第42話 『夕暮れ模様:影は憧憬の星に照らされる』
ちょっと長いです。
「ほんとに……本当に……っ、すいませんでした……!」
「ど、どどどどどどどうしたんですか突然……!? は、早く頭を上げてください!! ホラっ!」
フランカがこうなるのも無理はなかった。
先程まで言葉少なめ控えめな、しかも“身内のために謝る”などという行為とはまだまだ縁遠い年齢の少女に、大人顔負けの“それ”を見せられては戸惑わない方がどうかしている。
それに、つい今し方までの女性との険しい雰囲気もあるため、少女の謝罪は俺たちの心労をより助長していた。
現に、今日は気の抜けがちな俺も、慌てて少女に頭を上げるよう促した。
「どうしてそんなことを……?」
無論、少女の意図が知りたくないはずはない。
フランカは少女の両肩に手を置き、それまで以上に優しく語りかけた。
すると、少女は相変わらず申し訳なさそうな表情を見せながら、言葉の一つ一つを確認するように、ゆっくりと話し始めた。
「その……実はお母さん、最近お父さんの仕事が上手くいっていないことに、すごくイライラしていたんです……」
これ聞かれて大丈夫なのか、と俺は思わず正面の玄関の扉を見やったが、少女は気にせず言葉を続けようとする。――が、
「イーシャ! 用が済んだからさっさと帰るわよ! いつまでもそんな所で何をしているの!!」
案の定、イーシャの不在を不審に思った女性が、扉越しから大声でそう言い放ってきた。
『二度と来ない』という言葉通り、どうやら本当に『LIBERA』の敷居を跨ぐことに抵抗を見せているようだった。
どこまで頑固で気の強い女性なのだろうか……。もはや薄々と尊敬の念さえ感じつつある。
と、それに対してフランカが口を開こうとしたが、意外にも先手を打ったのはイーシャだった。
「大丈夫だよお母さん!! ちょっとお手洗いを借りるだけだから! 直ぐに戻るから待ってて!」
母親に対抗するかのように、イーシャも負けじと声を張り上げた。
それは、どうやら扉の向こうで耳を澄ましていたであろう母親の耳に届いたのか……暫し間を置いてから、
「……そう。でも早くなさい。馬車に乗り遅れてしまうわ……」
くぐもっていたが、確かに女性はそう言ったような気がした。
「…………」
ホッ、とひとまず緊張の糸が解れるも……驚いた。
何に驚いたかって、今し方の謝罪もそうだが、イーシャの見た目とは裏腹な臨機応変ぶりを見せられたからだ。
てっきり、フランカの精一杯の弁解虚しく、いよいよ理性をかなぐり捨てた女性が棍棒片手に強引に店内へ押しかけ、ところかまわず暴れ狂うのではないかと思っていた。が、結果は咄嗟に機転を利かせたイーシャが上手く取り繕ってくれたおかげで事無きを得た。
今この場で最も女性に信頼されており、且つ発言に信頼性を持たせることができるのは誰か……。
その答えを、この少女は分かっていたのだ。しかも、会話の応答にかかるたった数秒の間に判断を下した。
……もしかせずとも、とても頭の良い子なのかもしれない。
そうして俺が呆気に取られている傍ら、イーシャは再度フランカの方へ向き直り、これまた丁寧なお辞儀を繰り返した。
「ご、ごめんなさい……大きな声を出してしまって」
「い、いいんですよ! そんなの! 気にしないでください」
だが、正面に向き直ったイーシャは、相変わらずの内気な少女のままだった。
イーシャの畏まった態度に、フランカは大袈裟に両手をブンブンと横に振り、またもイーシャに頭を上げるよう促すのだった。
「…………」
「…………」
会話に水を差されたことで、お互いに会話の糸口を掴めないでいるようだった。
父親の仕事がどうだのと、先程聞く限りでは、イーシャの話の内容は少々プライベートな領域に突っ込んでいたので、フランカも聞きあぐねているのだろう。
イーシャもイーシャで、言いたいことがあるのだが、言葉が中々まとまらずに困っている風に見えなくもない。
ここは一つ、
「……イーシャちゃんは、お母さんのことが好きなんだね」
俺もフランカと同じように膝を曲げ、俯き加減の少女にそう優しく語りかけた。
「えっ……?」
俺の言葉に、最初はきょとんとしていたイーシャだったが、さらにその表情を“愛情”の熱で綻ばせていった。
気遣いなどしていない、とても純粋で、嬉しそうな笑顔だった。
「うん、好き……です。お母さんは、大好きです! はい」
必死に訴えかけるように、イーシャは落としていた両手を胸の前まで持ち上げ、ギュッと力を込めた。
やはりそうだ……。
口調は厳しいところがあるものの、あの女性はこの子供のことを大切に思っている。
