第57話 『リカード王国道中記:風の赴くままに』
物語は、広き舞台へ――!
「…………。フランカが……?」
「そ。直接、面と向かって。自分から来てね。……さっきも言ったけど、あの時にだよ」
「……………………」
ゴウゴウとうねる早朝の大気は、まるで巨大な生物の腹の中のようだった。
辛うじて目を開けても、灰色一色でほとんど何も見えない。
また、そこを流れる冷たい息吹に、肌はパリパリと凍て付いた。欠伸をした際に、何枚かは剥がれ落ちたのではなかろうか。それでも、『荷転車』の取っ手にしがみつき、懸命に前へと漕ぎ続ける。
そうして堪えて堪えて、しばらくして……。
ふと、風が止み。音も止んだ。
そんな凪のような空間の中で、依然として灰色の霧のようなものは居続けたが、前へ進む俺たちに対して場違いであると気付いたのか、そそくさと逃げるように左右へ退いた。
視界はさらにバァーッと開けた。広がる景色の表情は、何事も無かったかのようだった。
俺たちは、地平線の彼方まで見通せるぐらいの、一本の砂利道に出たのだった――。
「…………」
現在。
天気は良好、風は穏やか。
馬車や『荷転車』が二つほど通れる幅の砂利道には、本当に何も無い。見渡す限りでも、人の手が加えられたであろう田畑や、もはや”標識”に近い存在の木々が、所々にポツポツと確認できるだけだ。
俺の暮らしている場所――『マルチーズ地方』が片田舎であることは知っていたが、ひとたび外へ出て息を吸ってみると、何と言うかまぁ、改めて田舎なんだなぁと……。
名も知れぬ鳥の声が時折交じるゆったりとした空気の中を、俺とナディアさんは、『荷転車』にカッタンコットンと揺られながら走っていた。
『荷転車』の動きは随分と滑らかになっていた。部品と部品が、ぎこちないながらもお互いにコミュニケーションを取り始めたというか、走っているうちに上手くかみ合ってきた具合である。
漕ぎ方もそうで、”慣れ”によって、出発したときに比べて大分と軽快に足を動かすことができていた。
だから、落ち着いて会話もできるようになってきたということで、つい先ほどからナディアさんと言葉を投げ合っていたのである。話題に挙がったのは、今朝の朝食時――よりも少し前の出来事だった。
どうも俺の知らないところで、フランカがナディアさんに接触していたらしい……。
『あ、あの……!』
『……。……ん? わっち? なんだい?』
『あっ、えっ……とその……ですね、あの……。……。っ――あの! 先日は、取り乱した挙句に噛み付くような真似をしてしまい、す、すみませんでした……!!』
『…………………………………………。え? 何の話?』
『ほえ……? いや、あの……先日、ケガをされたユウさんが運ばれてきたとき――』
『いやぁ~、はてさて何のことやら。ウチは、なぁ~~んにも知らないなあ』
『……っ! ……。……それでも。事実は……事実ですので。我を失い、大衆の面前で取り乱したことは、恥ずべき醜態でした……』
『……。ふーん…………』
『な、なにか……?』
『ん? あー、いや……珍しいなと思ってさ。最近の子にしては。ふ~ん……なるほどねぇ。イトバ君がこの地に固執する理由も、なんとなく分かる気がするなぁ……』
『っ! …………』
『フッ……前にも散々言ったかもだけど、謝罪しなければならないのはウチらの方さ。文字通り、お邪魔して……今もそうだからね。だからさ、キミたちが遣わなければならない気なんて、本来は砂利の一粒ほどもないってことだよ。もっとぞんざいに扱ってくれたまえよ』
『……。…………。ふ……ナディアさんは……そうですね、おかしな――いえっ、決して悪い意味ではなくてですね……! ……面白くて、頼りになる方だなって』
『んー、そうかい? ……そう見えるかい!? ナハハ、正面から真っ直ぐに褒められると、素直に照れちまうぜ』
『ふふっ。フゥ……――ナディアさん。ユウさんのこと、よろしくお願いします。あの人、普段から前向きで頼りになる人ではあるんですけど……時々、危なっかしいところがありますので……』
『あい、分かった。イトバ君は、また無事にこの場所に戻ってこられるよう、ウチが責任をもってお護りするよ。……。ええと……』
『――フランカです』
『?』
『フランカ……バーニーメープルです』
『……よし。了解したよ、フランカ。――豊穣の女神の名と、そして……わっちの命に誓って、任を果たそう』
『……っ。……はい』
「君は…………本当に、慕われているんだねぇ……」
「え……?」
