第28話 『沈黙の夜』
――――ぐすん……グスン……。
誰かが、泣いていた。
そのコはオレの目の前にいて、白くて何も無い空間にいた。
オレもまた、そこにいた。
「………………………」
“白”という色以外、本当に何も無い空間だった。
下手をすると、どっちが上でどっちが下で、どっちが左でどっちが右か、分からなくなってしまいそうだった。
また、そうすると、次第にオレは果たして生きているのか、それとも死んでいるのか――。
それすらあやふやになってしまいそうで、少しだけ怖かった。
――――ぐすん……グスン……。
目の前のコが泣き止まないので、オレはそのコに一度尋ねてみる。
「どうして、泣いているの?」
――――……………………。
そのコは、少しだけ泣き止んだ。
でも代わりに、今度はすすり泣くようなか細い声で、誰かに謝り始めた。
――――ごめんね……ゴメンネ……。
「………………………」
どうしてか気になったので、オレはそのコにもう一度だけ尋ねてみることにした。
「どうして、謝っているの?」
――――……………………。
やはり今度も、少しだけ泣き止んだだけで、オレの質問には答えてくれない。
そもそも、オレの声がこのコにちゃんと届いているのか曖昧だった。
オレはそのコに、“オレ”という存在をちゃんと認識されているのだろうか――。
「………………………」
でも今度は、代わりにこう答えてくれた。
――――私のせいなの、全て……。すべて、ワタシが悪いの……。
「――――――――!」
そう聴こえた刹那。
オレの不鮮明で不確実な意識は段々と、段々と薄らいでいき、この空間から消え去り――――。
ここではないどこか――俺が帰るべき居場所へと、どうやら俺は戻らなければならないようだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ッ」
パッと、意識が目覚め――。
次に気が付くとそこは……俺の見知らぬ場所だった。
「…………」
俺は仰向けで寝ていた。
頭と背中にゆったりとした、柔らかな感触を感じる。
「…………」
周囲は些か薄暗かったが、少し離れた位置にぼんやりと天井が見える。こちらと真正面で対面していた。
木製なのか、視線の先に渦巻き状の湾曲した木目を視認する。その奇怪な模様はもしかすると、その道に長けている者に聞けば、何かしらの芸術美を秘めているのかもしれない。
俺はその木目に、暫しボーっと見入っていた。
……と、今はそんなことはどうでもよかった。
俺は現況を把握するため、体を起こそうと試みる。――――が、
「……っ!」
突如凍結していた神経が熱を帯びて覚醒し、張り詰めたような痛みが脳内を駆け抜けたことで、体を起こすことは叶わなかった。
さらに、頭だけではない。
四肢も、肉体も――その痛みを端緒として、とにかく全身がそれと酷似した痛みに襲われ、背中を巨大な釘で貫かれたような感覚に陥った。
「……イ、ってぇ……」
ボフッ、と柔らかな感触に再び体を預け、俺は痛みを堪えるために歯を食いしばり、眉間にシワを寄せる。
仕方がないので、俺はまだまともに動かせられる首だけを持ち上げ、先程と同じく現況の把握を試みる。
徐々に薄闇にも目が順応してきて……。
そこは、木造家屋の屋内――その内の一室のようだった。
見たところ、間取りは六畳ぐらいと少し広めで、その空間を埋めるように洋服箪笥やら机やら椅子やらが整然と置かれている。
他にも家具は幾つか置いてあったが、これといって特筆する物は無く……。
あるとすれば、部屋の中央――そこの天井から真下へ垂直にぶら下がっている、ペンダントライトのような照明。
可憐な花の蕾を彷彿とさせる外装は、ガラスに近い何かでできているのか、丸い火の玉に似た灯火が蕾の内側でおぼろげに、ゆらゆらと揺蕩っていた。
つまりそこは、一般庶民の民家ではどこにでもあるような、飾り気の少ない素朴な部屋だった。
俺はそんな一室の片隅にある、ベッドみたいな寝床に寝かされている――というわけである。
