第56話 『旅立ちの朝』
少し長めの話になります。
そして、長かったです。
今回の「長い」には、個人的にいろいろな意味がありますね……。
「…………」
洗面所にて、歯を磨く。
硬い手触りの、木製の持ち手部分に、馬(に似た動物)の毛から独自に加工してつくった先端部分から構成される、特製歯ブラシ……。
そして、『イオニーのハーブ』……癒し効果があると言われる『ポルクの森』の樹木から採取される粘っこい樹脂……『スウィービー(とある虫の巣から採取される甘い粘液)』……さらに『ティーソル(ピリリとした辛味をもたらす、”世界で最も多く使用される調味料の一つ”)』少々を練り込み、まぜまぜしてつくった、特製歯磨き粉……。
起床時、食事後、就寝前と……毎日これらを使っているおかげで、俺の歯はオパールもびっくりの健康的な乳白色をしている。ちなみに、『LIBERA』にてセリウ銅貨九枚で好評発売中。ぜひ、お近くに寄った際にはお買い求めを。
”歯磨き”を終えると、目の前の壁面に付いている、丸っこい形をした木製の装置を押す。
すると、その壁面より、こちらに向かって首を伸ばしている蛇口のようなモノから――ジョボジョボと、一定量の清潔な水が流れ出てくる。節水のためか、一定量出てしまえば、蛇口は再び沈黙する。
俺は、木製の洋盃を蛇口の下に差し出し、容器に水をためる。……ちょうどいっぱいになったところで、給水は止まった。
がらがらぷーと、口をゆすぐ。
そばの天板に洋盃を置き、もう一度、丸っこい装置を押す。
水が出ている間に、バシャバシャっと顔洗いも済ませた。
「ふい~」
――壁面には、小さな”鏡”も付いている。さっぱりとした表情をした自分が、そこにいた。
「うしっ」と。それからパァンっ!! と。
両手で頬を叩き、今日の分の気合い……よりも、さらに気合いを入れた。
「…………」
便所にて、用を足す。
昨晩の夕食に込められたフランカの想いはきちんと届いているのか、はたまた体は栄養素のみをむしり取る無礼者に過ぎないのか……申し訳ないぐらいドバドバと発射された。
「あ――くっはっ……! む…………うぬゥ~……ンンッ! ……っ。……………………」
”開放”の余韻にしばし浸り……腰を上げる。
備え付けられている、柔らかく肌に優しい材質の”紙(『チリ紙』に似た厚みの薄い紙)”を何枚か取って、フキフキと後始末をする。
フキ残しが無いことを十分に確認した後、それらをパッと便器に落とす。その際に、一瞬間だけ本日の成果とご対面することになるわけだが、純白の……舞い散るバラの花弁と喩えたい物が、”非現実的”だと思いたい物にフタをしてくれる。ありがたや。
「ふい~」
俺は、右側の壁にある、手の形に模られたくぼみに右手をはめ込む。
自分の体内に流れる魔力を感じつつ、右のてのひらに若干のそれを送るイメージで念じると――ジョボボボボボボ!! 勢いよく便器の中に水が流れ始め、中心が泡立つ。
「…………」
グルグルぐるぐる……回る水。
あっという間に、便器はきれいさっぱり真っ白に戻った。
初めから、何事も無かったかのように――。
「ん――」
『ファクトリー』の更衣室にて、身支度をする。
寝間着を脱ぎ、いつもの制服に袖を通そうとした、ちょうどその時だった。――傷跡が目に入った。
己の至らなさを痛感するとともに、”あの日”肉体に痛々しく刻まれた傷の数々は、もうすっかり古傷と化しつつある。しつこく呻くわけでもなく、二重三重と、真新しく被さる皮膚の下で静かに眠っている。
……指で、胸の辺りをなぞってみる。
指が皮膚の上をすべるこそばゆさはあれど、やはり痛みは無い。
「傷は癒えた……か」
目の前の姿見に映る自分は――いつもの自分だ。
けれど、なんだろう……傷のせいか、心なしかたくましく見えるような……。歴戦をくぐり抜けてきた兵士的な? いやまぁ、コレはどこぞの『霊聴種』に一方的にボコられた結果なんですけどね……。
日々磨いている紳士魂のせいか、旅立ちに対する緊張のせいか――。
いずれにせよ、キリリと引き締まった顔は、そんなに悪いものではなかった。
「……うっし!」
パンパァンっ!! と。
両手で頬を二度、強く叩き、今日の分の気合い……よりも、さらに気合い――そのさらに二倍増しの気合いを自身に注入した。
そして、制服を入れていたロッカー(縦長の洋服タンスみたいなモノ)の扉を閉めようとした――が、手が止まる。
例の”ペンダント”がまだ、残されていた。
銀色を纏った、指輪ぐらいの大きさの小さな円環が黒い首紐に繋がれているだけの、どこにでもありそうな……あの簡素なペンダントである。
ルミーネのペンダントである。
「…………」
おもむろに左手を伸ばし、取ってみる。
薄暗い空間であるにもかかわらず、てのひらの真ん中で”円”を模るその銀色は、やけに美しく輝いて見えた。
『フフッ。信頼しているよ、青年』
「――ッ」
突然、意図せずして右手が動き、左のほっぺたに触れた。
しかしすぐに、俺は何をしているんだと首を横に振り、我に返った。少し早足になって姿見の前へ戻り、手中にあるペンダントをつけようと試みる。
程なくして、ペンダントを無事につけることに成功した。顔を左右に傾け、首を伸ばし、襟を正す。
それから、前髪を両手で後ろへ持っていく。その手は最終的に、腰にあてがわれて落ち着いた。
さて、と踵を返し更衣室を出ようとする――が、おっといけないと、一旦ロッカーの方まで後戻りする。
――”メガネ”だ。洋箪笥の上に置きっぱなしだった。腕を伸ばしてひょいっとメガネを手に取り、かける。
大股で歩き……もう一度、出入口の前に立つ。
「…………」
鼻から大きく息を吸い、口から吐き出して――今度こそ扉を開けた。
プシュ――――!!
