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異世界道中のお道具屋さん  作者: 一色創
第二章  リカード王国滞在記
40/66

第36話 『邂逅、再び――』

まだ第二章序盤という事実。。

「ル……」


 その名を口にしようとしたところで、声が詰まった。

 ズキン、と側頭部に鈍い痛みが走り、咄嗟とっさに手で押さえる。

 両手で抱えていた長剣ロングソードに続き、その上で胡座あぐらをかいていた巾着袋と、そして村長の紹介状も共にドサドサッと地面に落ちた。


 ――あぁ、嫌な痛みだ……。


 痛みは一瞬で、片眉をピクリと動かす程度のものだった。……けれど俺はその時、おそらく大袈裟おおげさなしかめっ面をしていたに違いない。


 俺はしばし落とした物をぼーっと眺めていたが、おもむろにそれらを拾い上げ始める。

 少し間抜けに思えるほど、ゆっくりと……。

 そうして全てを拾い上げ終えた俺は、再び村長の家とお隣さんの家の隙間の先を見据えた。



「――――大丈夫かい?」



 ……夢ではなかった。


 いつか、どこかで聞いたようなその声も、身体中に刻まれた傷も、掌の温もりも、この、胸を締め付けるような息苦しさも……。

 心臓の鼓動に合わせて段々とよみがえってくる“あの日”の記憶が、脳裏でそう教えてくれる。


 ……太陽を見た。


 白色透明の銀世界に迷い込んだレモン色の瞳が二つ、視界の先でまたたいていた。

 太陽は主にそれらで構成されていた。“あの日”もだ。

 だから俺は知っている。一見モナとよく似た輝きを放つ純白の太陽が、やがて見る者全てを危うげな魅力で眩惑げんわくし、奈落のふちへとおびき寄せることを――。


「その様子だと……なるほど、復帰できたようだね。それは良かった良かった。……どうしたんだい? そんな所にずっと突っ立って」


 向こうの方で、太陽が不思議そうな声を上げた。


「…………」


 夢であってほしいと願っていたのだろうか……。

 それとも俺は、“あの日”の出来事は全てただの悪い夢だったと、誰かに――世界に否定してほしかったのだろうか……。


 ……いや、そうではない。

 この五日ほど、確実に何かが変わった“普通”の日常を過ごしてきた俺は、これが“夢”ではなく“現実”であるということを嫌というほど認識し、ぎこちなくも現状を受け入れた。はずだ。

 ならば本懐はそんなことではなく、


「で、突然で済まないのだが、こっちに来てくれないか? ――少し、君に話したいことがあるのだが」

「……っ」


 ただ、あいつに――ルミーネに会いたくなかった。


 言葉による説明など不要。

 抱いているのは何も複雑怪奇な小難しい感情などではなく、動物にとって最も本能的で明瞭な感情に他ならない。――恐怖だ。

 それが俺の手を震わせ、厄介なかせとして足を一歩前へと踏み出させない。

 しかし恐怖とは裏腹な、どこか安心感にも似た感情も同居しており、おそらくこの細くて狭い隙間の一本道を介して繋がっている主屋おもやの玄関先と“離れ”の距離感がそれを生み出しているのだろう。

