第53話 『出発前夜。食卓にて』
――『夕食』は、普段通りだった。
フランカがつくってくれた美味しいごはんを、「「いただきます」」をして、ちょっぴり会話の華を添えながら美味しくいただく……。
いつもと、何も変わらない。
ただ、フランカによれば、今日の夕食はいつもとは少し違い、これから旅立つ俺の”健康”と”安全”を願った特別メニューだそうだ。
言うまでもなく、俺はフランカの言葉に涙を禁じ得ず……比喩でも何でもなく、マジで泣きながらごはんをあむあむ食べた。試合に負けた日のアスリートのように。
そのせいか、いつもより塩味が三倍ほど増した気もするが、最後の一口まで余すところなく食事を堪能した。おいしさも、三倍増しだった気がする。
「――……そんでよぉー、こ~~んなちっさいガキみてぇな失敗なのによぉ、オッチャンときたら……こ~~~~んなオニ――いや、魔族みてぇな表情で火ィ吹いて怒ってやんの」
「まあ。それはそれは……」
「おん、それはもう真っ赤に燃えちまうぐらいに。……いや、もうあれは”魔族”とか”人”とかの域を超えて…………竜、だな。うん、そう、竜。竜だよドラゴン。かっはァ~、あんなに優しいオッチャンでも、いざ仕事モードに入っちまったら人の心を忘れて修羅と化すんだもんよ……ったく、やってられねぇぜ。俺ゲロ吐いたし。はァ~あ、そう考えると……希望もへったくれもねぇのかねぇ、『社会』って場所にはよぉ~……」
「クスクス……」
……いつもと変わらないモノの一つには、フランカの笑顔もあった。
俺にとっては、それが何より嬉しかった。
なんやかんやと面倒なことはあったけれども、こうしてまた、フランカと談笑をしながら食事をすることができている…………俺は、ここへ帰ってきたのだ。
この何気ない日常の一片が、俺の心の半分を満たし、救ってくれている――その当たり前の事実を”手土産”として引っ提げて。
だからだろうか……常にフランカの背後から差している”後光”が、いつもの三倍増しぐらいになっていてまぶしいというかもはや目が痛い。
「――ではっ。ごはんも食べ終わり、食後のお茶も冷えてきた頃ですし……そろそろ、片付けちゃいましょうか」
パンっ! と、小さく鳴ったフランカの手の音で、俺は我に返った。
「片付け…………かたづ……おぉ……あー、そうだな。そうだよな! そんな時間……だもんな」
「……。さーてさて、明日の朝はいつもよりバタバタしそうですよぉ! ユウさんは、今からお風呂に入って、明日に備えて身体をゆっくりと休めてくださいね! お風呂、私は後で構いませんので――あ! それと、”魔術”の勉強とか何やらして、夜更かし厳禁ですからねっ! 今日は!」
「お……おぉ! ンなことわざわざ言われずとも、わかってらい!」
「本当ですよ~?」
「そ、そんな疑うことないだろ。分かってるって、マジで。な? っ…………」
…………。
……でも。
「そういえば……ユウさんにとっては、これが初めての旅になりますよね。フフッ。楽しみですねぇ、ワクワクですねぇ。かつての自分を思い出します。私は――……そうだ、明日のごはん、何にしようかな……」
……………………そうか。
明日には、俺の心の半分も満たしてくれているモノは、もう――――
「――――ユウさん?」
フランカの声が投げられて、俺の頭に当たって落ちたことが……分かった。
きょとんと鳴りそうな、音色だった。
「どうしたんですか……それ」
「……っ!」
次の一声で、フランカが俺に声を投げている事実に、俺はようやっと気付いた。
声を拾い上げ、咀嚼し、ぼーっとしている意識を内側から呼び覚ますと――。
俺は――――食卓の上に右手を差し出していた。
それはまるで、友情の証を図ろうとしているかのような、あるいは「お付き合いしてください」と告白しているかのような……”何か”を求めさまよっている手だった。
「いやっ……これはその、えっと……えぇっと、だな…………」
自然と宙を歩いていた自分の手に、そいつの主である俺自身も戸惑い、すぐにサッと引き戻そうとするが……どうしてか、一向に戻ってこなかった。
わずかに前へ出るも感情を体現せず、かといって潔く後ろへ退くも「進言せよ」と感傷が吼えるその様は、まさしく風の前の石のごとく、”時間”を忘れた存在だった。
ならばと、喉の奥を掘り返し言葉を…………あれだけあったはずの言葉は、どこかへ消えていた。
「……………………………………………………………………………………」
今もこうして、意味の無いムダな時間が、俺たち二人の世界に刻まれている……。
そのことに気付いたとき、これまた不思議と、俺は見えない束縛から解放された。
「……っ。……。……す、すまねぇな。変な空気にさせちまって。そ、そうだよ……! 早く風呂に入って寝る準備を――」
