第40話 『あからさまな遭遇』
「ナデぃ――ッ! ……あ……」
俺は意図せず知人の名前を呼ぼうとする。
が、どうしてか途中で声が詰まってしまった。
「…………」
人影――ナディアさんが未だこちらに気付く素振りがないということは、おそらく俺の声は届いていなかったのだろう。
彼女は依然として、顎を少し持ち上げたまま微動だにしないでいる。その他一切はある意味で不気味なまでに自然体だった。
どんな表情をしているのか、はたまたどんな気持ちでそこに立っているのか……。そこそこ距離が離れていて、おまけに少々視力が悪い俺には無論量りかねた。
ローブの裾や長髪の毛先がそよ風に弄ばれても彫刻のように動かないものだから、いよいよこちらが不穏な空気を肌で感じる頃合いなのだが……。
何を見ているのだろうか……?
彼女の内情を推察するにあたって、唯一の情報源であるそれに焦点をずらすのは必然だった。
角度的に『LIBERA』……は論外だが、隣接して構えている『ファクトリー』の方でもなさそうだ。
ではその背後……ということになるのだから、もしかして、遠目からでも目視できる『LIBERA』の目印――“巨大樹”の方だろうか。
「……。……――!」
と、放心していた俺の存在に気付いてくれたのか、人影は明瞭な感情を以ってにこやかに笑いかけてきた。
――我に返る。
俺まで静止してしまっていたことに些か奇妙な感覚を得たが、それよりも内心で心配の情が解けていくのが分かる。
「やあ、イトバくん。こんな所で奇遇だね!」
遠方よりそんな大きな声が響いてくる。手も軽く振っていた。
どう見ても奇遇じゃなさそうな状況に苦笑を禁じ得ないも、「そうっすね。いやぁ、ホント奇遇っすね!」と、俺は適当な相槌で誤魔化した。
「ホント……偶然って怖いっす」
無意識ではあったが、言葉の後ろに続く形でそんなことをしみじみと呟いていた。
荷物を今一度抱え直し、俺はようやく歩みを再開させる。
遠慮から、走って距離を詰める必要はなさそうだった。
やがて店頭まで辿り着き、俺はナディアさんと改めて対峙した。
これも実に約五日ぶりの再会である。
「久しぶり……って、言っていいのかな」
頬を掻くナディアさんは開口一番、俺にそう言ってきた。
「勿論ですよ! お久しぶりです、ナディアさん! ここ五日ほどお姿が見当たりませんでしたけど、どこかへお出かけされてたんですか?」
「んー……ちょっとね。ちょっとした野暮用があって、ここら近辺から少し離れた所まで赴いていたんだ」
「へぇ~、そうだったんですね。あれから何も音沙汰が無かったから、もしかしたらポルク村を後にして、とっくにセリウ大陸のどこかへ出立されたのかと思いましたよ」
「ハハハ、そんなまさか。ウチは方向音痴だから、土地勘のない場所で目印無しに勝手に動き回ること自体ほぼ自殺行為に等しいし……それに第一、あの同僚を放っておいて無責任に逃げ出すわけにはいかないだろ?」
「そ、それもそうっすよね! あ……あははのは! 俺ってば何を言ってるんだか!」
「フフフ……」
ナディアさんは笑っていた。
笑ってはいるのだが……口端に薄ら笑いを浮かべ、ずっと困った表情をしている。
“あの日”の後ろめたさが尾を引いているのだろうか……。
確かに思い返せば、ナディアさんは“あの日”の別れ際も、俺とモナに申し訳なさそうな表情をしていた。
もしかすると、同僚であるルミーネの失態に対して一番強い責任を感じているのは彼女なのかもしれない。俺からすれば命の危機を回避してくれた救世主様なわけだが、ルミーネと互角――もしくはそれ以上に渡り合える“力”をその身に有している彼女からすれば、「もっと早く事態に対処できていたなら……」などと考えているのだろうか。