 その絶妙な距離感が、俺の理性をまだかろうじて保っていてくれるのだ。


 会おうと思わなければ幾らでもそうすることができた。

 居場所は知っているのだ。ならば君子オレはわざわざ近寄らなければいい。

 思い返せば昨日と今日の二日、ポルク村に来た俺は、村長の家の前を極力避けるように動いていた。


 では、この邂逅かいこうは一体どんな偶然だと言うのだろうか……。

 豊穣の女神が気まぐれにサイコロを振り、俺の運命をもてあそんだとでも言うのだろうか……。

 本来ならば、俺は今日村長の家の前まで来ることはなかったのだ。では、なぜ俺はここに来たのか……。


 ――そう。簡単なことだ。

 結局掻き立てられた情欲に負けて盲目になった俺が、真っ直ぐ家路につかず、あの“中央広場”で寄り道したせいである。


 偶然でも何でもない。全ては俺の選んだ選択によって招かれた、ただの結果だ。偶然というのは、その結果に便乗して生まれただけの過程オマケに過ぎないのだ。


 そう結論づけると、どうにも馬鹿らしくなってくる。

 俺は一度短く嘆息たんそくし、鼻から息を吸い上げ、そして天を仰いだ。


「嫌だ」

「えっ……?」


 俺という人間がつくづく愚かしいことが再確認できたと同時に、もう一つ発見があった。

 今いるオレルミーネの立ち位置――その間にできた空間が正当な距離感であるということだ。

 先程も触れたが、俺にはそれが、今の俺とルミーネの関係性を示しているものだとも思えた。


 足を一歩前へ踏み出せないのは、恐怖に縛られているからという理由だけではない。俺は無意識のうちに、己と彼女の距離感を自分本位デタラメな尺度で測っていたのだ。


 村長含む村のみんなは、“あの日”から五日ほど経った今でも彼女の背中に後ろ指を指し、彼女の存在を否定し続けている。

 そんな中、俺はただ一人“あの日”ルミーネと和解した。そして、せめて誤解を解こうと必死にみんなを説得し、説得を重ね、現状に落ち着いた。


 ……けれど、本当は俺もみんなと同じなのではないか。

 唯一の理解者として彼女の矢面に立っていたつもりが、実は心の片隅で密かに彼女を否定し、こっそり指を向けていたのではないのか……。


 もしもこの距離感が、その否定を物語っているとしたら――。


「フッ」


 ――ただ、


「……冗談だよ」


 どうしてなのだろう……。

 思い過ごしだと分かっていても、この右の掌にぼんやりと感じる“あの日”の温もりだけが、彼女を受け入れてやろうと俺に語りかけてくる。

 “本当は悪い奴じゃないんだ”と、そのために心中のどこかにほんの小さな空地でもこしらえてやろうと奮闘し、せがんでくるのだ。


 “あの日”誰よりもズタズタに傷付けられ、汚泥を掴んだにもかかわらずだ。その傷だって未だえていないどころか、幾重にも巻かれた白い包帯の下で生々しい血肉の色合いを保ったまま、日夜疼いている。


 何一つ外傷を負っていないくせにおびえるだけの心に比べたら、遥かに大人で、優しい奴だった……。

 俺は、そんな俺が情けなかった。


「――今、そっちに行くから」


 だから――。

 そいつを見習って、“あの日”の自分をもう少し信じてみようと思うのだった。


 こことは違う別世界が、細くて狭い一本道の向こう側で待っている。

 その入り口である隙間に入ろうと、俺は足を一歩前へ踏み出した。すると――進めた。




「おっ。来た来た」


 存外にも、別世界はあっさりと俺を受け入れてくれた。

 その歓迎に応じ、俺は窮屈な隙間から勢いよく飛び出る。


「…………」


 記念すべき第一歩を草地が柔らかく受け止めてくれた。

 数歩たたらを踏み、止まると、先に通しておいてやった長剣ロングソードを拾い上げる。


 本当は置いてきてもよかったのだが、一応配達を依頼されている品でもあるので万が一盗難でもされたら冗談では済まされない。

 俺の、ひいては『LIBERAリーベラ』の信用問題にも関わってくるし、それは幾ら俺と村長の間柄が親しくてもだ。『親しき仲にも礼儀あり』というやつだ。


「ようやく来たね。どうしたんだい? あんなところでボーっと突っ立って」


 先程よりもはっきりと聞き取れるその声を耳にしたことで、俺はハッと顔を上げた。


 これまた随分と都合よく拵えられたような裏庭ばしょだった。

 村長の家とお隣さんの家と、そして裏手にある小屋の立地的な配置によって偶然生まれている空間――どこか“あの日”見た“秘密基地”に似通った雰囲気がある。まぁ、これも幻だったら少しは笑えるのだが……。

 ただ例の“秘密基地”と比べて、こちらは俺一人が優雅にくつろげるほどの広さはなく、子供が遊び場として活用するにしても手狭に思える。時たま出入りするのか、雑草は綺麗に刈りそろえられているが。