と言うのも、実はあの女性が今回買い求めてきた商品の中には、香水の『ピポナッツ・リリルケ』の他に、高価な魔導書も含まれていた。
それは、『魔術基礎 〜これであなたも一流魔術師〜』と同じく“魔術”の基礎を学ぶことができる教本ではあるのだが、上記のと比べて随分とレベルが高く、また記載されてある“魔術”も高度なものばかりだった。
おそらく、女性はフランカに「“魔術”を習うのに一番適していて、それでいて一番高等な魔導書をいただけるかしら」とでも言ったのだろう。要するに、コスパ最強の魔導書はどれ? と言っているのだ。
最初は偏見もあって、「教育熱心なママだことで……」と勘違いしていたが、一悶着あった後の“今”だからこそ分かる。それに、イーシャの口から現状の家庭環境を教えられたことにより尚更だ。
休む暇も無いほど忙しいにも拘らず、娘のためにこうして遠路はるばる魔導書を買いに来たということ。
そして、一般的な魔導書でも少々懐が痛いにも拘らず、さらに値の張る高価な魔導書を買い求めたということ。ましてや家計がそういう状態であるにも拘らず、だ。
これでいて、あの女性がイーシャのことを大切に思っていないはずがない。
だからイーシャも、気難しい性格のあの母親のことを慕い、こうして愛することができているのだ。
「でも……最近は少し、嫌いになりそうなんです」
ストン――と。
祈るように組まれていた少女の両手が、逆さまになって落ちていった。
「ほんとは、嫌いになんてなりたくないのに……。いつも怒ったような顔をしていて、話しかけても……笑ってはくれるけど、どこかムツっとしていて……なんだか、それが全部冷たく感じられて…………。……わたし、時々怖くなったりもするんです」
少女は懸命だった。
自身の無知――語彙の少なさ、表現力の無さといったそれらに戸惑いつつも、ただひたすらに、胸中に抱えている“想い”を懸命に言葉に変え、宙へ解き放とうとしていた。
「…………」
「…………」
俺とフランカは、ただ静かに、一人の少女のそれに耳を傾けていた。
フランカは、少女の両肩に未だしっかりと手を置いていた。
「だからこのことは! ……決して、お母さんが悪いわけじゃないんです。お母さんを許してあげてください! 普段はあんな感じですけど、ほんとは良い人なんです! そして、お二人の気を悪くさせてしまってごめんなさい!」
「で、ですから頭を上げてくださいってば……! それは分かりましたから!」
「そ、そうだよ! 傍から見たら何かと誤解を招きかねないというか、むしろより不利益を被りそうな絵面だからやめてくれ!」
隙あらば頭を下げようとしてくるイーシャ。
その想いは十二分に受け取っているのだが、並行する申し訳なさも同等に高まっているので、俺とフランカはあたふたとイーシャの体勢を元に戻そうとする。
「わたしの、せいなんです……。今日ここへ来るのも、かなり反対されてたんです……。『どうしても魔導書が欲しい』って、結局わたしがワガママを押し通しちゃったから……」
「ん? じゃあ香水は……」
「それはついでなんです。お母さん、香水を集めるのが趣味なので……」
俺が尋ねると、イーシャは『意外ですよね?』とでも言うように、少し照れくさそうに頬を掻いた。
失礼ではあるが確かにその通りで、へぇ、と思わず驚きの声が漏れる。
「実はわたし――“魔術師”になるのが夢なんです」
その時、フランカの耳がぴょこんと上下に揺れ動いた。
「昔読んだ絵本に登場する魔術師さんに憧れて……ああ、わたしもあんな風にステキな魔術を使って、みんなの役に立ちたいなって、そう思ったのがキッカケだったんです。お母さんも、最初はすごく応援してくれてました。……でもやっぱり、最近はこの夢にあまりいい顔をしていなくて……。と言うより、“魔術”のことになると、とても怒りっぽくなったり、とても嫌な目つきで睨まれたりするんです……。それが……それがとても怖くて…………」
「もしかして、お父さんの仕事のことと何か関係していたりとか……?」
「はい、するかもしれません……。おそらくは……」
言って、イーシャは今度はバツが悪そうに頬を掻いた。
母親の機嫌が悪い原因は何となく分かっていても、詳細な内容を知らないため、断定的に言い切れないことに一種のもどかしさを覚えているのかもしれない。
まぁ、何かしらの大人の事情が絡んでいることは、俺も――フランカも大体の察しはついているだろう。だから、
「……イーシャちゃんは、気にしなくていいと思います。だってお母様は、こうしてイーシャちゃんのために魔導書をわざわざご購入されたりと、イーシャちゃんのことを応援しているのですから。イーシャちゃんはただ、夢に向かって一生懸命に頑張れば、それでいいと私は思います」