……まぁ大変遺憾なのは、たとえ理由があるにしろ、本人自身があまりそう感じていないところだが。
こちらも返答に迷うが、取り敢えず元気に快復したことを報告しようと思った。
「もう、そんなに気にしないでくださいよ! 五日間ほどの休養でこうして動き回れるぐらいにまで身体は元通りになりましたし、ルミーネには何も恨み辛みはありません。“あの日”きちんと面と向かって話し合って、一応理解しているつもりですから。なんとなくは」
語尾の『なんとなくは』が妙に歯切れが悪かったことは自分でも驚きだった。
それでも、凝り固まっていた表情筋をなんとか動かし、俺は今の俺にできる精一杯の笑顔を拵えようとした。
「……っ」
それを見て、ナディアさんも笑顔になる――どころか、ますます表情を寂しげなものへと変えていった。
が、真昼の太陽が見せた幻覚だったのか……。
喜色で目を細めていたナディアさんは、どこか安堵したように肩の力を抜いた。
「君がそんな風に優しい言葉を言ってしまったら、ウチはついつい謝りそびれてしまいそうだよ」
「い、いえ、だから謝らないでくださいってば……」
「ははは、そうだね。ウチがこうして湿っぽくしてしまうから、いつまで経ってもイトバ君が気を遣ってしまうんだよね……。ダメだなぁ、ウチは。五日ほど前に初めてここの“地下鍛冶場”で逢った時もそうだったのに」
ナディアさんはくいっと、真横の『LIBERA』――その左隣に隣接している『ファクトリー』を顎で指した。たった五日ほど前の出来事なのに、もう何年も前の出来事を懐かしむような物言いだった。
そんな感傷に浸るナディアさんを大袈裟に思う一方で、ああ、そう言われてみればそうだったかな……と、俺も記憶を探りながらひそみに倣う。
カンカンカン! という例の煩わしい音色は響いてこなかったが、今日も今日とて建物の上方にある煙突からもくもくと白煙を吐いている『ファクトリー』。
なぜかボッフォイの無骨で無愛想な容貌が脳裏に浮かぶ。
それまで“犬猿の仲”として完全に冷めきっていたボッフォイとの関係に、僅かながらの友情が芽生えたのも、確か“あの日”の出来事だったか。
……そうか。ルミーネの攻撃から俺を庇ってくれた印象の方が強過ぎて記憶が上塗りされてたけど、ナディアさんとはここで初めて出逢ったんだよな……。
おろおろと道に迷っていたところを村長に拾われ、ルミーネがポルク村にいると分かった途端に無鉄砲に飛び出そうとした、あの“おっちょこちょいな旅人”としてのナディアさんと――。
視線を戻すと、「学習してないよなあ」とナディアさんが頬を若干赤く染めながら自嘲し、髪を弄っていた。
それは、“あの日”の面影にどことなく重なるような気がした。
「――にしても、結構な荷物だよね。配達の依頼かい?」
意識が呼び戻される。
「……え? あ、これですか?」
急な話題の転換にやや遅れて反応すると、俺は両腕で抱えている長剣や依頼料の入った巾着袋を、赤子をあやすように軽く揺すって見せた。
「はい……ちょっと面倒なんですけど、長剣をリカード王国まで運ばなくちゃいけなくなったんです」
「これまた唐突だね。誰からの依頼なんだい? それにそんな物騒な代物を誰宛てに?」
「あー……こういうのは仕事の都合上、依頼主の個人情報とか依頼内容の詳細とかは他言無用っていうか、あんまし口にしちゃいけない決まりがありまして……」
「っと、失敬。なるほど、それなら仕方ないね。無頓着に尋ねたウチが悪かったよ。今のは忘れてくれ」