真っ先に出迎えてくれたのは、今日も今日とて蒸気をめいっぱい吹き鳴らす大型機械だった。
カラカラと激しく回転する赤錆びた歯車も、起き上がり小法師状態のメーターの針も、キュッポキュッポと上下に屈伸する井戸の手押しポンプのようなやつも……いつもと変わらない。
”機械工場・作業場”の面々は、いつも通りに、与えられた仕事を普通にこなしている。
蒸気で顔や髪を勢いよく洗浄され、思わず目をギュッと閉じてしまったが、そんなに悪い気分ではなかった。
再び目を開けたときはむしろ、リングへ向かうボクサーのように、気持ちが昂っていた。
だから、白煙を手で払いのけることはしなかった。
ブルルッと顔を振り、そして、左に続く長い廊下をゆっくりと歩いていく――。
やがて視界は晴れ、早暁の澄んだ空気が俺の頬を撫でた。
『ファクトリー』と『LIBERA』の二階とを繋ぐ、木製の渡り廊下だ。
毎朝、ここで少し立ち止まって空を見上げ、その千差万別な模様から一日の天気を占うのは、もはや意識せずとも体が動いてしまうぐらい染み付いた俺の日課だ。
――雲ひとつとして無い、青の色階段で彩られた空に、ほんのりと冷たい、柔らかなそよ風が吹いている……。
いつもそんな感じではあるが、今日は一段と空は笑っていて、風は優しい気がした。
都合が良すぎるだろうか……今日の空模様は、俺の”旅立ち”を祝福してくれているように思えてならない。
「スゥ…………フゥ……………………。……。うん、旅立ち日和にうってつけだな」
と、つま先を進むべき方へ向け直し、歩みを再開したときだった――。
カランカラーン!! と。
『LIBERA』のドアベルではない、しかし似通った甲高いベル音が階下より鳴り響いた。
「おはようごゼェまーす!! モミールク配送業の『モーカル・ナチマチ』! ただいま、マルチーズ印のモミールクをお届けに参りヤした~! モミールクのお届けで~す!!」
「ん?」と、後戻りして木製の柵をつかみ、階下を見やると――例の”モミールク配達員”がいた。
きょろきょろと辺りを見回す配達員に、俺は声をかけようとする……までもなかった。こちらに向かって、先に片手を挙げてくれた。
一歩出遅れた俺は、返答として、大きく手を振った。
それから、足早に渡り廊下を駆けていく――。
「スゥ……――オッパイサイッ! …………」
俺は”切り株階段”の前で、いつもの合言葉を唱えようとしていた。が、直前で言葉を呑んだ。
どこか相応しくないと感じてしまったのだ。
今日は寝覚めも良かった、お通じも快調だった、そして天の気まぐれさえも俺に”絶好調”の兆しを告げ味方してくれている……。
こんなにもハッピーで特別な朝なのだから、もっとそれに似合うハッピーな言葉にした方がいいのではないかと、俺は思ったわけである。
……だから、
「フランカのオッパイ、スゥゥァイクゥゥォオオオオオオオオウウウウゥゥ――――!!」
まさに天から与えられし至上の言葉である。
これに勝るモノなし。グッ。
「私が…………どうか、したんですかぁ……? むにゃ……」
「ドゥワァォオオオオオオウッ!? ふ、ふふふフランカちゅわんっ!?」
大なわとびを跳ぶように、間違いなく心臓が跳ねた。
バッ! と振り向くと――そこに、スリスリと寝ぼけ眼をこするフランカがいた。寝間着にガウンを軽く羽織った姿を見るに、どうやら起き立てのようだ。ガウンはほとんどずり落ちそうな状態にある。
おぉ、なぜだろう……。スイッチ・オフの姿まで尊すぎるのか、もはや後光まで差しておられる……。
「ふわぁ……あ~ああ……。今日はずいぶん、早いんですねユウさん……。おはようごじゃいます……」
「あ、ああ……。おはよう、フランカ。んまぁ、今日は俺の記念すべき”旅立ち”ということで、気合いがギンギン――じゃなくてっ、ムンムンなわけでございますよ。……ん? それもちょっと違うような……」
ドギマギドギマギとしている俺に対して、フランカはもう一度、「ふわぁ~あ」と口に手を添えてあくびをした。
フランカがこんなゆるゆるな姿を見せるのは、どちらかと言えば珍しい。後光が差している通り、『カワイイ』のが人類の総意であることは論ずるまでもないが、まさか今日に限ってお目にかかれるとは……! 今日はやっぱり最高のハッピー・デイだ! たった今、俺はそう確信した。
「そういえば、さっき何かしゃべって…………私がどうとか……ッパイ……フランカ、の…………。…………………………………………。――――”フランカのオッパイ”!? 朝っぱらからまた何てエッチイこと抜かしてるんですかド変態大魔王さんッ!! フワァチョオオオオオオオオオオオオ――――!!」
「ドゥバッファアアアアアアアア――――!! ソレガセカイヲスクウぅうううううううう――――!!」
バチコーン!! と、右頬にすばらしく痛烈なビンタがお見舞いされた。
無論、避けることなどはしない。体は数メートルほど宙を飛んだ。おまけに顔の肉がブッ飛んでいてもおかしくない痛みだったが、甘んじて受け入れる。
……たとえ地に伏し、ピクピクと痙攣していてもだ。
そ、そうだ……フランカにはしばらく会えなくなるのだから、この右頬の痛みを”愛の証”として、しばらく刻んでおくことにしよう。
なんだ、やっぱり今日はハッピー・デイではないか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「なにか……すこぶる調子が良さそうに見えますな」
「――へ?」
”モミールク配達員”が転がしてきた荷車から、モミールクがたっぷりと入った金色の樽を降ろし、運んでいた時だった。
俺は咄嗟に背後を振り返る。
「いや……。……特にコレといった意味はねぇんですが……以前と比べると、ずいぶん顔が明るくなったというか、まるで憑き物が落ちたみてぇだなって……思いましてね」
「あ……あー……まぁ、そう、ですかね? あはは……。…………。ここンとこ、ちょっとばかし、色々とあったものですから」
「……。なるほど。そうでしたかい……」
配達員はそう言うと、若干うつむき、アゴの辺りを指で掻いた。
「それは……――アレと何か関係あるんで?」
と、今度はその指は、向かって左斜め前へと差し出された。
「ん?」と、俺の目は彼の指先を追う――。
例の、完成された『ジテンシャ』があった。
荷馬車の幌のように被せられていた真っ白な布は取り払われており、その全姿は、風光の美の前にさらされている……。
荷馬車の”馬”の部分を切り取り、そこを『ジテンシャ』に置き換えたような構造である。
――巨大な木製の車輪に、俺の足ひとつ分よりタテ・ヨコ幅のある”簀の子”のような踏板、大小さまざまな歯車がその付近から後輪にかけて部分的に密集し、長い鎖(のようなモノ)がそれぞれと上手くかみ合っている。
この奇っ怪な代物にあえて名付けをするならば……『荷転車』と言ったところか。
こんな大きなモノを誰が外まで持ち出したのか……まぁ、おそらくアイツなのだろうが。どうやって持ち出したのか……また”トンデモ魔術”のお出ましか。
にしても、昨日も言ったかもだが……相変わらずコレにはすさまじい迫力を感じる。”踏板の漕ぎ方”を初めとする運転の方法は、一応アイツから教わり練習もしたが、果たして俺に上手く乗りこなせるだろうか……。ここに来て、心の隅に引っ込んでいた”不安”が顔をのぞかせてきた。
「いや、失敬」
声に……顔を戻すと、配達員がきれいに指をそろえたてのひらをこちらへ向けており――軽く振った。
「曲がりなりにも商売人をしてるクセして、他人様の内情に踏み込んじまった……。失礼をした。許してくれ」
「い、いや、そんな……」
別に、依頼人のことや”依頼内容”そのものについて触れなければ、話してもいい気はするが……。
「ゴホン。いや……。……。実は、依頼があったので配達の仕事をしに行くんです、今日――リカード王国へ」
「……! ……。ほぅ、それで……。…………」
「……あの、何か?」
「……。やっぱりそうだ……。そうだよ。今のアンちゃんの目には、コレといった迷いがねぇ。見えるモノが見えてる感じだ。……あぁ、良い”眼”をしておられる……」
「あ、ありがとうございま、す……? ……。そ、そんなこと言われたの、初めてッス……」
「――と、そんな超絶イケてるアンちゃんに朗報ろーほー! ちょうど今朝刷り終えた、出来立てホヤホヤの『新耳(異世界でいうところの”新聞”)』一部、”二割引き”でいらんかね? 今回は特別に安くしときやすぜ~? さぁさぁ、遠慮せずに! さあ!!」