次にフランカは、イーシャにそう言ったのかもしれない。
だが俺は……母親に先程までとは似ているようで少し違う、別種の感情を抱き始めていた。
「ううん、違うんです」
ところが、イーシャはフランカの激励に対して首を横に振った。
フランカは短く声を上げ、戸惑いの色を見せる。
イーシャは噛み締めるように言った。
「夢ばかりを追い求めていたらダメなんです。確かに魔術師になるのは私の夢ですけど、でももう一つ、わたしには最初に成し遂げなけらばならない夢があるんです。……いえ、これは最近できた、わたしの勝手な目標なんです」
「…………」
ついにイーシャの肩から手を離してしまうほど、フランカは背中からでもはっきりと分かるぐらいに驚いていた。
そして俺の方へと再び視線を投げる。
……驚いていたのは俺もだった。と言うより、どうもこのイーシャという少女は、俺たちが想像している内面のイメージとは少し――いやもしかすると大幅に異なっているのかもしれない。
そこには、母親の服の陰に隠れてモジモジとしていた内気な少女はおらず、自身の意志をはっきりと相手に伝えられるような、そんな芯のある強気な少女がいた。
少女は言った。
「わたしは……“魔術”を学んで、まず最初にお母さんを笑顔にしてあげたい。それがわたしの目標です。魔術はいいものだよって……絵本の中に出てきたような、人を笑顔にして幸せにするような、そんなステキな道具なんだよって、教えてあげたい。わたしが認めさせたいんです」
「ど、どうしてイーシャちゃんは……そこまで“魔術”にこだわるんですか……? なぜそんなに“魔術”を良いものだと……?」
「え? だって……」
フランカの疑問にきょとんとしたイーシャは、気の抜けた返事をした。
そんなことはわざわざ言うまでもないだろう、と言いたげに。
「――だって、こんなにも楽しい世界があるのは“魔術”のおかげだから」
――――。
……息を呑む気配がした。
いや、俺の見間違いだろうか……。フランカの耳がわずかに前後に動いたように見えたが、当人は変わらずそのままの体勢でイーシャと向かい合っていた。
――と、イーシャが再びモジモジと体を揺らし始め、かつての内気な性分を取り戻していた。
そして、イーシャの目はフランカを捉えていた。
「あ、あの……。……実は、先程から気になっていたんですけど…………」
何やら興味津々といった様子のイーシャ。目の奥底には、よく見ると星の輝きにも似た光を灯していた。
様子の変わったイーシャに、対するフランカは小首を傾げる。
「お、お姉さんって……“魔術師”、ですよね……?」
「え……そう、ですけど……どうして――」
「……。それ」
言って、イーシャはフランカの肩の辺りを指で指し示す。
そこには、フランカの正装である赤いエプロンドレスの上から羽織られた、フード付きの紺色ローブがあった。
「魔術師さんは、みんな魔術師になる時にそれぞれお気に入りのローブを買うか、もしくはお世話になった魔術師さんからもらい受けるって、どこかで聞いたことがあるんです……! だからお姉さんも、もしかしたらそうじゃなかいかなって……!」
「は、はあ……。そうでしたか……」
鼻息荒く言葉を並べるイーシャに、フランカは困惑するような素振りを見せ、自身の肩に羽織られたローブを撫でた。
しかし、イーシャの目はより一層輝きを増し、『フランカが“魔術師”である』という確証を得たかと思うと、何やら自身の服のポケットをがさごそとまさぐり始めた。
何だ何だ、と俺とフランカが首を伸ばしたのも束の間、イーシャはポケットから握り締めた拳を出した。
そして開かれた右手には――じゃん! と。ひまわりの種ぐらいの大きさの種子が三つ、寝転がっていた。
「こ、これは……一体……」
「ふふん。ちょっと見ててくださいね……」
未だ疑問符を宙に浮かべているフランカと俺に、少し得意げな顔をしたイーシャは、もう片方の左手を右手の上から覆うように包み込んだ。
それからムッ、と表情を引き締め、イーシャの両手がプルプルと痙攣したその瞬間――パチパチッ! 線香花火のような、か弱い光と音がイーシャの両手の周囲より発生し、暖色の閃光が走る――。
しかしどこかに想いを馳せられるほどの時間はなく、それはあっという間に熱を冷ました。
「ふぅ……。……よし」
逆立っていた髪の毛が静かに降り、イーシャは一仕事終えた後のような疲労感を出すと、満足気に口端を持ち上げた。
どうやら彼女の中で何かが成功したらしい。
「…………」
「…………」
