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異世界道中のお道具屋さん  作者: 一色創
第二章  リカード王国滞在記
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第37話 『ルミーネの紹介状』

 “あの日”――――俺は、ルミーネに殺されかけた。


 俺は俺の居場所、友人、好きな人、そしてそれらが混在する愛すべき日常を守るためにルミーネと死闘を繰り広げた。

 俺の持ち得る全てを出し切ったあれは間違いなく、無謀であったとは言え、人生最大の本気度でのぞんだ挑戦だった。……それでも最終的に、天命はルミーネの勝利になびいた。


 “死闘”の二文字が意味するように、またお互いに幾度か“命のやり取り”という言葉を交わしていたように、敗北をきっし地にひざを付けた者が生に別れを告げるのは至極当然である。

 それが決死の覚悟の表明、ひいてはそれを胸に宿した者に対しての最低限の礼儀ともなる――ルミーネが“あの日”教えてくれたことだ。……まぁ、理由の解明は一旦さて置き、ルミーネにハナから俺を殺す気はなかったようだが。

 それでもナディアさんが仲裁に入るまでかたくなに態度を崩さなかったのは、何か彼女なりに思うところがあったのだろう。我ながら、あと一歩で殺されかけていた当人が随分と能天気な思考をしているとは思うが……。


 とにかく、そうした死闘においての斟酌しんしゃくは無礼に値するということであり――。

 つまるところ。俺が今こうして息をし、生き永らえているのは本来おかしいのだ。


 無論ナディアさんがあの瞬間俺のガラクタみたいな命を拾ってくれたおかげで、“あの日”以降もちっぽけな生命を営めている。そこは十二分に承知しているし、二度と頭が上がらないほど感謝もしている。

 けれどどうにも……“あの日”以降、自分自身の“生命いのち”の存在がふわふわしている。以前と以後で、明らかに価値観が変わっていた。

 そのせいか、本当に俺は今生きているのか……? と時折奇妙な感覚に襲われ、不可視のもやが俺を浮き足立たせることも少なからずある。


 ――が、運良く寿命を先延ばしにできたところで、所詮しょせんはまやかしに過ぎず……その命もどうやらここまでのようだ。



 今日――――俺はまた、ルミーネに殺されかけている。……社会的に。



「ん? ねぇ、どうなんだい?」

「…………」


 ゴクリ、と生唾が喉を通る。冷や汗が一滴、頬を伝う。

 そよ風が俺たちの間を吹き抜けていった。お互いに身動きはせず、静止している。


 つややかな唇で薄っすらと微笑むルミーネの瞳に不安の陰は見られない。まるで物理的な確証でも得ていそうなほど、たっぷりの自信に満ちており……彼女の視線は真っ直ぐに俺の左胸を射抜いていた。


 先程みたく動揺で思考停止をしているわけではないが、ここまで自信に満ちた人間を前にしてあれこれ言い逃れの策を講じるのは、寧ろ滑稽こっけいに思える。

 それにルミーネであれば、どれだけたくみに嘘を練り上げて足掻いたところで、――“トンデモ魔術”を行使しているか否かは、やはり分かるわけもないが――一から十まで全てを看破してきそうな気はしなくもない。


 ……ここは観念して、せめて誤解を招かないよう、誠意を以って真実を語るべきなのかもしれない。


「……。はぁ……」


 ……と、頭では利口に理解していても、勇気の準備にはしばしの時を要する。


 俺は一度鼻から大きく息を吸い、口から吐き、深呼吸をする。


 ついでに天を仰ぎ、裏庭ここに来る前と言い今と言い、男らしからぬ意気地の無さを証明しているのによく“あの日”ルミーネと命をけて戦えてたよな、と口端に自嘲的な笑みを刻む。