「…………。俺、どうなったんだ……?」
誰もいない、薄暗い室内をじっくりと眺め回し、俺は意識が途切れる寸前の記憶を辿る。
空間全体が薄暗いことから察するに今は“夜”で、俺はどうも随分と長い時間眠っていたらしい。
その証拠に、口の中は乾燥していて粘り気があり、喉もカラカラに渇いていた。
一刻も早くこの不快感を洗い流したいが、自分で動けない上に、そもそも清涼な水を俺の元まで運んできてくれる人が誰もいないので、畢竟我慢するしかなかった。
そうして思い起こそうとして――
「――――ッ!!」
途端に、膨大な数の記憶が俺の脳裏へ一編に、波濤の如く押し寄せてきた。
それは瞳の奥で鮮明に映えるようで、途切れ途切れになった様々な情景のワンシーンが、高速でフラッシュバックした。
特に、最も衝撃をもたらしたあの時の一言が、脳裏に焼き付いていて離れない。
『――――死んでくれないか』
「うッ――!」
ゾッと背筋が凍り、俺は危うく噎せ返りそうになる。
いつしか額には冷や汗が滲み、強い動悸を打っていた。
そしてその時、俺は鈍感にも、ようやく思い出すことができた。
意識が途切れる寸前、何が起こったのかを――。
そうだ……。俺はあの時、ルミーネに負けて、殺されそうになって……それで…………。
「……ん」
――が、その時。
静寂に包まれる室内に、小さな声が反響した。無論、確実に俺ではない誰かのものだ。
――と、それと同時に。
俺はまたしても鈍感ながら、腹部に重い、それでいて温かい感触があるのを今の今までずっと気付かなかった。
「…………っ」
俺はゆっくりと、ゆっくりと視線を腹部の方に下げ、未知の正体を確認しようとする。
すると、そこにいた“感触”とは――まるで穂先を実らせた麦のような黄金色で、上等な絹糸のようにしなやかな毛髪を持つ――“人”だった。
肩先までそれを自由に伸ばしているその人は、真横から縋り付くような体勢で、両手で俺の服――いつの間に着替えたのか、制服とは違い、少しゆったりとした大きさの亜麻色の服――をギュッと掴み、腹部に顔を埋めている。
どこかで見覚えがあるような……ではなく、俺にはかなり見覚えがある、と言うか忘れるはずのない、親しい間柄の人物だった。
その“人”とは、ポルク村の村娘――――モナだった。
「モ――――」
と、俺がモナに呼びかけようとした直後。
モナも目を覚ましたのか、バッ! と勢いよく顔を上げると、照明より一層周囲を明るく照らす黄金色の絹糸もつられて宙を舞った。
俺の顔を覗き込むように凝視するモナの顔は、全体的に腫れぼったくなっており、目の周りや頬の辺りなどはその赤みが酷い。寝起きで中々焦点が定まらないのか、何度か目を擦っている。
…………ん? あれ……? ……いや、ちょっと待て。何なんだ、この状況は……。
――薄暗い部屋、そこに二人っきりの若い男女、俺の意識は軽く飛んでいて、次に目を覚ますと眼前には赤みの差した女の子の、腫れぼったい容貌。
現状をよくよく考えてみると、まさかまさかと思考が二転三転していき、
あれあれ……? じゃあ、さっき思い出した記憶っていうのは、もしかして全部俺の夢で、本当は今日モナと会ったあの時から、モナをここに連れ込んで、一日中あんなことやこんなこと…………。
「……………………」
万が一にも、それが事実なら洒落にならない。考えれば考えるほど、記憶の中に眠る絶対的な真実が揺らぎ、懐疑的になってしまう。
先程とは全く意味の異なった嫌な汗が、亜麻色の服をじっとりと湿らせていく。
「……イト、バさん……ですよね……?」
我に返ると、モナは信じられないとでも言いたげな表情で目を大きく見開き、震え声でこちらに尋ねてくる。
俺は驚愕した。まさか“俺”という存在を忘れかけるほどの強い記憶喪失に陥るまで、俺はモナのことを乱暴にしてしまったのかと。
モナは元々忘れっぽい性格ではあるのだが、人の顔や名前のみに関しては間違えたことがなかったため、だからこそ余計に驚いてしまったのだ。