「…………。……っ」


 おもむろに周囲を見回し――。そして、自分のあまりの鈍感さに一驚いっきょうした。

 本当になぜ、今さらになって気付いたのかと。


 裏庭そこの中央には一本の木が生えていた。

 そこまで大きくはない。ただ、それを植えた主が善人だったのか、あるいは生まれ育った環境が良かったのか、決してひねくれることなく天に向かって真っ直ぐに伸びている。伸びた枝先に茂らせた新緑の葉は、南の空から燦々と降り注ぐ太陽の光を受け、照り輝いていた。


 そしてもう少しその隣へ視線を移すと……いた。――手だ。

 つい先程――いや、今し方も視認していたはずの手を、俺はたった今視認したような新鮮さを味わった。実に奇妙なことこの上ないが、とにかく俺はとうとうそいつを見つけてしまった。

 おいでおいで、と上下に動いて手招きするその手は俺を呆れるほど従順にさせ、視線を誘う。


 本命の輝きへ――。



「ル、ミーネ…………」



 俺が口にしたその名は、白色透明の銀世界のことを指していた。

 が、殺風景にも思われるその世界には、きちんと“色”と“形”を有した物が幾つかあった。


 ――レモン色の瞳が二つ。肌色の長く尖った耳が二つ。前に垂らした、片方だけ編み込みがほどこされたお下げ髪が一つ。そして頭に付けている、緑色のオリーブのようなもので彩った冠が一つ。


 遠目からは曖昧だったそれらが個々人の役割を主張し始めたことにより、銀世界はただの情景的な世界ではなく、“一人の人間”としての明瞭な存在感を放っていた。

 これでいて尚も世界それを否定することはもはや、子供が空を飛べないからと言って駄々をこねるぐらい無謀だった。


 ……夢などでは、決してない。“あの日”も含めて。

 彼女は――――ルミーネは、確かにこの世界に存在していたのだ。

 存在していて、“離れ”であろう小屋の窓辺に片肘を付き、見覚えのある悠然ゆうぜんとした態度でこちらを見つめているのだ。


 なぜここで改めて確信するのか……。それもとうに分かっていた。

 だから俺は――微笑して、素直に受け入れることにした。


「『あつものりてなますを吹く』……ってな」


 ずり落ちかけていた長剣ロングソードを一度抱え直し、俺はルミーネの元へ歩み寄る。

 あれだけ長考して躊躇ちゅうちょしていたのがバカらしく思えるほど、その差はあまりにも短いものだった。十歩もあれば足りる距離だった。


「アツ、モノ……? ナマス……? なんだいそれは。昨今流行している魔術の呪文スペルか何かかい?」


 余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》といった感じのルミーネが、俺の唐突な返答に目をパチクリとしばたたかせる。しかもその意味の分からない言葉には、当然ながら小首を傾げることしかできない。


 本来の心情であるならば、その様相に俺の口角はピクリともしないはずだった。

 そのはずなのに、なぜか俺の口角は奇妙なことに徐々に持ち上がり、


「ははっ……」


 持ち上がり――笑ってしまった。


「…………」


 笑われたルミーネが若干寄せた眉根には“不服”の色が垣間見えた。

 自分が発言した直後に笑われたのだから、何か自分がとんでもなく間抜けな失言をし、それを小馬鹿にされたと思っているのだろう。まぁ、そりゃそうだ……。


 本来の意味を教えようか僅かに逡巡しゅんじゅんしたが、ここで嘘をついても俺に何の得も無ければ意味もない。

 それに、


「…………」


 チラリ、と真横に視線を投げる。――元の世界とこの裏庭べつせかいとを繋ぐ、例の“隙間”が見えた。

 つい先程、あちらからこちらへ……。わざわざ“長剣ロングソード”という貴重な依頼品を抱えてまで俺はルミーネに会いに来た。俺は今、それを再確認した。


 ルミーネには、ありのまま教えることにした。


「……一度自分が犯してしまったあやまちを反省して、次からはそうならないように注意を払って用心する……。ざっくり言えばそういう意味の、俺の故郷に古くから伝わる教訓さ。“二の舞を演じないよう気を付ける”って言い換えることもできるな」