「なんかすみません……」
「何を言ってるんだい。君こそ謝らないでおくれよ。ウチもどう反応を返せばいいか分からなくなるから……」
「それに」と、ナディアさんは続けた。
「君はルミーネから理不尽極まりないあれだけの負傷を被ったにも拘らず、文句の一つも言わないで、今ではこうして職場に復帰し、また一生懸命に業務をこなしている――。本当に立派だと思うよ。ウチはイトバ君のそういうとこ、案外尊敬してるんだぜ?」
「い、いやぁ、どうなんでしょう……。ははは……」
乾いた笑いしか漏れてこない。
お茶目なウィンクまで披露してくれたナディアさんは、本心からそう言ってくれているのかもしれないが、おそらくその言葉は俺の中でお世辞以上の意味合いを持たなかったのだろう。
あるいは、その言葉がお世辞以上の意味合いを持っていることを俺が知らないだけか――。
いずれにせよ、素直に喜べなかった。
「……。それ――」
「へ?」
――と、その時。
突然ナディアさんが、俺の胸元辺りにピッと指を向けてきた。
顎を引いて確認すると……そこには、先程まで散々にらめっこに付き合ってくれていた白い手紙――“ルミーネの紹介状”の一端が、長剣と巾着袋との間に挟まる形でひょっこり姿を露わにしていた。
ドキッ、と心音が乱れた。
「あ、ああ……これですか? この、白い手紙みたいなやつ。実はですね……これも――」
言葉が風に攫われた。
「――ッ!?」
俺が次に瞬きをした時には既に、数歩先で会話をしていたはずのナディアさんは俺の眼前にいて、しかし視線は相変わらず俺の胸元にあるそれに注がれていた。
自分の身長以上の巨大な影と突風の襲来に、俺は驚きで目を見開いたまま、危険を察知した時の動物みたく硬直した。――が、不思議とそんなに威圧感はなかった。
いくら数歩詰めれば届く距離とは言え、流石に歩けば足音がしそうなものだが……果たして音はそこにあっただろうか。
「…………」
「…………」
ルミーネも色白で端正な容姿をしていると思ったが、ナディアさんもナディアさんで凛々しい顔立ちをしていた。
“男勝り”とは少し毛色が異なるが、かと言って、フランカやモナのような華やかな愛嬌があるわけではない。
上手く説明ができないが……。
スッと細い鼻筋が通っていたり、睫毛が長かったり、唇の厚みが薄かったりと、それこそ女性らしい美しさは各所に見受けられるのだが、それらが“愛嬌”ではなく“凛々しさ”として機能している――とでも言えばいいのか。
……“眼”だろうか。
ルミーネもそうだったが、彼女らの目には何かを訴えかけてくるような力が秘められている気がする。
睫毛が長いだの、形が整っているだの、瞳が大きくて透き通っているだの……。
そういうようなただ単純な美しさとは違い、それは高山の頂上で雨風や雪に曝されながらも決して朽ちず、いつまでも天に向かって咲き誇る華のような、一種の“気高さ”に思えた。
彼女らと初めて出逢った時に、俺が一目見て純粋に「綺麗だ」と感じた主な要因は、そこにあったのではないだろうか。――って、何を長々と語っているのだろうか俺は。
――ふと、ナディアさんの背中から柔らかい風が運ばれてきた。
ナディアさんの赤朽葉の長髪がゆらゆらと四方に靡いている。
無言で目を細めていたナディアさんは、その流れに身を任せるように静かに手を伸ばし、ゆっくりと“ルミーネの紹介状”を手に取った。
「……ッ!」
ダサいことに、自分よりも身長が高い彼女の大きな動作に、俺は咄嗟に目を瞑り身構えてしまった。
「……っ」
