第62話 『リカード王国道中記:朝、風、ラップル。そして学び』
なんでここにきて、こんなに長くなってしまうんだ……。
朝は、早くに目が覚めてしまった。
眠れなかったのではない。むしろ気持ち悪いぐらいの快眠は、不自然さを覚えるほどだった。
……そういえば。
ネガティブな感情で胸がいっぱいになって寝付けなかったことは、これまでの人生で度々あった。
”旅”に出発する前の……一昨日の夜もそうだったし、さかのぼれば異世界へ来て間もない頃も、”木”の主張が強い見知らぬ天井や、ギシギシ鳴る硬い寝具に寒さを感じたものだ。
現実世界へ居たときでいえば……そうだな……受験の前日とか分かりやすいものだし、何かやらかして親や先生に明日謝らなきゃいけねーなーってときがそうだったか……。たしか…………。
肌触りの優しい毛布に、密閉された空間に広がる暖炉の温もり――火の粉が弾ける音、時たま耳に触れるロプツェンさんの小さな足音……。
それらの音の一切は、眠りを妨げるものではなかった。例えるなら、夏休みに田舎のじいちゃん・ばあちゃん家に遊びに行った夜――縁側の近くで寝ているとき耳にする虫の唄声や小川のせせらぎ、チリーン……とささやく風鈴と同じで、安眠をうながすものだった。
だから、少し意外だったのだ。よく眠ることができて、また朝早くに目が覚めたのは。
まぁ、昨日の朝がずいぶんと早起きだったせいもあるのかもしれない……。
「…………」
俺は仰向けの体勢のまま、そっと、右手で脚に触れてみる。
恐る恐る……脚にグッ! と力を入れ――……痛くねぇ。
ホッ、と胸を撫で下ろす。それがまた、朝の目覚めの快適さを助長した。
瞼に”重さ”という概念が生じることは、少なくとも今日一日はなさそうだ。
体を起こし、枕元に置いてあったメガネをかける。
靴を履いた。
しーん……………………と、青みがかった仄暗い室内には俺の足音しかなく。
窓から射し込む弱光に照らされている埃が、雪のように舞い……落ちていく。
そこを歩き、食卓を避け、外に出る。
扉を開けた瞬間。涼やかな風が挨拶でもするかのように、俺の前髪をもてあそぶ――。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ふぅー…………」
用を足した俺は、後始末をつけて小屋を出る。
バタン……! という音を背に、”手洗い場”――ヒト一人がすっぽりと収まる大きさの、水の張った木樽の元まで行くと、フチに引っかけてある”柄杓”のようなものでバシャバシャと手に水をかける。左右交互にかける。
「『帰化剤』……どんなもんかと思ったけど、案外普通の見た目というか……普通の”砂”だったな。というか、たしか昨日……”灰色を帯びている白い砂”とかってロプツェンさん言ってたけど……苔むした古池みたいな、もっと濁ったドロドロした青緑じゃねぇか。なんでウソついたんだよ……」
木樽の側面には、何らかの繊維で編まれた、アミアミの小さな袋が吊るされていて……”石鹸”が一つ収納されていた。全体的に緑色の主張が強く、また所々に緑色のツブツブがあるところを見るに……『イオニーのハーブ』が練り込まれたお馴染みの石鹸だろうか。石鹸を両手で挟み、ゴシゴシとこすって泡立ててみると――爽やかな香りが鼻の奥までツンと響いてきて、かすかな清涼さを残した。
もう一度、”柄杓”を使ってバシャバシャと手を洗う。
「ふぃ~~、これでキレイさっぱりぱーりぱり。さて――っと…………」
家屋の方ではない、もう一方の街道の方を向いたそこに、大きく開けた世界が待っていた。
光に濡れ、風に吹かれ……。
まだ不完全ではあるが、夜の淵から徐々に浮き出てくる万物が、各々の形と色を思い出そうとしている。
「…………っ」
”異世界”に来て一ヶ月――いや。さらにひと月ほど経つのか……。
こういった景観にもとっくに目が慣れたように思っていたが、ふとした瞬間に訪れる感慨というか……この世界がヒトの理知を超えたどうしようもなく美しいものだと感じるのは、俺が”異界人”だからか……それとも個人の気質のせいか……。
雲は……朝ごはんの支度をする家庭の煙突から出る煙のように、地面を箒でなぞった跡のように、横長にたなびいている。
その身を風に委ねる様は、昨日と同じだ。
この雲の形状なら……じきに晴れることだろう。まだ少々暗く感じるが。
「フッ……。まぁ、悪くない夜明け……だな」
視線を戻すと――ふと、『荷転車』が目に留まった。
まだ湿り気のある手をブルブルと振りながら、俺はそれの元へ赴いた。
『荷転車』は、ロプツェンさんの家の側壁にほとんど密着する状態で停められていた。
ロプツェンさんと……もう一人、ロプツェンさんを家まで送り届けた御者の人も運ぶのを手伝ってくれたのだ。昨日の俺とナディアさんは極度のポンコツ状態だったからな、面目ねえ……。
『荷転車』に沿うようにして、周囲をぐるっと一周して様子を確認してみる。
そして、後輪付近でキレイに膝をたたんでいる”小階段”を展開し――のぼり、ガバッ! と、幌を両手で払った。
「……………………」
ザッと見た限り……状態は、昨日出立したときのままだ。俺の脳内に描かれている”記憶”という絵に間違いがなければだが。
……おっと。こういうことをするのは、別にロプツェンさんや御者さんに対して何か良からぬ感情があるからではない。昨日は思わぬ災難続きでワチャワチャしていたからな……あくまでも積み荷の無事を確かめているだけだ。
一番手前の木箱が目に入った。『ポルクの森』産・『ポルク村』経由のラップルがぎっしり詰まっている箱だ。
そろりとフタを外す……。赤黒いカタマリたちが行儀よく眠りについている。
「…………」
その内の一個を何気なく右手に取った――――時。
一線…………窓から射し込んだ光に目を覚ますように、それは新鮮で美しい赤色を取り戻した。
背後からだった。
「――……っ」
思わず振り返り――光。目をつむり顔に左手をかざせど間に合わない。濃縮された朝の一滴に、呆気なく目をつぶされる。
とはいえ大層なことではなく、再び目を開けるのに数秒とかからなかった。
「……っ。……」
涙でにじむ視界の中でぐにゃりと歪んでいる空……一条の光線……今日の”晴れ”を予感させる、横長にたなびく雲………….