イーシャは何も言わなかった。また、俺たちも何も言うことはなかった。
そしてイーシャは、まるで次の行為がお決まりの展開であるとでも言わんばかりに、ゆっくりと左手を持ち上げ、右の掌を開放した。
――そこには、
「じゃーんっ! ほら、見てください!」
赤、青、黄――綺麗な色合いを有した小さな花々がこちらに顔を向けていた。花はどれも花弁を広げ、元気いっぱいに咲き誇っている。
先程までイーシャの掌の上で寝転がっていた種子は影も形もあらず……いや、これは、もしかすると……。
「きょ、強化魔術じゃないですかっ! スゴイっ! ご自身で勉強されたのですか?」
一人思考に耽っていた傍ら、フランカが先程までとは打って変わった様子で、イーシャに食い気味に詰め寄っていた。耳はピョコピョコ、尻尾もフリフリと忙しなく動いている。
「え、あ……そ、そうなんですよ。まだ、お遊び程度のものしかできないんですけどね……」
「それでも十分にスゴイですよ! これぐらいの歳で魔術を扱えるなんて……!」
思いのほか驚喜されたためか、頬を掻くイーシャは少し困った様子だった。が、現役の“魔術師”に手放しで称賛されてまんざらでもなさそうだ。
現に、フランカがしばらくイーシャのことを褒め倒していると、イーシャもさすがに自信が湧いてきたのか、「そ、そうですか……そうですかぁ……? むえっへん!」と鼻を高くしている。
相手に気を遣い、忖度する一面はあるものの、元々フランカは純粋で素直な性格だ。今も尚ひっきりなしに連発している『スゴイ!』という言葉は、本当にイーシャのことをスゴイと思っての発言なのだろう。
俺も……まさかこんな小さな幼子が、しかも独学で魔術を身につけているという事実に驚嘆している。
俺なんて、専門書頼りに一ヶ月かけてやっとこさ色んな魔術――それも初歩中の初歩――を習得でき始めたというのに……。ルミーネもそうだが、こんなものを前にされては、やはり“才能”という名の現実を思い知るほかない。しょぼりんぬ。
すると、称賛の渦の中で溺れかけていたイーシャが、何かを思い出したかのか……ふと我に返り、
「あ、でも実は……お外で“魔術”を使うのはお母さんに禁止されてて……。だからこのことは秘密に――」
その時だった。
「イーシャ!! いつまでも何をして――――」
バンッ! と。
店の玄関口である緑の扉が、勢いよく音を立てて開いた。
突き刺すような、荒々しいその声の主を、誰もが知らないはずはなかった。
「「「――!」」」
俺たちは……イーシャも含め、一斉にそちらへ視線を投げる。
やはりそこには、苛立ちを隠しきれていないイーシャの母親がいた。中々戻ってこない娘を心配したのか、待ちかねて止むを得ず入店してきたようだ。
だが、その表情には心配とか、安堵といったものはなかった。――驚愕だ。
それは、光を後背に浴びることで真っ黒になっていたとしても、容易に視認できるものだった。
「…………。何を、しているの……?」
独り言のようにも聞こえるその声は、微かに震えていた。
そしてギョロリ、と彼女の目が生き物のように動いた気がした。
見据えている先は――少女。イーシャの手の中。
赤、青、黄と色とりどりの花々が咲いているそれは、第三者から見ればこちらが手渡したと言えばあまりにも不自然で、それこそ魔術的な何かでそこに顕現させたとしか思えないものだった――。
「――イーシャッ!!」
怒号は、空気を張り詰めさせ、何物をも是非を問わず押さえつけるような凄まじいものだった。
天井や床……俺のすぐ背後にある壁がビリビリと鳴っている。
それは唐突だったため、俺とフランカは目を丸くして思わず身震いした。
だから案の定と言うべきか、イーシャは「ひっ」と短く声を上げるとフランカの背中に回り込み、怯えるような様子を見せた。
約束を破ったことにより鬼人と化した母親は、果たしてどれほど恐ろしい仕打ちを向けてくるのか……。
こうしたお約束とも呼べる戦慄は世界共通――いや、次元共通のようだった。
「いや、えっと、その……」
突如矢面に立たされたことに困惑し、おろおろしていたフランカは、まずは『なぜイーシャが中々戻ってこなかったのか』ということに対する説明と弁解を始めようとしていた。
「…………。…………そう。……あなたたちなのね……」
しかし、母親はそんなものは眼中にないようだった。
未だ視線がイーシャを捉えたままであることは、遠目からフランカを覗くように見ている母親の雰囲気で何となく察した。
“イーシャが約束を破り、外で魔術を使った”という事実が、彼女にとっては何事にも勝る衝撃で、ある意味で盲目にしているのだろう……。
――――ッ!
