第38話 『その後。裏庭にて』
三人称視点の回です。
※今回更新が遅れたのは、迷惑なウィルスに怯えて若干鬱になりかけていたためです。小心者で申し訳ないです。……あ。あと今回は割とガッツリ書いちゃいました。てへっ☆
「なぁんだ。やはりウブなんじゃないか……」
そうぼやき、ルミーネは誰もいない虚空の彼方へ声を放つ。
今し方、こちらの裏庭とポルク村の表世界を結ぶ“境界の狭間”を青年が潜り抜けて行ってからは酷く静かなものだった。風の戯れによる木の葉のさざめきが、少々煩わしく感じられるほどに……。
だが決して、ルミーネは寂しいわけではなかった。
彼を見送る際、此度の目的である“手紙の配達依頼”を曲がりなりにも請け負ってくれた彼の背中には期待しか込められておらず、寧ろ胸中は喜悦の情で弾けている。
「咄嗟の思い付きだったが、存外良い依頼料になったのかな? ……これも」
視線を戻し、再度唇に細くしなやかな人差し指をあてがうルミーネ。
厚みの薄いそれは一時青白い様子を見せていたものの、やがて指で触れた箇所から徐々に元来の薄紅色を取り戻していった。
と、その時。自分の口づけで取り乱した先程の青年の醜態でも思い出したのか、ルミーネの口元が「クヒヒ」と緩み、ルミーネにしては珍しい陽気な表情を覗かせた。
……“目的があって青年を裏庭まで呼び寄せた”とは言いつつ、久々に話し相手ができてそれなりに楽しめたのも否めないのだろう。
ルミーネは冷徹で気高い孤高の魔術師ではあるが、決して孤独を愛する人間ではない。
かれこれ約五日間、息苦しい閉鎖空間でずっと軟禁されていたのだ。
誰にも会えず、誰にも会わされず……。
身近にいる人間は警備の者たちと村長夫妻のみで、朝と夜の毎日二度の食事と水浴びの時しか顔を合わさず、無論敵意で目を光らせている彼らに会話――ましてや雑談などを所望するのは困難の極致と言える。
全ては自分の責任だった。
“あの日”――青年を痛めつけなければならない理由があったとは言え、こうした現況に身を置き、人間関係を変えてしまったのは紛れも無く彼女自身の責任に他ならない。
自分の犯した行為が、今の自分を形作っているのだ。
そんなことは、ルミーネ本人が一番よく分かっていることだった。重々知っているはずだった……。
ただそれでも……それでも、約五日間あらゆる権利を剥奪され、翼をもがれた孤独を愛さない人間にとって、消息不明のナディアを除いて唯一会話が可能な知人がたまたま近所を通りかかったら、無意識の内に喜んでしまうものである。
たとえそれが、“中央大陸の『オーティマル王国』に籍を置く魔術師”という大層な肩書きを所持した人物であったとしても……。
人間であるルミーネは、無意識の内に喜んでいたのかもしれない。
「しかしあくまで目的のためだ。青年がアレで依頼を受諾してくれていなければ、別の手を考えなくもなかったが……」
冷静に思い直し、口先から指を離したルミーネはそのまま手を開くと、掌に視線を落とす。
「ハァ……」と嘆息を吐き、瞑目し、なんとはなしに眼前の木の幹に視線を移す。そこは、先程まで彼が座っていた場所だった。
……そういえば、と。
よくよく考えてみると、やはり彼は実に奇妙で不可解な人物だ、とルミーネは思う。
彼だって、ここにいる村民同様ルミーネに怯えているはずなのだ。それは裏庭にやって来る直前に“隙間”の前で行くか行くまいかと躊躇し、立ち尽くしていたことが一つ。そしてもう一つは……
『……怖いのか? 私が』
というルミーネの直接的な質問に声を詰まらせていたことが、彼の心中で未だルミーネに対する恐怖心が蔓延り、払拭し切れないでいる証拠だった。
当然だった。考えることがバカらしくなるほど、当然のことだった。
彼は“あの日”殺されかけているのだ。
後一歩で泉下の客となる瀕死の状態にまでルミーネに追いやられ、二本の足で立って歩き回れるまで全治約五日ほどの怪我を被ったのだ。
会いに行こうと思えるだろうか。そんな自分を殺そうとした輩の元まで、再び。
行くとすればただのバカか……あるいは本物のバカに違いない。故に彼はバカだ。
しかも彼は、一足先に殺されかけた“あの日”の夜にルミーネに会いに行ったのだから、実際のところ彼のバカ具合は相当なものなのだろう。
ルミーネを監視する人物を例に挙げても顕著に判ることだった。
朝と夜の毎日二度の食事と水浴び、そして見張り番の交代の時などにルミーネは警備の者たちと目が合うのだが、彼らは時たま瞳孔が開いていたり鳥肌が立っていたり、食器を載せた盆を持つ手が若干ながら震えていたりする。怖いからだ。
そう、糸場だって少なからず怖かったはずなのだ。にも拘わらずなぜ……?