 これでは、愛する人をまもるだの愛すべき日常を守るだのと豪語していた過去の自分がとんだお笑い草ではないか。


 ――そして、


「はぁ…………。……ルミーネ、あの――」

「ぷっ、あははは」

「……?」


 突如高らかに鳴り響いた美声が、ようやく固めた俺の覚悟を決壊させた。

 発声の主を見下ろすと、細長くしなやかな指が五本、うやうやしく横一列に整列してこちらに腹を向けていた。


「いや済まない。私は余所よそ者だから、ここ――セリウ大陸の外れにある辺境地の諸事情について詳しくはないし、はっきりと断言はできないのだが……よくよく考えてみたら、『ここら近辺にいる二十歳手前ぐらいの「人間種」の青年』って、君ぐらいしかいないんじゃないのか……? と、ふと思ってね」

「ですよねー」


 白旗待った無し。

 ワン・ツーの段階すらすっ飛ばし、いきなりの直撃スリーアウト。


 これは嘘をついて難を逃れる以前に完封負けである。

 なぜならそれ――つまり、ルミーネが俺を“覗き事件”の犯人だと疑った根拠が、つい先程例のうわさを村長から初めて聞かされた時に俺が抱いた感想と寸分違わず一致しているからだ。

 人生、終ゥ~了ォおおおおおおおおおおおお~~~~のチャイムが脳裏で騒いでいる。


 十八年間……特にここ一ヶ月は体感的に時間の流れが早くなっていたが、思えば短い人生だった。

 人に語るにはあまりにも面白味に欠けていて、目を見張る経歴があるわけでもないし、おまけに胸を張れる矜持きょうじも信条も託す遺志さえも持ち合わせていない、人類史には“その他”と表記されるかすら怪しい俺の人生。矮小わいしょうな人生。

 総合的に、“普通”過ぎてつまらない凡庸ぼんような人生だった。

 まぁ、最後だけはフランカたちと奇異な命運に導かれて出逢えたことで、それなりに楽しかったが……。


 ただ、もう少しだけ欲が言えるのであれば……。

 ――このままずっと、フランカたちと平凡な日常を謳歌したいものである。


 ……だから、


「お願いしますつい出来心だったんですどうかお許しくださいこのことは内密にお願いします」


 今はなけなしのプライドを削ぎ落してでも、ルミーネの慈悲をうべきだろう。それが功を奏すか否かは、彼女の気まぐれによるが。

 俺は神に祈る思いで両膝を地に付けた。

 そしてお手々をスリスリし、早口で懺悔ざんげの文句を垂れ流すと、もういっそ頭まで付けてしまおうかと両手を前に――


「あはは。私が胸元を開けたぐらいで赤面するくせして、中々に男の子なことをしているんだね君は。……心配せずとも、別に流布るふしたりはしないよ」

「へ……?」


 直前。ルミーネが愉快気にそう言った。


 一瞬良い意味で耳を疑った俺が顔を上げると、四つんいになったことで視線的に優位に立ったルミーネは、相変わらず悠然ゆうぜんとした涼しい顔でこちらを見下ろしていた。

 彼女は小さくうなずくと、言葉を続ける。


「確かに、これを“借り”という形で残しておくのもやぶさかではないが……」

「ぐっ……」


 喉が詰まる。


「……が。今そうしたところで私に利潤がないからね。仮にやったとしても、見返りは憂さ晴らしが関の山だろう。どうせ“覗き”と言っても下着を見た程度だろうし……。君には甚大じんだいな影響を及ぼしかねないかもだが、私は子供みたく低俗ではないし、前にも言った通り、そこまで人道を外れた悪魔でもない」

「ほっ……」


 思わず安堵あんどの吐息が口端から漏れる。肩の荷が下りて気抜けしたような気分だ。


 そうだ……やはりルミーネは、“あの日”の温もりを記憶している俺の右手が教えてくれたように、信頼に足る人物なのかもしれない。

 りずに彼女の本性をうたぐっていた先刻の自分がなんだか恥ずかしい。


「まぁしかし、それを脅しの材料に使うわけじゃあないんだが……」

「うん……?」


 やれやれこれで一安心だ、とルミーネが納屋から出してくれた木製の折りたたみ式の椅子を横に退け、木の根元に腰掛けようとしたその時、また何やら不穏な響きが鼓膜に触れる。