……次に母親の取った行動は、意図的であるにしてはあまりにも粗暴で非常識で、とにかく衝動的なものだった。
店の玄関付近に飾ってある花瓶を手に取り、こちらに投げつけてきたのだ。
「――!」
「……っ!」
時たま……そう、事故に遭遇した際にはよくある出来事らしいのだが、自分以外の一切がスローモーションとなり、世界がまるで静止したように見えることがあるらしい。
それは脳の情報の処理速度に変化が起きているからだとか何とか……とにかく、今が正にその瞬間だった。
――花瓶は何度かその身をひねらせ、中身の花と水を辺りへぶち撒けながら、ほとんど直線的に飛来している。
――フランカとイーシャの方向へ。
――二人とも一瞬間だけ目を見開き、イーシャは固く目をつむり身を縮こまらせると、フランカの服の裾をぎゅっと握り締めた。フランカは――――。
!
……そのままでいた。
飛来する花瓶の脅迫に後退も、怖気づくこともなく、顔を前に上げたそのままの姿で立っていた。
いや、むしろ庇うように……小さな幼子に傷の一つでも付けさせまいとするように、片足を前に出し、勇んで壁となることを申し出ていた。
!!
その姿を、普段はドジを踏んでばかりで少し頼りなく見える時もある、年下の……しかも身体も決して大きくはない女の子の勇姿を、手の届く場所でありありと見せられ……俺は……。
…………。
俺は…………。
…………。
……オレは――――!
――パリンンン……ッ!!
……ガラスの割れる音。
いやに耳を突き刺す甲高いあの音が、店内全域に反響した。
…………。
一言も喋る者はいなかった。
皆が皆、どういう結果になったのかと、無言で状況を詮索していた。
ただ……その場でただ一人だけ、俺だけはすべてを知っていた。
「なっ……」
第一声を発したのは、花瓶を投げた張本人である女性だった。
動揺の色が見えるそれと、半歩後退ったような音は、思い描いていた結果とはまるで異なっていると明言しているようなものだ。
「あっ……」
次に声を発したのはフランカだった。
こちらは、同様に驚いてはいるのだが、そこまで強い意外性を感じていないような響きだった。
想定内の状況……と言うより、結果を確認して『あなたならそうするかもしれませんね』と、納得するような……。
「ユウ……さん……」
フランカには見えているだろうか……? ――俺の背中が。
――そして見ただろうか? ……割れた花瓶や、水や、花々が、俺の足元に散乱している有様を。
「どう、して……」
「…………」
それは野暮な質問であるはずなのに、どうしてそう尋ねたのかは結局分からなかった。
そして、両腕を顔の前で交差し、フランカの前に立っている俺には、フランカが今どういう表情をしているのか、余計分からない。
ただ……分からなくても、先程の信頼めいたものは、やはり微かに感じ取ることができた。
現にフランカは慌てふためくこともなく、行動の意味を問いもしない。
「痛ってぇ……」
焼けるような痛みに、思わず顔をしかめた。
いくら花瓶とは言え、高速で飛来したそれは一定以上の運動量を含んでいる。俺はゴリラでもサイクロプスでもない、ただの中肉中背のか弱い人間ちゃんなので、当たればそれなりの衝撃はある。
それに、俺は自分でも時々忘れてしまうが、仕事に復帰しているとは言え、一応療養中の身なのだ。腕に巻かれた包帯の下の傷は癒えていない。むしろまだ傷口が呻いているぐらいだ。
これで傷口が開いて、再び休職コースを告げられなければいいが……。
俺は衝撃で若干しびれる腕をほどくと、水を払うため何度か宙で腕を振るった。
「どうして……」
それを尋ねるのは、今度は女性の番のようだった。
女性は未だに大きく目を見開き、半歩下がった状態のまま微動だにしないでいる。
俺はその言葉を聞くと、呆れ……今度は首を左右に振り、
「好きな人を守るのに、理由もクソもねぇだろ……」
路傍にツバを吐き捨てるように、そう言った。
「ユウさん……でも腕が……。血が出てるんじゃ……?」