「…………」
……ああ、そうか。
それが『イトバ・ユウ』という人間なのか、とルミーネは納得する。
良くも悪くも、彼は純粋なのだ。
けれど何も特異なことではなく、まだまだ人間的にも社会的にも未熟な立場にいる年頃としては、寧ろごく普通でありきたりな性格ではある。
それが“経験値の不足”として悪い方向に働けば、危険を予測・察知する能力が乏しいため、“危険”の二文字が潜む暗がりでさえもそこまでの抵抗なく首を突っ込んでしまう。
一方で、彼がたった一ヶ月程度で『LIBERA』のフランカ、並びにポルク村の村民たち多数と親交を深めることができたのは、正しくその純粋さが幸いし良い方向に導いたからだ。純粋さは即ち“裏表の無さ”を暗喩し、おまけに彼の陽気(過ぎる)且つ社交的な性格も相俟って、人々の心を解きほぐすのにそう時間はかからなかった、というわけである。
ルミーネは十分に知っているはずだった。
“あの日”の“中央広場”で、老若男女に種族誰彼構わず、笑顔と優しさを向けられていたのはルミーネではない。
彼であることを――。
「憎いな。……色々と」
吐き捨てるようにそう言うと、ルミーネは黒い首紐に触れた。
そして目を閉じ、静かに呼吸を整えると、もう一度大きく上に伸びをする。
穏やかで温かい気候のせいか、ついでに欠伸も出てしまう。
「……ふぅ~う。さてさて、私もどうしたものかな……。このまま様子見するのもいいが、現況は少しばかり退屈が過ぎるな。店のことも気になる。……。……いや、それも含めてまず気にかけるべきはあの紹介状か……」
いつの世も、“絶対”なんて言葉はないんだ。
何事においても、成功と失敗の可能性は常に天秤の二つの皿にかけられている……。“絶対”というのは、そのどちらかが極端に傾いた時のことを指すだけであって、決してもう一方の可能性が失せたわけではない。
「まぁ万が一、青年にもしもの有事があって、事が上手く運ばなかった場合は――」
「――裏切って見捨てる、か?」
「!」
どこからともなく声が飛んできた。
ルミーネはハッと息を呑んだ。窓辺に置いていた右の中指が僅かに動いたが、努めて平静を保つ。
「…………」
左から右へ、注意深く視線を流すと同時に、今し方の正体が不明瞭な声を脳裏で反芻する。
そして――フッ、と口元が緩んだ。
「……なんだ。帰っていたのか」
「なんだじゃない。お前のために動き回ったおかげでこっちはクタクタなんだよ。……順序が逆だ。まずは労いと感謝の一言が先じゃあないのか? “あの日”に消費した『魔力』を回復したいからって予め言っておいたのに、無理矢理押し付けやがってこのボケエルフ」
「でも君は、私の言う通りに動いてくれたじゃないか。親愛なる友として」
“親愛なる”と言ったのは嘘ではないのか、自分を“ボケ”呼ばわりする若干言葉遣いが荒い声の主に優しく語りかけるルミーネ。
「……いつからそこにいたんだい? ――ナディア」
そのルミーネが窓辺に片肘を付き、例の悠然とした態度で友誼を込めた眼差しを向けた先にあったのは、先程彼が腰掛けていた木の幹……ではなく――その上。
新緑の若葉をドーム状に丸く広げている樹冠である。
「はぁ……」
ルミーネの視線は樹冠の中に潜む陰――ナディアの存在を的確に射抜いていた。
かくれんぼで見つかった子供のような嘆息を大きく、けれどようやく見つけてくれたかという安堵の吐息を小さく零すナディアは、樹木の太い枝を座椅子代わりにボーっとくつろいでいた。
両腕を頭の後ろで組み、長い脚を優雅に伸ばしている様は確かにくつろいでいる。温かな陽気にやられ、真昼間から道端で惰眠を貪る動物との差異を見つけるのが困難を極めそうなほどに。
そう言って問題ないのだが、ただ……ナディアの眉間に寄せられた眉根と額のシワが、“休息”の文字を少々懐疑的なものにさせる。
「…………」
「? どうしたんだ、ナディア」
「はぁ~あ。心外だ心外。高貴な『霊聴種』の魔術師で、しかも万能な“耳”をお持ちになられているルミーネさんともあろう御方が、まさかさっきウチが喋った内容を一言一句聞き取られなかったなんて。いやぁ、優秀な同僚として誇らしいウチからすれば、信じられないことだよなぁー」
最後は大袈裟に両手を上げる身振りを加えると――木の下で「チッ」と。
唾液と空気が混ざったような乾いた音がしたのは、おそらくナディアの中身が空っぽな耳が捉えた幻聴だろう。