「…………」


 説明を受け、ルミーネは特に驚いたような反応を示すわけではなかった。「へー」とか「ふーん」とか言って納得するわけでもなかった。

 ただ静かに、沈黙を貫いていた。視線だけは相変わらずこちらを見据えたまま。


 そして、その双眸そうぼうがほんの僅かに細められた。



「――怖いのか? 私が」



「…………っ」


 ……うなずくことができなかった。同時に首を横に振って否定することも。


 掌にジワッとした不快感が噴き出たのを感じる。

 衝撃的だった。まさかその言葉を本人の口から直接聞かされるとは……。

 “あの日”もそうだったが、思えば俺はルミーネに驚かされてばかりだ。その凛とした両の瞳でいつも心を見透かしているとでも言わんばかりに、俺の恥部ちぶ同様の核心を的確に突いてくる。

 もっとも、こいつの場合“トンデモ魔術”か何かでそういったことを物理的に可能にしてそうな気はしなくもないが。……どちらにせよ嫌な感じだ。


 と、そんな俺の様子に「ハァ……」と一つ、ルミーネはため息を吐き、


「……。まぁいい。座りたまえ、立ち話も疲れるだろう」


 そう言って。手招きしていた手を裏返し、眼前の木に腰掛けるよう勧めてくる。


 俺がその申し出に逡巡し、仕方なく甘えようとした――直後。

 一度小窓から体を引っ込めたルミーネの代わりに姿を現したのは、木製の折りたたみ式の椅子だった。

 窓枠一杯の大きさを誇るそれはしかし大層な物ではなく、子供か、はたまた女性が使う分には手頃そうな小型の物だ。まるで虫カゴから解き放たれた蝶のように、それはふよふよと宙に浮きながら難なく内外を越境し、眼前で静かに着地した。

 使え、ということだろうか……。


「この納屋には今それぐらいしか無かったが……まぁ使えんこともあるまい。是非使うといい」


 やはりそうらしい。――しかし、


「気遣いはありがたいんだが、多分俺には小さいぞ、この椅子……」

「? ……あぁ、確かにね。君には少しばかり小さかったか……。ほんの一回り二回り程度でよければ、魔術で大きくしてやることもできるが?」

流石さすがにそこまでして椅子に座ろうとは思わねぇよ。椅子の愛好家でもあるまいし。……それより、裏庭ここって何なんだよ。ただの空き地には思えないほど小綺麗に整備されているようだが……。この、足元の雑草とかもよぉ」


 そう言って足元に視線を落とし――映ったのは、皆一様に均等に散髪されている雑草。

 何気なく雑草を靴で掻き分けると、俺は長剣ロングソードを立てかけている例の木に触れ、幹の木目に沿うように天を仰ぐ。


 改めて見ても、清々しいまでに健康的な生え方だった。

 無論俺が樹木の芸術美について博識なわけではなく……ただ、なんとなく気持ちが良いと思えるのだ。装飾の一部として作為的に特別扱いされるのではない、自然と景観に溶け込む街路樹を見て類似した感情を抱くように。

 もしかすると、ドーム状に丸く広がり、有り余る陽光をしたたらせる新緑の樹冠が余計にそう思わせるのかもしれない。

 それともこれは、空の外敵から何かを守る傘の役割でも果たしているのだろうか……。


「――さぁね。幾度か往来する姿を見かけたけど、あの村長さんは何も言ってなかったよ」


 木に見惚れてふわふわと幻想の谷間に沈みかけていた俺の意識を引き戻したのは、ルミーネのさっぱりとした一声だった。

 振り向くと、どうやらルミーネも例に漏れておらず、俺の背後へ向けてうっとりとまなじりを細め、その眼差しは一切の何物も捉えてはいなかった。


「村長さんの自宅や離れに隣接しているから、村長さんが敷地内で私物化している土地なのか、はたまた公共の庭なのか……。どちらにせよ……君の言う通り、ここは“裏庭”と言った方が適切なのかもしれないね。――しかし美しい。これまでに世界各地、ありとあらゆる場所を見て回って来たから、それなりに目は肥えていると自負していたんだが……ただの空き地にしておくには勿体無さ過ぎる。この退屈な日常に溺れそうな私に唯一の癒しを授けてくれる、正に小さな天国に他ならない。良い目の保養だよ」