ぎゅっ。
「!!」
――だが。
手はまだ、戻ってこなかった。戻れなかった。
「……ふ、フランカしゃん……?」
「…………」
フランカが、左手で俺の手を取り、握っていたのだ。
それだけではない。
スルスルと……フランカは指を這わせ、五指と五指ががっちり絡み合う”組み手”のように……そう、いわゆる”恋人つなぎ”みたいなことをしてきたのだ。
「ふっ、フランカしゃん……!?」
”突然”という衝撃、そして神がお与えくださった意図せぬファイヤー・スーパー・ヒッピホップ・ラッキー・ハプニングに、俺の声は百八十度裏返ってしまう。
しかし対照的に、フランカの表情は――眼差しは、どこか真剣味を帯びていた。
フランカの、薄っすらと紅いくちびるから、フゥ…………と、息が漏れる。
「――――……森に迷える旅人よ。汝は歩かねばなりません。ヘビに巻かれた錆びた杖こそ、汝をたすける唯一の標……。汝は三度黒鳥の目に射抜かれ、三度の夜を迎え、三度の困難に見舞われるでしょう。第一に雨の剣が身を裂き、第二に雹の鉄槌が身を砕き、第三に雷が明暗を分かつ裁きを全姿に下すことでしょう。運否天賦は風に流され、行き着く果ての深淵よりまだらの獣が顔を出し、寒天の月に孤独を叫ぶでしょう。けれど旅人よ……恐れることはありません。我々を見下ろす青き月は、あなたにも例外なく、やわらかな祝福の光をお与えになります。与えられた勇気で、恐怖を包みなさい。横たわる幸福から目をそらさず、ありのままを受け入れなさい。たとえ肉がかわこうと、たとえ骨が枯れようと、質素な紫紺の灯を手に歩きなさい。汝は出て行かねばなりません。希望の花と、便りを拾い……――帰ってくるのです。森に迷える旅人よ。あなたの使命は、たった今ここに根を張り鼓動を始めました。使命をお与えくださる我らの女神……。その御名を胸に抱き、誇り高き純愛に懸命の誓いをささげなさい。それこそが、まことの正義。すべては、豊穣の女神と、生きとし生けるモノのために……。――――豊穣の女神のご加護が、汝にあらんことを…………………………………………」
長い長い、”言葉”という不可視の魔力が編み出す旅路をみた――。
一言も噛まず詰まらず、フランカはすべての祝詞(?)を言い終えると、またフゥ…………と、春の息吹にも似た吐息を漏らした。
……ほんのちょっぴり、ヂーツマの香りがする。
小鳥のさえずりのような、麗しい音色の余韻が空間を包み込んでいた。
音はとうに止んでいるはずなのに、“音”を運んでくる妖精さんか何かが耳の奥で居残りしているのか……俺の中ではたしかに、未だにフランカの声が響いていた。ざわわんと、木霊しているようだった。
「……………………」
「……………………」
……そう、彼女の言う通り、俺には”使命”がある。
『フランカを愛すること』――何を言わせる、それは人類生まれながらの義務だ。
そうではなく、今の俺にはもうひとつあるのだ――『明日「LIBERA」を発ち、リカード王国にいるという依頼主のもとへ”長剣”を無事に届けに行く』という重要な”使命”が。
だからこそ、俺はこの”奇妙な時間”を正さねばならなかった。
正して、風呂に入って、さっさと寝なければならなかった。
……断じて言うが、俺は彼女の温もりを拒否しているわけではない。
俺としては、たとえ空から雨が降ろうと地面から槍が生えようと、是が非でもこの“やわらかおてて”とお別れしたくない――いやその選択肢しか残らないのは自然の摂理だ。生きるために呼吸をすることと同じなのだ。
とはいえ、やはり俺には、全うせねばならない”使命”がある。
それが俺とフランカの仲を一時的に――あくまで一時的に――引き裂いたとしても、『社会』の中で役割を有する労働者として、抗ってはならないのである。
先ほど俺がつくり出したような気まずい、それでいて、たたいてこねて引き延ばして、上から甘酸っぱいフリーズドライのストロベリーでもまぶしてやりたくなる時間を…………溶かして、そろそろ動かしてやらねばならない。
クッと、俺は目力を強めた。
「……。フランカよ……やはり、目覚めてしまっているようだな……。『14の憂鬱』的なその時期特有のアレっ、に……」
グッと、フランカの指に力が入ったのを感じた。
……俺か彼女か、はたまた両者か、手汗がめちゃくちゃ出ていることに気付く。
彼女の目尻や口端は、ピクリとも動かなかった。
「…………。……いや、まぁ……っていう可能性も有るような無いような感じでして……。……。よくよく考えなくてもぉ、そんなことはない、ですよねぇ~。あははは……あははのは! ふはははははは……………………」
あっぶねェェええええええええ――――!! 危うく他所さまの文化をバカにするところでしたァああああああ――――!!