「……………………」
徐々に視線を下げていく……まだ雲。地平線……緑の原っぱ。流れの速くなった風。
ふわりと舞う、花のひとひら。
「――――」
ナディアさんだ。
巨木のごとき上背のある立ち姿と、それを包む大きなローブが風にはためいているおかげで、遠目からでも見紛うはずはなかった。
リカード街道のド真ん中で両手両腕を横に広げ、まるで道の向こう側からやって来る何かを抱きとめるかのような格好で静止している……。
風は、そんなナディアさんにぶつかって後ろへ流れ去る――のではなく、ナディアさんの周囲で渦を巻いて停留し続け、ちょうど”球”に近い形状になっている。グルグル回るドラム式の洗濯機みたいに。
景観のせいか、心なしか風に色味があるように見えなくもない。
言わずもがな、”魔術”によるものだろう。
加えて、俺の知らないこちらの世界ならではの儀式的な意味合いも含まれているように思えた。
…………俺は、声をかけようにもかけられなかった。
邪魔をしては悪いというより、その神秘的な光景を前にして言葉が見つからなかったのだ。
ただひたすらに”美しい”と――。言葉そのものではなく感覚が、ジワーっと胸の奥に染み込んでいくようで……それ以外を感じることも、考える余白もないようだった。
「――イトバ君?」
呼ばれ――はたと我に返り、上がっていた顔を下げると……どうやら黒く大きな影がこちらを向いているようだった。
もうすっかりと目は光に慣れていたが、数度まばたきを繰り返して状況を再確認する――たしかにそうだった。
ナディアさんは、こちらを見ていた。
風は止んでいた。
「どうしたんだい? そんなトコに突っ立って」
ナディアさんは……体をこちらに向けると腰に手を当て、朗らかな声を投げてくる。
「……それはこっちのセリフですよ。ハァ……。おはようございます」
「おっと、これは失敬。――おはよう、イトバ君。いい朝だね」
「…………。……もう、大丈夫なんですか?」
「ん? 何がだい?」
俺の問いかけに対して、ナディアさんはきょとんと首を傾げる。
呆れてしまうほど柔らかな表情で、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「……いや。いつものナディアさんなら、それでいいです」
「?」
腑に落ちないといった表情をしていたが、素振りから、特に気にしているわけでもなさそうだった。
フゥ……と、少しだけ安堵した。
ナディアさんがこちらへ歩み寄ってくる…………。
「よく眠れたかい?」
「ええ、そうですね、おかげさまで……。ナディアさんは?」
「んー……まぁ、ね」
片手で後頭部をさする彼女の声は、どこか歯切れが悪かった。
「眠れなかったんですか? それとも、どこか体調に優れないところでも……?」
「いや、そういうわけじゃあないんだけど……」
「ん……?」
意図せずして、ピクリと左の瞼が動く。
”なにか隠し事がある”?