「ふーん。俺は知らなかったな、こんな場所。初めて来た……」


 お下げ髪を片手で弄りながら、ルミーネにしては珍しい、どこか気の抜けた返事をこちらに寄越す。対して俺も、耳朶じだを優しく打つルミーネの言葉を拾いつつ、降り注ぐ陽光ぬくもりの中で未だ先程の余韻よいんひたっていた。


 そんな他愛のない会話を繰り広げている最中さなか、俺は突如湧いてきた疑問をルミーネにぶつけてみる。


「そういやぁよぉ、アンタって今謹慎中なんだよな?」

「……そうだが? それがどうした」

「あ、いや、別に皮肉ってるわけじゃねぇんだけど……厳重な警戒態勢をかれてる割には、随分とあっさり接近できたなって。さっきから周囲を見渡してみる限り、見張り番の一人すらいないようだし……俺がみんなから聞かされてたアンタの情報――“過酷な獄中生活”とは少し食い違うというか……」


 俺がそう言うと、ルミーネはフッと鼻を鳴らし、


「なるほど……確かにな。いやしかし、警備が甘いわけでは決してないぞ。私本人が言うのもなんだが。村長さん含め何人かの村人が交代で四六時中見張りを――ああ、丁度君が私に会いに来るか否かで、狭い一本道を渡るのを難儀していたあの辺りだね。……息が詰まりそうだよ。まぁ、その意味でこの裏庭は私の聖域となりつつあるのだが……」

「じゃあ、なんで今は誰もいないんだ?」


 ルミーネは暫しの沈黙の後、つまらなさそうに肩をすくめた。


「昼食か何かじゃないか? 彼らも人間なんだ、そりゃあ腹だって空くさ。私だってそうだ。時が経てば腹は減る……これだけはどうにもならない欲情だ。何人たりとも逆らうことの許されない、普遍のくびき……」

「……?」


 妙にルミーネの声色が落ちたと思ったが、彼女は薄っすらと目を細めただけで至って普通だった。

 と、ルミーネは手の甲を口に当てる。


「フフッ、にしても……本当にここの村人はお優しい。朝と夜、毎日二度の食事に軽い水浴び、さらには雨風をしのげるそこそこ上等な小屋での安眠の保障……。おかげさまで気持ち悪いぐらい健康体だ。傷もすっかりと癒えてしまった」


 鼻歌でも歌い出しそうな調子で“衣・食・住”と指曲げをするルミーネは、そのまま親指と小指も開くと、しなやかな掌で自分の頬を撫でる。

 五日ほど前に不名誉な外傷――ナディアさんの拳による――を覆い隠していたであろう何枚かの湿布は、確かに見受けられなかった。その二つの色合いが近似していることもあり、彼女の頬から湿布ががれ落ちた様はどこか“脱皮”を彷彿ほうふつとさせる。何物にも汚されない純白の湿布は、かくして彼女の皮膚ひふを元の色まで染め直したようだ。


 ……けれど対照的に、俺の胸中ではドス黒い“違和感なにか”が渦巻いていた。

 その彼女の様相は、俺にはどこか許容しがたいものがあった。


「……。何が言いたいんだ?」


 声に、ルミーネが俺を見上げる。


「何って? 意図なんてないさ。ただここの村人が、私が脅威的で得体の知れない罪人つみびとであるにも拘らず酷く寛容的で()()()()と――」

「……だから、それはどういう意味なんだよ」

「…………」


 頭で考えるより先に口が動いていた。

 ……“あの日”と同じだ。これは、名も知れぬ違和感が胸中を巣食い始めている証拠だった。

 こうなってくると、言葉という概念が暗い霧で不鮮明になることはおろか、感情のレバーさえも手元から滑り落ち、闇にまれる。


 口を閉ざしたルミーネは、どうやら空気の異変を察知しているようだった。頰を撫でていた手をあごに移し、再度片肘を付く形でこちらに凛とした、それでいて怪訝けげんな眼差しを向けている姿勢がそれを物語っている。


