を少々、スーツの胸ポケットに仕舞い、俺は喫茶店のドアノブ――銀の光沢が鈍いレバー――を引いた。


 カランカラン、と音が鳴り――。


 中にいた人間は一人。

 奥のカウンター席に立って豆をいていた、白髪の似合う、巨躯であるが温厚そうな中老のマスターだ。

 俺たちの身なりにマスターはギョッとし、また俺たちも意外すぎる店の内装なかみにギョッとした。


 それからというもの、俺はその喫茶店が気に入り、毎週のように通い詰めるようになった。

 客足はまばらで、そのせいかマスターと馴染み深くなり、「マスター、いつもの」とキザに言い放つと、マスターは苦笑しながらも、「はいよ」と“特製ブレンドコーヒー”と定番メニューである絶品サンドイッチ――“ハムカツ玉子サンド”を慣れた手付きで用意してくれるまでになった。

 これぞいわゆる、現代社会でも有るようで無い、以心伝心というやつだ。


 ……そう、この“ハムカツ玉子サンド”こそ、俺がその喫茶店を愛顧あいこするようになったキッカケであり、人生において極上の一品だと誇張こちょうするものである。


 具材は名前の通り、弾力のあるハムと、ソースがかかった豚カツと、とろとろのスクランブルエッグ、お好みでレタスを少々。それを薄くスライスしたパンでサンドしたものだ。

 また、パンの裏側に塗られているマスタードがほんの少しだけ全体に酸味を与え、甘い玉子と甘辛い豚カツソースがそれを中和するかの如く調和し、絶妙な美味ハーモニーを奏でている。

 噛めば噛むほど味が出るハムや、サクサクの豚カツ、瑞々《みずみず》しいレタスなどの歯応えも申し分ない。


 俺がそれを初めて食べた瞬間、途端に全身の細胞が沸き立ち、舌が踊り出し、胃袋が歓喜の情を爆発させた。

 美味い、の一言に尽きる。

 さらに「俺は一体、今まで何を食べてきたのか?」と自問させる程に、そのサンドイッチには“偶然に偶然を重ねたことによって生まれる奇跡”が潜んでいるような気がした。そんな気がしてならなかった。


 ついでに言うと、“特製ブレンドコーヒー”も中々マイルドで、苦いのが若干苦手だったりする俺にとっては嬉しい味わいだった。

 甘辛いサンドイッチの食後として口直しにもなるし、正にこの二つの組み合わせは革命的である。他のどんなサンドイッチが隣に並ぼうとも、右に出る者はいないだろう。


 ――異世界に来る一ヶ月前まで、いや、俺は今でもそう信じている。


 で、異世界に来て一週間が経った頃――つまり、俺がポルク村などに『LIBERAリーベラ』の配達で、相棒の台車と共に奔走ほんそうしていた“店員見習い”の頃だ。

 あの頃の俺は、配達終わりに時々ポルク村の市場をブラブラしていて、そこで目新しい食材や物品を見つけてはフランカにもらったお小遣い――魔術習得の祝い金――で買い、そのまま食べるなり『LIBERAリーベラ』に持ち帰って材料提供に貢献したりしていた。


 ……本当はこれを“サボり”と言うのだが、俺は“休憩”という言葉でフランカに取りつくろっていた。

 だって休憩は必要でしょ!? 休憩は!!


 と、それはさて置きある日のこと。

 今日も昼間に配達を終えた俺が、ふとポルク村の農作業の風景を眺めていた時だった。


「あれ? もしかしてだけど……もしかしてだけど、この世界の材料でも、あのサンドイッチ作れるんじゃないの……?」


 思い立ったが早いが、俺はポルク村の市場まですっ飛んで行き、そこで材料探しに入った。

 すると驚くことに、それ相応に対応できる食材が揃ったのだ。


 “ハム”は『グッピー』という哺乳類動物のロース肉で、“豚カツ”も同じく『グッピー』のヒレ肉(これは揚げる前なので生肉のままだが)。そして、“玉子”は『クックドゥール』という鳥類の卵を買い、“レタス”は『ヤッタレス』という食感がやたらレタスに酷似こくじしていた野菜を使用。


 ちなみに聞くところによると、クックドゥールとはポルクの森などにも生息する、比較的大人しい性格をした全長一メートル弱の鳥類の一種らしい。なんでも、家禽かきんとして飼育される鳥類の中では一番有名なのだとか。