そこで初めて、フランカは焦燥感を露わにした声を上げた。
俺は振り返り、
「いんや大丈夫。咄嗟の判断だったけど、腕を強化魔術で強化して正解だったぜ。でも、あと一瞬遅れてたら直撃か……まぁ、無事で済むということはなかっただろうな」
証拠を見せるように、俺はフランカの前に傷一つない腕を持ち上げて見せた。肘から透明な水滴がいくつか滴っている。本当に、これが赤黒く禍々しい液体でなくて何よりだ。
「どうして……なの……」
呟くような、けれど鮮明に鼓膜を叩いてきた声に、俺は体勢を戻した。
女性の口元は、どこかわなわなと震えているように見える。
「どうして、みんな…………」
そこまで言うと、女性の震えは間もなくして全身へと伝播し、行き場を失っていた両腕を上から下へ、勢いよく振り下ろした――。
「――どいつもこいつもォォ……ッ!! ええ……ッ!? 魔術、魔術、魔術……! 魔術魔術魔術魔術魔術魔術……ッ! って、バカの一つ覚えみてぇに騒ぎ立てやがってよォ……ッ!!」
その時――ひっ、と。
見てはいないが、背後よりイーシャの小さな悲鳴が聞こえたような気がした。
イーシャの眼には、今の母親がどう映っているのだろう……。
俺は、母親は別の意味で鬼人と化しているように思えた。
「腹が立って仕方がないわ……! “魔術”を正義だの、宝石だの、女神だのと崇め奉っているヤツどものイカれた神経に……! 私は吐き気を催す……ッ!! 物事の全容がまるで見えちゃいない……! そういったヤツどもは、切り取られた一端を垣間見ただけでいい気になってるだけの中途半端な連中なのよ……!!」
ビリビリと、今までの中で一番空気が張り詰めている。軽い地震に近しい体感だ。
今、この場は母親の領域が支配していた。他の有象無象が入り込む余地は無いと言うような、緊迫感に包まれている。
……だが、俺にはどうしても納得のいかないことがあった。
だから一歩を踏み出し、その領域に侵入しようと試みる。
「……どうして、そこまで“魔術”を憎むんだ」
「教える義理はないわよ」
呆気なく一蹴されてしまった。
しかし、それでも俺は尚、前へ踏み出そうとする。
「……人に危害を加えそうになっておいて、その言い方はないと思いますよ」
「…………」
右腕を胸の前に持ち上げてそう言うと、女性は舌打ちし、俺をものすごい形相で睨んできた。
どうしてここ最近の俺は、こうも女性に嫌われる機会が多いのだろうか……。
なんてことを考えていると、やがて女性は一つ嘆息をし、俺から視線を外した。
「……。……夫は伝統工業を営んでいた」
腕を組み……静かに、それでいて雄弁に言葉を語り紡ぐ女性の陰に、今はもはや鬼人の姿はなかった。
「自ら材料を選別し、自らの手で、培われた技術で物を生み出していく……代々古くから伝わる栄誉ある職業であると、夫はいつも私にそう自慢していたわ。……けれど最近になって、製造業界の間で物を安価に、そして大量生産しようとする動きが見られ始めた。特に、人口が密集している大きな都市や市街地の方でね」
「……。まさか……」
「ええ、“魔術さま”とやらのおかげよ。……フンッ。まぁ、考えてみればそうよね……。物を安価に取得できるのであれば、それに越したことはないわ。長期的に使う物でなければ尚更ね。だから私は、そういった時代の流れに文句を言いたいわけじゃないの……」
そこで女性は、鋭い視線を俺に――俺たちに向け直した。
カンッ! と、甲高い靴音が反響する――。
「この吐き気は、“魔術”を絶対的な成功へと結びつけ、一つの生きる手段でしかないそれを“魔術さま”と神格化し、『“魔術”があればすべてが解決する』『“魔術”がすべてを救済する』と勘違いし、挙句の果てには空前の“魔術”時代を作り出そうとしている、思考停止のボケナスどもに向けられているのよ……! 少なくとも、私たち家族はその“魔術さま”のおかげで苦境に立たされているわ……! 客足はみるみるうちに減り、一つの家族を支えていた職業は廃れ、夫は生きがいと誇りを失った……!」