「ズコォ――ッ! ……って、商売根性たくましいな。まぁ、買いますけれども……」
俺は一度樽を下ろすと、上着のポケットから硬貨を取り出し、配達員と金銭の授受を済ませる。
そして、もう一度樽を持ち上げるとそこへ、彼は最新の『新耳』を一部、バサッと置いてくれた。
……立ち話をしていたせいか、手がしびれてきた。早めに運ぶとしよう。
『新耳』は……そうだな、旅の最中、ヒマな時間を見つけて目を通しておくか……。
「ゼナァ~~」
と、ボーっと考え事をしている時だった。
――”声”が聞こえた。
「む……?」
しかし、ただの声ではない。
妙に甲高いというか、気が緩むというか、思わず愛でたくなる周波数をしているというか…………少なくとも、人の放つものではなかった。
反射的な左右の確認が終わったのち、俺の目線はすぐに足元に向かった。
「声の主はそこにいる」と、”意識”の方はすでに頭の内側から囁いていたからだ。
正解だった。
”声”は幻聴などではなく、また声の主は、そよ風と共に一瞬で消えたわけでもなかった。
――小さくて丸っこい体型をしている、耳と尻尾の生えた、全体的に黒っぽい――体毛が漆黒に近いせいか黒いオーラをまとっているみたいに見える――生物が、たしかにその場にいた。ジッと、こちらを見上げていた。
体毛とは対照的に碧く澄んだ瞳は、まるで宝石か、自然遺産の湖のような美しさを彷彿とさせ、うっかりしていると吸い込まれそうな魅力があった。
「おい、どうしたよ。迷子か? ん?」
「ゼイ~……」
優しく声をかけてやるも、そいつは特に理想的な反応を示すことはなく……むしろ弱々しく鳴くと顔を伏せた。
また、くるくるとその場で旋回し、母親でも捜しているかのような、落ち着かない素振りを見せる。
…………あれ? そういえば、コイツ……――
「ゼイゼイゼ――――イ!」
突然だった。
得体の知れない小動物は、そんな甲高い奇声を発すると、勢いよく俺の前を走り抜けた。
「のぉぅわっ……!?」と、事態に不意を突かれた俺は、マヌケな声を上げると仰け反り――体のバランスを崩して――両手が宙に浮き――――。
ゴツンッ!! と、右足の先端にモーレツな衝撃が訪れた。
「ったァああああああああああ――――ッ!!」
刹那的に下半身から駆けのぼってくる破壊的な痛みに、平静を保っていられるわけもなく……俺は、入り乱れて暴走する神経に任せてぴょんぴょこ飛び跳ねること数回、両手で右足を押さえながら蹲ってしまう。
チカチカと明滅を繰り返す感覚の傍らで、「大丈夫かアンちゃん……!?」と、俺の身を案じるような声が薄っすらと聞こえるような気がして、また右肩辺りには幅十センチほどのほのかな温もりがあった。
俺はスゥーッ……と息を吐きながら、それらに対してうなずくことしかできなかった。
”樽運び”が中断されてから、しばらくして……。
右足の痛みがある程度引いたところで、俺は自力で歩いて一旦店まで戻ることにした。
「…………」
「…………」
冷たい水の張った、丸く平たい”たらい”のような器に右足を沈め、しばし患部の痛みを抑える……。
それから、痛みに速攻――ケガにお馴染み『ニコレットの塗り薬』をぬりぬりし、その上から小さく切ったサロンパス的な硬膏剤を貼ってもらう。念のため、『回復魔術』も上乗せしてもらう。
フランカに、だ。
「……………………。もう、ホントに……。また心配かけさせるようなことしてっ……くれちゃって!」
「いやはや、面目ございません……――あいたァッ!!」
ちょうどケガの治療が済んだところだった。
その合図だろうか、フランカが俺の右足をパシィン! とはたく。おそらく俺の不注意に対する”お叱り”であり、俺はそれをしかと受け止めなければならないのだが……痛みが勝って声を吐き出してしまう。
さすがフランカ……情に厚いだけに、こっち方面にも容赦がないぜ……。
「歩けますか?」
「……。あー……うん、大丈夫みたいだ。ありがとうな、手当てしてくれて」
「それは構わないんですけど……。……。重いものを持っているときは特に、周りに気を配ってください。分かっているとは、思いますけど……」
「ご、ごめんなさい……」
「ホントですよ。もう……」
治療中も……そして今も、眉をひそめるフランカは、ぷいっと顔を背けてしまう。
この回復の早さは――”塗り薬”と”硬膏剤”は先ほど付けてもらったばかりだから、やはり『回復魔術』の効能なのだろうか。
店に戻ってくるまでは、ジンジンとした痛みで動くこともままらなかったが、治療後の今は平常通りに歩けるほどにまで復調している。
いつぞやの少女の言葉しかり、今回改めて身に染みて実感することだが、
「”魔術”って便利だよなぁ……」
”魔術”さえあれば、もう他に何もいらないのではないかと思えてくる。
これは、”現実世界”で言うところの、”家電製品”や”電子機器”みたいなもので……。
「…………」
「……ん? フランカ?」
反応が無い――というには不自然な静寂に違和感を覚え、俺はフランカに声をかける。
と、フランカはおもむろにこちらを振り向き……その横顔には、未だ不安の陰が拭われずに残っていた。
ギュッと、首から下げているペンダントを左手で握っている。
フランカが口を開いた。
「ユウさんもご存知でしょうが……」と前置きをしつつ、
「”魔術”というのは……己の体内に宿る魔力を消費して、それを自然・外気に含まれる魔力と結びつけて使用するもの――――これが“魔術発動”の基本原則なんです。『五行魔術』のいずれにおいても、例外はありません。『回復魔術』は、”被術者”が元々有している身体の回復機能を一時的に底上げするものであって、何か得体の知れない御業が傷を癒やすわけではないんです……。つまり、”魔術”は、あくまで一時的なものに過ぎないんです。だから、いま治っているからと言って油断せず、今後もケガの具合を気にかけてあげてください。…………」
フランカは、こちらを見ていた。
その瞳は、かすかに揺れている。普段は気にも留めない小さな羽虫も鉈で切り刻んでしまいそうな不安気な様子は、見方によれば、もはや”異様”の域に達していた。
「…………」
やはり”あの日”の出来事が……尾を引いているのか……。
ならばコレに関して、俺には何かを意見する資格がない。「は、はい……」と、素直に頭を下げ、うなずくことしか許されない。
俺は、台所や食卓などがある店の奥側から”一階の雑貨売り場”へと通じる廊下を渡り、さらに玄関の方へと歩みを進める。モミールクの”樽運び”作業がまだ残っている……。
フランカも後に続いた。
「……。つーことは、”魔術”って思いのほか万能ってわけでもねぇんだな。元々こっちの世界の住人じゃねぇ俺からすれば、まさに何でもアリ何でもござれの”神様の奇跡”みたいな印象が根付いているんだけれども。……。代償も無しに奇跡は起きない……ってことか」
「ですね。実体なんて、どれもフタを開けてみればそんなものです。……。何でも自然に任せるのが、一番かと」
「ふーん。ま、そんなもんかぁ……」
カランカラン! と、緑色の店の扉を開けた――そこには誰もいなかった。
配達員の彼が転がしてきた荷車だけがあって、それは路上に放置されたままになっている。
「おいおい、不用心だな。便所か……? なら一言くれりゃあ貸したのに……」
怪訝に思う俺は頭を掻きながら、早足で荷車の方へと向かう。
「どうしたんでしょうねぇ……」と言う背後のフランカに、振り返ることなく、「さぁな」と首をかしげて応答する。
……荷車の元にたどり着いた。
左に右にと視線を投げるも、”誰もいない”ことを再確認するだけに終わった。静寂に耳をすましてみても、周囲には人の気配すら感じない。
本当に、どこへ行ってしまったのだろうか……。
「……ていうか、『どこへ行った』で思い出したけど――ナディアさん。今日ちゃんと来てくれるかなぁ……。あれからとんと音沙汰が無いし、それに方向音痴っぽい一面もあるから、店の場所も憶えているかどうか……」
「おやおや、心外だなぁ。ちょ~っと留守にしていたぐらいで、イトバ君の中にいるウチは、そんなにも頼りない存在になってしまったのかい?」
「いや、別にそういうわけじゃないんですけど、アナタってスゴイ割には時々抜けてる部分もあるからちょっと心配だなっていう話でね……って、ホゲェええええええええええええ――――ッ!?」
ポンっと肩に手が置かれた感触に――反射で振り返り、戻り、また振り返ったそこに――紛れも無くナディアさんがいた。よく晴れた早朝にぴったりの爽やかな笑顔を、ニッコリと形作って。