 で、極め付けの隠し味――“マスタード”は原材料がいまいちピンとこなかったので、取り敢えず市場の店を順に見て回ると、『カローシ』という名の、“マスタードに味が一番近い”調味料をたまたま見つけたので、それを代用にした。名前が不吉ではあったのだが……。


 元々、ラマヤ領では気候の関係で『ムギーコ』という穀物こくもつが盛んに実り、そしてそのムギーコからできる『パンズー(この世界におけるパンに似た食べ物)』が特産品であることを事前にフランカから聞かされていたのだが、


「へぇー、この世界にもパンはあるんだな」


 こんな感じで、当時はぼんやりとした感想しか持っていなかった。

 残念なことに、それを利用して“サンドイッチを作る”という発想には至らなかったのだ。

 確かに、異郷の地――しかも常識の通用しない非現実的な世界において、元の世界の料理が食べられるとは夢にも思わないだろう。現に俺がそうであるように。


「クッ……それすら気付けない俺の知能指数は、もはやここまでということ、か」


 思いもよらぬ形で食材が揃い(ムギーコは親しいポルク村の住人から頂きました)、“またあの絶品サンドイッチが食べられる”ということに、俺の顔は自然とほころんでいた。

 そんなわけで、あかね色に染まった『LIBERAリーベラ』までの道のりを台車とルンルンスキップしながら帰還して早速――


「ユ・ウ・さ・ん? “店員見習い”のくせに店の手伝いをすっぽかして、一体どこで油売ってたんですかぁ!?」


 ……はい、店の前で仁王立ちしてたフランカさんに捕まりましたとさ。ちゃんちゃん。




 あの後、フランカに必死で事情を説明した俺。

 サボってましたごめんなさい、とはっきり言わせていただきました。はい。

 言い終えた時は顔面蒼白、全身から冷や汗が噴き出し、もうダメだと身構えていた俺にフランカは一言、


「その……“さんどいっち”って、何なんですか?」


 …………………………へ?


 どうやら怒るよりもそっちの方に気が向いたようで、「これはシメた!」と思った俺はサンドイッチの存在について、そしてそれを作ろうと思って食材を買い集めていたら遅くなってしまった、ということを事細かに説明した。

 これが、全ての経緯である。


 それからフランカは、一度俺が試作で作ったサンドイッチを食べた時に心を奪われ、「わ、私にこの料理の作り方を教えていただけますか!?」と張り切ってサンドイッチを作ること数週間。

 毎日フランカが作っていたということもあってか、昼飯にあの“絶品サンドイッチ”が顔を出すのは日課となってしまい、今ではあの喫茶店のサンドイッチそのものを再現した味にまでフランカの腕は磨かれていた。


 故に、それが一日たりとも食えないのは俺にとって精神的に多大なダメージを被ることになるわけで。


 ……チッ、後もう少しだったのに。


 心の声との対談で結論が出たので、俺はフランカに触れる寸前で動きを止め、満面の笑みを作った。真っ白な歯がキラリと陽光に反射する。


「冗談冗談。こんなのいつものことだろ? そろそろジェントル糸場を信用していただきたいものですが……」

「信用なんて毛頭できませんよ! 何言ってるんですか! さっきみたいな言動を日常茶飯事で行う人をどうして信用できると言うんですか!?」


 ……仰る通りでございます。ぐうの音も出ません。


「ま、まあ、今のは無かったことにしてくれよ。な?」


 俺が両手をり合わせて平身低頭へいしんていとうすると、いつも通りの返答としてフランカは両肩をすくめた。


「はぁ……。ユウさんの本能的衝動は、時に獣人である私でさえ震え上がらせるほど“獣”じみてますよね」

「……フランカ、ついに俺を本物の“男”として見てくれたか。そうか、やはりこの世界に来て正解だったか……。フゥハハハハ!! たった今、俺は神と両親に奉謝ほうしゃした!」

「ユウさんが男性なのは当たり前じゃないですかっ! そんなことぐらい最初から分かってましたよ! それと褒めてないですからっ」


 プンスカという擬態語が似合いそうな、頭から蒸気を出して怒るフランカ。そしてそれをもてあそぶ俺。

 他愛のない雑談をする二人はそのまま店の奥――カウンターの背後にある木製扉を開け、二階と同じく壁の両側が雑多な物(商品の予備やら)でひしめく廊下を通り抜けると、キッチンへと歩を進める。


「おぉ……! 今日も今日とて良い匂いしてるぞ!」

「ふふっ、ありがとうございます」


 さほど広くはないが使い勝手の良い空間で、俺もフランカの手伝いやちゃっかり夜食を作るのに度々お邪魔している場所である。サンドイッチを初めて試作した時も、ここで調理したのだ。