俺は直ぐに首を縦に振り、弁明を決行する。
「あ、あのなモナ……。一つ、誤解をしないでいただきたいんだが……俺は決してお前をどうこうしようなんて思惑はこれっぽっちもなくて、気が付けばここに……」
「――――!!」
けれど――。
俺が全てを言い終える前に、モナは即座に俺から飛び退く。
そして、フラフラと覚束ない足取りながらも部屋の扉へと向かい、開け放ち、そのまま急いで出て行ってしまった。
「あっ、ちょっ! モナ! 待ってくれ、まだ話は終わって――」
まるで妻帯者の不倫男が彼女に逃げられた時の文句みたいだな、と苦笑いしたのも束の間、神経が張り詰めたような例の痛みが再来する。
俺は顔を顰め、しばらくの間痛みと葛藤していると――――ドドドドドドドド!! と。
「!?」
開け放たれた扉から、眩しい暖色の光が部屋の中へと侵入していて、曖昧な薄闇すら掻き消している。
そんな部屋の外から、何やら騒々しい靴音がこちらに近付き――段々と近付いてきた。それも一つではなかった。
猛烈な勢いで迫ってくる靴音は、やがて俺のいる部屋の前までに辿り着くと、ピタリと静止し――――。
礼儀など無用で部屋に押し入り、さらには靴音の先陣を切っていた小動物など、俺を一目視認した瞬間に全力で飛び付いてくる始末だ。
「――――ユウさんッッ!!」
「!!」
フランカだった。
モナ同様、忘れるはずのない存在――。
また、俺が命を懸けてでも守りたかった――大切な存在。
「……ハッ! ま、待てッ! 早まるなフランカ! こ、こここれは……そ、そう! 誤解だっ! 今ここで豊穣の女神の名に誓って言うが、俺とモナは決してそんな関係ではございませんのでどうかご安心を――」
ぎゅっ、と。
フランカは仰向けで寝ている俺の胸に飛び込むなり、両手で抱き付き、不安を抱える幼子のように頭を埋めた。
「イタタタタタタッ!! ちょ、ちょっとタンマ、フランカさん! 抱き付いてくれるのはヒジョーに嬉しいんですけれども俺病人ッ! 一応びょーにんっす!!」……とは、不思議とならなかった。
――ふと、懐かさを覚える甘い匂いが鼻の奥を満たし。
どこか心が安らいだ俺は、そんな彼女のいじらしい姿を拝んでいると妙に恥ずかしくなり、
「あ、あの……あのですね、フラン――」
「しんぱい、したんですから……」
「え…………」
俺の胸に顔を埋めたまま、フランカは小声で何か呟いたようだ。が、声がくぐもっていてはっきりと聞き取れない。
直ぐに『何て言ったの?』と聞き返そうとする――が、それよりも早く……。
フランカはバッ! と顔を上げると、俺の瞳をまじまじと見据え、こう言った。
「心配! したんですからねっ!」
「……!!」
その翡翠色の双眸には、溢れんばかりの“哀”が――大粒の涙が幾つも浮かべられていた。
にも拘らず無色透明なそれは、彼女の瞳を滲ませ、夜空の星々のように煌めかせる。
そしてそれは、いよいよフランカの大きな瞳でも受け止めきれなくなり……目尻から流れ落ち、一気に頬にまで伝っていく。
ポタポタと、断続的に零れ落ち、俺の服を濡らした。
「…………」
鈍器で頭をかち割られたような感覚だった。
咄嗟に謝ることもできず、かと言って、気の利いた言葉をかけて優しく慰めてやることもできず……。
俺は泣いている女の子を前にして何もすることができず、ただ唖然とし、言葉を失うだけだった。
――と、その時。
「イトバちゃん!」
「イトバの兄ちゃん!」
「イトバさん!」
ドタドタと、またも部屋の外が騒がしくなったと思ったら、扉の向こう側に村長とオッチャンとモナと……さらにはモナの両親も含めたポルク村の村民が複数人いて、皆口々に俺の名前を叫んでいた。
「みんな……」
俺が一人一人の顔を確かめるように見つめ返していると、モナは何かを思い出したのか、モナの両親にコソコソと耳打ちすると、三人は来た道を慌ただしく引き返していった。
……それから間もなくして。