「……ああ、分かった。分かったよ。私が悪かったよナディア。見回りご苦労様、そしてありがとう」
「へっ、どーも」
お互いに実感の伴っていない空気のような返事を相手に放り投げる。
これほどまでに虚しいやり取りがあるだろうか……。
「それより、さっさとそこから降りてきたらどうだ?」
「いちいち言われなくてもそうする」
ぶっきらぼうに言うや否や、ナディアは木の枝から飛び降りた。
「っと」
宙でくるっと横向きに一回転し――綺麗に両足を地に付けて着地したナディアは、曲げていた膝を伸ばし、くるりと背後を振り返る。
ルミーネと目が合うと、即座に口を開いた。
「なぁ、この木の幹――葉っぱがたくさん茂ってる上の方なんだけどさ、一部が削り取られてるんだよ。何か知らないか?」
「……さぁな。鳥とか虫が食ったんじゃないのか?」
「ま、そうだよな」
ナディアもそこまで気になる事柄ではなかったのか、ルミーネの適当な応対にも頷きを返した。
それから、「にしても、本当に警備は手薄なんだな……」とぼやいて周囲をキョロキョロと見回した後、一……二……三歩。
背中まで緩やかに伸びた赤朽葉の長髪と暗緑色のローブを風に靡かせ、ナディアが小屋の窓辺まで距離を詰めると、ルミーネは久方ぶりの朋友に笑みを投げかける。
「ヘトヘトか?」
「ヘトヘトだ」
「おやおや。ナディアともあろう御人が、こんな程度の雑務でへこたれる貧弱っぷりだったとは……。優秀な同僚として誇らしい私からすれば、実に信じられないことだよ。少々鈍ったのではないか?」
「るっさいわこのっ」
手を横薙ぎに、ナディアはルミーネの頭を叩こうとするも、澄まし顔で頭を後ろに下げて難なく躱すルミーネ。こうした下らない掛け合いはいつものことだった。
「それより、だ。例の件はどうだったんだ?」
「ハァ……ったく。ああ、お前に言われた通り、ここら一帯の地域はくまなく散策してみたよ。……けれど、それらしい怪しげな人物とか不審者は特に見当たらなかった」
「ハハハ、そうか。それは平和でなによりだ。うん、とても安心したよ。改めてご苦労様」
「なに笑ってんだコラ」
ナディアの堪忍袋の緒がいよいよねじ切れそうな音を他所に、ルミーネは顎に手をやると、嘆息ついでに呆れたような微笑を浮かべる。
「……ふむ。ついでにこれで、犯人が青年であるということが確定したわけだな……」
「ん? 何の話だ? お前が『“あの日”以降、ここら近辺に不審な輩が出没していないか調べてきてくれ』って頼んだから調べてきてやったのに……って、まさか!? 何か別の目的でもあったのか!?」
「うるさい、静かにしろ。違う違う。今のはこちらの話だ。お前が気にするようなことではない」
「けっ、なんだよなんだよ。結局ウチは碌な見返りもなしに、馬車馬のように働くだけ働かされただけじゃあないか。無駄に心配して損した気分だ」
「まぁまぁ、そう肩を怒らせるな。……ほれ、パンズーの残りでもやるからさ」
一度小屋の奥へと引っ込んでいったルミーネは、まだ手を付けていないであろう、掌一杯の大きさを誇るパンズーを一つ手にして戻ってきた。
そしてナディアに手渡し、手渡されたナディアはまじまじとそのパンズーに視線を注いだ。
「食わなかったのか?」
「ああ。少し食欲が湧かない時があってな……。お前、腹が減ってるんじゃないのか? それは別に食べてくれても構わない。……報労、とは少し言い難いかもしれないが」
「…………」
相変わらずムカつく奴だ、と内心で舌打ちするナディア。
――けれど、
「そうか……。じゃあ、お言葉に甘えまして……」
パクリ、とナディアはパンズーに頭からかぶりついた。
二口、三口と……そのまま鋭い歯で胴を食い破り、瞬く間に胃の中へと吸い込まれていった。
「ふぅ……」
「美味かったか?」
「ああ、ウマイ。ここら一帯は確か……ムギーコの栽培が盛んで有名だったね。どうりで何も付けずに食しても、これだけ素材の味を引き出せるわけだ」
「相変わらずあらゆることに興味津々だな、お前は。喜んでくれたようで、私としても嬉しいよナディア――」
「足りない」
「……は?」
「こんなんじゃ足りないに決まってるだろ。何をすっとぼけた寝言を抜しているんだ。さぁさ労われ。約五日間……馬車馬の如く各地を駆けずり回ったウチに、もっと多大な恵みをもたらすんだルミーネよ」
「ハァ……強欲なヤツだ。欲に身を滅ぼしては、豊穣の女神に顔向けができないと習わなかったか?」
「大丈夫だ。女神様だってきっと人間なんだから、食欲に飢えるウチの気持ちだってきっと汲んでくれるはずさ」