 強張った表情で見上げると、ルミーネは呆れたように嘆息をこぼした。


「言ったろ? 君に用事があるんだよ。前置きでとんだ遠回りになってしまったが、ここからが本題だ」

「……本当にヤベェ依頼やつじゃないんだろうな」

「だったらとっくに君がフランカの着替えを覗い――おおっと、いささか声が大きかったか? 済まない済まない。……とっくに例の情報を武器に交渉こうしょうを持ちかけているさ。なぁに、安心したまえ。豊穣の女神の名に誓ってやろう」

「その紋切型のセリフに果たしてどれだけの信用を寄せていいのか、俺にはさっぱりなんだが……」


 俺は依然として懐疑の眼差しを向け続けるが、けれどルミーネの言い分にも一理なくはない。


 それに一ヶ月異世界にいて、俺も『豊穣の女神』の名を口に出す行為がよほど肝要な意味合いを含んでいることはそこそこ理解しているつもりだ。

 宗教観や価値観の相違があるだろうし、俺も詳細に尋ねたわけではないからあまり知らないが、そのたった一単語にはそれこそ“命をける”に等しい価値が秘められているのではないか、と俺は考えている。


「改めて、復帰してくれたことを心から祝福しよう青年……」


 二度の咳払い。――と、ルミーネが今から内緒話でも始めるかのように口元に手を添えた。


「さて、そこでだが……青年。――君に一つ、配達を依頼したい」

「は、配達……? って、やっぱ危ねぇブツの運び屋的な依頼じゃあ……」

「バカを言え。運んでもらいたいのはそんな野蛮な物などではなく――“これ”さ」


 言って、ルミーネはローブの襟元えりもとから胸の内側へ片手を突っ込むと、そこをまさぐり、赤い封蝋ふうろう(?)か何かがほどこされた一通の白い手紙らしきものを引っ張り出してきた。

 ちょっぴりドキリとしたことは言わぬが吉だろう。また話がこじれそうだし……。


「どうだ、頼めるか?」

「…………」


 俺はあごに手をやり、まなじりを細め、逡巡しゅんじゅんする。


 危険物でないことは誰が見ても明らかだし、ただの手紙を配達することなど人類満場一致で安全を宣言するだろう。なんなら“子供のおつかい”と称しても違和感はない。開けたら爆発する系の危険物ブツだったらまた話は変わってくるが……。


 まぁ、多分大丈夫でしょ。


「……客人として依頼してくれるなら別に構わないけど、宛先は? 一体誰に届けるんだ?」


 俺は腰を上げ、若干前屈みになって腕を伸ばすと、ルミーネが羽休めする蝶の如く上下に揺らす手紙それを二本の指で挟むように受け取る。


「ふむ……。中身は単なるリカード王国への紹介状だから特定の宛先はないのだが……強いて言うのなら郵便屋、もしくは『魔導衛士マーキュリー』の事務的な部署に当たるかな? まぁ、門前の衛士に渡してくれればそれでいい。彼らなら分かるはずだ」

「リカード王国だって? たぁぁ……また仕事が増えちまった」

「ああ。私はそのつもりで依頼しているのだが?」

「!? って、あの話聞いてたのかよ!」


 俺は、元の世界とこの裏庭べつせかいとを繋ぐ例の“隙間”に指を向ける。

 今し方、その向こう側で村長に、リカード王国へ長剣ロングソードの配達を依頼された場所を。


「人聞きが悪いな。聞いてたんじゃない――()()()()んだよ」


 トントン、とルミーネは自分の『霊聴種エルフ』特有の長く尖った耳を叩いて見せ、「この種族の特筆すべき美点の一つに“聴覚が優れている”ことが含まれているのは常識だろ?」とでも言いたげな視線をこちらに送ってくる。