俺の元へ冷たい水と、温かな食事が運ばれてきた。
小さくカットした肉や野菜が入っている『コンタポージ(トウモロコシに似た野菜)』のスープと“すりおろしラップル”などは、疲労した身体でも無理なく食べられるものだった。
先程よりかは体が素直に言うことを聞くようになったので、俺はフランカやオッチャンの手を借りて体を起こし、座って食事をすることにした。
味も美味で、おそらくモナの両親が配慮してくれたのであろうそれらは、空腹だった俺の胃袋に適度な刺激を与え、食を進ませた。
スープも二回ほど『おかわり』し、モナの母親からは止められたが、パンズーも少しだけ頂いた。
食事を取っている間、部屋にいたフランカとモナとオッチャンと村長は、全員が静かに俺の様子を見守っていた。
先程扉の向こう側には、この場にいる四人以外にもポルク村の村民が複数人いたのだが、
『全員が一挙に部屋に入ってしまうと、イトバさんもさぞ息苦しいだろう。自分たちはイトバさんの安否が確認できただけでも十分に満足ですし、安心したので、今日のところはお暇させていただきます』
という旨の内容を伝え残し、去り際に一人一人が俺に笑顔を見せると帰っていってしまった。
モナの両親もそれと類似した内容でここにはおらず、『あまり長々と話し込まず、今晩はぐっすり眠って休むこと』と、俺に強く念を押してから退室した。
モナの両親が退室した後、言葉を発する者は誰一人としていなかった。
室内には暫し沈黙が募り、やがて俺が寝ている寝床の傍らにいた村長――例の御杖を椅子代わりにしていた――が、とうとう耐えかねたのか、重い口を開き、段々と今に至るまでの経緯を語ってくれた。
村長の声は、普段の能天気なものとは打って変わって、酷く暗澹たるものだった。
俺は食事の手は休めず、話を聞きながら咀嚼し、飲み込み続けた。
村長は丁寧に、順を追って説明してくれた。
――本日の昼時。ポルク村近辺の草原地帯――『ケープ草原』から凄まじい轟音が何度も連発し、流石に恐怖を感じる村人が続出したため、村長を含めた男複数人で“調査隊”を編成し、様子を見に行ったこと。
――するとそこには、この世の終焉を彷彿とさせる戦場のような惨状が広がっており、そして砂煙が吹き荒ぶ遠方から現れたのは、ボロ雑巾みたいな満身創痍の俺を両手で擁した、一人の女性だったということ。
――その女性は、赤朽葉の長髪にザクロ色の瞳を持った人で、暗緑色のローブを身に纏い、かなりの高身長だったということ。女性は全体的に所々傷を負っていたが、大事には至ってなさそうだったらしい。
――俺を擁したその女性――ナディアさんが、やがて村長たちの元へと歩み寄り、『この子を介抱してやってくれないか?』と頼んで、俺を託したということ。
――手から手へと受け渡された俺を、村長たちが大急ぎで村へと舞い戻り、回復魔術に長けた村人を可能な限り呼び集め、直ぐに応急処置を施したということ。
――フランカには村人の一人が“伝達役”として一報を知らせに行き、血相を変えたフランカが村にすっ飛んで来たということ。
――それから俺は、モナの家の客室を間借りして安静に寝かされ、今の今まで、凡そ半日以上まるまる眠りに落ちていて今に至る、ということ……。
「……そうか。なるほど、そんなことになってたんだな……」
村長が再び口を閉ざすと同時に、俺の食事もひと段落ついたところだった。
強化魔術によって光量を強めた天井の照明は煌々と輝き、現況の場にそぐわない明かりを落としている。
またここから沈黙が降りるのか……と、思いきや。
突然――バシンッ! と椅子に腰掛けていたオッチャンが自分の膝を平手で叩き、悔恨の念を露わにして表情を歪めた。
「くそっ……クソッ……! 俺は……俺はよぉ……イトバの兄ちゃん。自分が惨めで、憐れで、そんで愚かで仕方がねぇよ……。あんな……あんな野郎にうつつを抜かした挙句、兄ちゃんを危険な目に合わせちまうなんてよぉ……」