……いいや。俺が見てきた限り、あの青サバもビックリ青ざめるサマンサバサバイオレンスタバサの銀髪クールビューティーと違って、ナディアさんはそこまで器用な人物ではない。おそらく性分的にも不誠実な行為はできない感じだろう。
眉間にシワを寄せては……頭を掻き掻き、髪をさわりさわり……様子から察するに、”それをどう言葉にして表現していいか分からない”――そんなところだろうか。
「あー、えーっと……なんと言うかぁ…………ん~……そのぉぉ……………………。……そう。――”慣れてる”んだよね」
「慣れてる?」
「……。……うん……そうそうっ、”慣れてる”……! フゥ……」
ナディアさんは、靴のつま先をコツコツと地面に当てた。
「…………職業柄ってやつかな。ほら、ウチとかルミーネは自由に幅の効く活動ができるわけだからさ、鳥みたいに舞い込んでくる依頼やら任務やらってのも、決められた時刻ってのがなくてね。だからわっちは、眠らないことにはちょっとばかし慣れてるっていうか……――あっ、別に睡眠が十分に取れてないとかそんなんじゃないから、イトバ君は気にしないで。いつも通りだから」
「そ、そうだったんですね……」
「うんうん、そういうことそういうこと」
言いたいことをやっと表現することができて、どうやら満足したようだ。
俺から十歩と五歩ほど離れた先で止まっている彼女の声は、注意せずともずいぶんとはっきり聞こえるぐらいにまで調子が戻っていた。
俺の認識が間違っていなければ……つまりナディアさんとかルミーネとかは、俺の元いた”現実世界”で言うところの”フリーランス”――”昼夜問わずに働く何でも屋”みたいなものなのだろう。
労働における法や道徳、倫理などは地の底に沈めましたと言わんばかりの勤務形態なぞ、普通の人間であれば過労・ご苦労・待てんLOWでグッバイボンバー待ったなし。しかし、これまでの随所で目の当たりにしてきた通り、彼女らはそんなイエロー・デンジャーも軽く弄する別格の存在である。超人も超人のトンデモ異世界人たちだからこそ為せる業なのかもしれない。
そのため――おそらくだが――いつ何時でも方々へ出向き、万全の状態で職務にあたることができるよう、夜間も寝床に入ってグッスリというわけにはいかない、ということか。
なんか…………『魔術師』も、思ってたよりずっと大変なお仕事なんだな……。
「む? お~やおや、何か見えると思えば……背中にそんな美味しそうなものを隠しちゃって」
「!」
さらに近付いてきた声に応じて背後を見やると――『荷転車』の幌が、申し訳ないことにペロンとめくれたままの状態で、完全にスケベェだった。
一番上の一個を鈍く照らすことしかできなかったか細い光は、俺の影による遮りが無ければ、もうすっかりと横太の束になっており……彼らの同輩もてらてらと元気そうに笑っている。あるいは、そのおどろおどろしいまでの赤色たちは渾然と、渦のようになって今にも俺を吞み込まんとしていた。
「おひとつ、ちょーだぁいなっ」
「……ホントはダメなんですけどね」
「そうなのかい?」
「……。まぁ……じゃあ、”毒見”ということで」
売り物の鮮度を適宜たしかめることは商売人の務めですしおすし……など、あれやこれやと思いつつも、俺は一番上のラップルを手に取り――ムシャリっ! 頭からかぶりついた。
「あっ! 抜け駆けか!? ずるいぞイトバ君、自分だけ!」と鼻息を荒くして憤慨するナディアさんを、「すぐにあげますよ」と俺は軽くあしらう。
ラップルを……二番目に上にあった一個を持ち、三歩ほど歩いて――はい、と差し出す。
「足の調子は? もう良いのかい?」
「ええ、こちらもおかげさまで。すっかり痛みが引いてますね、今は」
「そうか! うん…………よかった」
目を若干伏せるナディアさんの返事はどこか覇気に欠けるものだったが……とりあえず、俺はナディアさんにラップルを手渡した。
あー……ん、と大口を開けた彼女は、俺と同様、それを頭からかぶりつく。――ガジュリ! 小気味よい音が響いた。
彼女もその音で分かっただろう……。そして今、舌先をチクリと刺す酸味と、直後に全体にサラサラと広がる甘味をじっくり堪能しており……。
最終的には――「うまいっ!」。ほら、目を輝かせた。
表現は”声”だけに留まらなかった。”踊り”と言うには不格好な、辺りを二、三歩クルリとさまよう足取りが……そこから生じる衣服の小さな揺れやなびきまでもが、幸福と喜びを歌っているように見えた。
こうして見ると……ホント、物を食べているときのナディアさんは、ちょうど昇ってきた朝日にも負けないぐらい輝いてるなぁ……と、改めて思う。
……そういえば、
「ところで、さっき何してたんですか」
「ガジュ……ゴクンっ! ……ん? さっきって?」
ナディアさんはラップルを芯まで食い尽くすと、俺の声に応答した。
芯も食べるのかよ……とドン引きしたが気を取り直し、
「あ、いや……さっきそこで――道の真ん中で儀式みたいなことをしてたので……。何なのかなって、つい……」
すると、ナディアさんは失笑するように声を上げ、
「”儀式”って、大袈裟だなぁ……。なーに――ただ髪の毛を洗っていただけだよ」
「髪を……洗う……?」
「? そうだよ……? ……。もしかして、こういったのって……初めて見る感じかい?」
「あ……えっと、はい……」
途端に耳の辺りが熱くなる。対してナディアさんは、「ふーん、そっかぁ……初めて見たんだ」とつぶやく程度で、特に奇異な目で見たり気に留めたりしている様子はない。
それからナディアさんは、「こっちおいで」と手招きをし……俺はナディアさんの後に続いて、先ほどナディアさんが立っていた道の真ん中まで歩みを進めた。
「ちょっと離れてて」と、ナディアさん。言われた通り、俺は二、三歩ほど後退する。
それを確認すると――腕を横に大きく広げ、目を閉じ……と、ナディアさんは先ほどとほとんど同じ格好で静止している。
と――――――――スゥゥゥゥ……サワサワサワ…………と。
どこからともなく清涼な風が訪れ、ナディアさん目掛けて飛びかかっていった。
しかし、風はナディアさんを乱暴に傷付けるのではなく、むしろ護るように……たちまちにして”球”を形作ると、ブワワっと周囲を取り巻いた。
なんだか……時間が巻き戻されて、”再現”という形で一連の行動を見せられているようだ。
…………。
背中まで伸びているナディアさんの長髪が、ゆるやかな風の流れに乗って、鯉のぼりみたいになっている。当人も、実に気持ち良さそうな表情をしている。
風の余波を食らう俺まで、なんだか心地いい気分になってきた。
「風にはさー……」
「え?」