 そう言われてみれば、一ヶ月前に俺がこの世界について勉強していた際、種族銘々について詳細に記されていた本に確かそんな記述がされていたようないなかったような……。


 ところで、


「なんで紹介状なんかを送る必要があるんだ?」


 問うと、ルミーネが少し呆気に取られたような素振りを見せた。


「門外漢だから、こうして口出しするだけお節介なのかもしれんが……配達屋が依頼人の内情をあれこれ探り回るのは、あまり褒められた行為ではないのではないのかい?」

「え? あ。そ、そういうもの、なのか……? 俺はただ、個人的興味があったから聞いただけなんだが……」

「ほぅ? 私が誰に便りを送るかが気になる……と」


 声に、視線に、イタズラな匂いを感じる。


「ち、ちげぇよ。アンタのことだから、また変なことをしでかそうとしてるんじゃないかって、こちとら危惧してるんだよ。でもこれは大丈夫そうだから、特別に一緒に配達してきてやってもいいって話だよ」


 視線を受け流す意味も込めて、改めてルミーネから手渡された手紙を確認する俺。

 上下表裏逆さまにしても、やはり何の変哲も無いただの真っ白な手紙だ。


「なははは、それは何より何より。――う〜ん。まだまだだねぇ……青年」


 凝り固まった体でもほぐそうとしているのか、ルミーネは一度大きく上に伸びをする。パキポキと、彼女の体内から関節が鈍い音を発していた。


 それにしても、何がまだまだなのだろうか……。

 確かに雑貨店店員としては未熟に違いないし、人間的な欠陥だって思い付く限りでもかなりあるが…………うーむ、それにしてもけしからん。おそらくワザとやっているのだろうが、それでも見てしまう。男のさがとはなんとも度し難い。――あ、だからまだまだなのか。


 一人で自問自答し完結すると、俺は手中にある手紙で視界を隠す。

 無論それを奇妙に感じないはずのないルミーネが疑問の声を上げた。


「何をしているんだ……?」

「かつての無垢な童心に若返ろうとしているところです」

「ふーん、そうなのか」

「(あれ? 納得するんだ……)」


 期待外れの反応……というより、よくよく考えたら現実世界むこうでもある特定の地域でしか文化として根付いていない“ツッコミ”を、謎の異邦に住まう且つ“ノリ”とかにうとそうな孤高の知的クールビューティーに求めたのが間違いかと思い直し、納得する。

 するとルミーネは、何やら安堵するかのように胸を撫で下ろし、


「私はてっきり、君がどうしても私の手紙の受取人を知りたいと、執念をこじらせたが故に悪知恵を働かせ、手紙を陽の光にさらして中身を拝もうとしているのかと思ったよ」

「(あ、そっちね……)」


 どうやら、“ボケ”がつまらなさ過ぎてそっぽを向いたようではなかったようだ。

 ……ていうか、俺はルミーネにそこまで意地汚い人間だと思われているのか。他人の――しかも女性のしたためた想いを無作法に覗き見る……そんなことするわけねぇのに。なんたって紳士ですから。


 ――さて。


「用件は以上か? なら……ほれ」


 座ったまま、前に、傷だらけの右手を差し出す。赤い掌を上にして。

 ルミーネはおどけたように笑ってみせた。


「……握手か?」

「茶化すな。客人として依頼するなら配達するって先に言っただろ。客人っていうのはつまり……自分が商品獲得や依頼達成を目的とする代わりに、それに見合った額をきっちり支払ってくれる人物のことだ。俺はまだそれをアンタからもらってないぞ、ルミーネ」

「ふーむ、そうだったな……。いやしかし、代金と言われてもなぁ……私がこの村へ辿り着いた時にはもう既に無一文だったし、見ての通りご覧の有様だ。どこかへ稼ぎに出かけてその分をまかなうことは、よもや叶わぬに等しいだろう」