ホゾを噛み、その喉の奥から絞り出した声音は、煮え滾った感情の行き場を失い、なんとか胸裏で押し殺そうと奮闘しているように聞こえた。ギリリ……と、直後に歯軋りする音色も。
そんな平生の陽気さなど一片も感じられないオッチャンの姿に俺は戸惑い、恐々と声を投げる。
「でも……。……いやでも、それはオッチャンのせいじゃな――」
「――俺のせいなんだよッ!」
「――!!」
ビクッ! と身体が慄き、水の膜のように周囲を覆い被さっていた静寂は弾け、空気が震えた。
そこにいたのは間違いなく“オッチャン”ではなく、初めて見る別の誰かだった。
「俺が……俺があん時っ! 少しでも、ほんの少しでも……立ち去る兄ちゃんの背中に声をかけて、止めていれば……! ――ああ、そうだよッ!! あん時俺がイトバの兄ちゃんを止めていれば、こんなことにはならなかったんだよぉぉッ!!」
「…………!」
悲痛な叫びが、室内に反響し、耳の奥で木霊した。
俺はそれに安易に口を挟める状況ではないことを悟り、呆然とするしかなかった。
「…………いえ。私も……そう、するべきでした……」
「――!」
と。
オッチャンに続く形で、今度はモナも口を開き、掠れた声を発した。
「私はあの時、あそこで……あの人を見ました。この目で。見ていたはずなのに……イトバさんにお会いした時、よく詳細を把握してもいなかったのに……“臨時集会”がどうだのと、適当なことを言ってしまって……」
「モナ……」
思わず声が口端から漏れてしまうと、モナは俺から視線を逸らした。
「……私の、せいなんです。多分。私があの時……中央広場で何をしているのかを人に尋ねて、あの人の中に眠る悪魔のような本質を見極めて、イトバさんに通告するべきだったんです。“中央広場には行ってはいけませんよ”……って。なのに、それなのに……私は……っ」
モナはそこで言葉に窮し、嗚咽を堪えるように顔を両手で覆い隠すが……静かに咽び泣いた。
彼女の泣く姿を見たのも、俺にとってはこれが初めてだった。
――すると。
「……いや。そうなると……ワシにも責任の一端はある」
モナに続き、今度は口を閉ざしていたはずの村長が、再度堅牢で重々しい口を開き、そう言った。
「ワシは、この村の村長じゃ。一つの村を一任され、その村の中で一番偉い身であるが故に、何かが起きた時も一番に……まず真っ先に責任を負う立場じゃ。それに……ワシはあいつがこの村に来訪してきた際、この村にいる村人の誰よりも先に対面しておる。自宅の間借りを許したのもワシじゃ。事情を聞いて、この村に滞在することを許したのもワシじゃ……。最初から今までの間でそこまでしておるのに、危険を察知できず、果てはイトバちゃんに深手を負わせ、危うく村民まで危険に晒しかけたとあっては…………まったく。本当に、本当に、ワシはワシ自身が情けのうてしょうがないわい……」
「そ、村長までそんな……」
「おっほぅ……何も不安そうな顔をするでないぞ、イトバちゃん。ワシはただ、事実を述べたまでじゃ」
「…………」
もはや誰一人として、『あの野郎』、『あの人』、『あいつ』――『ルミーネ』の名前を口にする者はいなかった。
まるで、その名前を口にするのが禁忌であるかの如く、暗黙の掟であるかの如く――。
三人とも、頑なに拒んでいる様子が窺える。
――このままでは、ダメだ……。
直感的に空気の淀みを悟った俺は、未だ一言も発言していないフランカに視線を移す。
そして出来る限り柔和な声で、フランカに話しかけた。
「な、なあフランカ。お前が別に気に病む必要は――」
「――わたしの、せいなんです……」
一足遅く、フランカが沈痛な面持ちで言葉を発した。
「私が今日、ユウさんを店の外に行かせなければ……。あの時、“行かないでください”と、そう言っておけば……!」
「それは違うぞフランカッ!!」
「何が違うんですかっ!!」
「――っ!」
こちらを真正面から見据え、一本の不動な芯が垣間見える瞳で強く言い返され。
その滅多に見せないフランカの様相に、俺は鼻白んだ。