ギュゥゥゥ……と、女性の拳が固く握られる。
「なにが“魔術”よ……クソクラエッ!! “魔術”が正義だなんてデタラメよッ! こんな時代が……こんな世界が間違っているのよッ!!」
最後の方は、ほとんど感情的に、祈りを叫び出すかのようだった。
ハァ……ハァ……と、女性は軽く息が弾んでいる。
女性の言葉を最後に、周囲一帯には静寂が漂っていた。
俺は……この女性が“魔術”を嫌悪するまでの過程に、現実と、これほどまでの信念が伴っているとは思わなかった……。
「ッ。でも――」
「“魔術”が無ければ、俺の腕は無事じゃ済まなかった」
イーシャが口を挟んだのは想定外だった。
…………。
が、俺の言葉を聞いて引き下がってくれた。
俺はイーシャの善意に甘え、もう一度右腕を胸の前に持ち上げると、女性に示して見せた。
「……“魔術”が有ったから、今ここで大切な人を守ることができた」
「…………」
正面から女性を見据えてそう言うと、女性はなんとも言えない表情になった。強いて言えば臭いものを嗅いだ時のような表情で、まだ怒りの成分も含まれているように思える。
けれど、俺は今のその言葉に、どこか自信のような感情を抱いていた。女性の言い分を聞いている限りでは女性は間違ったことは言っていないように思えたのだが、俺も間違ったことは言っていないように思えるのだ。
「――それに」
ただ一つだけ確かに言えるのは……先程の女性の“行為”に関しては、間違っているということだ。
「…………」
女性が口を挟むことはなかった。
俺はわずかに体勢をずらし、背後のイーシャに指を向け、
「もしも、俺もフランカも庇っていなかったら、イーシャが……あなたの娘さんが怪我をしていたんですよ?」
――!
そこで女性は、先程とは少し違った驚愕を露わにした。眼前の光景をまじまじと見つめている様子だった。
「お、かあさん……」
イーシャもまた、女性からの視線をしかと受け止めている様子だった。
「お……。……。お、お母さん……! わたっ、わたしは大丈夫だよ! 怪我なんて何にもしてないし! ホラっ! 立って歩けるでしょ? だから何にも問題はないよっ!」
イーシャはおもむろに立ち上がり、そう言った。
両手を広げ、左右に二度身体をひねり、問題がないことをアピールしている。
「……。…………そう、ね。何もなくて……良かったわ……」
ストン、と肩を落とし……女性は、先程までとは打って変わったように意気消沈している。煮えたぎる憤怒はどこへやら、といった感じだ。
それからクルリ、と女性は何も言わずに踵を返した。
覚束ない足取りで店の出口へと向かっている。
イーシャは俺の隣を横切り、その後を追いかけていった。
「――“魔術”って、やっぱりスゴイですね」
寸前、イーシャに小声でそう囁かれた。
隣を見やると、イーシャが悪戯っぽい表情でこちらにウィンクをかましていた。
俺は少しだけ綻んだ。
「キミは……ただキミの道を行けばいい」
励まそうとしたつもりだったが、イーシャはどことなくバツが悪そうに視線を逸らした。
「……。守っていただいたのに……ごめんなさい。――でも、ありがとうございます」
しかし杞憂だったか、イーシャは魔術を語っていた時のような笑みをこぼした。
その後、イーシャは振り返ることなく、小走りで母親の元へ駆け寄った。
元気そうに母親へ語りかけると――母親の手を握り、イーシャが先導して店の出口へと歩いていった――。
「焦るこたぁ……ないですぞ」
と、イーシャと……その後ろをとぼとぼと歩く母親の足も止まった。
二人とも、ある方向へ首を向けていた。
――玄関前に設けられた、丸椅子と丸い机が置かれている簡素な休憩スペース。
そこには、二人の接客をする前にフランカが話していた貴婦人が、未だ『コヒノコ』をすすり静かに座っていた。
身の丈に合った上品な服をきれいに着こなしている見た目とは裏腹に、しわがれ声と老婆のような語り口調が特徴的だった。
貴婦人は語る。