「どういう理屈なんだそれは」
両手を横長に広げ、『ありったけの恩賞を受け止める準備は万端だ』とでも言いたげなナディアの期待に満ちた面構えに、ルミーネは言葉を失う。
同時に“からかいグセ”が疼いて思わず思考の海に浸ろうとするも、自分の頭をブンブンと左右に振り、ここは自分が一歩下がって譲歩すべきだと判断する。
なぜなら……こんなバカの戯言に真剣に付き合っていたら、自分もバカになってしまうからだ。
「仕方がない。後でパンズーをもう一つ……」
「じー…………」
「……。その後でラップルもつけよう」
「決まりだな」
ニヤッと表情を崩すナディアがこれまた憎たらしい。
しかし、そんな憤怒に振り回されていては一向に埒が明かないと思い直したルミーネは、咳払いを一つ挟み、話の軌道を修正することにする。
「それで? いつから裏庭にいたんだ? 最初からあそこにいたわけじゃないんだろ?」
言って、ルミーネは樹冠をくいっと顎で指す。
「ああ。お前がイトバ君と配達の依頼に関するなんたらで話し合っていた時だっけかな……。最初は家屋の陰に隠れていて……次にイトバ君の座っていたこの木の裏側、それから登って木の上へと到達したのさ」
「ず、随分と段階を経ていたんだな……。彼との話に集中していたものだから、お前がそんな密偵みたいな真似事をしていたとは気付かなかったよ。……まぁ確かに、お前なら一人や二人気付かれずに背後に忍び寄ることなど造作もないかもな」
「わ、わっちだって――!」
「呼び方」
「ッ! ……ウ、ウチだって、好きでそんな行動を取っていたわけじゃないさ。……た、ただ、お前とイトバ君が…………」
そう言うと、途端に言葉を詰まらせるナディア。
無論ルミーネが疑問符を浮かべないはずはなく、小首を傾げた。
「? 『ただ』、なんだ? 私と青年がどうかしたのか」
「い、いやぁその、どうしたって言うか、言いますか……正直ウチは木の上の居心地の良さに気を抜いてたものだから、突然ボーン! って激しく木が揺れた時の方が『何事か!?』と焦ったんだけれども……えーっとそのぉ~……」
ナディアは次第にモジモジと足、脚、手の順に体をくねらせ、言葉を曖昧にし溶かしていく。あまつさえ頰に火照りの提灯が見られるのは、流石に気のせいか――。
普段から主義主張などは物怖じせずにはきはきと明言するナディアの性分を熟知しているだけに、こうして言葉を言い淀むナディアの様相はルミーネの丸くなった瞳に新鮮に映えた。
よほどその言葉の続きを口に出したくないらしい。
……けれども、展開が遅々として進まないこうした状況を厭う性分であるルミーネにとっては、これもただの苛立ちを募らせる材料の一つに過ぎない。
「チッ、はっきりせんな。さっさと言えこのボケジュウジン」
「ぼ、ボケ……!? くぅぅ~、まぁいい。そ、そのだな……お前とイトバ君が………………せ……」
「せ?」
「せ、せせっ、せせせせせせ、せ――せっ、ぷん」
「……は?」
「…………その、“接吻”を……」
「…………」
反応が気になるのか、ちらっ、ちらっ、とルミーネの様子を横目で窺うナディアの瞳は、正しく“星”そのものだった。夜空に瞬く無数の星々の如くキラキラと煌めきを放っており、またウルウルとした瞳の揺らぎには、よもや一種の情熱の炎を想起させた。
そしてそんな暑苦しい眼差しを心底どうでもいいといった虚無の表情で見つめ返すルミーネに、『キャッ♡』と両手で顔を覆い隠し、身を翻すナディア。
『イヤァー! 言っちゃったぁー! ついに言っちゃったわぁーわっち! 言っちゃったよチクショーめ! よく頑張ったわっち! けど恥ずかスゥィーー!』……とでも言いたげなくねくねとした背中だ。
「…………」
この状況に対し、終始無言のルミーネはただ一言だけこう思った。――なんじゃこの茶番は。
「ウブめ」
「ウブじゃないわい!」
『だからうるさいっつってんだろーがッ!』と、身を乗り出して肉薄してきたナディアに、正面からスカポーン! と頭――厳密には頭部に生えている白い山羊のような巻き角――を平手で叩き飛ばすルミーネ。
まさか殴られるとは到底思っていなかったナディアは、『あ痛ァッ!』と少々大袈裟な声がうっかりと漏れ出てしまう。
「なにも殴ることはないだろーが! わっちの時は華麗に躱しやがったくせに! 不公平だ不公平! 皆豊穣の女神の前では平等であるべきなんだぞルミーネ! そう教わったじゃあないか! ……って、うん? なんでそんなに顔の左半分がピクピクと痙攣してるんだ?」