彼女は言う。
「私が……私が見送ってしまったから……。何も知らず、呑気に、見送ってしまったから……こんな……」
「け、けどよ。こんなことになるなんて、誰も予想がつかねぇだろ……。――いや、つくはずがないだろ。こんな風になるなんて…………」
「私のせいなんです、全て……。すべて、わたしが悪いんです……」
「…………っ」
もう、見るに耐えられなかった。
それはフランカだけではない。今この場にいる誰もをまともに直視することができない。
誰もが、“自分のせいだ”と主張していた。俺がこうして死の淵に立たされ、負傷した事実について。
その当人である“俺”を前にしてそう言われ、これほどまでに悲しいことがあるだろうか――。
「…………」
俺は自分の手元に視線を落とす。
ミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされている分厚い両手。両腕。
他にも全身が、それと似たような処置を施されている。
ふと、誰もいない空間に視線をやり――。
俺は一言、ボソッと呟いた。
「ごめんな……」
「「「「!」」」」
反応し、こちらに向いた四人全員の視線を感じたが、俺は構わず言葉を続ける。
「ごめんな……。俺が……俺がこんな風になっちまったせいで、こんなにも、みんなに迷惑がかかっちまって……」
無意識に、両手が握られ、拳に力が込められる。
……かなり痛かった。
「俺も……オッチャンとか村長よろしくじゃないけど、それでもうつつを抜かしてしまった。ルミーネに誘われて、笑顔を向けられて、それがちょっと嬉しくて……。ふっ、今考えりゃガキみてぇな無防備さだよな。『相手もお前のことを“信頼している”と、なぜそう言い切れる?』、か……。ああ、そうだな。全く以って、その通りだよ……。つまり今回の出来事は、俺の浅はかな思慮深さによって招いた惨事であって決してお前らの責任じゃ――――!」
「どうして、なんですか……?」
いつしか荒々しく言葉を捲し立ててしまっていたことに気付き、我に返った直後――。
俺の両肩を、不意に誰かが鷲掴みにし、鼻先まで顔を寄せて強くこう言い放った。
「……どうしてあなたは! そういうことを言うんですか……ッ!」
――フランカだった。
そして強気な彼女は、間髪入れずに次の言葉を言い放とうとしている。
……初めてだった。
彼女に怯み、身構えてしまったのは――――。
「どうしてあなたはっ! 自分をもっと! 大切にしないんですかっ!?」
「――――!!」
そんな言葉は、親にも言われたことはなく、生まれて初めて人から言われた言葉だった。
だから、とても新鮮味に溢れていて、なんていうか……こう――――そう。
“心に響く”ものだった。
「こんなボロボロになるまで、戦って……。無謀だったとは言え、そんなあなたを、どこの誰が責められるんですかっ!! 自分のせい……? そんなことあるはずないじゃないですかっ!! 悪いのは全部、“私とあの人”なんですから――ッ!!」
「ふ、フランカ……」
天使の容貌をありとあらゆる感情でグシャグシャにしたフランカは、“想い”の全てを俺にぶつけるように、魂を吐き出した。
「私は……私は……っ!」
「フランカちゃん……」
嗚咽を漏らすことすら厭わず、フランカは溢れ出る“想い”を大粒の涙に変え、ボロボロと零し続けた。
俺の両肩に置かれていた手の力が次第に緩み、スルスルと剥がれ落ち、フランカはその場に泣き崩れてしまう。
そんなフランカに気遣ったモナが直ぐ様側に駆け寄り、手を貸すと、二人はそのまま部屋を退出してしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
一時あれだけ騒然としていた室内も、いつしか俺と村長とオッチャンの三人だけになっていた。
「……フランカちゃんのぅ、かなり怒っていたんじゃ」
「……え?」
新しく降り募る静寂を吹き破るように口火を切ったのは、やはり村長だった。