「……なら俺は運べねぇぜ。配達を依頼された物品が危険であるか否か以前の問題だ」

「ほほぅ……そういうところは、存外にも手厳しいのだな」

「こっちも商売だからな。払えないのなら他を当たってくれ」


 素っ気なく話を断ち切ると、俺は再度草地から腰を上げた。


 ……正直な話、配達しなくてほっとしている自分がいる。

 手紙を配達することぐらい“子供のおつかい”と称しても構わない――これは事実だ。

 が、どうもこの手紙は……今俺の手中で安眠しているこの手紙は、何かよからぬわざわいを引き起こす凶器であると、脳裏の隅で時たま意識とは無関係にうごめく脳細胞――もとい“直感”が俺に警告しているのだ。


 そう……顔も名も知れぬ、これから俺がこの手紙を渡すであろう相手が手紙の封を破った瞬間、取り返しのつかない惨事が身に降りかかる、と――。


「…………」


 これはやはり……ルミーネが俺を意地汚い人間だと、信頼できない人間だと思っているように、俺もルミーネを信頼できていない、その証なのだと――



「――分かった」



「え……」


 パン、という乾いた音に意識を呼び戻された。ルミーネが両手を合わせた音だ。


「代金はないが、それと等価の価値を持つモノを支払う……というのはどうだ?」

「あ、え……は?」


 突然の交渉に面食らう。今までにそんな例外な方法で商品を買ったり配達を依頼してきた人物がいなかったからだ。

 果たして許諾きょだくしていいものなのか、と俺は暫し思考を巡らす。しかし……いや、待てよ。


 そういや、こんなやり取り前にどこかでしたような……。


「きっと相当の価値に見合うモノだと思うのだが」


 ルミーネは自信ありげに指を振った。


「……それは何なんだよ、具体的に。貴金属とかか?」

「まぁ、慌てずとも直ぐに分かるさ。ほら、こっちにおいでよ」


 俺が裏庭ここへ来たとき同様、おいでおいで、と手を上下に動かし手招きするルミーネ。

 まるで親が子を呼び戻すかのような優しさであらゆる者を眩惑げんわくし、そしてその安心感に酔いれた蝶を蜘蛛クモの腹の中へといざなう――なんとも危うげな動き。


 ……変なことしないだろうな。


 警戒するのは当然だった。が、流石にそこまで疑心暗鬼になる必要はないのでは、と思うのもしかり。

 もしもルミーネが未だに俺の命を狙っているのであれば、“あの日”と同じ理屈にはなるが、とっくに手をかけてあやめているはずだ。これだけ長ったらしい会話など不要に違いない。