「ん? いやぁ……君もフランカも”良いヤツ”だなってことさ」
「…………」
それに類する言葉は、前にも別の誰かから聞いた覚えがある――。
『……君は、ここの住人たちから愛されているんだね』
言われた当初、言葉の表面だけをなぞって都合よく解釈した俺は、愚かにも喜んだ。
けれど、幸か不幸か……”あの日”の出来事をきっかけに、俺はその言葉に疑問を持つようになった。”そう在ればいい”という、幻想の海に浮かべた自分に外側から反発した。
悩んで、飲み込みかけては戻して、反芻して、また同じように悩んで……………………。
そして俺は、抱えた悩みを――思いの丈を、勇気をもってフランカに告げることにした。フランカは拒絶せず、フランカもフランカで、自分の気持ちをさっぱりと打ち明けてくれた。
俺は、そのとき見せてくれた彼女の態度が……なんだか、俺の中の苔むした扉をこじ開ける正解のような気がしたのだ。だから愚かな俺は、ともすれば一枚の葉っぱよりも軽い音の連なりを、素直に信じることに決めた。
”あなたを信じる”と受け入れてくれた、彼女の姿を――――。
「……っ」
後ろから追い越していったそよ風に髪の毛をもてあそばれ、我に返る。
頬に触れるかすかな温もりに、「フゥ……」と、ため息が出る。
……これから、俺とフランカの関係がどうなるのかは分からない。
良好な関係を少しでも長く維持するため、今の非力な俺にせいぜいできることは、この胸に灯る想いが消えないように、てのひらが憶えている温もりが冷めないように……しっかりと拳を握り締めて、身体に”熱”を送ること――。
ただ、それだけだ。
「えいやっ」
「? ――って、あれっ!?」
と、改めて決意を固めた直後。
再び”霧”でも発生したのか、視界に映るあらゆる物の輪郭がボワワンと不明瞭になった。それと同時に、目頭と両耳の辺りから、ほんの少し重みが消えた。
「うーん…………んん? むむん……? なんだか、変なメガネだね。ウチには合わないのかなぁ……」
……霧が発生したわけでも何でもない。
荷台に乗っているナディアさんが、背後から俺のメガネを奪い取ったのだ。
グラグラっと、車体が揺れる。
「ちょっ、と……もう、返してくださいよ……!」
「あははは、ごめんごめん。つい気になっちゃって。……それよか、ちゃんと前見て運転しなよ?」
「ん? う、うわあぁぁぅああうああああ……!! あぁッ――っとと、お、落ちるッ……! はゥわぁぁああああ……! 脱輪するゥうううううううう~~……!!」
「ヌゥワっハッハッハッハッ! 愉快愉快~」
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり…………。
グワングワンと大いに運転が乱れる中、車輪が道を外れて横転するすんでのところで左右へ力いっぱい舵を切り、なんとか体勢を元に戻すことができた。
ったく、この先こんなので俺の身は保つのか……。
”あの日”の出来事が脳裏をよぎる。
調子に乗りすぎるとロクな目に遭わないというのは、やはりその通りなのかもしれない。
「ところで、さ。イトバ君は、リカード王国へ行くのはこれが初めてなのかい?」
「あ、いえ。実は以前、一度だけ行ったことがありまして……」
そう、俺は一度リカード王国へ行った経験がある。
もうずいぶんと前……それこそ、”現実世界”から”異世界”へ来て間もない頃だったか。
言うまでもないが、その時はフランカと一緒に出かけたのだ。
たしか……なんだっけか、とある魔導書を買い求めに行って、そのついでに、せっかくだからと露店を含む商店をいくつか見て回った覚えがある。フランカは、想定していたよりもちょいと値が張ったと嘆いていたような…………。
まぁ、つまり、リカード王国への旅行経験があるため……不安がまったく無いと言えばウソになるが、この旅の道中に対する俺の心境は、ちょうど目の前の景色を反映したようなものである。いま走っている一本道をそのままたどれば行き着くわけだし……。
そういや、旅行はしたことがあっても、”旅”っていうのは経験が無いかもしれない。
『OIY計画』の時にもそれらしい遠出はしていなかったから、実質これが初めてになるのか。
今さら言っても仕方ないが、もっと冒険らしい冒険をしときゃあよかったなぁ……。
「そっか……。簡素ながら手作りの地図もある、し……。なら、ダイジョブそうだね」
ナディアさんは平然とそう言い放つと、荷台の中から出てきてピョピョイと、幌のかかった荷台の上に飛び乗った。そして、ノビ家の長男のような昼寝スタイルで足を組んで寝っ転がり、いつの間に手にしていたのか、『新耳』――おそらく俺が持ってきたものであろう――をバサッ! と広げた。