直ぐに開くと、ナディアさんは例の白い手紙をまじまじと見つめていた。
気のせいかもしれないが、目を細めた表情は先程よりも苦々しく、険しいものだった。
そして――
「ルミーネの紹介状、だよね? これも届けに行くんだろ――リカード王国まで」
「な……っ!?」
ドクン! とまたも心音が荒立ち、今度はいよいよ心拍数が上昇し始める。
鼻息も荒くなっていた。しかし構わず、俺は強引に肉薄してでも真相を尋ねないわけにはいかなかった。
「ど、どうしてっ! だって……だって“裏庭”には、俺とルミーネの二人しかいなかったはずじゃ……!」
「……。やっぱりね」
「……!?」
肩を竦め、眉尻を下げるナディアさん。
今の俺の発言を以って、何かが確信に至ったという様子だった。
「ふぅ…………」
俺から視線を逸らし……。
ナディアさんが腹の底から絞り出した重い嘆息には、嫌悪の情に近しい淀みが感じられた。
「ごめん、イトバ君……。……鎌をかけた」
「!」
「本当はこういうの苦手だから、あまり気が進まなかったんだけどね」
そう言うと、ナディアさんはまた困ったような顔で頬を掻いていた。
言い訳がましく聞こえるのが分かっていたのだろう。
だから彼女は、予め俺から視線を逸らしていたのだ。
別にそんなことは特段気にしていないが、それよりももっと他に気になることがある。
「……なんで、その手紙の差出人がルミーネだと、思ったんですか……?」
恐る恐る尋ねたつもりだったが、彼女は存外にもあっけらかんと答えてくれた。
「これは“勘”って言うのかな……。なんとなく、なんだけどね……ルミーネが君にまた何か良からぬ悪事を企てているんじゃないかって心配になったから、一度見舞いがてらルミーネの元へ顔を出しに行ったのさ」
「直接、ですか……!?」
「ああ。そしたらどうだい……やはりそんないかがわしい“紹介状”なんかをリカード王国まで配達させようと、完治途上の君をこき使ってるって言うじゃあないか。ったく、その怪我を負わせたのはどこの誰だって話さ。……あぁ、今思い出しただけでもムカつくぞあのトンチキ野郎め! いつも何様なんだあいつはっ!」
ルミーネに対して相当の鬱憤が募っていたのか、ナディアさんはそれからも次々に愚痴を吐いては捨て、吐いては捨てを繰り返し、終いには頭を洗うような勢いで頭髪をぐちゃぐちゃに掻き回していた。
いつも温厚そうなナディアさんをここまで怒らせるとは、さぞかしルミーネは普段から“放浪魔術師”の名に恥じぬよう、随分と勝手気ままに振る舞っているようだ。
「でもよくよく考えたら、確かにおかしな構図だよな……」
まぁ、それを甘んじて受け入れている俺の方にも問題はあるのだが……。
と、そこまで話していて、もう一つ余計に気になることが見つかった。
忘れかけていた下心をくすぐられたせいだ。
「……一応、聞いてもいいですか?」
「ん? 何をだい?」
俺の呼びかけに存外にもナディアさんは反応を示し、ついでに頭髪を掻き回す両手をピタリと静止させた。
ルミーネの同僚且つ俺が知る限り最も親密な間柄であるナディアさんだからこそ、この質問には期待を多分に込めている。だから、俺はこれが例の“危うい好奇心”だと自覚していても尋ねた。
返答次第では、悪臭漂う水瓶に首を突っ込むことになるかもしれないが……。
俺は賭けに出た。
「ナディアさんは中身を知ってたりするんですか? 紹介状の」
「ある程度は、ね」
「――ッ! 知ってるんですか!?」
思わずぐいっと身を乗り出していた。
対照的に、ナディアさんは不思議そうに俺を見つめ返してくる。
「え……まさかルミーネ、紹介状の内容喋ってないの?」