「いいから黙れこのボケナス」
歯軋りの合間から流れ出る、喉の奥で押し殺された怨嗟の声音は鬼の息吹に近く……。
ルミーネは淑女にあるまじき形相で青筋を何本も立て、握り拳をわなわなと震わせていた。
これも毎度のこと……そしてナディアの時折“空気が読めない”性分に直結することだが、ナディアは一旦冷静さを欠くと途端に周りが見えなくなってしまう。それ故に、ルミーネがこうして時には体を張って、なるべく優しく笑顔で教示してあげるのだ。
「おぉっと、失礼失礼。悪かったって。だからそんな魔族みたいな剣幕でむくれるなよ」
対してナディアは、鼻息荒く興奮する馬を宥めるように、「どうどう」と両手を前に防御態勢をとっていた。
「一度で済むことを二度も言わせてるのはどこの誰だ」
「あ、あははは……。――コホン! で、そんなことよりルミーネ」
「それはこちらのセリフなんだが……」
「それは良かった。じゃあ、話を本題に戻そうか」
「…………」
口元や口調こそ柔和だが、前髪が揺れて時折光を帯びるザクロ色の双眸は至って真剣なものだった。
ナディアのその表情で大体何が言いたいのかを察したルミーネは、「ハァ……」と観念したようなため息を吐いて視線を外すと、
「――『裏切って見捨てる』、とは……一体どういう意味なんだ。ナディア」
「そのままの意味だよ、ルミーネ」
同じく眦を細めたナディアは――展開が動いたのを見計らったのか――ルミーネの正面から外れるとさらに彼女との距離を詰め、小屋の壁に背を預けた。
腕を組み、静かに瞼を下ろし、彼女は問う。
「……彼に何をさせるつもりだ」
そこで初めて、声色は明らかに別種の変化を遂げていた。より間近になった彼女の声が、ルミーネの優れた聴覚を通じてより一層脳内に響く。
そして、その言葉をしかと聞き届けたルミーネは……「フッ」と。おどけるように笑って見せた。
「何って? お前もこの場に居合わせていたのなら聞いていただろう。ただ“私がしたためた紹介状をリカード王国に届けてほしい”と、そう頼んだだけだが? 何をそんなに深刻ぶることがある」
こちらの本懐を理解していながらも、敢えて話をはぐらかそうとしている――ナディアには今のルミーネがそう見えて仕方がなかった。
たとえ直接見えていなかったとしても、隣で彼女がどういう仕草をしているのかが手に取るように分かるのだ。長い付き合い、というのもあるかもしれない。
ナディアは「フゥ」という短い吐息に、「やれやれ」という言葉を代弁させた。
「……“紹介状”とは一体何だ? イトバ君も似たようなことを問うていたが、そんなものをリカード王国に送る必要が本当にあるのか……?」
「なんだ、そういうことか……」
きっと良からぬ意図がある、と踏んでいたナディアからすれば、このルミーネの反応は意外だった。
咄嗟に隣を一瞥し、聞き耳を立てる。
「もう忘れたのか? 前に言っただろ。――『最近世界が妙におかしい』と。要するにアレさ、“近況確認”ってやつさ。確かに私は、お前にも“この五日ほど、ここら近辺に不審な輩が出没していないか調べてきてくれ”と頼んだが、何も治安を守るべく無暗にここら近辺を散策して、不審者らしき人物を手当たり次第とっちめてもらいたかったわけじゃあない」
「……。ってことはつまり、今回のウチの散策とその紹介状は、自分の代役として各地の“異常”を視察する目的も兼ねて……?」
「そういうことだ。けれどお前の方は何も無かったんだろ? なら良いじゃないか。そういう意味での『平和でなにより』、だ」
「…………」
なるほど、至極納得する話だ。――しかしナディアには、一点だけ解せないことがあった。
ナディアは会話の流れに乗るがまま、聞いてみることにする。
「どうして今なんだ?」
「は? “今”、とは?」
「ルミーネ……お前の言っていることは勿論正しいし、合理的だ。たとえウチの行為が無駄足だったとしても、近隣の治安が保たれていることが証明できたのなら、それに越したことはない。――でもどうして今なんだ? 拘束が解かれた時にでも、お前自らがすれば済む話じゃないのか?」
無意識の内に壁から背を離し、ナディアは思わずルミーネの方へと振り向いていた。
純然たる疑問をそのまま張り付けたような子供さながらの面構えに、ルミーネは「何を当たり前のことを……」とゆっくりと首を横に振った。