 多種多様な包丁、かまど、蒸し鍋と調理環境は中々揃っており、用具などはフランカが『LIBERAリーベラ』に来て料理を覚えようとした際にまとめて買い込んだものらしい。

 時たま長居するお客さんに軽食などを提供することがあるため、流し台の近くで小綺麗に整頓されていた。


 また、衛生上の問題もあるので、ここも店内と同様に隅々まで掃き清められている。やはりフランカの掃除の腕前にはあっぱれと言わざるを得ないのか、毎度来てもちり一つ見当たらない。

 それとピカピカ光る調理台の前には換気用の小窓もあり、そこから射し込む柔らかな陽光が部屋全体を明るく包み込んでいた。


「してして、フランカの愛情たっぷりサンドはどこかな?」


 舌舐めずりしながら、俺はキョロキョロと周囲に首を巡らせる。


「もう、そんな恥ずかしいことを堂々と言わないでください。バスケットはあっちですよ」


 空腹に堪え切れないビースト状態モードの俺に嘆息たんそくしつつ、フランカは調理台の上に置いてある二つのバスケットを指差す。

 ――どちらも大きなバスケットだ。

 上には可愛らしい模様のナプキンがかけられており、そのナプキンの盛り具合からその日のサンドウィッチの量をうかがわせた。と言っても、毎日大量じゃなかった日は一度も無かったのだが。


 ああ、愛しのフランカ。これまでもそうだけど、そんな毎朝早起きをして、わざわざ俺のために“ハムカツ玉子サンド”を一生懸命作ってくれているなんて……。


「どんだけ健気けなげなんだよチクショウ!」


 近くの壁に感情の高まりをぶつける。おっと、うっかり声まで出てしまった。


「ほえ? 何か言いましたか?」

「ウォッホン! それより、そろそろお腹と背中がこんにちはしそうなんで、早めにいただくとするわ」

「……あ、はい! どうぞ召し上がってください!」


 空腹をさすりつつ、俺は流し台で『イオニーのハーブ』を練り込んだ石鹸せっけんで手を洗い、しっかりと手を拭いてからバスケットの一つへと手を伸ばす。

 ナプキンの隙間からは、ハムカツと玉子をサンドしているであろうパンズーの切れ端が顔を覗かせている。先程からやかましい嬌声きょうせいを上げている腹の虫がより一層騒ぎ始めた。


 はぁ……っ! はぁ……っ! フランカの、フランカのパンツ――じゃなくて、フランカのサンドウィッチがそこに……ッ!!


 瞬間、俺はとうとう欲望をさらけ出した獣と化し、そのままバスケットに飛びかかろうとした。


 が、その寸前――


「あ、そうだった!」


 ひょい、と二つのバスケットは刹那せつな的に俺の眼前から消え去ってしまった。


「…………………………へ?」


 唐突なバスケットの消失に理解が追い付かない俺。

 しかし飛びかかった時の勢いはまだ殺されておらず、俺はむなしくも調理台に鼻頭から激突する。


 打ち付けた衝撃はさほど響かないものの、徐々にじんわりとした痛みが顔中に行き渡り、鼻の奥から生温かい液体がしたたり落ちてきた。

 ――鼻血だった。


「痛ったああああ!」


 天井を仰ぎ、俺は両手で鼻を押さえながらその場で軽く悶絶する。洗い立ての清潔なてのひらが赤黒く染まっていくのを肌で感じた。せっかく洗ったのに台無しだ。


「だ、だだ大丈夫ですかユウさん!?」

「ぬぉぉぉぉ……! 鼻がぁ……鼻がァァ……ッ!」


 で、一方のフランカもこれまたパニックにおちいっていた。

 と言うのも、俺が凄まじい音で調理台に顔面をぶつけるわ、上を向いて顔を押さえたと思ったら血がドバドバ溢れてくるわで事態の急変に慌てふためいたのだ。


 ただバスケットを持ち上げただけなのに、と首を傾げながらも、フランカは俺への応急処置を急ぐ。

 ひとまず俺は汚れた手を再度洗い直し、軽傷や発疹ほっしんなどに良く効くと評判の『ニコレットの塗り薬』を鼻と額にそれぞれ塗ってもらう。鼻血の方は一向に治まる気配がなかったので、フランカの携帯している包帯を鼻に詰め込むことに。


 こうして、一時のハプニングは幕を下ろした。


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