村長はチラリと、先程フランカとモナが退出した扉を一度見、蓄えた顎髭を摩ると、声を潜めつつ語り始めた。
「イトバちゃんを、ワシを含める村民の何人かがひとまず中央広場に運んで来た時じゃったよ……。“伝達役”より一報を受けて村に急行したフランカちゃんが、中央広場の一角にできていた人集りの中を掻い潜ってまで、その渦の中心にいたイトバちゃんに会いに来たんじゃ。そこで、ボロボロの身体で地に横たわっているイトバちゃんの姿を、フランカちゃんが一目見た瞬間――その場で取り乱してしまってのぅ……」
「ああ。あれは……。……あんまし、思い出したくはねぇな……」
椅子から立ち上がり、壁に背を預けて両腕を組んでいたオッチャン。
オッチャンも村長の歯切れの悪さに同意するように、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
村長は声を潜めたまま、話を続けた。
「それで…………ナディアさん? と言っていたかのぅ……。ワシらの後を追うようにポルク村へ来ていたのじゃが……イトバちゃんを一目見て取り乱したフランカちゃんが、突然ナディアさんを物凄い剣幕で睨み付けて、怒り狂ったんじゃ」
「怒り、狂った……? フランカが……?」
コクリ、と村長はただ黙って首を縦に振った。
「正直に言って、かなり大変じゃった。宥めるのには随分と時間を要したわい。……まぁ、大人複数人で手足を押さえても暴れ回るから、最終的には気を鎮めさせるために魔術を使って、小一時間ほど眠ってもらったんじゃがな。フランカちゃんには悪かったが……」
「それは俺も、この目で確かに見たぜ」
「……………………」
――“信じられない”。その一言に尽きた。
想像もできない。
温厚で柔和でお人好しで、果ては生命の全てを愛でるほどの慈悲を兼ね備えたあの天使が、まさか、人に怒り狂うなど――。
俺は気絶していたため、無論記憶が皆無なので、当時の緊迫した状況にははっきりと見当が付かなかった。
だがしかし、二人の陰鬱とした様子から察するに、これ以上触れるのは止めておいた方がいいのかもしれない。
――と、そんなことを考えていると。
村長が座っていた御杖から飛び降り、俺が寝ている寝床の脇まで歩み寄ると――俺の手を、そっと優しく、両の手で包み込んだ。
「だけどな、イトバちゃん」
そして。
金のモノクルの奥で瞬く瞳で俺を見据え、村長は僅かに口元を緩めた。
「先にフランカちゃんにも言っておったが……。――イトバちゃんも、それを気に病む必要は無いんじゃぞ?」
「……!」
村長が柔和な声でそう言うと、傍らにいたオッチャンが久々に白い歯を覗かせ、鼻下を指で擦り、大きく首を縦に振った。
「ヘッ、そうだ……そうだな。村長の言う通りだぜ。イトバの兄ちゃんは何も悪くねぇんだ。ワリぃのは全て、イトバの兄ちゃんを危険な目に遭わせたあいつらと、それに気付けなかった俺たちで――――」
「――――ああ、そうだな。まったくだ……。悪いのは全部、“私とあいつ”だよ」
「「「!?」」」
オッチャンの言葉を遮るように――。
突如、そんな楚々《そそ》とした声が俺たち三人の間に新しく割り込んできた。
――その瞬間。
その場にいた俺たち三人は一斉に、とある一点へと視線を集中させた。
――そこは、扉の向こう側。
そこに屹立していたのは――――ナディアさんだった。
「……少し、お邪魔するよ」
若干身を屈めると、ナディアさんはそう言って躊躇いがちに室内へと入ってくる。相変わらず高身長な人だった。
ナディアさんはその時、珍しくフードを被っておらず、頭部が丸裸だった。
――赤朽葉の長髪と、ザクロ色の瞳。それと、頭部に大きく生えている、山羊のような巻き角が二本。
俺の予想通り、他にも肌がきめ細やかだったり鼻筋が通っていたりと、彼女の顔立ちは非常に端正だった。
……が、どうしても目に付いてしまう、彼女の高身長と雄々しく生えている二本の角が、妙に威圧感を与えてくる。