”自己防衛本能”でも働いたのか、俺は思わず後ずさり、距離を取ってしまう。
一方のナディアさんは、「やあとも、やあとも」と、大きな手を二つ広げて、こちらに振っている。
「い、いつの間に……。……。まずは……なんだろ……。そうだなえっと……。……ご、ご無沙汰しています、ナディアさん。……。ご無事なようで……良かったです」
「……――ぷっ、アッハッハッハッハッハッ!! スゥー……はぁーあ、勘弁してくれよイトバ君。どうしちゃったんだい……まったく。それじゃあまるで、ウチが本当に頼りない出来損ないのクセして、無理くり来てやってるみたいじゃないか。……まぁたしかに、キミの言う通りな部分もある。『LIBERA』へ戻る最中、ウチは幾度となく道を誤った…………」
「迷ったんですね……」
「――でも。予定通り、出発には間に合った。これで約束通り……だろ?」
――赤朽葉の長髪に、頭部に生えている山羊のような巻き角が二本、ザクロ色の瞳、俺よりも高い背丈を包む暗緑色のローブ。
久々に見たナディアさんに、俺が身を縮めて戸惑っていると、ナディアさんはその長髪を風になびかせながら、腰に手を当てて豪快に笑ってみせた。
そして、可愛らしいウィンクを添えてくれる。
本当に……最後に『LIBERA』の店頭で別れた”あの日”のままの、本物のナディアさんだ……。
旧友に再会したときのような安心感が少し、胸にのぼった。
「はっはっは。驚いたかよ」
突然ぶつけられた笑い声に背後を見やると――荷車の陰から、配達員の彼がスッと現れた。
俺は一瞬言葉に詰まり、もう一度、ナディアさんの方へ振り戻る。
……クックンと、ナディアさんの眉が面白い動き方をした。
俺は眉間を指で揉むと、「タハァー……」とため息をつき、
「同犯だったってわけか……。フゥ……。どういう風が吹いたんですか?」
「フッ。こうすりゃあ、感動が二倍味わえてお得じゃろ?」
「……。揺さぶられ過ぎて心臓に良くねぇッスよ。しかも朝っぱらに」
「あはは、ウチは亡霊か何かかよイトバ君。いやだなぁ、もう」
トストスと、ナディアさんに肩の辺りを二度小突かれる。
そんな感じで、笑い声がまばらに飛び交うこの場所には、和気あいあいとした空気が、早朝の真っ白で清々しいそれと混ざり合いながらゆったりと流れていた――。
「……っ」
と、忘れ物を思い出したかのように……ふと気になって、フランカの方を見やる。
フランカは――体の前で腕をぶら下げ、両手を組み、少しうつむいていた。が、俺の視線に気付くと顔を上げ、微笑んだ。
俺も微笑み返して、それに応える。
……顔を戻す。
「……そういえばナディアさん。ここら付近に、小っさい動物いませんでしたか。そうですね……これくらいの」
「動物? ……。いーや。ホントにさぁ、今し方来たばっかりなんだけど、なーんにも見てないな。ですよね? 御仁」
ナディアさんが配達員に声を投げると、配達員は二度、小さく首を縦に振った。
「またどうしてそんなことを聞くんだい?」
「いや、実はそのせいで……というか、それに気を取られて”樽”を落として、ケガをしてしまったものなんで……。恥ずかしながら」
俺は負傷した右足を軽く揺らしてみせると、苦笑いを浮かべる。
ナディアさんも視線を下げ、俺の右足の状態を確認すると、腕を組んで大きく首を縦に振り、
「なーるほど。だから、ケガの治療で店に戻って……――」
そこで言葉が途切れた。
ナディアさんが見ている方へ顔を向けると――フランカがいた。
フランカは、先ほどよりも口角を上げてはいるが、静かに微笑む様は相変わらずだった。ペコリと、お辞儀をする。
ナディアさんも、それに応えるように慌てて会釈をする。しかし、同様に言葉は無かった。
こんな風にして、妙にかしこまるナディアさんの姿は、実に珍奇なものだった。新鮮でもあった。
あ……そっか。この二人が対面するのは、実質”あの日”にケンカ別れじみた離別をして以来なのか……。
『リカード王国への配達の同行を許してくれるのか、許してくれないのか……どっち・なん・だい!?』という件で一度ナディアさんは店を訪れたが、俺の返事だけ受け取ると、すぐにピューッとどこかへ行っちゃったわけだし……。
俺は、ちょっとだけ周囲に視線を配り、
「じ、じゃあ……! 俺はぁ、”樽運び”の途中でしたし、ちゃちゃっとコレを片付けちゃおうかなー」
俺の一声に、三つの視線が一斉に集まってくるのを肌で感じる。
「ケガは、大丈夫なのかい……? イトバ君」
「……そ、そうですよユウさん。またうっかりして樽を落としても怖いですし……あとは私がやるんで、ユウさんはそろそろ、旅への身支度を始めてはどうですか?」
偶然にも重なる二人の声色に、俺は若干ながら気圧されつつ、
「い……いや、大丈夫ッスよ! 便利な”魔術”さまのおかげでねん。まだやることも残ってるし。そう、フランカの言う通り、旅へ持って行く荷物の再確認を――」
と、言いかけたその時だった。
グウ~~~~と、とんでもない音が腹から鳴り、周辺に響いた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………ぷっ」
失笑し、最初に静寂を割ったのは、フランカだった。
「もう……フフフ。ユウさんったら……フフっ」
――直後、クウ~~と。
腑抜けたラッパのような甲高い音が、同じく誰の耳にもはっきりと聞こえるぐらい響いた。
音源へと目を移す。
……目をぱちくりとさせ呆けていたフランカの――耳がピョコン! と、分かりやすいほど大きく跳ねた。加えて、顔は徐々に徐々に、『ラップル(リンゴのような果物)』のごとく真っ赤に熟れていった。
「~~~~っ……!」
ささっと両手で腹を押さえるフランカ。顔はどこか斜め上へと逃げていた。その色は、ますます濃いものになる。
全体的に、今にもボムっと爆発しそうな雰囲気だ。
俺は苦笑いをし、頭をさする。
それから、ナディアさんの方へと顔を戻した。
「……。そういやぁ、俺もフランカも、朝食がまだ……なんスよね……」
「…………」
伝播したのか……俺もなんとなく気恥ずかしさを覚えながら、もう片方の手で腹をさすってみせる。
すると、ナディアさんは――「はっはっはっ!」と、糸が切れたみたいに快活に笑った。
「なんとまぁ、息ぴったりだことで……お二人さん。見せつけてくれるじゃあないの。まるで共鳴しているかのような様を……熟年の夫婦みたく」
「そ、「そうですか……!」「そんなんじゃありません……!」」
おぉっと、フランカや……そこは激しく否定するのねん……。
沈んで悶えてトンガって、涙ちょちょ切れボーイになっちまうぜ俺ぁよぉ……。
「はははっ……フゥ……。……自然の為すがまま、”身体”の言う通りにしなよ。ウチは、ここでのんびり待ってるから――」
「さ」、とナディアさんの口から放たれる語尾が、爽やかに空気を撫でるはず……だった。しかし、そうはならなかった。
ギュルルウゥゥゥゥ~~~~!! というえげつない音が、突如その上から覆い被さったからだ。
わざわざ比べるまでもない、以前の二つなどはるかにしのぐほどの、どデカい腹の音だった。
「っ…………………………………………」
それこそ”爆発”に近い音を奏でた張本人――ナディアさんは、時間を引き延ばされたかのような動作でゆっ……くりと視線を下げ、次にこちらを見やる。
俺は……というと、これまたゆっくりと、フランカに視線を向ける。
フランカは……すでにこちらを見ていた。顔の筋肉を限界までたわませて。
「プッ」と。
吹き出したのは――またしてもフランカだった。
それにつられて、俺も笑ってしまう。
ナディアさんは、最初こそぽかーんとしていたが、すぐに俺たちと同じように腹を抱えて笑い始めた。
「――朝食。ご一緒に、いかがですか?」
「……!」
ナディアさんにそんな”誘い”を申し出たのは、なんとフランカだった。
ていねいに、店の存在を示すように、掌を差し出している。
「…………」
ナディアさんは一度、俺の方へ顔を向けた。
「いいのかい?」、とでも言いたげに。
返答を求められた俺は……特に何かを口にはしなかった。
ただ、静かに、フランカにならって、似たような形で掌を差し出す――。
ナディアさんは……フッと軽く笑うと、鼻の下を指でこする。そしてもう一度、フランカの方へと向き直り、右手を胸に置いて、うやうやしくお辞儀をした。
「お言葉に……甘えさせていただきます」
頭を上げ、背筋を伸ばしたナディアさんの表情は、”現在”までのどれよりも、さっぱりと晴れやかなものになっている気がした。