「その拘束期間がいつまで続くか分からないから、お前に代役を頼んだんだろーが。バカなのか?」
「いや、それはそうなんだが……。ただ――」
「……?」
言葉尻を濁し、僅かに視線を下げるナディアに、ルミーネは些か眉をひそめる。
さっぱりとした性格もあって、いつもならあらゆる事情をすんなりと受け入れる彼女が、一つの質疑応答にここまで食い下がるのは珍しいことだからだ。
それに加え、これまで共に過ごしてきた彼女とはどこか違う雰囲気を纏っていることも、ルミーネには気がかりだった。
果たして、彼女の喉の奥で未だに引っ掛かっている疑問の正体は、流石に勘の鋭いルミーネでもとうとう突き止めることは叶わなかった。
――そして、
「――ただウチには、ルミーネが何かに急き立てられているように見えてならない」
「…………」
心なしか心配の情を匂わせることを言われ、ルミーネも納得した。
なるほど、第三者からすれば私はそんな風に見えていたのか、と。
自嘲するように口端に薄ら笑いを浮かべると、ルミーネは音も無く指を向ける。――この裏庭と表の世界とを繋ぐ例の“隙間”へ。
ナディアはその指が示す先を目で追った。
「……あの店だよ」
「え……?」
ナディアは一瞬何を言われたのか分からず、ちらりとルミーネの方へ戸惑いの視線を投げるが、やがてその指先が示すモノ、また冷静沈着なルミーネをこれほどまでに急き立てている“何か”の共通点を、これまでの会話の内容も含めて総合的にじっくりと熟考した――――結果。ナディアの脳裏でとある言葉が閃いた。
ナディアもよく知っている、あの店の名が――。
「『LIBERA』……」
「まぁもしかすると、お前の言う通り、私は焦っているのやもしれんな……。アイツがセリウ大陸にいるという目撃情報、例の店が現在セリウ大陸の片田舎にあるということ、そしてそれらとほぼ同時期に青年が異界からやって来たという事実……。この三つの偶然の一致は、決して無視できるものじゃあない。何かしらの関係性が潜んでいるはずだ、と私は強く睨んでいる。折角長旅をして遠路はるばるここまで来たんだ。調べてみる価値は、十二分にあると思わないか?」
「にしても……にしてもだ。人選に疑問が残る。わざわざ交渉に応じ難い相手に頼むのではなく、紹介状を配達する程度の代わりなら他にいくらでも…………って、まさか。お前……ッ!」
そこまで言いかけて何かに気付いたのか、ナディアは途中で言葉を噤んだ。
そして驚愕を禁じ得ないといった様子で瞠目し、あらゆる感情が混在する容貌でルミーネに鋭く、それでいて不安定に揺れ動く視線を注ぐ。声は若干震えていた。
――ナディアはこう尋ねた。
「……囮に使う気か? あの子を」
「…………」
ルミーネは応じなかった。……ずっと凝視していた“隙間”から顔を背け、目を瞑ること以外は。
ナディアが答えを知るには、その行為だけで十分に事足りた。
「――。冗談はよせ、ルミーネ。彼はお前のための餌じゃない」
信じたくなかった……。
ナディアが衝撃で文字通り絶句し、片手で前髪を掻き上げた動作がその一言を物語っていた。
半分そうかもしれないという疑いがあった、でももう半分はそんなことはないと信じている、いや寧ろそっちの方に希望を多く託している……そういう期待があったからこその反応だ。
だが一方で、先程から絶え間なく感情の殴打を喰らっている当人は対照的に、場合によっては残酷なまでの落ち着きぶりを見せている。
「……何か一つ、お前が大きな勘違いをしてそうだから補足しておくが、これは彼の意志でもあるのだぞ? 彼も“あの日”言っていたではないか。『この世界をもっとよく知りたい』……とな」
「だからって、そこにつけこんで己が私欲のために他人を利用するバカがあるか!」
感情の高ぶりはいよいよ肉体にも伝播し、ナディアは腕を横一直線に振ってルミーネの思惑を否定すると、さらにもう一歩踏み込んだ。
「なぁ、もう一度よく考え直せルミーネ。考えがあまりにも早計過ぎる。異分子の彼の行動が世界にどういった影響を及ぼし、どういった変化をもたらすのかを一番に恐れ危惧していたのはお前じゃなかったのか……?」
「たかが片道数時間の配達程度で……。迷子になってベソをかく年頃の子供じゃないんだぞ? 青年は」
「確かにセリウ大陸は、他の四大陸と比べても比較的平和だし危険も少ない。仮に彼がリカード王国へ行っても、何らかの有事に遭遇する可能性は遥かに低いだろう。でも……」