そうですよね! それが普通ですもんねこちらでは!
元いた『現実世界』の文化では、何の前触れもなくいきなりそういうことを高らかに歌い始める――謎のポーズを添えて――ヤツに対して、温かい目で見守りつつ若干”あわれみ”の意味を込めて『14の憂鬱』とか『青春の代償』とか呼んじゃったりするんですよォおおおおおおおおおお――――!! え? なに? それ自体がすでに毒されてる? たぶんその通りですゥうううううううう――――!!
歯の根はガチガチ、冷や汗ダラダラ……。
俺は胸中で、ヘヴィー・メタルのライブリスナー常習のヘッドバンギングのごとく、高速で頭を上下に振って謝罪していた。
――その時。
たらりと、一滴の汗が手首を伝ってきて……。
俺はそこに、”空気を入れ替える”絶好の機会を今こそ見出す。
「おおっと、これは参ったな……。俺の一日の発汗量が、どうやら限界突破しちまったみたいだぜ。だからよぉ……なぁフランカ、ちょっと汗を拭きたいから、そろそろ手を放しても――」
ギョッ、とした。
フランカが……真っ直ぐな目で、静かにこちらを見ていたからだ。
吸い込まれそうなほどに美しい……もはや恐ろしいほどまばゆい翡翠色の瞳――その奥底が、かすかに揺れている。
触れれば割れそうなほど、揺らいでいる。
「…………”おまじない”、みたいなものなんです……」
ポツリと、一言、フランカはそうこぼした。
「へ……?」と、俺はマヌケな声を上げてしまう。
……フランカは、言葉を続けた。
「母が…………私が、故郷を発つときに、似たようなことを言ってくれたんです……。えへへ、懐かしい……。あぁ、でも、内容すべてを覚えているわけではありませんので、これは私独自の祝詞になっちゃうんですけど……」
フランカは、目を逸らした。
「異世界では、遠近によらず、旅立ちを迎える人には……こうやって、”おまじない”をするんです。……私には、これくらいしかできませんから。……。これっぽっちしか、持って行ってもらえないので…………」
ぎゅぅぅ……っと、フランカの指に、さらに力が込められたのを感じる。少々痛いぐらいに。
……震えている? いや、そんな気がするだけか……。
「無事に、帰ってこられますように――――――――」
フランカは、ほとんどつぶやくように小さく唱えると、俺の手とつながれている自分の手に、額を寄せた。それこそ、祈りをささげるように。
これは、気のせいではなかった。小さいながらも、そこには確かにはっきりとした温もりがあった。
そして、体勢を戻したフランカは……ニッコリと、笑っていた。
先ほど感じた”震え”は、やはり杞憂だったのか……。
そうか……。
…………。
ていうか、まだ手は放さないのか……。
「フラン、カ……」
その名を呼びかける――も、なんだか妙に歯切れが悪い。
フランカの笑顔を見ていると、なぜか落ち着かない。
俺の声に、フランカが「ん?」と反応し、小首を傾げる様子が伝わってくる。
……彼女と目が合ってしまった。
「なんですか?」
相変わらず真っ直ぐに俺を見つめてくる彼女は、口元を緩めると、わずかに上半身を食卓の上に突き出した。
「……ッ!?」
対して俺は、思わずバッと目を逸らしてしまった。
なぜそんなことをしてしまったのか……俺にも分からなかった。
ふと、キラリと、緑色の光が目の端をかすめて――。
若干目を細めながら顔を戻すと、フランカの顔――その下の首元に、見知らぬモノがぶら下がっていた。
「お、おい……それは……?」
声をまともに発することができたのは、純粋な疑問が生まれたからだった。もう片方の手を使い”それ”に指を向ける。
フランカも、俺の指先から伸びる線をたどるようにして、顔を下へ向けた。
「あー、コレですか?」
フランカは、あっけらかんとした物言いで、”それ”をもう片方の手で持ってみせた。
――”ペンダント”である。