俺は一部始終を見届けた後、ずっと蚊帳の外にいた配達員の方へ体を向ける。
「配達員さんも、どうですか……? 朝食。ご迷惑でなければ……」
「……!」
配達員の彼は、まさか自分に話が振られると思っていなかったのか、自分自身に指を差し、驚いたような素振りを見せる。
「いや、オレは……」
「遠慮はナシ――でいいッスよ」
ニカッと白い歯を見せて言葉を投げると、配達員の人は、首を振って呆れたように息を吐き、
「……。んじゃぁ、いただくとしようか」
提案に折れる形になった。
「よっしゃ!」と、俺は思わずガッツポーズをしてしまう。ズンズンと、店の方へと歩いていく。
後方から、三つの小さな笑い声が聞こえた。
こうして、俺たち四人は『LIBERA』で共に朝食をとることになった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ふぅ~、食った食ったぁ~!」
カランカラン! と、甲高いドアベルが鳴り響き――。
店の外へ一番に躍り出たのは、ナディアさんだ。
ローブの内側でまるっと突き出た腹部を、ポポンのポンと、満足気に叩いている。
「いやぁ……まったくホントに、ウマさ際立つ逸品だったぜぇ、あの……さん、どういっち? とかいう代物は。たまにはこういうちゃ~んとした朝メシも、悪くはねぇんでな」
次に外へおもむろに足を運んだのは、配達員だ。
彼も彼で、食欲が十分に満たされたのか、噛みしめるように放つ声と言葉から”嬉しさ”がにじみ出ていた。
「…………」
「…………」
……そして。
一拍遅れて、二人の後に続き店の玄関をくぐったのは、俺とフランカだった。
少々肩を落とし背中を丸めながら……何とも言えない面持ちで……。
食べ過ぎたのではない。
むしろ食べ過ぎなのは……
「あの人、胃袋に穴が空いてるわけじゃ……ない、ですよね……?」
左下から声が聞こえたため、そちらへ視線を移すと、フランカがこちらを見上げ、不安気な眼差しを送っていた。
――今日の朝食として、フランカは、毎度お馴染み『ハムカツ玉子サンド』を用意してくれた。それも、大皿にあふれ返らんばかりの大・大・大ボリュームで、だ。
他にも、先ほど運び入れたばかりの新鮮な『モミールク』、『マトマ(トマトに似た野菜類)』や『ヤッタレス(レタスに似た野菜類)』をふんだんに使ったサラダ、薄くスライスした『マトマ』と白い『ヂーツマ(チーズに似た食べ物)』の上からオリーブオイルっぽいものをかけたシャレオツな何かなど、朝食にしてはえらく豪華な品々がズラリと並んだ。
これらに対して、子供のように目を輝かせるナディアさんと、「さ、さすがに、こんなには食べきれねぇで、嬢ちゃん……」と苦笑いを交え、冷静かつひかえめな大人の対応をする配達員。
そんな二人に、「どうぞどうぞ! 遠慮せずお召し上がりください!」と、俺たちがにこやかに声をかけたのは言うまでもない。
最初は自然だったのだ。
皆、楽しそうに会話を弾ませながら、食事を堪能していた。……が、空気に異変が生じたのは、目に見える料理の量が残りわずかになったときだった。
しかし、大皿に積み上げられたサンドイッチはまだ大分と有り余っていて、フランカは「さすがに作りすぎちゃいましたね、アハハ」と、はにかんでいた。
それに気を利かせてくれた配達員の彼が、「昼食用にいくらか分けてくれ」と、残りの一部をもらい受けてくれて……ところがそれでも、サンドイッチの”大山”が”小山”になった程度の変化だった。
さてどうしたものかと、俺とフランカは頭をひねり悩んだ――そこへ。
ちょいちょいと、肩を指でつつかれ、「うん?」と振り向くと――ナディアさんが物欲しそうな目でこちらを見ており、
「だ……もう、誰も食わないのか……? な、ならウチが……じゅるずずっ、この場ですべて、もらい受けるが……?」
と、すでに口端から滝のようなヨダレをドバドバ垂れ流しながら、そう言ってきたのだ。
こちらとしては、願ったり叶ったりの申し出だった。「ええ、好きなだけどうぞ」と差し出すと、なんとナディアさんは、あふれ返らんばかりのサンドイッチの山を、ほんの数分で(体感的に)ペロリと平らげてしまったのである。
………………………………絶句である。
表面的な態度が素直であるかどうかはさて置き……人は、卓越した”能力”や”特技”を見せられたとき、「スゴイ」と率直に感じるものである。
ほとんど無意識的に自分と他者を比較し、「自分には到底マネのできないことだ……」と、見せられたそれに対する”力”の差を痛感するからだろう。あるいは、「この人って、こんな一面があったんだ……。それキュンです!」という”意外性”の意味も含まれているかもしれない。
ただ、それにも”限度”というものがある。
あまりにも突き抜け過ぎたそれを見せられると、人は”尊敬”よりもむしろ「え、なにコレ怖っ……。同じ人間だと思えないんですけど……」という相手への変態性、畏怖、場合によっては気持ち悪さにも似た感情が芽生えてしまうものなのだ。要するに、”ドン引き”である。
さらにドン引きなのは、「”おかわり”はあるか――って、これはさすがに図々しいね。ナハハ」なんて言っていたことだ。もはや背筋が凍った。
だからこうして、フランカがガクブルと小鹿のように震えるのも、まぁ不思議ではない。
俺もナディアさんが食事をするところは実際に初めて見たため、同様の感想と衝撃を抱いている。
「胃袋に穴……か。だとすれば、今ごろあの人の体内ではサンドイッチの洪水が起こってるな……」
「私、”量”の感覚、間違ってないですよね……? 祝祭のときぐらいの勢いで作って出しちゃったんですけど……でもあの人ペロリしちゃったんですけど。夢ですか? 幻ですか? 私はちゃんと現実に立っていますか……? それとも全身胃袋なんですか…………?」
「……。信じたくはないが、そうとしか思えない」
しかも、あまつさえ”おかわり”要求しちゃってるからな、あの人。
”魔術師”がメチャクチャごはんを食べるとか、”魔術”を使用すると空腹になりやすい……みたいな情報は知らない。本で読んだことも、話で聞いたこともない。事実、”魔術師”であるフランカの食事量は、俺の目から見てごくごく普通なわけだし。
……”個人差”、というわけか。
いやはや、ならばどれだけ食えば気が済むのか――
「っ!」
その時、足が止まった。
俺の少し先を歩いていたフランカが、異変に気付いたのか、「ユウさん?」とこちらを見やるが……視線が合うことはなかった。
それよりも、今、俺の目を釘付けにしているのは――――
「おっほぅ~。旅立つ準備は万端、といったところかのぅ~」
「あ、イトバさーん……!」
「イトバの兄ちゃんだっ! おーーーーい!!」
配達員の彼が転がしてきた荷車の辺りだった。
村長、モナ――とその家族、オッチャン、さらにはいつぞやの『半獣種』のワンパク小僧とその母親まで来ていた。
突如として、胸の奥底から……温かいモノがじんわりと沁み出してくる。
「お……おいおい……。おいおいおいおい……。おいおいおいおいおいおい……!!」
次の瞬間にはもう、俺は走り出していた。フランカさえも置き去りにして。
配達員の背中を追っていく……。
途中、立ち止まっているナディアさんも追い越して――。
息が切れることもなく、あっという間に、彼らの元までたどり着いた。
「おはよう」と、各々あいさつを寄越してくれる。
「いやいや、もはや一体何のドッキリだよコレ!? 嬉しいけどさ。またどうして来てくれたんだよ――って、これもアンタの差し金か……?」
「ハッ、いやまさか。むしろオレが用意してほしいぐらいだぜ」
振り向いたそこにいる配達員に怪訝な声を投げるも、配達員は肩をすくめ首を横に振った。
配達員は、俺と同じく彼らの元までやって来ると、ペコリとお辞儀をし、あいさつを交わす。
「でも、本当にどうして……」
次なる質問者はフランカだった。
足を緩めると、俺のとなりに並び立つ。
「いや、それはのぅ……――」
と、村長がたっぷりと蓄えた白いアゴひげを撫でながら、いざ語ろうとしたときだった。
ズザザザザザザザザ――――ッ!! と、思わず目をつむってしまうほどの、すさまじい烈風が飛んできた。
その正体は、ナディアさん本人だった。
「っ……申し訳ないッ……!!」
直立していたナディアさんは、ほとんど体が直角になるぐらいにまで頭を下げた。
「事前にっ、こっちから出向いて、お伝えするべきだった……! わっちが――いいえウチがイトバ君の配達に同行するということを……! 決してやましい魂胆や企みがあったわけでは――」