パチンっ! と泡が弾けるような衝撃に意識を呼び戻され――今一度ナディアさんを見ると……風はすでにどこかへ走り去っていた。
目の前にはナディアさんと…………朝日に照らされ艶めく赤朽葉色の髪があるだけだった。
「目には見えないし、普段はてんで感じられないんだけど……なんて言うの? ……”水の粒”? みたいなものがあるんだよね。それにちょいと力を貸してもらって、こうして髪を洗ってもらうんだよ」
話しながら、ナディアさんは親指と人差し指を伸ばし、片手で豆でも摘まむような動作をしてみせる。
「んまぁ、どうしても旅の最中、目に見える水に恵まれないことが多々あるからね……。そんな時とか……あとはまぁ、風呂入るの面倒だなぁーって時にたまにやる”ズル魔術”みたいな節はあるかな……。とは言え、その場しのぎに変わりないから、ちゃんと入るのに越したことはないんだけどね。へへっ」と、補足して。
”魔術”と自然が密接に結びついていることは、異世界へ来て間もないころの”魔術”に関する勉学、その後の実践的な修行やら、フランカとの日常会話やらで十分に理解していたつもりだったが……なるほどそういう使い方もできるのか……。
ホントまぁ、便利と言うか何でもアリと言うか…………いや、こういう使い方は、使用者それぞれの知恵と工夫によるものなのかもしれない。
”奥深い”、と言った方が適切か。
「でもそれって、誰でも使えるやつじゃない……例えば”中級魔術”とか”上級魔術”とか扱える、ナディアさんぐらいの人じゃないと使えない代物なんじゃないですか?」
「んにゃ、そんな大層なこたあないよ。自分の体型を必要十分に取り込めるだけの風量を呼ぶ”力”と、風を球状に留めておけさえする”技術”があれば……」
「力と、技術……。……ん? でも……」
俺の耳に、ある言葉が引っかかった。
「ナディアさんって、そういう”魔術”の細やかな操作ができないんじゃ……? 昨日――そう、昨日の昼間、俺の足のケガを治療してくれたときに、そんな感じのこと……言ってませんでしたか?」
「あー……うん。確かに言ったね。言った。――――『魔力操作性』は生憎とウチには不向きでね。た、ただ、わっちが言ったのはあくまでも『回復魔術』のような高度な操作性が求められる分野に限っての話で、日常生活で使う程度の”魔術”における操作なら無論ちょちょいのちょいで……」
「……………………」
「ぇ……って、イトバ君? 話を聞いているかい」
見なくても分かった。
ナディアさんが首を横にかしげ、俺の顔をのぞきこもうとしていることが。
うつむいてアゴに手をやっていた俺は、眉間にシワを寄せた状態のまま、おもむろに顔を上げ……
「…………魔力……操作性…………って、なんスか……?」
「え、そこ……?」
こめかみから汗が一滴、たら~りと伝い落ちる。
すると、ナディアさんの表情からみるみるうちに覇気が無くなり……溶けていき……。
瞼は下がり目が半月型に、口角も下がり口がへの字型に。
「……。ていうか、イトバ君…………もしかして、そういうのもまだ知らな……かったりする?」
「…………『そういうの』、と言いますと……?」
「やっぱり。んぁー…………コレ突っ込んで話すと少々メンドクサイんだけど、”魔術”を理解するうえでの基礎事項的な一面もあるからなぁ~……」
「ま、”魔術”の……基礎事項?」
な、なんだそれ……?
”魔術”の基礎については、関連の本――内容がやさしめのヤツ――をあらかた読み尽くして、すでに熟知しているものとばかり……。
まさか……まだ俺の知らない”底”があるのか……?
「ま、いいか。”知らない”ことは罪じゃない。なんなら、ウチが今から教えてあげるよ」
「ぅえっ……今から、ですか?」
「あ~、いいからいいから~。固くならずにさぁ。ホレホレ~」と、背中に回り込んできたナディアさんに軽い調子で背中を押される。
それから俺たち二人は、ロプツェンさんの家のそばにある一本の木を目印に足を進めた。が、「あー……でも、木を標的にするのも可哀想か」と、ナディアさんは俺の肩をつかんでグルッと進路を変更し、また道路の真ん中まで戻ってきた。そこでナディアさんは俺を解放すると、何もないだだっ広い草原に体を向け、そこへ踏み入る一歩手前で停止する――。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「…………。うん、空気が澄んでる……良い調子だ。今なら、よく見せてあげられそうだよ」
そう言うと、ナディアさんは俺に向き直った。
外で”授業”か……もはや懐かしい響きだな。体育とか正にそうだし、避難訓練とか着衣水泳とか、実践形式の科目を受講している気分だ。
コホンと一つ、ナディアさんは咳ばらいを挟み、
「”魔術”のことは……大体は知ってるよね? 根っこにある……基礎中の基礎の概念である『五行魔術』とか、そこから『属性魔術』やら何やらがいーっぱい派生しているとか、自分の『魔力』と自然の『魔力』を半分半分の割合で結合させるとか…………」
俺はコクコクと首を縦に振る。
本と、それからフランカとの熱いレッスン――残念ながらピンク色の比喩ではない――のおかげで、現在それらは頭の隅々にまで浸透しているからな。
さんきゅー、マイハニー。
「りょーかい。なら話は早いや。今からウチがイトバ君に教えるのは、外側の……”環境”に対する接し方とは関係のない、内側の”個人”での話。――”魔術”には、三つの基礎事項があるのだよ」
「”三つ”?」
「そう、三つ。まず一つ目――……まぁ、これは大・大・大前提になるけど……『魔力量』の話。人種とか、性別とか、生まれた土地とか、精霊とか……」
ナディアさんは指を折り曲げたり、腕を伸ばしたり閉じたりして……
「複雑な要因が絡み合って、この世に個人が生まれ落ちて……『魔力量』が確定するって感じ、かな? ざっくり言うと。言わば”生きる活力”みたいなものでさ……ほら血液ってあるでしょ? それとおんなじで、誰しも体の中に”透明な風”が流れてるんだよ――それが『魔力』。ヒトによったり場合によったりしては、『魔力』が見えることもあるんだけど……まぁ、それはいいか。とにかく、この世界で生きるうえでは、ヒトにおいて欠かせないもので……個人の生命も生活も、それに支えられてる――って、ここまで大丈夫?」
「あ、はい。理解できてます」
「よし。それを踏まえて、二つ目――さっきイトバ君が知りたがっていた知識…………”魔術”における技術力・『魔力操作性』についてだね」
うっうん! と、ナディアさんはまた咳ばらいをする。
そして、てのひらを天に向ける形で右手を前に出し、クッと力を込めた――ピチパチっ!