ナディアはそこで言葉を切ると、拳をギュッ! と強く握り締め、悔やむように歯噛みした。
「ウチらと関係のない人物を、これ以上ウチらの事情に巻き込むことはないだろう。彼は無害じゃないか。どこにでもいる、ごく普通の『人間種』の一人だ。お前だってその目で見ただろう? このポルク村で、彼が多くの村民たちから慕われているところを。ウチは見たぞ。“あの日”お前の攻撃を受け、満身創痍になった彼の姿を見て、フランカや村民たちが、怒り、嘆き、悲しむところを! ……それにわっちは、五日ほど前にあの店に訪れた際、彼が『LIBERA』の店員の一人としてきちんと馴染んでいる姿も見ている」
「…………」
ルミーネの片眉がピクリと持ち上がった。
「彼だって、そこに辿り着くのは容易ではなかったはずだ。お前の話を聞く限り、一ヶ月ほど前に突如異界から呼び出されたらしいが……不安もあったろう、幾度となく葛藤もあったろう。そんな中でも、彼は彼なりにこの世界の住人と上手く折り合いをつけながら、世界に適応しようと頑張っているんだ! それをなぜ邪魔しようとする? なぜ壊そうと――」
「フフッ……」
と、その時。ルミーネが不意に笑いを零した。
つい忘我の境に入って熱く語ってしまっていたナディアは我に返り、訝しげに眉根を寄せる。
「あぁ、済まない。……いやね、随分と青年の肩を持つんだなと」
「……! べ、別にそんなことはないさ」
「じゃあお前は、青年の代わりに他の人物に配達を依頼したとして、その人物はどうなったって構いやしない……そう言ってるのか?」
「なっ……!? バカな! そんな風には言ってないだろう! それにそんなわけはない!」
必死に否定するナディアに、ルミーネはほとほと呆れたように鼻を鳴らし、
「そんなに心配なら、お前も青年に同行すればいい。ある程度信頼を寄せられているお前が付き人なら青年も心強いだろうし、その万が一遭遇するかもしれない“有事”ってやつを、自らの手で回避させられるのなら本望だろう?」
「……それは、“あの日”お前がわっちに言っていた、“監視”ってやつの一環か?」
「話が早いな。ああ、そうとも。そもそもお前が帰ってきたら、寧ろ願い出るつもりだった。……ったく、アイツの何がそんなにお前の目を晦ましているのやら。お前が幾ら青年に肩入れしても私は別に構わんが、情が移って厄介になることもあるんだ。そういうのには気を付けた方がいい」
「…………。それは、“親愛なる友”としての助言か?」
ナディアの意外な返答にルミーネは一瞬驚くも、直ぐに悠然とした笑みを取り戻す。
「ああ、そうとも。親愛なるルミーネさんからのありがた~い忠告だ」
ルミーネは冗談めかしく言ったつもりだったが、ナディアの笑いのツボにはどうやら刺さらなかったようだ。
目を閉じ、開け――。
そうかい、と淡白な無表情のままナディアはルミーネに背を向ける。
ルミーネはそのまま帰ってしまうのかと思い「どこへ行くんだ?」と尋ねたが、ナディアは静止したままでいた。
やがて、
「じゃあウチからも、“親愛なる友”として最後の忠告だ」
全姿、ルミーネの方を向いてはいなかった。
「ほぅ、なんだい?」
「考え直せ」
「フッ。――嫌だね」
ナディアはその返答に何を言うわけでもなかった。
半分もあった先程の期待が残っているはずもなく、“必ずこう答えるだろう”という確信に黒く塗り潰されていたからだ。
「もう一つだけ聞かせろ」
さらにナディアは続ける。
「ん? 今度はなんだい? 今日はえらくぐいぐい喋ってくるね。ま、暇を持て余している私としてはこの上なく嬉しいんだが…………あ、そうそう。今思い出したんだが、この前お前に渡した首飾りがあったろ? 青年にはちゃんと届けておいてくれよ?」
「…………」
他愛のない言の葉が緑の薫風に流れて行く。
そうした気まぐれな自然とじゃれ合うことに最高に適した安らぎが、世界を……この小さな裏庭を呆気なく支配している。
気を張っている意識が油断するのは、もはや時間の問題だった。
彼女は言う――。
「――今日。もし青年が裏庭の前を通らなかったら、どうするつもりだったんだ?」
ナディアが、僅かだがルミーネの方へ首だけを振り向かせていた。
「…………」
ふむ、と暫しの黙考に耽ったルミーネは、しかしそう遠くないところで答えを探し当てたのか……。
トントン、と。
窓辺を二回ほど、右の二本の指で小突き――笑んだ。
「ずっと待っていたさ。気長にね」
「――――!」