「知っておる」
ナディアさんの言葉をさえぎり、答えたのは、またしても村長だった。
「え……」と、ナディアさんが顔を上げると、村長は顔をそらして頭を掻き掻き……
「イトバちゃんから、すでに聞かされていたからのぅ」
「……! そう、でした、か…………」
ナディアさんの丸まった背中は、少しだけ縦に戻った。それでも、自身の腹から言葉を探り出すには、まだ余裕が無いという感じだ。
足元を吹き抜ける小川のような風は長く、まとわりつくようなしっとりとした冷たさが、肌を強張らせた。
「う、ウチはッ……その……」
「――ただし」
しばらくして、なんとか言葉をしぼり出したナディアさんだったが、村長はそれをピシャリと断ち切ってしまう。
そして、村長は自分の背丈の二倍ほどもある御杖を持ち上げると、スッ……と、前に突き出した。
宙で寝そべる形になった御杖の先端は……ナディアさんの鼻先にあった。
村長は、おもむろに口を開き、
「……もしも。……。万に一つも無いとは信じたいが…………イトバちゃんに何かしらの有事があった場合は――ワシが貴様をこの手で屠ってやる。覚悟しておけ」
いつもの……ノホホンとした、お気楽お調子者のそれではなかった。
低く、暗く、腹の奥底に響くようで……なおかつ切っ先のように鋭い、もはや狂気的な声だった。
向けられた対象は俺ではないのに、ブルルッと、身体が反射的に震えた。
「…………」
一方で、正に言葉の対象であるナディアさんは……かといって、特別な反応を見せるわけではなかった。反抗的な態度で、何かを言い返すこともなかった。
それどころか、不思議なのは――俺の目がおかしいのかもしれないが――今し方までナディアさんがまとっていた薄っすらとした緊張が、かすかに和らいだことだ。
ナディアさんは、村長から視線を外し、スッと天を仰いだ。
何をしているのか、どこを見ているのか……無論分かりはしない。と、今度は店の――『LIBERA』の方を一瞥する。
やがて向き直り、
「フッ…………」
ナディアさんは、御杖の先を優しく押さえるようにして、ゆっくりと下ろしていった。
……御杖は、特に抵抗を示すことはなかった。
「イトバ君。ちょっと、こっちに来てくれないか」
「……え? あっ、はいっ」
そこで突然呼ばれた俺は、思わず頓狂な声を上げて驚いてしまう。言われた通り、ナディアさんの元へ小走りに向かった。
となりに着くと、ナディアさんは「利き手を出して」と、優しく語り掛けるように言葉を投げてきた。
声質に、なんとなく違和感を覚えた俺は、一度ナディアさんの顔を見る……と、そこには――”あの日”から変わらない、ナディアさんらしい温和な表情があった。
「…………」
”旅の道連れ”として、俺が決めた相手だ。十分すぎるほど頼もしい”護衛”だ。
今さら彼女が何をしたところで、俺が口にする言葉はもう残っていない。
ただ黙って……素直に利き手を差し出すことしかできない。
すると、「ちょっとごめんよ」と聞こえたかと思えば――「いてっ」。虫に噛まれた時ぐらいの痛みが走り、何事かとその部位へ目をやると、人差し指の先端からコメ粒ほどの出血があった。
一方で彼女は……すでに俺の方を見てはいなかった。
右手の爪を噛むような仕草をし、次に左手で前髪を持ち上げると、なにやら指で額をなぞっているようだった。
「っし。こんなもんか」
俺が回り込んで彼女の斜め前に来たちょうどその時、作業が終わったらしい。
指を離した額には、簡素な”陣”が描かれていた。
それは正に、”魔導書”に載っているような……点と線を用いて形成された幾何学的な模様に何らかの魔術的な意味を付与した、この世界ならではのアレと酷似していた。
「――ここで宣誓しましょう」
彼女――ナディアさんは、ポルク村のみんなに向かって、高らかに声を発した。
額をさらしたまま、スッと背筋を伸ばしているナディアさんは、”あの日”俺を救けてくれた姿にそっくりだったが、現在はさらに一回り大きくなっているような気がする。
そして、ナディアさんはこう告げた。
「もしも、イトバ君に有事が……あってはならないことですが……もしもイトバ君が命を落とすような結果になった場合は――――ウチも、殉ずることにします」
「!?」
「これは、その”決意”です」
言い終えると、ナディアさんは前髪を下ろした。
いつの間にか……前髪を下ろす瞬間にはもう、”陣”はナディアさんの額から消えていた。風に流される煙のように、波にさらわれる砂のように……。
”呪縛”とやらが、”絶対に破ってはならない法”として機能し始めたことを、意味するように。
…………………………………………。
村長を初めとして、さすがにその場にいた誰もが驚きを隠せないでいた。
当然、俺も例外ではなかった。
「な、ナディアさん……どうし――」
「イトバ君」
ピシャリと言葉をさえぎられてしまう。
その一言は……何度も呼ばれたはずのその名前は、俺の内側でやけに重々しく響き、急速に喉が詰まり呼吸が浅くなるのを感じる。
ブワッと、手汗が噴き出した。
「店の玄関に、手荷物を置いてたろ? 取っておいでよ。さっさと旅に出ようぜ」
「で、も……ッ! ……。…………っ」
ナディアさんを、まともに見ることができない……。
なんて……なんて声をかければいいのか…………。
そうして不安を露わにする俺に対して、ナディアさんは「ハッハッハ」と、相変わらず明朗快活な様子だった。
そして、
「大丈夫だよ。――――わっちは強いから、さ」
「……!」
何を根拠にそんなことを……とはならなかった。
なぜなら、”あの日”ナディアさんの強さを最も近くで目にしていた人物は、俺だからだ。
……そうか。ナディアさんは理解しているのだ。
この儀式は、突拍子もない命の投擲でも無謀な駆け引きでも何でもなく……あくまでも相手の信頼を得るための行為であると。”護衛”という役割を担った自分だからこその、最適な行為であると。
「……。分かりました。ちょっとだけ、待っていてください。すぐに戻ります」
現状の雰囲気からして、一度その場から離れることは、正解に近しいものだった。
だから、俺はナディアさんの用意してくれた逃げ道を、ありがたく使わせてもらうことにした。
一体何を考えているのか……。頭がおかしいのでないか……。
しかし、一度場を離れて冷静になってくると、やはりそれらに類する文句が思考の海から次々と浮上してくる。
自分の命を決して軽んじているわけではないが、それでも、たかがヒト一人――親類のような血のつながりがあるわけでもない、恋人でもない、加えてどこにでもいる人類の一員のために自分の命を懸けるだなんて、本当にどうかしている。
それは、いついかなる場合においても、最大級の”賭け”であると言っていい。
”信頼”とは、そうまでしなければ、得られないものなのか……。
『大丈夫。大丈夫だからホラ、安心して? ――――わっちが来たからには、イトバ君を絶対に死なせたりはしない。全力で守ってみせるよ』
『大丈夫だよ。――――わっちは強いから、さ』
「…………覚悟、か」
……正直に言って、少しズルいと思う。
なぜ、あの人はこうもカッコイイのか。
……………………くっそぅ。
…………くっそぅ…………。
くっそぅ…………………………………………悔しい、と。
よく分からない感情まで芽生えてきた。
とはいえ、頼もしい仲間がいると、どうして自分まで強くなったように錯覚するのか。自身の弱さを包み隠すための偽装……という意味ではなく、目的を共有した持ちつ持たれつの仲間……という意味で。
ポルク村のみんなもそうで、ほぼ毎日顔を合わせているはずなのに、今日こうして見送りに来てくれただけで、めちゃくちゃ嬉しかった。
「スゥー…………。あー……あー、負けたくねぇ……負けたくねえ……! 負けてらんねぇ……!! ちきしょうッ……!」
握り拳を二つ作り、歯の隙間から辛うじて声をこぼす姿勢とは反対に、羽でも生えたかのように、足はさらに一段と軽やかになる。
俺も、ナディアさんと同じ気持ちだった。
早く旅に出て、そして……少しでも早く、またこの安心できる場所に帰りたい。
そう思わずにはいられなかった――。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
自室にて、忘れ物がないかどうかの最終確認を済ませた後、改めて身支度を整える。
そして、再び玄関に戻り、手荷物を取った。
扉を開ける――。
「…………」
――カランカラン!