ほんのひと瞬きの間に、静電気のような火花のような……とにかくそれらに類する青白い”何か”が鳴いた直後、ナディアさんの右手にどこからともなくフワッと風が舞い込み丸みを帯びた。”風の球”と言ったところか。
シュルシュルと……シュルシュルと……。
”風の球”は静かに回転しながら、ナディアさんの右手の中で行儀よく収まっている。
『攻撃魔術』か……あるいは『防御魔術』のいずれかで呼び寄せたものであることは理解できるが、一体何をするつもりだ……? 俺は眉をひそめる。
すると、ナディアさんはそんなしかめっ面の俺に向かって、ちょうど音楽の指揮棒でも振るうかのような仕草で”風の球”を水平に放った。
”風の球”……と言うより、その時点ではすでに分裂して”風の束”となっていたものたちは、あっという間に俺の元にたどり着き、体の周りをグルグル取り囲むと、
「あっ、ちょっ、くすぐった――あひゃっ……! あひゃひゃひゃひゃ!! おひょひょひょひょひょひょォォ……!!」
実体のない風に逆らうなど、まさしく雲をつかむ話で……。
風たちは裾や袖、襟元からスルっと侵入しては、縦横無尽に動き回り、俺の全姿をまさぐってくる。無数の透明な手でこしょこしょされているみたいだ。
今回のこの被験者が俺だったから良かったものの、女の子だったら、完全にいやーん・あふーん事件である。
実にけしからんです。
「んむフフフ、イトバ君ってば面白い反応してくれちゃって。ここがいいのかえ? ここがいいのかえ? あそーれそーれ、ふわっふー!」
「――って! いきなり何してくれちゃってんですか!! こちとら笑いすぎて、な、涙が止まらな……ウビャビャビャビャビャビャビャビャァアア……!! もうやめてェーーーーッ!! ごめんなさイィィィィイイイイイイイイイイイイーーーーッ!!」
「おーい、戻っておいでー。今は操作してないだろー」
「ん? ――あ、ホントだ。ゼェ…………ゼェ…………。た、単なるイタズラとして片付けるには軽率な、ただならぬ威力と危険性……。ハッ! もしやコレは……! 他言無用的なマル秘高等テクならぬ”禁断魔術”でございますかァ……!? ぜひともフランカに――ゲホンゲホンッ、我が健全なる未来の発展のため、ご教授願いまする……!!」
「あはは、大袈裟だなぁ。こんなのまだまだ序の口で遊び半分だよ。……でも、これで分かったろ?」
キュッと、ナディアさんが手を見せるようにして拳を作る。と、風はとんとどこかへ消えた。
俺はぺたぺたと胸元を触り、若干はだけた服を両腕で隠しながらナディアさんを見つめる。
ナディアさんは、頭の天辺に生えている山羊のような巻き角を、右手でぽりぽり掻くと、
「まぁ、操作性は……それこそ生まれ持った”才覚”ってやつなのかな。さっき言った体内を巡る『風』……それを環境側の『魔力』と上手に交ぜて、いかに制御できるかってことさ。手綱をにぎる御者のようにね」
「せ、制御できるとどういうことが……?」
「一言で言っちゃえば、『魔力』の放出を細やかに動かせるんだよ。ウチらは、この世界で生きているだけで、『魔力』を放出し続けているからね……ほんの微細なものだけど。で、当然だけど”魔術”を使用すれば、モノにもよるけど大きく消費する。だけど、この『魔力操作性』――『魔力』の微細な流れを汲み取り、適切に使用・応用する”才覚”に優れていれば、日々垂れ流し続ける『魔力』のムダな放出を抑えることができる。なおかつこの”才覚”は、自然の『魔力』との調和に長けていることもあって、同じ”魔術”を使用するにしても、その消費量は格段に抑えられるってわけさ」
説明を聞いていて、俺の中にピンとくるものがあった。
ルミーネと戦闘を繰り広げた――あの時。
運動を習慣化していない人が急に全力疾走したら、すぐに筋肉や臓器が悲鳴を上げて息切れを起こすように……”戦闘”という非日常において、俺のなけなしの『魔力量』を限界ギリギリまで酷使した結果、たちまちにして尋常ならざる疲労感やら倦怠感やらに襲われた。
アレは、そういうことだったのか……。まぁ、それより先にルミーネに軽くボコられていたのもあるだろうが……。
つまり、ゲームに置き換えて考えると…………『魔力操作性』に優れているヒトは、普段からMPの消費量が他の人よりかなり小さく、それに伴うHPの減退もかなり抑えられるってことか。
”省エネさん”というわけだ。
「それって、『魔力量』が生まれつき多いとか少ないとかに関係は……」
「関係ないね。分野ごとの”才能”やら”才覚”やらだし。それに、『魔力量』は多ければ多いほど良いってものでもなくて……むしろ『魔力量』が少なくても操作性に優れていた方が効率が良いんだよね、何をするにしても。それこそ……ルミーネとか正にお手本だし。”『魔力』を効率的に扱う”という点に関しては」
その名前が呼ばれたことで、ふと彼女の顔が脳裏に浮かぶ。
