第54話 『出発前夜。風呂場にて』
――『風呂』も、普段通りだった。
俺は、クソジジイが温度調節をしている(らしい)湯にまったりと浸かりつつ、ヒマつぶしがてら、『ファクトリー』の管理人であるカルドと声を投げ合う。
カルドは風呂場にいるわけではない。風呂場の……傘のように八方へ広がった木製の天井に付いている、拡声器らしきものの向こう側にいるのだ。
「――――……とまぁ、ンなわけでよぉ~、あっさり別れちゃったわけ。いやぁ、俺としてはさぁ、なんつーかこう……もっとこう、アレ……惜別の情、的な? ……うん、そう、パッション。情熱が欲しかったわけ。いや、無理強いするつもりはハナから無いし、期待も無かったんだけど……でも、いざこう何も無しでバイバイしたら、今になってさぁ……スー……後悔が、ねぇ…………」
「カーッカッカッカ!! なるほどなーるほどねぇ……アニィの気持ち、分からなくもないですぜ。女はメンドクサイと男は言いますが、男も大概メンドクサイですからねぇ~。着ている皮が違うだけで、中身の根っこにある、気にかけたい繊細な宝石は……もしかすると、一緒だったり? そうでなかったり? カッカッカ」
「そうだろだろだろ~?」
「とはいえとはいえ~? アニィよ……風呂場へ来たときギンギンだったじゃないスかァ……。アレは……………………そこそこ満足してたんじゃないので?」
「――バッ!? ぎ、ぎんっ……ってねぇよ!! 全然なってねぇよギンにはよォ!! てかおまっ、バカやろう!! 突然オーバー・エイティーンになってんじゃねぇよ!! 俺は今宵はオーバー・ドライブできねぇんだぞ!! さっき話しただろーがッ!!」
「え? じゃあビンビン?」
「どっちもアウトじゃボゲェええええええええ――――ッ!!」
手近にあった木桶っぽいものをスパァーン! と、拡声器に向かって放り投げる。
「チッ。まったく……やっぱおめぇはロクなやつじゃねぇな。分かってはいたけどよ……」
どぶんっ! と、再び、湯船に体を沈める。
――――。
……眉間にシワを寄せて、しかめっ面になっている自分の顔。
水面に、それが描かれていた。
「……でも。ありがとよ、カルド。フランカと仲直りできた要因の……まぁ、小さじいっぱい分ぐらいは、お前のおかげかなぁなんて、思ってる……」
「……。いやいや~! おいらは別に何にもしてやせんぜ~?」
「またまたぁ~! こういう時に限って謙遜なんてしちゃってもう~!」
「いーえいえ、それは謙遜でも何でもなく、マジマジの本音なんですってばアニィ。おいらの助言を素直に聞き入れ、実行に移したのは、紛れも無くアニィ本人なんですから! ていうか、それより感謝すべきはオヤビンの方では? なんか……なんでしたっけ? 『ジテンシャ』……ですか、そうですアレの製作協力はもちろんのこと、旅に必要な道具も一部そろえて――って、ハッ! とっとっととと、そういえばぁ~……」
…………ピタリと、声が止んだ。
それから一向に、カルドの方から音が生まれてこない。
「……? カルド……?」
不思議に思った俺は、背後を振り返る。
……無論、居るはずはない。相変わらず、拡声器らしきものが木柱の上方に付いているだけだ。
話もそこそこにどこ行きやがったんだと、不意に消えたカルドの奇妙さに落ち着かない俺は、きょろきょろと首を巡らす――と。
ジジジジ……ジジジジ…………音がして。
俺は、もう一度背後を振り返り、そして見上げた。
――桶が落ちてきていた。
先ほど俺が投げた桶……ではなかった。
真新しい木桶がゆっくりと、クレーンのアームのようなものに何本かの紐で吊るされ、まるでワイヤーを伸ばした時のような音を引き連れ、下降していた――。
間もなくしてそれは、湯船の縁に着地した。
カ、ッコン、と乾いた音が鳴る。
「……。なんか、前にもあったな……こんなの」
俺は頭を掻き掻き、ジャブジャブとその元まで歩み寄り――湯船の端まで来ると、桶を手前へ手繰り寄せた。
するとそこには、
「お、おいおい……。こいつぁ……」
――『モミールク』が入った牛乳ビン(らしきもの)と、それからもう一つ、パープル色の液体が入った小瓶。