耳にこびり付いている甲高いベル音が二回。不快さなど微塵も感じさせない柔らかな様相にも一時の別れを告げ、バタン……と、扉を閉めた。
少しだけ、背筋が伸びる思いだった。
と、店先にあったはずの『ジテンシャ』もとい”荷転車”が消えており、どこへ行ったのかと視線を行き渡らせると……いた。街道の真ん中に出されていた。
聞くと、みんなが協力してそこまで運んでくれたらしい。
…………。
これで、とうとう別れの時が訪れてしまった。
「……っ」
ふと、『LIBERA』と――その背後で枝葉を広げている巨大樹を見上げる。
それから、チラリと、となりの――『ファクトリー』と。
……寡黙で、剛情で、俺に会うたび憎まれ口を叩いてくるアイツとは、今でも馬が合わないと本気で思っている。
しかし、アイツがいなければ、今回の”長距離配達”の実現……のみならず、”現地での商売”の両方を可能にすることは見込めなかった。これは誰が何と言おうと、厳然とした事実だ。
「……。……!」
ピシッ! と。
建物に向かって敬礼、そして一礼を加えた。
「――イトバさん」
と、その時。
横合いから不意に声を投げられ……誰かと思えば、モナだった。
その手には何やら、可愛らしい花柄のナプキンがかけられた、ちょうどピクニックのおともに連れて行きたくなるような、木で編まれた”籠”らしき物があり……。
「コレ……お弁当です。作ってきました! お荷物になってしまうとは、思ったのですが……。…………」
ん? なんだ? 言葉が進むにつれて、モナの顔と声量が徐々に下がっているような気が……。
それに、”籠”もススス……と、後退しているような……。
――パシンっ、と。
目が冴えるような乾いた音だった。
モナの背中が叩かれたのだ。モナの背後にいる者の手によって。
「『やっぱりどうしても渡したい』……って。この子が」
「お、お母さん……!?」
「『少しでもイトバさんのお役に立てれば』~って、いつもお寝坊さんのクセして、今日だけはちゃあんと早起きして作ったんですよ。な? 我が娘」
「お父さんまで……!?」
俺から向かって左にモナの母親、そして右にモナの父親がいて、二人とも子供の肩に一つずつ手を置き、こちらに二ッと白い歯を見せていた。
会話に突然割り込んできた二人に、俺は戸惑うほか無かった。しかし、俺以上に戸惑っていたのは、モナ本人だった。
左右を交互に見比べるように、しきりに首を振っては「もう!」と、強い口調で”怒り”を露わにしている。なびく黄金色の絹糸の中で、例のスミレ色の髪飾りが一際目立っていた。同様に見え隠れする頬は、ちょうど黄と赤を織り交ぜたような色に染まっていた。
モナが眉を逆立てて怒る様は、そういえば珍しいかもしれない。
これが、”ローレンツァ・ファミリー”か…….。
『家族』という生き物が完成した瞬間に思えた。
微笑ましいし、それとなんだか、ちょびっとだけ懐かしい……。
俺は、鼻下を指でこすった。
「……ありがとうな、モナ。それ、もらっていいか?」
「え? ――あっ、はいっ! すみません! どうぞどうぞ。ふふっ……そのために作ってきたんですから。お口に合えば嬉しいです!」
俺がモナに声をかけると、両脇にいる父母にあれやこれやと文句(?)を飛ばしていたモナは我に返ったようで、咳ばらいを挟み、佇まいを正すと、俺の元へと歩み寄った。
俺は”籠”を受け取る際、もう一度「ありがとう」と、感謝の念を告げた。
と、モナもモナで、パッと花が咲いたような笑顔を見せると、「はいっ!」と元気よく返事をした。
「おっほっほ。なんじゃ、朝早くからこうして見送りに来てやったというのに……。これじゃあ、年寄りの出る幕は無さそうじゃのぅ~」
――その時。
聞き馴染みのある間延びした声が、モナの背後から飛んで来て、俺はそっちへ目を移した。モナも振り返っていた。
……バラバラと、俺の視界が自然と開けていく。
コツコツと、規則的な杖の音とともに現れたその姿に……フッと。思わず笑みがこぼれる。
「老人は”早寝・早起き・朝ごはん”が基本だろ? っていうか、今日は一段とハツラツとして見えるぜ村長。俺の晴れ姿を拝むのが、よほど楽しみだったみたいだな」
「ハッ、よく言うわい。……ま、相変わらずで何よりじゃな」
俺の言っていることは、半分ほど事実だった。
金のモノクルが朝日に反射しているせいか、それとも霜の降りたような体毛で顔が覆われているせいか……とにかく今日の村長は、俺と同じくらいの年齢まで若返ったかのように光り輝いていた。
「……達者でな」
「おいおい、これっきりで『ハイさいなら』ってわけでもねぇんだからよぉ……もっと元気よく送り出してくれよ。それこそ、モナみたいにさ」
「おっほぅ~、それもそうじゃの。ではでは……ムウォッホン! ――やってこい! イトバちゃん!」
「おうよ!!」
さらに一歩近付き、右手を差し出してくる村長。
俺もそれに応え、右手を開いて、ガッチリと握手を交わした。幾多ものシワが刻まれ骨の浮き出た、まるで冬の老木のような手は、随分と冷たかった。しかし、根っこの”芯”の部分にたしかな温もりを感じるものでもあった。
村長の人柄を知っているだけに、余計にそう思えるのかもしれないが……。
そして、
「…………」
「っ! …………」
意図せずして、身体はフランカの方へと向いていた。
順番にそちらへ反応するよう、あらかじめ仕組まれていたかのように、肉体は実に自然に俺を誘った。
フランカは、ギュッと、両手で胸の前にあるペンダントを握っていた。
「あー……えっとその……」
「…………」
後ろ頭を掻きながら、俺はフランカへ一歩近付く。
するとフランカも、一歩こちらへ近付いた。
「……。……い、いってきます……」
「は、はい。……いってらっしゃい」
「うん……。…………」
「……お気を付けて」
「え? あ、おう。うん。気を付ける……よ。気を付ける……」
……………………。
なんとも簡素な別れの挨拶だった。
…………。
……いや、ちょっと待て。
本当に、これでいいのか……?