「ここら辺の基準はヒトそれぞれの価値観にもよるから、話すと長くなるんだよなぁ……」と、ナディアさんは独りでぶつぶつと声を投げている。
ゴクリ……と。
俺は、かすかに震える喉から声をしぼり出す……。
「アイツって……やっぱ、そんなにスゴイんですか……?」
「……。…………うん、スゴイ」
一拍の間を置いたのち。
ナディアさんは目を伏せ、鼻の下を指でこすった。
「操作性の”才覚”もさることながら、アイツの場合は……ハッ。最悪なことに『魔力量』がケタ違いだからね。ウチも持ってる方だけど……『霊聴種』ともあって、”才能”はなかなか……。しかもルミーネは、これまた最悪なことに、天賦の才に驕ることも溺れることもなく……日々己の内側に宿る”才能”を磨き、研ぎ澄ましている……。フゥ…………まったく、イヤんなるね。ああいうのを、天才の中の天才って言うんじゃないかなぁ……」
「……っ」
驚愕せざるを得ない。同時に、背筋にうすら寒いものが走る。
ナディアさんほどのスーパー魔術師に”天才”と絶賛されるルミーネとは、一体…………。
一体どこまでの…………………………………………。
「…………。……尊敬、してるんですね……」
「ん? いいや?」
「……え?」
予想とは真反対の返答に、思わず間の抜けた声が出てしまう。
ナディアさんは両腕を組むと、フンっと鼻を鳴らした。
「ああそうさ――認めてる。認めてはいるけど、尊敬なんてしてるもんか。気難しいし、強情っぱりだし、人使いは荒いしよぉ~~…………。だーっ! ムカつくゥ! タハぁー……ふっ、あれだけの祝福に恵まれているアイツだけど、じゃあ『生まれ変わったらルミーネになれるとしたら、なりたいですか?』って聞かれても即刻お断りだね。金貨一千枚積まれても無理だね」
べーっ! と、どこか明後日の方向へ舌を出すナディアさん。
その様子に俺の口端から笑みがこぼれてしまったのは……まぁ、その気持ちは分からなくもないな……と思ったからだ。
俺も、ルミーネに対しては、ナディアさんとおおむね似通った評価である。
心の筋肉がほぐれたというか……肩の力がちょっと抜ける感覚があった。
……けれど。
「じ、じゃあ、ナディアさんが強いって言ったのは……」
「ん? あぁ、それはさ……――」
その時、ナディアさんの声音が重みを増したのか、スッ……と低く落ちたような気がした。
対照的に……ナディアさんはスッと、草原の彼方を示すように右腕を上げた。
右腕をアゴの位置まで上げると伸ばし、伸ばした先の右手を宙で寝かせると、人差し指と中指をそろえて前へ向けた。薬指と小指は手中へ折り曲げられ、親指も……前へと向けられた二本の指に対して垂直に起こすのではなく、軽く折り曲げられている。
この構えは…………アレだ。
俺の元いた”現実世界”で言うところの、バキューン! のやつだ。
「こういうこと」
刹那――――びゅばァァああああああああーーん!! と。
突如発生した”風の球”……ナディアさんの身体一つ分ぐらいの膨大なエネルギーを有したそれが、草原の青草をかき分けながら高速で彼方まですっ飛んでいく――。
そのあまりの風力に、俺は反射的に目をつむり両手を顔の前に出していた。
ブワッ……! と。
ほどなくして、聞こえるか聞こえないかぐらいの距離から、”風の球”が弾け飛んだであろう音がやって来た。
……………………。
恐る恐る目を開けると…………ナディアさんの前方にあった草の一帯は、左右にきれいに腰を反っており、今し方そこを”風の球”が通ったであろうという痕跡がはっきりと視認できた。
「”魔術”の基礎事項の最後、その三つ目――『魔力瞬発性』」
ナディアさんの声は、少々荒れた大気の中でも凛とした響きを持っていた。
それからこちらを向くと、ニッと白い歯を見せる。
「わっちは……コレがちょいとばかし得意でね。どうも他のヒトより、ずいぶんと優れているみたいなんだ」
「……。……説明してくれるんでしょうね」
「アハハっ。悪かったって、いきなり実演しちゃって。でも、操作性の説明の時みたく、こうした方が分かりやすかったろ?」
「ハァ……。まぁ、いいですけど……」
お互いに気を取り直したところで、ナディアさんが再び口を開いた。
「『魔力瞬発性』――はっきりとした目的や意図をもって、一回に出力できる『魔力』の大きさのことだね」
「そんなところにも違いがあるんですか?」
「ああ。別に不思議じゃないだろ? 筋肉も……ヒトによって瞬間的に出せる力量がそれぞれ違うように、”魔術”もそうなのさ。んまぁ、ここら辺は専門家じゃあないから、くわしくは知らないし言えないけど……大抵の場合、そういった力のほとんどは、体が制御しちゃうんだよね。勝手に。器に見合わない水量や風量を一気に流し込めば壊れちゃうのと同じで……『魔力』を一気に使っちゃったらさ、体が危ないらしいんだよ。でも、わっちの場合、その上限がかなり高いというか大きいというか……。体が負荷を制御しないわけじゃなくて、あくまでも瞬間的に出せる『魔力量』が他のヒトよりも多いってこと。これはルミーネにも勝ってることなんだぜ? ムフフン」