緑色をした宝石(?)のような”何か”が、丸く模られた金属の縁に埋め込まれている。そこから伸びているのは、細長い黄金色の鎖…………。
光がまたたき、その加減により陰影が姿を現すからだろうか……ペンダントは、水のように、あるいはギョロギョロと動く魚の目のように、流れ動いているようだった。
「ユウさんが装飾品をつけてるので、思い切って、私もつけてみたんですよ」
「え……? お、俺……? ペンダント……?」
「はいっ。ほら――”それ”です」
ピッ、と。
今度はフランカが俺に指を向け――。
ならうように顔を下へ向けると――簡素なヒモに吊るされた、”銀色の円環”があった。
ナディアさんから手渡された……いやこれは、そうだな、ルミーネからの贈り物だった。
あまり意識はしていなかったが……そういえば、いつぞやからか、ずっと身に着けていたんだな……。
チラッと、改めてフランカのペンダントを見やる。
決して「新しい」とは言えない代物だった。おまけに、傷や錆びが随所に見受けられる。年代物なのか、しかし気品ある”古めかしさ”を全体的にまとっていた。
”骨董品”というヤツだろうか……。
「フランカのペンダントは……スー…………えーっと? えっと、たしか――」
『あ、いえその……。……そういえば△□〇✕が私にペンダントを渡して――――』
あれ、なんだったっけ…………?
「あぁ……。……。コレは……私の大切な人からの、贈り物なんです」
「あ、あぁ……そうそう。そう、だったかな……」
フランカは、まるで誰かを慈しむように、そのペンダントを優しく指で撫でる……。
俺は、フランカと手をつないでいない方の手で、頭を掻いた。
つま先を鳴らした。
奥歯を噛んだ。
「うん……。うんうんっ……! やっぱり、私の思った通りです! ユウさんは、装飾品が似合いますよね……! ペンダントだけじゃなく、その……おメガネも!」
今し方のとは違い、フランカの声調は――パンっ! と弾ける軽やかなものだった。
俺は、ハトが豆鉄砲を食らったようになって、パチクリと目をしばたたかせる。
……頭を掻いていた手を少し下げる。
それから、かけていたメガネの端っこをつまんで、クイッと持ち上げてみせた。
「お、おぉ……そうじゃろそうじゃろ! そうじゃろて! ――うおっふぉん!! このジェントル糸場、艱難辛苦の経験積みつみ……ダンディ・リズムを磨いて磨いてふっきふき、心身ともどもレベルアップして此の地に参上! 明日は異郷へ、いつかは世界の裏側へ! そして今は、慎ましやかな色恋をもってここに候――」
「ふっ、フフフフっ、ふふっ……。なんですかぁ、それ。ふふっ。もう……フフフフフフ…………」
「……。ふ、フランカのそれも……。……うん、めちゃくちゃ良いぞ! 似合ってるぞ!」
「ほ、ホントですか!? うれしいですー! えへへ~」
クスクスと、ワハハハと……。
そうしてしばらくお互いに笑い合っていたら――いつの間にか、二つの手は自然と解けていた。
それが、ほとんど合図のようなものだった。
俺とフランカは、拍子抜けするほどあっさりと、別れることになった。
だが不思議と、明日に対する余計な感情は、きれいに洗い流されていた。
思っていた以上に、悲しくも寂しくもなかった。
「…………。…………っ」
……しかし。
しつこい邪念がたったひとつ……ムズムズと、食卓を後にして風呂場へ向かっている最中も……ムズムズと、心の隅っこにこびりついて離れなかった。
『無事に、帰ってこられますように――――――――』
『ん?』
『なんですか?』
「くっそぉ~……。き、今日は……っ、”夜更かし”できねぇんだぞ……! ったくよぉ~……」
キュゥっと胸がしぼられて出てくる想いは、歯がゆくて苦々しいものばかり……――けれど。
そんなに悪いモノでもないと、そこに甘酸っぱい一時を見つけ味わえているのは、心がちょっぴり大きくなっているからかもしれない。