「――イトバ君」
不意に呼ばれ――振り向くと、ナディアさんが自分の手をパッと広げて見せていた。それからグーパーと、五指を閉じたり開いたりしている。
俺は顔を戻すと、自分のてのひらに視線を落とした。
スンッ、と鼻から息を吸い上げた――。
「フランカ」
「……?」
右手を差し出す。
それが意味する内容は、無論ひとつしかない。
「…………」
フランカは、じっと、しばし俺の手を見つめていたが……おもむろに右手を伸ばしてきて、握手を交わした。
こうしてしっかりとフランカの手に触れるのは、もしかすると初めてかもしれない。
ちっぽけで、柔らくて、温かくて…………。
そして、震えている。
「……。すぐに、帰ってくるから……」
「…………はい」
フランカは、こちらを見ていなかった。
震えはまだ続いている。
俺は、スッ――と息を吸い上げ、
「――――だいじょーぶ」
「……っ!」
顔を上げ、改めて真正面からフランカを見た。ぎゅぅっと、握る手に力が入る。
その言葉で、ようやくフランカも俺の瞳を見てくれた。
瞳と……そして首から吊るされたペンダントと、照らされる朝陽に乱反射してキラキラと輝く緑色が、朝方の目には少し刺激が強かった。
「絶対に帰って来る。……信じて、くれ」
……朝冷えのせいか、表情筋が上手く働かない。
ひどくぎこちないことは分かっていた。それでも、俺はフランカに二ッと笑顔を向ける。
笑わずには、いられなかった。
すると、フランカの顔が……一瞬だけだが解れて、普段通りの柔和さを取り戻したように見えた。
震えも、少しだけマシになった気がした。
「……。っ……」
「! …………」
手と手が――離れた。
”退部”の時とか”卒業”の時とか、こんな感じだっただろうか……。
てのひらに舞い降りた花びらが、そよ風に乗ってスゥ……と、呆気なくどこかへ流れて行ってしまうような……。冬の寝覚め、体を起こすと同時に毛布が手中からスルリと逃げるような……。現在の俺の手に残る感覚は、それらの瞬間がもたらすものに似ていた。
あまり思い出したくないものなのに、改めて分かってしまうことだった。
――しかし。自分でも驚くほど、踵を返す速度は予想以上に速いものだった。
ナディアさんではないが、『早く出発したい』と、腹の奥底でウズウズと興奮の熱が湧き立ち、グルグルと朝食のエネルギーが渦を巻いている。この感情が冷めないうちに……というのは、どうやら”体”の方も理解してくれているようで、二本の脚はためらうことなくツカツカと『荷転車』の方へ向かった――。
「元気でね、兄ちゃん……」
ふと、立ち止まる。
後ろ髪を引かれたみたいになって、振り返ると――『半獣種』の……例のワンパク小僧が、服の裾を両手で掴みながら、こちらに寂しげな視線を送っていた。
耳は垂れ下がり、尻尾の動きも弱々しく……そんな実に子供らしい反応は、どこか頬でも緩んでしまうものだった。
「フッ……そんな顔すんなって。すぐ帰ってくるから、また遊ぼうぜ? 土産もたーっぷり買って来てやるからよ。な?」
「ホント……?」
「ああ、もちろん。兄ちゃんはちょっくら、聖剣たずさえて”英雄”にでもなってくるからよ。お前こそ、その間に、ちゃんと食べて寝て、母ちゃんのお手伝いとかいっぱいしてやるんだぞ」
「……ぐすん。……うんっ、わかった」
「よし」
俺との約束に力強くうなずいてくれたワンパク小僧の頭を、ワシャワシャと撫で回してやる。
くすぐったそうにするワンパク小僧だったが、濡れた目尻の下には幾多ものシワが刻まれていた。
「本当に……一時期とはいえ、寂しくなります。お仕事、頑張ってください。お気を付けて」
そのとなりで、相も変わらず一連のやり取りを優しく見守ってくれていた母親から一言、そう告げられた。
「……ええ。お気遣い、感謝します。――いってきます」と、俺も母親の穏やかな表情に応えて薄く微笑むと、今度こそ”荷転車”の元へと向かった。
馬車で言うところの”御者席”……”運転席”と言おうか、とにかく俺は車体の前方へ行き、側面に付いている小さな段差から『荷転車』に乗り込むと、その”運転席”に腰を下ろした。
ダッ――ダン! と、後方の”荷台”より人ひとり分の靴音が飛んで来たのに併せて、車体全体がわずかに揺れた。
「乗ったよ。いつでもどうぞー」というナディアさんの声が、結局は出発の合図となった。
さて、それではいよいよ――
「――目に見えるモノを信じるようになった。……そんなお顔ですな」
ギョッとした。
いつの間にいのか、モミールク配達員の彼が車体のそばにいた。
一瞬だけ鼓動が荒ぶるも、特に平生を大きく崩したりすることはなかった。
配達員の彼は、てのひらをこちらに向ける形で手を前に出し、
「いや失敬。珍しい代物だったんで、つい……」
「……。いえ、そんな……。むしろ、ここまでお付き合いさせてしまって、すみませんでした……」
「いやいや、何を謝ることが……。こっちは”得”しかしてねぇんだ。朝食をごちそうになったり、あったけえもの見れたり……変化の無いことが当たり前の日常でこれだけの奇跡に巡り合えるなんて、そうそう無ぇ。朝っぱらから気分が良いってもんよ。……。それに何より…………」
「……?」
じーっと、俺の顔を下から覗き込んでくる配達員。それから、フッと鼻を鳴らした。
何か、顔に変なモノでも付いてるだろうか……? 咄嗟に右手で左頬に触れてしまう。
すると、配達員の彼は、両の口角を上げ、
「ホントに、良い顔だ。……これはよぉ、老婆心によるお節介とかじゃなく、イチ商売人の言葉として受け取ってほしいんだが……――いい商売ができることを願ってるぜ、アンちゃんよ」
「あ、ありがとうございます……! 精一杯、やってきます!」
頭を下げ――上げると、目の前に拳があった。
意識は戸惑うも、次に気付けば自然と俺も拳を差し出していて、ガチッ! とぶつけ合うと熱い激励が骨を通して伝わってくる。
それが、旅立ちに対する”祝砲”のように思えた。
「んじゃっ、出発しまーーーーす!!」
フンッと、踏板に乗せている足に力を込める。
新しいだけに、まだ固くぎこちない部分はあるが、ちょいと『強化魔術』も加えて踏ん張ると……少し、すこーしずつ回り始め…………連動して車輪が動き……前へと進み始めた――――。
目的地まで、もう止まることはない。
いってらっしゃーい!!
声に――振り返ると、各々が分かりやすく大きく手を振ってくれていた。
俺も、大きく手を振り返した。
言葉は……上手く出てこなかった。
…………。
言葉と言葉の間にある”一拍”、手の”一振り”……。
たったそれだけの時間すらかからぬうちに、距離は恐ろしいほど空いていき、ぐんぐんと……ぐんぐんと……今やみんなの姿は豆粒ほどの大きさになってしまっていた。
今し方まで、至近距離で和気あいあいと話していたのがウソみたいだ。
「……。……出発しちゃ、ったな。……。ふぅ、なんだか呆気なかった……」
「だね」
風が耳元を通り過ぎていく中、一際ハッキリと響いてきた音に、俺は顔を若干横へ向ける。
と、赤朽葉の長髪――ナディアさんの髪が風に靡いているのを目の端でとらえた。
「でも、さすがにあの村の住人だね。歓迎も手厚ければ、別れ際も、あっさりと終わらせてはくれない……」
「あはは。ホント、濃い連中ですよね。そこが良いトコなんですけど」
「……。イトバ君。後味はまだ残っているよ」
ナディアさんの妙な発言に、「え……?」と、再度振り返る。
そこで視界に映ったのは、ナディアさん――ではなかった。
!
……間違いなかった。間違うはずもなかった。
そんな……ッ!! まさかッ……!?
空に浮かぶ星までの距離を思わせるほど、もうずいぶんと離れてしまっていたが、俺の目は鮮明に……何よりも鮮やかにその姿を映し出していた。
「――――――――ッ」
フランカだ。
豆粒よりもちっぽけだけれど、いま目に映る何よりも明るい俺の小さな太陽が……こっちに向かって走ってきていた。
「な……なんで……」
追いつくわけはない。
しかし、彼女は髪を振り乱し、一生懸命に走っていた。――と。
「あッ……! ……。フランカ……」
小石にでもつまずいたのか、よろけて転びそうになる。
けれどもう片方の足で踏み留まり、そのまま立ち止まった。
膝に手を付いて、息を整えているように見えた。
「…………」
俺は……この”今”だけは、俺の進むべき前方がどうなっていようと、構わなかった。
彼女の姿から、目が離せなかった。
――そして、
「……っ! ……っ! …………ェええーーーー……っ!! …………………………………………」
バッ! と、フランカは勢いよく顔を上げると――叫んだ。
耳にまとわりつく風の音が邪魔で、正直何を言っているのか、ひとつも聞こえはしなかった。
……でも。フランカが何を口にしたのか、俺にはきちんと届いていた。
なんとなく、ではなく、きちんと。
そう。
フランカは確かに、俺に――
がんばれよ、と。
――頼りないこの背中を押してくれたのだ。
「……っ。……。……ッ! ――――いってきまァーーーーーーーーッす!!」
俺もフランカに……そして遥か後ろのみんなにも届けるぐらいの気持ちをもって、どこまでも突き抜ける青い天井に向かって声を張り上げた。
東の空より降り注ぐ太陽の光が、まぶしくてまぶしくて、たまらなかった…………。
顔を戻し、前を見ると――見慣れぬ景観が、風と共に一気に襲い掛かってくる。
ブルルッと、身体が大きく震えた。
「さぁさ! ちょっとしたウチらの旅の幕開けだ! 存分に楽しもう……!」
「……はいッ」
”運転席”に近い荷台の前方から頭を覗かせているナディアさんが、俺に大きな声を投げてくる。実にワクワクした声だ。
俺も負けじと、それ以上に大きな声を投げ返した。
びゅううううぅぅ…………!! と、風が舞う。
顔に当たり、髪を乱暴にもてあそぶ。
この風が、祝福の風でありますように――――。
混沌とした大気に洗われる中、俺はそんなささやかな祈りをどこかへ捧げた。
ようやく出発じゃァああああああああああああ――――!!