桶の中には、それらが一本ずつ収まっていた。
キン……と、鳴った甲高い音色が、耳と耳の間を通り過ぎて、熱のこもった体からガスを抜いてくれる。
天から降ってきた謎のお恵みに少々戸惑うものの、これはラッキーと舌を舐め、俺はまず小瓶の方へ手を伸ばし――
「オヤビンからですぁ」
よみがえったカルドの声に、手が止まる。
声が当たった衝撃だけではない。重ねて、言葉の内容も”驚き”をもたらしたからだ。
「あ? クソジジイ? ……。……コレがあ?」
「”差・し・入・れ”――ですってよ。まぁ、オヤビンの気まぐれは……おいらにもよく分かりません」
「…………。こっちの……小瓶の中身は?」
「さあ~? たぶん栄養剤の類では?」
「たぶんって……。……………………」
はっきりとしないカルドの物言いに、額にシワを寄せる俺は、ますますそれらに怪しげな眼差しを送ってしまう。
とはいえ……ゴクリと。現在の、水分を失いカラッカラになった肉体は、ひどく欲望に忠実であり、到底逆らえるわけはなかった。
まずは……『モミールク』の方を手に取り、キュポッ! と、ビンのふたを開ける。
腰に手を当て、口をつけ、一気にあおって飲み干した。
なめらかな口当たりに、ひんやりと冷たい喉越し――うん、普通にウマい。
ではでは、こちらは……。
……………………。
…………。
「……んん? どうしたんです? 飲まないんですか?」
「う、うるせぇな……。飲むよ……」
手に持っているもう一つのそれも、きゅぽっと、今し方と同じようにビンのふたを開け、口をつけ……――一気にあおって飲み干した。
ゴクリっ! …………………………………………。
「なんだ、こっちも普通にウメェじゃねぇか。……ちょっと苦ぇけど」
「それはそれは」
そうなると、逆にますます気持ち悪ぃな……。
あの、いけ好かないクソジジイが、ひん曲がったゲテモノではなく、健全な”差し入れ”をしてくれただと……?
「どういう風が吹いたのやら……」
「――”手拭い”の一つでも買ってやれば……」
「? 何か言ったか?」
「いえ、まぁ……アニィは今回、せっかく遠出するわけじゃあないですか。ならば、おみやげの一つでも欲しいところではありますなぁ~……と。夜風に独り言を乗っけていたわけですよ……」
「……! チッ……やっぱコレはそういう魂胆かよ……」
「いえ、今のはあくまでもおいらの希望でして……オヤビンは関係ありませんよ?」
「……っ。…………。まぁ、考えとく……」
「ぜひとも、前向きなご検討を~」
まったく、ホント調子のいいボケガイコツだぜ……。
…………。
……しかし、
「いろいろ、迷惑かけちまって……悪かったな、カルド……」
「なんのっ、今さら水くさい。くさいのは体臭だけにしてくださいよ! ……なんつって。アニキ、お身体には、くれぐれもお気を付けて……」
「ああ……。お前もな――って、そういや身体は無ぇんだったな。”骨”だから」
「カッカッカ! なんとまぁ、まさか! まさかまさかですよ、アニィにそう言われる日が来るとは! アニィもおいらのこと分かってきてるじゃないですか~! このこの~!」
「フッ……うるせぇよ」
「……。良き商いができますよう…………貴殿に祈りを」
「おうおう、わかってらい。ちょっくら任務こなして……ついでにちょっくら稼いで、すぐに帰ってくるからよ。このスーパー雑貨店店員・イトバに任せんしゃい」
こちらの姿が見えているかどうか定かではないが、グッと、拡声器の方に向かって右腕を伸ばし――親指を立ててみせた。
それを機に、俺は風呂から上がった。
……思っていたよりも、随分と長く湯に浸かっていたらしい。体が冷えぬよう、注意せねば。
チャリン。
「……?」
と、大きめの布で入念に体を拭き終え、服を着ていたところ……ズボンのポケットから一枚の硬貨が転げ落ちた。
拾い上げ、空にかざすと――銀色が、青い月の光と相まって、より神聖な輝きを放っていた。
「……しゃあねぇ。たまには、ジイさん孝行してやりますか」
ぶぇあっくしょい!! …………冷たい暗黒に、俺のくしゃみが響き渡る。
今日の星夜も、見事なまでに透き通っていて、美しかった――。