「あ……えっと、“配達屋が依頼人の内情をあれこれ探り回るのは、あまり褒められた行為ではないのでは?”ってルミーネに言われて、俺もその意見に同調したというか……」
「ったく、あいつはどこまで……。まぁ、ウチもその考えに一理なくはないが……」
そう言うと、ナディアさんは軽く舌打ちし、ほとほと呆れたように頭を掻いた。
そんなナディアさんの様子に、俺は違和感を覚えざるを得なかった。
「極秘的な何かじゃないんですか……?」
「ん? あぁ……紹介状自体にそういった意味合いは含まれていない――って、ルミーネは言ってたよ。単なる“現状視察”だって」
「現状視察……?」
「ああ、そうさ。現地へ赴けない自分の代わりとしてね。ほら、あいつ今どこへも行けない状態だろ? だからだよ。……あぁ、イトバ君は多分知らないかもだけど、異世界での『魔術師』の仕事としてはよくあることなんだよ。定期的に近場の村や街、近隣の国なんかに、それこそこんな感じで“紹介状”をしたためて、何か困ったことや異常が起きていないかを確認する業務がさ」
となると、必然的にこう思うわけだが――
「そ、それって……じゃあ、今回この時期にルミーネがリカード王国へ紹介状を送るってことは、今リカード王国で何か問題が発生してるからってことなんですか?」
「アハハ、そう思うよね? ウチと一緒だ。なんで“今”なんだ、って」
意外な返答で、俺は目を丸くした。
「……? ナディアさんも、そう聞いたんですか? ルミーネに……」
コクリ、と彼女は小さな頷きを返す。どうやらそうらしい。
「よりによって、そんな面倒臭そうな業務をあいつが突然し始めたからねぇ……」
片手を腰にあてがった体勢で、ナディアさんは俺から少し体を逸らし背を反らすと、もう片方の手で前髪を掻き上げた。
すると白い額が一瞬露わになり、数本の毛髪が彼女の指の隙間から零れ落ちる。
……彼女は遠くを見つめていた。それはまるで、白昼の太陽の熱に浮かされていないか確かめているかのようだった。
ルミーネが紹介状を書くというのは、つまりそれだけナディアさんにとっても信じ難い行為だったのだろう。親密な間柄にあっても尚ここまで驚愕させるほどに。
――と。
俺がポカンと口を半開きにしていることに気付いたのか、ナディアさんは補足的に話してくれた。
「あいつが一番嫌いなことなんだよ、そういう面倒臭そうなこと。……まぁ、だからウチらはどこの組織や派閥にも属さない在野の“放浪魔術師”なんて肩書きを名乗って、こうして自由気ままにやってるのかもしれないんだけどさ……」
「…………」
その言い方には、どことなく棘が含まれている気がした。自傷するための毒の棘が。
しかし彼女は苦痛を感じるどころか、寧ろすっきりしたような晴れ晴れとした笑顔をこちらに向けた。
前髪を掻き上げていた手を下ろした。
「――それでも。曲がりなりでも、一応『魔術師』だからね。あいつもウチも」
ハラリと垂れた毛髪とザクロ色の視線が交差する――。
そう言うと、ナディアさんはおもむろにこちらへ歩み寄り、手にしていた紹介状を元の場所に優しく戻した。
それから一歩後退り、今度は腰に両手をあてがって若干胸を張ると、軽く鼻を鳴らした。
爽快な緑風に包まれながら、また一段と輝きが増した瞳の奥の赤い情動を垣間見せ――彼女は口火を切る。
「そこで、だ。提案なんだが――ウチは君の配達に同行することにしたよ」
「へぇ、ナディアさんがリカード王国まで一緒に付いて来てくれるんですか? それは頼もしいですね!」――――――――え?
今、この人何て言った……?