そう言うとナディアさんは、腰に手を当て、今度は得意気に鼻を鳴らしてみせる。
いや、待てよ……。
ナディアさんの言う通り、”瞬間的に出せる『魔力量』がヒトよりも多い”ってことは、そのぶん負荷も何倍も大きいわけで……
「でも……それこそナディアさんの身体が危ないんじゃ……」
「そうっ! そこなんだよ~」
ナディアさんは、「よくぞ言ってくれた!」とでも言わんばかりにピンと人差し指を立てると、嘆くように肩を落とす。
「だからホントはさぁ、『魔力操作性』の”才覚”というか”適性”が高ければよかった――ていうか。そんなことにでもなっちまったら、ルミーネなんて尻でグリグリ踏ん付けられるぐらいの、世界最高のトンデモ魔術師になれたわけだけどさ…………さぁ~あ……生憎とこれがへたっぴなんだよねぇ、わっち……。苦手なことを克服する性格でもないし。……。けれどその代わり――」
右腕のローブの袖を左手で引っ張り上げ、”腕まくり”をするナディアさん。
”白”の下地のうえに、ほんのりと柔らかい、タマゴのような”黄色”が混ざった肌……健康的な色をした皮膚と、それに包まれた、女性らしいしなやかで細長い”線”が登場する。
そこにナディアさんがクッ! と軽く力を入れる――と。たちまちにして血管が浮き出てきて、たくましい筋骨が岩肌となって、それらは内側からすさまじい生命の鼓動を訴え始める。
成人男性のプロボクサーと並べても見劣りしない迫力が、俺の目に映った……。
ナディアさんは、右腕を愛でるように、左手で優しく撫でながら……
「わっちの身体は、丈夫なんだよねぇ~。そんじょそこらの肉体とはワケが違う……。だから、常人が壊れちまう負荷でも耐えられるっていう感じさ」
直接的な実体を見せつけられ、ナディアさんの説明になるほどーと納得する……そのかたわら。
俺はフランカのことを思い出していた。
いくら彼女を心から愛しているとはいえ、こんな時にまでみだりに意識に浮上させたわけではなく……目の前の彼女と似たようなことを言っていたようなと、記憶をさかのぼっていたのだ。
そう……つい先日、フランカとの関係がギスギスしていたあの時……――
『はい、大丈夫ですよ。なんたって私、「獣人種」ですし、人よりも丈夫にできてますから』
…………そうして思い返してみれば、フランカにも”力が強い”と驚かされた場面が多々あった。
顕著なのは、定期的に『LIBERA』を訪れる、朝のモミールク配達だ。
俺が足腰をフル稼働させてヘロヘロになって運んでいた金色の樽を、フランカは事も無げに毎度ひょひょいと運んでいる……。しかも二個。だから不思議で仕方がなかった。あんな華奢な二の腕のどこにそんなゴリラ並みの筋力が秘められているのかと……。
というか、フランカは俺が異世界へ来る前は、日常生活はもちろん、雑貨店の経営に関するすべての業務を一人でこなしていたわけだろうし……。
俺も……人種のこととか、この世界の住人の身体の仕組みとかをくわしく追究していないから分からないが……。
もしかすると『獣人種』には、何かそういう特性があったりするのか……?
「……。なんか……悪かったね」
「はい?」
声に――意識を戻すと。
ナディアさんがなぜか、申し訳なさそうにこめかみの辺りを指で掻いていた。
「いや、さ…………これだけ”魔術”の基礎事項だの何だのとエラそうに講釈を垂れたり、”護衛”だ何だって肩書きを引っ提げて付いて来たりしてるけど……。……。……実際、ホントのところは、君のケガ一つ治せちゃいないんだ…………。頼りに、されたいんだけどね……あはは……」
指は……頬のところまで下がってきて、そこでまたかゆみを無くそうと懸命に掻いていた。
それを聞いた俺は、こちらこそ申し訳ないが率直に思った。
――この人は何を言っているんだ? と。
「いや……むしろ頼りがいというか、信頼性が上昇の一途をたどるばかりなんですけど……」
「ほ、ホントかい……? なら、良かったよ……」
…………マジにホッと胸を撫で下ろしている。
ナディアさんの性格からしても、演技ではなさそうだ。
この一連の様子を見て、ナディアさんという人がますます分からなくなりそうだった。
”あの日”のルミーネとの戦闘で見せた力量、そして今……あれだけ優れた”魔術”の才覚を目の前で証明してくれたのだから、少なくとも外部からの物理的な身の危険に対する不安が減る……というのが自然な考え方だ。
たしかにナディアさんは、『回復魔術』もとい”傷の治療”に関してはへたっぴかもしれない。けれどそれ以前に、自分の身を危険から守る術がほとんど無く、なおかつただでさえひ弱な『人間種』の俺にとって、これ以上の救いがどこにあるだろうか。
ナディアさんほどの人が、まさかそのことに気付いていないわけはないだろう……。
だとすれば、あまりにも謙虚すぎやしないか……?