 ……やがて、彼女が言葉をつむぎ出す。

 唇の動きがやけに鮮明に瞳の奥で映えた。



「――ヌルい、って言ってるんだよ」

「っ」



「……ッ!」


 ……気付くと、俺はルミーネの胸倉を掴んでいた。灰色のローブの襟元えりもとを、力一杯引っ掴んでいた。


「…………」


 ぎゅぅぅ、と音がしそうなぐらい、まだ拳に力が込められる。

 ……痛い、とても痛い。

 だからこれは、俺の理性がしている行為では決してなかった。


 そんな俺の行動を、ルミーネは微動だにせず受け入れていた。二つのレモン色で捉える焦点を、俺から外すことはなかった。


 ――そして。

 眉根を寄せ、彼女は言った。


「…………なんだ? この手は」

「!」


 邪気を含んだ一声で、俺は我に返った。

 パッと、直ぐ様ルミーネの襟元から手を離し、数歩後ずさる。


「い、いや……あの、これは……その…………」


『こんなことをするつもりじゃなかったのに』……という言葉だけが脳裏を延々と駆け巡る。

 じんじんと、ルミーネの襟元を握った右手が拍動に合わせてうずいていた。


 我に返った今でも、なぜ自分が突然そんな衝動に駆られたのか、まるで分からなかった。

 いつしか掌は手汗でじっとりと湿っており、背筋には悪寒まで走っている。これらの動揺の根源は、ルミーネに対して無礼を働いたという“後ろめたさ”よりも、一時的にでも理性を喪失した自分への“恐怖”にあるように思えた。

 言い訳など、しかも聡明そうめいなルミーネを前にして無意味なのは百も承知だった。いや、それ以前に頭の中は既に真っ白で、まともに考えられるはずもない。――が、それでも俺は額を汗でにじませながら懸命に言葉を絞り出そうとする。


 ……やがて、


「そ、そういえば、さ……。アンタ……。…………その、着替えはどうしてんだよ。ほら、その……ずっと同じ格好だし」

「…………」


 言葉にしてから、なんと陳腐ちんぷな逃げ口上なのだろうと、俺は自分の浅慮せんりょを嘆く。

 一方でルミーネは、俺に掴まれて緩くなった襟を正し、身繕みづくろいを終えると、二つのレモン色の瞳で俺を見据え直す。


「…………」

「…………」


 ……沈黙が訪れた。

 わざとらしい生命の雑音は掻き消された。あるがままの自然が、緩やかに流れる時に身をゆだねて静かにうたっていた。


 …………解せない。


 ルミーネは果たして、先程の俺の行動をどう思ったのだろうか……。

 眉の動きからなんとなく嫌悪感は伝わるのだが、けれど憤怒にまで昇華させなかった。俺は理由もはっきりしないまま唐突に胸倉を掴んだのだから、本来ならルミーネがそういう類の感情で反攻しても、こちらは文句の一つでも言う資格はないはずだ。――でも彼女は、そうしなかった。