 あまつさえ“リカード王国に手紙を届けてもらいたい”と依頼しているのだ。

 その実行役の俺がここで始末されると、彼女の行動の意味が根底から崩れることになる。誰が届けに行く? という話だ。

 ……まぁ、それ以前に大きな問題がある気もするが。


「…………」


 逡巡の末、俺は草地から腰を上げ、ルミーネのいる窓辺まで近付く。

 するとルミーネは、俺に膝を曲げて屈むようにと指示を出してきた。「なんでそんなことをする必要があるんだよ」と問うが、「いいからいいから」と軽く受け流されてしまう。

 いぶかしげに眉根を寄せるも、俺は彼女の言う通りに膝を曲げて中腰になる。ルミーネと同じ目線の高さになった。

 一体何がしたいんだろうこの人は……。


 次に、ルミーネはもう少し顔を近付けるよう促してくる。

「こ、こうか……?」と、上半身と首を若干ほど前に突き出す。


 ち、近い……。


 瞳が近い。鼻も近い。本当に目と鼻の先に彼女がいた。

 普段なら到底聞こえるはずのない相手の呼吸音も、これだけ近付くことによって初めて、僅かにだが聞こえてくる。


「…………」

「…………」


 意識すると途端に恥ずかしくなってきてしまった。

 一方の彼女は、異性間の何やらで薄氷の頬の上に紅色の春を拝ませることもなく、至って冷静に俺の瞳を見つめ返していた。


「右を向いて、手を差し出せ」

「はい?」

「聞こえなかったのか? 合図するまでこちらを見ずに、手だけを私の方に差し出してくれ……と言ったんだが」

「あ、ああ……」


 俺はどこか気の抜けた返事をして、彼女の言われるがままに横顔を向ける。

 右手を前に差し出し、その時を待った。


 そして。


「――――これが代金だ。しっかり受け取ってくれたまえ」

「……?」



 ちゅっ、と。口づけされた。



「――――――――」


 …………………………感触がした。

 ……………………柔らかい感触がした。

 ………………頬に柔らかい感触がした。

 …………俺の頬に柔らかい感触がした。

 ……俺の頬に唇の柔らかい感触がした。


 俺の頬に、ルミーネの唇の柔らかい感触が……


「――――」


 ギチギチと、壊れた機械人形のように音――骨の軋みかもしれない――を鳴らしながら首が左回転し、正面の位置へと戻っていく。

 と、人差し指を唇にあてがっていた女の子のルミーネさんが、これまた随分と可愛らしくにこやかに笑っておられた。



「“美女の接吻せっぷん”。――それじゃ足りないかい?」

「って、はァああああああああああああああああ――――っ!?」



 左頬を、差し出していた右手で咄嗟とっさに押さえ、直ぐ様ルミーネから飛び退いた。

 飛び退いた勢いで草地に尻をつくが構わず、俺は木の根元まで後退り、木の幹に派手に背中をぶつけた。

 ついでにぶつけた勢いで立てかけていた長剣ロングソードが倒れ、俺の頭を軽く殴った。


「ちょっ!? おまっ!? えっ!? はぁああああ!?」


 今の長剣ロングソードの一撃が無くとも、言語中枢はとうに死亡していた。既知の言葉を論理的に組み立てることはおろか、これ以上物事を考えることができない。

 俺は突如として、知能が類人猿にまで退化した。


「おまっ!? おまおまっ!? お前バッカじゃねーのっ!? おまっ!? ちょっ!? まっ!? えぇっ!? ……お前バッカじゃねーのっ!? 心っ! というっ! 人がっ! 俺はっ! フランカにっ! 決めたっ! …………お前バッカじゃねーのっ!?」

「なるほど、結局そこに行き着くんだね」


 激しい動揺故に一頻ひとしきわめき立てた後、かえって冷静さを取り戻した俺ははたと我に返った。

 ……感じる。

 ふつふつと、腹の奥底で怒りが沸き立っているのを。同時に、今以前の人生でこれ以上ないぐらいの面映おもはゆさを……。

 居心地の悪さ極まりない。


「帰るっ!!」

「おや。交渉は成立したのかな?」


 俺は草地で寝そべっていた長剣ロングソード、村長からの依頼料が入った巾着袋諸々を引っ掴んだ。

 そして元の世界へと繋がる架け橋――例の“隙間”に向けて一直線に、足早に歩を進める。


 ガサガサ、とやけに乱暴な足音がした。

 それでも俺は構わず、半ば強引に押し進めるように足を踏み鳴らす。


「……プッ。ナハ、ナハハハ! ナーハッハッハッハッ!!」


 途中、高らかな笑い声が背中に突き刺さる。

 ……滑稽だろうか。……みじめだろうか。

 ただでさえ怒りと恥ずかしさがい交ぜになって荒ぶっている心を、さらに短剣で容赦ようしゃなく切り刻まれているような気分だ。


 くぅぅ~、恥ずかしい恥ずかしい! これは恥ずかしいッ! 真っ赤の上に真っ赤を重複しているお顔がよもや梅干しィいいいい! よくラブコメ系のアニメに登場するキャラが『恥ずかし過ぎて死ぬ』という表現を使っていた時に『は? 何言ってんだこいつ。ただの心臓発作じゃねぇか。精神論で物理かよ』って鼻で笑ったことをどうかお許しくださいいいいぃぃッ! こいつは死ねるマジ死ねる! 血管スッポーーン! ついでにキラッキラのピュアボーイでアイムソーリーッ!!