「……しィー…………もしー、ふたりとも~~」
と。
遠方から届いた声に――振り向くと。
ロプツェンさんが、扉を開けた家の出入口から、こちらに向かって手を振っていた。
「朝食の準備ができたわよ~。戻っていらっしゃぁ~~い」
……ということらしい。
俺とナディアさんは「「はーい!」」。ほぼ同時に返事をすると、お互いに顔を見合わせる。
コクリとナディアさんはうなずき、その意味を汲んだ俺も、コクリとうなずいた。
「授業、ありがとうございました……!」
「ああ。いいってことよ」
俺たちは、ロプツェンさんの家に向かって歩き始める……。
途中、先を行くナディアさんが顔だけをこちらへ向け、
「おまけの助言――イトバ君も、自分の”特性”を知っておきなよ。”自分だけの魔術”を知るということは、単なる生活においてだけでも、その質や利便性を向上させることにつながるわけだし……。知っておいて、これから損はないと思うぜ」
「俺の、”特性”……。…………」
意図したわけではなかったが……両手に視線が落ちた。
その指の隙間から今もなおポロポロと多くのモノを取りこぼしていそうな、相変わらず貧弱で頼りない手だが……ひょっとすると、ここにまだ俺の知られざる”可能性”が……………………。
”何かをつかめる可能性”が――――。
「それ。いらないんだったら、ウチがもらうけど?」
突拍子もない発言だった。
頭の理解が追い付かず戸惑うも……左手を、改めてナディアさんに指で差されたことで、そこにずっと食べかけのラップルがあったことを認識、今になって存在がよみがえった。
「あー……」
腹の空き具合からして食べられないことはない。
とはいえ、どうせ今から朝食である。万が一にもこれを食べて朝食を残してしまうことになると、さすがにロプツェンさんに悪いため……。
ここは素直に、全身胃袋魔人・ナディアさんにラップルを渡そうと判断した。
案の定、「やったね♪」と、ナディアさんは嬉々としてラップルを受け取る。
……………………が。一向に食べない。
なぜか食べるのを躊躇(?)している。
「どうしたんですか?」
声をかけると、ナディアさんは一度逸らしていた顔を……やおらこちらへ戻す。
――実にモニュモニュした表情だ。しかもなぜか、頬には赤みまで差していた。
そして、ナディアさんのくちびるが震え…………
「……か、間接的な……せせ、接吻に……なっちゃうよね、コレ」
「……。はぁ……?」
「い、いいやいやいやいやぁ……!? 別にぃ……!? わわ、わっちっちィは気にしてないんですけどねぇ……!! でぇーんでん! べぇーべべべべべべつに……アハっ! ハハっ! い、いい、いといといとイトバ君が良いならそれでェもももも……? で、でででも、ふ、フランカに悪いかなーとか、思っちゃったりしちゃったりィ~……? なぁんて」
「ッ! な、なんでそこでフランカが出てくるんですか……」
「え、えぇ……!? も、もう……イトバ君ってばイジワルだなァ~……。だだッ、だだだって! すでに二人は……そ、そういう関係じゃ……? そういうこと、もうとっくに済ませちゃったんじゃ…………って」
「ち……ちがうちがう違う違う違いますゥウウーーーー!! 俺とフランカは断じてそんないやーんであふーんな関係ではごじゃりませんッ……!!」
「な……なぁ~~んだ!! 違うのか……! て、てっきり、その先の先の……あんなことやそんなことにまで冒険してたのかと……」
「――してりゃせんッ!!」
まったく、思考が暴走し想像がイキすぎるにしても、どう走ればそんな結論にたどり着くのやら……。不器用な人が作った紙飛行機でも、もっとマシな飛び方をするというものだ。
やはりルミーネ同様、ナディアさんという人もよく分からない…………。
…………というか。
いちいち泣きたくなること言わせんじゃねェええええええーー!! 俺だってフランカとあふーんやあはーんやひひーんがしてェんだよォッ!! チクショォォオオオオオオオオオオオオーーーーッ!!
ナディアさんに余計な妄想を伝染されたせいか、俺まで顔に血がのぼってきた。
俺とナディアさんと、それからナディアさんがたった今かじったラップルと……。
ラップル三つは、少々強めの風の音だけが聞こえる空気の中、仲良く横に揺れながら歩を進める。
ま、まぁ……。ハイアンドロウ――いろんなヤツがいるってことで、今はいいか……。
ナディアさんが、家の扉付近の窓辺に置いていたククリナイフ(に似た形状の、刃渡りの長い短刀)を二本、手に取った。
俺たちは家の中へ入った。