 怒るどころか、今はもういつもの落ち着きを払った態度で、何事も無かったかのように涼しい顔をしている。

 心が寛容……と結論付ければそうなのかもしれないが、“あの日”のルミーネを見ている俺からしてみれば、どうもそういう風には思えなかった……。


 ――ズキッ、とした鈍い痛みが走る。

 顔をしかめ、右手を見やると――包帯が赤黒いものに支配されていた。


「……見たいか?」

「は?」


 ――と。沈黙は不意に破られた。

 久々に聴覚を刺激した麗しい音波は、俺に間の抜けた声を上げさせる。


 ……すると、若干顎を引いたルミーネの口元が段々とにやつき、


「この中が、どうなっているのか……」

「……? 何を……」


 言うや否や、ルミーネは自分のローブの襟元に手を伸ばす。何を言おうとしているのかいまいち判然とせず、理解の追い付いていない俺は置き去りにされていた。

 そこは先程俺が乱暴に引っ掴んだ襟元に他ならず、ルミーネは次に襟の内側へ指を入れると、敢えて前へ引っ張るような仕草をとる。


 つまり、そうすることで――胸元が大きく開く。


 丁度角度的にルミーネを上から覗き込む形となっていた俺の双眸に、ほっそりとした首、その首をう黒い首紐くびひも、対照的に目立つくっきりと浮き出た雪色の鎖骨、そして……さらにその奥深くの深淵しんえんより二つの脂肪の陰が薄っすらと陽光にさらされ、晒され、段々と露わに――


「いっ――!?」


 慌てて目を逸らし、俺はルミーネに背を向ける。


「ば、バカ! 急に何してんだよ!」


 いよいよ“理解不能”の烙印らくいんを押すためそう叫ぶ。

 それから無意識に両手で目をふさいでいたことに気付くと、背後からカラカラと愉快気な笑い声が飛んできた。


「へぇ……結構ウブなところもあるんだね。てっきり見たいのかと思ったからこうしたのに」

「なっ、ど、どうしてそうなるんだよッ!?」

「ん? 先程のはそういうことではないのか?」

「……!」


 顔の上半分に熱が帯びる。


 ……分かった。ようやく分かった。

 彼女は俺にとって“理解不能”な存在などではない。ただ単純に、俺をバカにして弄んでいるだけなのだ。

 “裏庭ここ”に俺を招き入れた理由だって、本当は退屈しのぎに俺を揶揄からかおうという魂胆こんたんに違いない。


 あれだけ勇気を出してルミーネの招待に預かったというのに、これでは俺の内心での葛藤かっとうが全て無駄みたいではないか。……それこそはなはだ馬鹿馬鹿しい。話にならない。


「……ふざけてるなら帰るぞ。もうそろそろ昼休憩も終わる頃だし」


 そう思うと途端に張り詰めていた空気が肺より抜け落ち、俺は木に立てかけていた長剣ロングソードを取ろうときびすをそのままに――。


「あーっと、待ちたまえ。君に用事があるんだってば。前にそう言ったろ?」


 ……足が止まった。慈悲が芽生えたのではない。

 そう言えば……と、ルミーネに言われたことで本来の目的を思い出したのだ。


「だったらくだらない茶番なんかしていないで、とっとと用件を言ってくれよ」


 今度は俺がにらむ番だった。

 首を巡らせると、ルミーネは俺の思惑など露知らずといった感じできょとんとしており、目が合った。

 すると彼女は、窓辺に付けていた肘を離し、「やれやれ」と嘆息交じりに肩を竦める。


「つれないなぁ……。少しぐらい暇人に付き合って、暇の消化を手助けしてくれてもばちは当たらないだろうに」

「あのなぁ……」


 やれやれって言いたいのはこっちなんだよ、と俺は胸裏で悪態をつき、ついでに頭を掻く。


 ルミーネという名のこの女性は未知で、確かに理解不能な点が多々ある。だが少なくとも、“自由人”というのはおそらく間違いなさそうだ。“放浪魔術師”という生き物は、みんなこうなのだろうか……?


「で? その用件はな――」

「と、その前に」

「?」


 俺の言葉を手でさえぎったルミーネ。

 疑問符を浮かべると、間もなくしてルミーネが口火を切った。


「……青年。最近ここら近辺で“不審者が出た”といううわさ蔓延まんえんしているのは、ご存知かな……?」

「!!」


 たった今、心臓の跳躍が自己記録を更新した。

 ヤ・バ・イ。ヤのバのイである。

 俺の全身全霊を以って、知らんぷりを決め込もう。


「な、なんでそれが今出てくるんだよ……? まぁ、別に? 俺は一切関係ないからどうでも――」



「――青年。……君なんでしょ? 少女フランカの着替えを覗いたアレ」



「…………」


 ……………………終わった。


 もしも人生が積み木でできていたのなら。

 たった今、人生が音を立てて崩れ落ちていた。その始まりを今し方鼓膜の向こう側で聞いた。……ような気がした。


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