会話の流れでそのまま聞き流しそうになってしまったが、脳裏で彼女の言葉を反芻していると、何かとんでもないことを見逃していることに気付いたのだ。
素っ頓狂になっているであろう面構えで彼女の方を見やる。
と、ナディアさんは「あ~、こんな回りくどいことするんだったら、最初から素直に用件伝えるべきだったよなぁ~」と何やら額に手を当てて後悔している。
やがて決心がついたのか、彼女はブンブンと頭を左右に振り、こちらを見据え直した。
ザクロ色の瞳は、それでも愚直な輝きを俺に訴えかけてきた。
「……本題に移ろう、イトバ君。ウチは君に、“二つ”ほど伝えなければならないことがある――」
「二つ……」
「そうだ。そして、ウチがここに来たのはそのためだ」
ピッ、とナディアさんは手の甲を見せる形で人差し指と中指の二本を立てた。
ゴクリ、と生唾が喉を通る。
『LIBERA』の店頭で佇む姿を見かけた時から、まさかウチに買い物に来たわけじゃないよなとは薄々思っていたが、やはりその通りだったようだ。
ナディアさんは言った。
「まず一つ目は――今し方言った通りになるが、君の配達の仕事にウチを同行させてほしい。無論、これはウチの個人的な意志によるものだから、同行を許可するか否かの判断はイトバ君に任せるよ。信頼できないと思うのなら、この場で拒否してくれても別に構わない。君がどちらを選ぼうと、ウチはただ為すがままに……謹んで答えを受け入れるだけさ」
「……。やっぱり……さっき仰ってた『魔術師』の仕事ってやつを、ナディアさんも勤めに行くためですか?」
「それもある。し……」
「“も”……?」
小首を傾げると、ナディアさんはやれやれといった様子で俺の右手に視線を投げた。
刺さったわけではないが、反射的に右手がピクっと反応し、鈍痛が再来する。
痛みを宥めるように、和らげるように、俺は右手の五指を内側へと閉じた。
忘れてしまっていた感覚を取り戻すように、機械的なまでに……ゆっくりと。
「ハァ……。そんな身体で大丈夫なのかい」
「……!」
わざと気丈に振る舞っていたのを見透かされたかのようで、なんとも羞恥に堪えない。居た堪れない。
同時に、自分の非力さに対する嫌悪と申し訳なさに押し潰されそうになる。
ナディアさんの口調が柔和なものだからこそ、余計そう感じてしまうのかもしれないが……。
「だから」と、彼女は続けた。
「もしウチが同行できるのなら、その際は“護衛”ぐらいに思っておいてくれ。イトバ君に何らかの有事があった場合にウチが対処できるように、ね?」
俯き加減だった顔を上げると、彼女は苦笑しつつも再度ウィンクをしてくれた。
そのウィンクにどこか安心感を覚えると、微笑ではあるが、今度は少しだけ笑えたような気がする。
「で、二つ目なんだけど――」
そう言うと、ナディアさんはローブの襟元から胸の内側へ手を突っ込み、そこをゴソゴソとまさぐり始めた。
……ドキッとしてしまう男の性にはそろそろ目を瞑っていただきたい。俺だって健全な男の子なんだ……。
にしても、ルミーネにしろナディアさんにしろ、どうしてそう『テッテレ~』とでも言わんばかりに懐からいちいち物を取り出してくるのか……。
ポケットが内側に取り付けられているからだろうか。あるいは、本当に四次元的な構造をしていたりして……。
確かに改めて思い返すと、『魔術師』が普段着用しているローブには外側にポケットが見当たらない。外出時などに手軽に小物を収納できる場所がないというのは、中々に不便なように感じるが……代わりに懐に何でも収納できてしまうのなら特に問題はないのだろう。
「はい、コレ」
チャリ……という音を引き連れて、ナディアさんが例の懐から何かを引っ張り出してきた。
手を出すよう促され、咄嗟に右手を出すと、その上に“何か”が羽の如く舞い降りた。
――陽光が反射する。
それは――この言い方で正しいのかは分からないが、“ペンダント”のようなモノだった。
「な、何ですか? これ……」