ナディアは歩き出す。満足したのかどうかは分からない。
けれど、まだ何か言いたいことがあるようだ。
「情が移って厄介になることもある――だっけか? ルミーネ」
木も、風も、太陽も。
世界が一番、ざわめき立った瞬間だった――。
「――世界で一番、お前にだけは言われたくないよ」
「……そうかい」
もう二度と振り返るはずのない彼女が、もう一度だけこちらを振り返っていたのは、ルミーネの錯覚だったのだろうか。
尋ねようにも、自然の緑に段々と輪郭を曖昧にしていった暗緑色は、ザクロ色さえも滲ませてもう裏庭にはいない。
宙で風と戯れていた無数の木の葉が地に落ち着き、静かに幕引きを告げた。
「そりゃあ、済まなかったねぇ……」
聞こえているはずもないが、ルミーネは一応返答しておくことにする。
が、口から細々と出たのは返答ではなく、ため息に近い何かだった。
……すると、
「あぁ……それと――」
「?」
ハッ、と顔を上げたルミーネの瞳に、彼方よりナディアが人差し指をこちらに向けている姿が映えた。ような気がした。
――幻影は言う。
「右の小指……。怪我してるのなら、ちゃんと治しておけよ」
言われて咄嗟に右手を腹の方へ引き寄せるルミーネ。
……やはり誰もいない。幻聴相手に何を本気になっているのやら。
『本当に、一体何が目的なんだ……ルミーネ。……わっちには……。……わっちには、お前のことがよく分からないよ…………』
…………。
「…………」
相変わらずムカつくヤツだ、とルミーネは内心で舌打ちする。
「チッ」
唾液と空気が混ざったような乾いた音がした。幻聴ではないだろう。
「おぉっと、そういえば椅子がまだ出しっぱなしだった。小屋に戻しておかなくては」
蚊帳の外で随分と退屈だったのか、木の根元にポツンと取り残された折り畳み式の椅子は、碧い雑草の上でぐったりと横になっていた。
出した時同様、ルミーネは浮遊魔術を使って椅子を間接的に持ち上げ、ふよふよと宙を漂うそれを窓枠に注意を払いつつ小屋の中へと誘導する。――と。
足音がした。
休憩中の見張り番が帰ってきたのだ。……と思っていたら、足音が一度の歩行に三回鳴っている。――村長だった。
これは良い機会だと思い、ルミーネは窓枠から顔を覗かせる。
「あぁっと村長さん。いえ、村長殿。……コホン。実は一つ、お尋ねしたいことがあるのだが……」
丁度、村長がルミーネの正面を右に横切ろうとしているところだった。
両手を合わせ、やんわりとした口調で、ついでに申し訳程度に柔和な笑み――ナディアの助言に基づく――を拵えてルミーネはお願いを試みる。
「この裏庭のことなのだが、いやはやつい見惚れてしまうほど素晴らしく美しい場所なのだが……ここは一体誰の庭なのだ?」
「…………」
質問に対し、村長は一言も言葉を口にすることはなかった。それどころか、会釈ぐらいの軽い挨拶は交えようという声すらも発する素振りは見せない。
けれど、ルミーネにとって村長のこの反応は毎度のことだったので、既に慣れつつある。
金のモノクルの奥に宿した光がどこを捉えているのか、ルミーネには依然として判断が及ばないが、“取り敢えず敵意のないように振る舞おう”という結論に行き着くこの一連の流れも、毎度のことだった。
「…………」
「…………」
やはりこの体勢をずっと維持し続けるのはちょっと厳しいな、といかんせん性分に合わない挙措にピクピクと拒絶反応の振動が始まり、そろそろルミーネの偽装の皮が剥落しかける――その時。
村長の、その顎にたっぷりと蓄えられた顎髭が上下に揺れた。
「……貴様に話すことなど、何も無い」
結局発したのは、その一言だけだった。
僅かに顎を上げてこちらを見上げたような気がしたが、ルミーネが次に気が付くと、村長はとっくに視界から消えていた。
そしてスタスタと足早に立ち去る村長の小さな背中を、ルミーネはしばらくそのままの体勢で眺めていた。
「そう、です、かい……」
ルミーネは、やがて建物の陰に隠れるまで村長を見送ると……合わせていた両手を離し、上げていた口角を下げ、顔を正面に戻す。
感情の一切が死滅したかのような憮然とした表情は、ルミーネのいつものそれだった。
はぁ~あ、と盛大なため息を全身から漏らし、ルミーネは窓辺に片肘を置いて頬杖をつく。
飽き飽きするほど身に染みたこの行為は、もはや“クセ”になっていた。
「本当に、退屈なほど平和だ……」
ポカポカとした昼の陽気が、再びルミーネに欠伸を促し、眠気を誘った――――。