ふわぁぁ~あ、と気の抜けきった吐息まで大きく聞こえてくる。
俺は、何度か振り向いて、その一連の様子を見ていた。
すると移ったのか、俺まで顔の筋肉が緩んでいくようで……
「……失礼な物言いかもしれませんけど、えらく呑気ですね」
顔を前に戻す。
自分でも分かるぐらい覇気のない語尾だったが、ナディアさんの耳には届いていたようで、すぐに声が返ってきた。
「なーに、呑気でけっこう。……イトバ君。”旅”ってのは、ゆったりしていくもんだよ。急いても現状が変わるわけではないし、心を無駄にすり減らすだけさ」
「……。『急がば回れ』、と……。そういえば、つい最近似たようなことを誰かが言っていた気が……」
「だから――ふわぁ~あ~あのあっと……だから、時間なんて忘れてさ、楽しくのんびりといこうよ、の~んびり。せっかく天気も良いんだ。ほら、空の青があんなにも濃い。緑も深い。風は、大地の鼓動を”匂い”に変えて、か弱き生命たちの輝きを教えてくれている……。雲だって…………ハハッ、まるで『のんびりいこうぜ』って言ってるみたいじゃないか」
「…………」
”納得”……というより、新鮮な驚きがあった。
花も恥じらい月も隠れてしまうような美貌と、いつも元気ハツラツといった若々しさを併せ持つナディアさんにしては、また随分と年寄りくさいことを言うんだな、と。
とはいえ、ナディアさんは、中央大陸から遠路はるばる、こんな東のすみっこにある辺境地にまで一人旅をしてきた人である。
これまでの話を思い出す限りでも、言葉の節々から人生経験がかなり濃密であることを窺わせる。おまけに、”中央大陸にある世界最大の王国『オーティマル王国』に籍を置く、在野の放浪魔術師”といった大層な肩書きからも、相応の見識を持ち合わせていることは容易に想像がつく。
そんな感覚になるのも、頷けなくはない、か……。
「……。これも……失礼な質問かもしれませんけど……」
「んー? なんだい?」
「……ナディアさんって、おいくつなんですか」
「ふむ……。……。……君は、何歳だと思う?」
「……………………」
「? どうしたんだい?」
「…………。……。分かりません……」
「あははっ、じゃあンなこと気にするだけ無駄だね。君もわっちも、今日が一番若いんだ。瑞々しい”今”という時間にたっぷりゆったり浸かりながら、存分に”生”を味わおうぜ~……ってね」
「…………」
結局、上手く丸め込まれたような気がする――いや。ナディアさんは、そういう人じゃないか……。
これまでのことも……本心で思っているからこその発言なのだろう。
そうなると、ルミーネほどではないが、ナディアさんもやはりよく分からない人物だ。
……というか、当然っちゃ当然か。あまりにも距離感が近くてうっかりしていただけで、出会って何日と数えるほどしか付き合っていないナディアさんも、まだまだ未知に満ちた人なのだ。
これから色々と知っていくことに……なるとは思うが。
――ピューっと、空に吸い込まれそうな美しい笛の音が響いた。
ナディアさんが口笛を吹いたのだ。
反射的に振り向いてしまった――と。
その音に呼び寄せられたかのように、ナディアさんの元に二羽、小鳥がやって来ていた。
ナディアさんは相変わらず、顔の前に『新耳』を広げたまま寝転がっていたが、『新耳』を持つ右手の人差し指をスッと伸ばし――折り曲げた。
小鳥たちは「待ってました」と言わんばかりに、二羽とも指に降り立つも、特にエサをねだるわけでもなければ、イタズラをするわけでもなく……それどころか、温泉にでも浸かっているかのような安穏とした様子で羽を休めていた。
ポカポカと、陽の彩りが強くなって、世界はさらに鮮やかになっていく。
……っと。あぶねっ。うとうとしないように、俺も気を付けねば…………
「にしても……へぇ……リカード王国ってのは――活気に満ちた景気の良い国みたいだね。なんだか楽しい気分になってきたよ……!」
ナディアさんは、相変わらず口笛を吹き続けている。
そういや、アレだ……――『LIBERA』の店内で一日に三回流れるオルゴール調の曲と、どこか雰囲気が近しい。
「は、はぁ……。……。リカード王国……そうなんだ……――ッ!」
「む……?」
ガラガラガラガラ……ガラガラ…………。
車輪の音と、口笛は、そこでピタリと止んだ。
次回の更新に関しては、期間を空けず、なるべく早く更新したいと思います。
お楽しみに!