「急いても急いても、なーんにも良いことはありませぬ……。見えているものが見えなくなるだけ……。追い風に思えたそれは、大切なモノを見失わせようとさせる魔の仕業……」
もはや湯気の立っていないカップを静かに置き、貴婦人はわずかに顔を上げた。
「道は……歩くものですぞ……? ゆっくりのんびり歩いた方が、気分も良かろうて……。まだまだ……駆けるには日が浅いじゃろうに……。……ところで、今日の空は……もう拝んだかの……?」
貴婦人は、終始優しい声音で語りかけていた。
いや、それは誰かに語りかけていたのか、はたまた大きな独り言だったのか……それは貴婦人を前にしている二人にも判別がつかないのではないだろうかと、俺は推測する。
…………。
結局、二人は軽く会釈をしただけで、何も言うことなく店を立ち去っていった。
小首を傾げていたイーシャはともかく、母親がどんな表情をしていたのかは、貴婦人にしか分からない。
そして俺は、そのことをわざわざ尋ねることもなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
二人が店を後にしてから間もなくして、貴婦人も腰を上げた。
先程までのいざこざなどまるでなかったかのような笑みを引っ提げ、あまつさえ『コヒノコ』の味を詳細に賛美していた。
「ふえっひぇっひぇっ……。『LIBERA』へ来ると、みーんな変わる。みーんな笑顔になりますの……」
語り口調も独特だと思ったが、笑い方も同等だった。
これまた足取りの覚束ない貴婦人を俺とフランカが店頭まで見送ると、店内はまたひっそりとした静寂を取り戻した。
あれだけ騒がしかったからか、ひとたび誰もいなくなってしまうと、余計に静寂を強く感じてしまう。そして、俺とフランカはその静寂を中々破ることができなかった。
「……かないませんね、私は」
カウンター前――隣に並んでいたフランカがそうボソッと呟いた。
もちろん、随分と間を置いてのことだった。その間に新規の客人が来店してこなかったのは、ある意味で幸いだった……。
「ユウさんにも……。あの子にも…………。……私は本当に、かないません……」
項垂れているフランカの表情を拝むことはできなかった。フランカの長髪が邪魔しているのだ。
だがやはり、俺はそれをわざわざ確認しようとは思わなかった。
その言葉に対して、何か気の利いた一言を投げかける意思も……。
「……ユウさん、腕は大丈夫ですか?」
「……あ。お、おう……」
「……。そうですか……よかったです……。じゃあ、そろそろお店を閉めようと思うので、先に店頭の看板とか……片付けてきますね」
「お……おう……」
見ると――確かに、玄関先にある緑の扉の隙間から茜色の光線が漏れ出ていた。
そしてフランカは無言の俺に愛想を尽かしたのか、カウンターから離れ――ゆっくりと玄関先へと向かっていった。どことなく揺れた足取りで。
こんなにもそこまでの距離が長かったのかと思えるほど、フランカが店を出るまでの時間は恐ろしいほどに長かった。
「――――っ」
カランカラン! という軽やかなベル音により、俺は右手を宙へ伸ばしていたことを知らされた。
そう……俺は愚かにもフランカの背中に右手を伸ばしていたのである。
「…………」
……手を戻す。見つめる。
巻きなおしたはずの真新しい包帯が、また赤黒く滲んでいた。
「俺は……。…………。俺だって……。……俺の方が……………………。っ」
口にするのがはばかられるほど、それは自己嫌悪と悔しさに満ちたものだった。
直後――例のオルゴールが、店内に柔らかな響きをもたらす。
俺一人にはもったいないほどに曲調は明るく、そして温かい。
毎日耳にしているはずなのに、どうしてか今日はいつもよりも胸の内に音色が吸い込まれていく。
同時に、いつにも増して煩わしいこの音が早く止んでくれることを、俺は胸の片隅で祈るのだった。今の俺は、あの懐かしい静寂の方を好んでいたのだ。
……しかしそういう時に限って、メロディーはいつまで経っても鳴り止んではくれなかった。
この世界は、相変わらず俺に冷たいままなのだと悟った。