現実世界でも異世界でも、これまで“ペンダント”なんて何度も目にしてきたはずなのに、まるで今初めて知ったかのような素振りで俺はそれをまじまじと見つめた。
――実に簡素な代物だった。
銀色を纏った、指輪ぐらいの大きさの小さな円環が黒い首紐に繋がれているだけの、どこにでもありそうなごく普通のペンダント。
どちらも何の飾り気も無く、先端の輪形に至っては所々黒く変色していて、子供が道端で拾ってきたただの奇形の石だと言われても納得しそうな代物だった。
「――贈り物だよ。ルミーネから君に」
「ルミーネが? 俺に……?」
もう一度、その贈答品とやらに視線を落とす。
「そ。ウチは確かに渡したからね」
あっさりとした言葉で話を切ると、ナディアさんは片手をひらひらと振って踵を返した。
『LIBERA』を訪れた目的である二つの用件を無事俺に伝えることができ、文字通り用済みとなったからだろうが……流石にこれは一方的過ぎる上に意味が分からない。
「こ、これって、一体何なんですか……!? なんでルミーネは俺にこんなものを……」
焦ってナディアさんの背中に声をかけるも、彼女は別に立ち去ろうとしていたわけではなかったことに後で気付いた。
首を巡らし、肩を竦めて静かにかぶりを振ったナディアさんは、物憂げに嘆息した。
「さぁね。ウチにもルミーネの真意までは分からない。……ただ、それは別にイトバ君が危惧しているような危険なモノじゃあないし、寧ろあいつがこれまで大事に持ってたモノだから、せめて無下に捨てないでやってくれ。でも使う・使わないは、イトバ君の好きにするといいと思うよ」
「ど、どう使えば……」
「どうって……はは。装飾品なんだから、身に付ける以外の用途はないと思うぜ」
快活に笑い飛ばされ、それもそうかと俺は無言で頷く。
しかし、これを使ったところで何か意味でもあるのだろうか……?
いや、装飾品を身に付ける理由なんて外見をオシャレに着飾る以外の何物でもないのだが……ルミーネがわざわざこんなモノを俺に渡してきたということ、そして異世界が一体どういう場所なのかということを改めて踏まえると――
「“魔術”的な加護があったり……?」
「しないと思う」
「……。首がギューっとか、スッポーン――」
「だから何ともならないってば」
「…………」
妙な静寂が微風と共に訪れた。
俺がこのペンダントを装用するのを待っている時間にも思えるし、別れの文句をお互いに考えあぐねている時間のようにも思える。
けれど、どちらにせよ“会話の適切な切り出し方”が求められていることに変わりはなかった。
「…………っ」
俺は……やはりどうしても、今この場で装着する気にはなれなかった。
だからこのまま、風と共に時間が流れて行けばいいと敢えて沈黙を保っていたのだが……。
「じゃっ。用件も伝え終えたし……君もこれからまだ仕事があるんだろ? だったら営業の邪魔にならないよう、ウチはとっととこの場から退散するとしようかな」
ありがたいことに、ナディアさんの方からきっかけを作ってくれた。
「――あ、そうそう。明日、ウチがまた『LIBERA』へ出直すからさ、できれば今晩辺りにでもゆっくりと考えておいてくれないかい? 配達の同行の件。急を要するようで心苦しいけど……どうかな?」
「あっ、はい。俺はそれで構わないんで、全然。はい……」
段々と、視線が斜め下へと降下する――。
何も大丈夫なことはないのに、平然とそう口を衝いてしまう自分に嫌気が差すのと同時に、ナディアさんへの後ろめたさも感じた。
雑然と散らかったままのモヤモヤした気持ちだって、まだ一つも整理できずにいるのだ。それなのに、ナディアさんの同行の件を明朝までにじっくりと考えられる余地が、果たしてあるのかどうか……。
「んじゃっ、そういうことでまた明日だね、イトバ君。午後からの営業も頑張って。豊穣の女神のご加護があらんことを~」
激励し、気軽な調子で別れを告げたナディアさんは俺に背を向け、本来立ち去ろうとしていた方向へと歩き出した。
その進行方向に違和感を覚えた俺は、気付けば口を開いていた。