 もういっそのこと笑ってくれ! 気の済むまで笑い飛ばして――


「――――青年」

「ッ!」


 ビクッ! と身体が声に反応し、足が止まった。

 再び大股で一歩前へ足を進めようとする――が、



「――魔導衛士マーキュリーには、くれぐれも気を付けろよ」



「…………」


 返事はしなかった。する気がなかった。

 後ろを振り返るまではなかったが、どうも無意識下のオレが彼女の声を欲しているようだった。


「この村に今朝、青年の匂いを嗅ぎ付けてリカード王国から衛士が一人赴いた……ということは流石さすがに知っているだろ?」

「…………」

「私も今朝、運動がてらそこらを散歩してる時に偶然遭遇したんだが――」

「な、なにィ――――!?」


 反射的に後ろを振り向いてしまった。

 そんな俺の素っ頓狂な声と反応が可笑しかったのか、ルミーネは手をひらひらと横に振って苦笑する。


「なはは、大袈裟だなあ。今朝と言っても明け方だよ明け方。太陽もまだ昇り切っていない頃合いで、周辺は薄闇で誰もいなかったさ」

「いやいや今はそんなことどうでもいいんだよッ! 衛士さんとは一体何を話したんだよッ!」

「そこまで長々と言葉は交えていないさ。ただポルク村へ向かっているようだったから、二言三言、朝の挨拶あいさつをして『昨今、商売人のうだつが中々上がらないー……』などと世間話を挟んだついでに、ちょいと探ったのさ。そしたら……プッ。君の罪状を聞かされたというわけさ。もしかしたらと話半ばで気付いて、犯人像を君だと仮定して想像していたら……プフフッ。笑いをこらえるのに必死だったよ」

「…………」

「案ずるな。何も零してはいない。これからもだ。……君は現在、この閉鎖的空間に囚われている私の手紙を外の世界へ運んでくれる小鳥――唯一無二の伝書使だからね。無下になどするはずはないさ」

「……………………」

「?」

「……帰るっ!!」

「あ、今度はそこに行き着くんだね」


 プイッときびすを返し、いつしか自由が利くようになっていた足で、今度こそ“裏庭ここ”からおさらばするため歩みを再開する。

 ガサガサ、と大股でがさつに歩く様相を変えることはなく――。


「フフッ。信頼しているよ、青年」

「…………」


 “隙間”に入る直前、ふと左頬に触れた。


 結局のところ、ルミーネには暇潰しに付き合わされた挙句顎で使われ、終いにはモヤモヤした荷物おもいまで背負わされただけだった。

 今回貴重な“昼休憩”の時間を割いてまで俺がルミーネに接近した意味は、果たしてあったのだろうか……と、“後悔”を紛らわす言い訳をあれこれ捻出ねんしゅつするも、全ては“ため息”となって霧散した。

 ……というよりまず、


「…………疲れた」


 その一言に勝る感情は現状見当たらない。


 なんとか“隙間”から這い出て見慣れた日常に帰還した俺は、「随分と大層になってきたなぁ……」と依頼品を再確認して肩を落とす。

 拾い上げて抱え直し、少々ふらつくも、その危なっかしい足取りのまま帰路につくのだった。



「……!」



 背後を振り返る。――無くなっているはずはない。


「はぁ……。帰ろ」




「なぁんだ。やはりウブなんじゃないか……」


 気のせいか、木の葉のさざめきが耳をかすめた――。


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