「ナディアさんは、これからどちらに行かれるんですか?」
「ん? わっち? ポルク村だけど」
「…………」
「……ん? どうしたのさ。何か問題があるかい?」
きょとんとした、それこそ鳩が豆鉄砲でも喰らったかのような素の表情で、ナディアさんは小首を傾げている。
…………。……どうやら。
どうやらこの反応を鑑みるに、俺の言いたいことが本当に伝わっていないようだ……。
「あの……ナディアさん」
ゆっくりと……戸惑い気味に。俺は体を右に半回転させると――スッと、指を向ける。
――遥か彼方へ。
「ポルク村は――あっちです」
「――――」
無言、無言、無言。
「…………」
「…………」
無言、無言、無言……ぐらいで、ようやく彼女の片眉がピクリと持ち上がった。
「コホン」、と。
慎ましやかな咳払いが挟まれた後、顎に手を添えていた彼女がこちらを振り返ると、何やら神妙な面持ちで思考に耽っていた。
そしてスタスタと、早足に近い敏速な歩行で俺の元まで戻り、通り過ぎようとした――直前。
ピタリ、と俺の眼前で静止し、そのままの体勢で彫刻として落ち着いた。
「ところでイトバ君」
「間違えましたよね? 今」
「ところでイトバ君」
「…………」
若干強い口調だった。
明らかに話を逸らそうとしている。
この人、もしかして自分の“方向音痴”がコンプレックスだったりするのか……?
そうであれば、一人の紳士として女性の弱みをあまり掘り下げない方がいいだろう。
「……。はい、どうしましたか?」
というわけで、場の空気を読んで躱した。
――ナディアさんはチラリと、こちらに視線を投げる。
「ところで、フランカはあれから達者にしているかい?」
「――!」
心臓の跳躍が、またも前回の自己記録まで到達した。本日二度目である。
「実は彼女のことも気になっていてね……。“あの日”の一件で、彼女にも酷く気苦労をかけてしまったみたいだから」
「…………」
……何も言えなかった。なぜだろう……?
フランカは、“あの日”から五日ほど経った今でも元気に働いている。
不器用なりに一生懸命働いている。
毎日誰にでも同じ笑顔で元気に挨拶している。
お客さんにだって、俺にだって……。
元気に。元気に、元気に……元気に…………。
「…………」
ポン、と右肩に大きな、それでいて優しい温もりが置かれた。
ハッと我に返った俺が右隣を見やると、ナディアさんがすれ違いざまに、俺の耳元にそっと顔を近付け――こう言ってきた。
「――君が、あの子の良心になってやれ」
「えっ…………」
いまいち何を言われたのか理解できず、ぼんやりと脳裏で言葉を咀嚼していると、突然右肩から温もりが消えた。
思わず振り返ると、暗緑色の大きな背中は段々と遠ざかっていくところだった。
が、やがて止まり。
数瞬。躊躇うような素振りを見せた後、彼女は――
「……。わっちに言えるのは、それぐらいだ」
振り向いた彼女はそう言って、また困ったように笑う。
どこか寂しげな印象は終始拭えなかった。
「……っ」
――ふと。
眼前を風が横断し、目を閉じて次に開けた時にはもう――彼女はどこにもいなかった。
「…………」
渡されたペンダントに視線を落とす。
そっと握り締め、俺は『LIBERA』の玄関先まで歩を進めると、馴染みの緑の扉――その取っ手に触れようとする――――。
「待てよ……」
動きが止まった。
「ルミーネはどうして……」
…………。
「…………ょっと……」
「……!」
扉の向こう側に、誰かがいる。
扉の向こう側で、ガタン、ゴトン、と物を置いたり歩いたりと、忙しない生活音が響いている。
思考は掻き消され、俺は呼ばれるがままに取っ手を握り、扉を開けた。
「……俺には……」
――カランカラン! と軽やかにベルが鳴り、我が家は俺の帰宅を告げる。
「……俺には、お前のことがよく分からないよ…………」
バタン! と閉まり――。
勢いよく鳴った背後の音に襲われ、俺は胸中で不安の苗がしっかり根付いていることを認識するのだった。