瞳が凛としている、というのも相俟っているからだろうか……。
……ていうかそもそも。
ナディアさんは、いつからそこにいたのだろうか――。
「……おいお前。何しに来たんだ」
ナディアさんは部屋の中ほどまで進むと、立ち止まり、俺たちと正面から対峙した。
そんな高身長のナディアさんを下から食い入るように見上げ、オッチャンは怒気を含んだ声を宙に吐き捨てる。
「…………」
些か困ったように眉根を寄せるナディアさんは返答を渋り、俺たち三人から視線を外すと、一度瞑目し――開け。
オッチャンの質問には応答することなく、今度は俺の方へと焦点を当て、こう言った。
「単刀直入に言おう。イトバ君。――――ルミーネが、君に会いたがっている」
「「「――――!?」」」
瞬間的に室内の空間そのものが凍て付き、時間が静止した。
その時その瞬間、ナディアさんを除くその場にいた誰もがその発言に耳を疑い――いや、耳を疑わざるを得ない発言に違いなかった。
「て、んめぇ……」
――ふと、声がして。我に返って。
傍らに視線をやると、オッチャンの固く握り締められた拳がわなわなと小刻みに震えていた。
それには、今にも眼前のナディアさんに飛びかかっていきそうな、純然たる憤怒が宿っており……。
「この期に及んでまだ、ふざけたこと抜かしてんじゃねぇぞッ!!」
「!」
やはり、飛びかかっていった。
ナディアさんは咄嗟に身構えると、慣れた動作でオッチャンの拳を軽くいなし、代わりにオッチャンの首筋目掛けて手刀を繰り出そうと――――
「――――待ってくれッ!」
「「「!!」」」
……とはならず。
そうなる前に、俺は声を張り上げ、足を一歩前に踏み出しかけていたオッチャンを引き止めた。
「…………」
唐突に空間を裂くような声を張り上げたことで、村長とオッチャンとナディアさんの――合計六つの視線は、俺一点のみに集中し、注がれていた。
村長とオッチャンは、口をポカンと半開きにした状態で石膏の如く動じず、またナディアさんも予想外の展開だったのか、全身に驚きを隠せないでいる。
「…………っ」
俺は一つ、ゴクリ、と生唾を飲み込み。
改めて、ナディアさんを真っ直ぐに見据える。
「……ルミーネ、さんが俺を呼んでるって……そう、言いましたよね……?」
話しかけられたことで我に返ったのか、ナディアさんは小さく頷いた。
「ああ。……ウチは今から少し前、イトバ君にこのことを伝えろと、ルミーネ本人から“伝達役”を頼まれ、引き受けたんだ。嘘はついていないよ。――ルミーネは、『会って話がしたい』と、そう君を呼んでいる」
その真剣味を帯びたナディアさんの瞳に、心のどこかで妙な安堵感を抱いた俺は吐息を漏らし、言葉を続けた。
「ルミーネさんは、今どちらに?」
「……悪いが、それはあいつに口止めされている。ウチの口から直接的に教えてあげられることはできない。――が。もし君が話し合いに応じてくれるのであれば、ウチがイトバ君をそこまで案内しよう」
「な、それは…………ッ!」
村長が何かを言いかけたが、俺がそれを手で遮る。
「イトバちゃんッ!!」と村長に語気を強めて咎められたが、今は敢えて無視することにした。
「……で? つまり、その“話し合い”っていうのには、ナディアさんも一緒に同行してくださるってことで、いいんですよね……?」
「ああ。そう解釈してもらって構わないよ。……まぁ、何せ君はそんな有様だし、万が一の護衛としても役には立つだろう。信用は……されていないかもしれないが」
「いえ、それで結構ですよ。――大丈夫です」
話を聞き終え、俺はそこで一拍置くと、もう一度吐息を漏らす。
無意識に緊張しているのが、鼓動を通してありありと伝わってきた。
――けれど。
「じゃあ、ナディアさん。お願いします」
今の俺の表情が、ほんの少しだけ弛緩しているのは、おそらく間違いなかった。
「俺を、ルミーネさんのいるその場所まで、連れて行ってください――――」
次回の更新も三日後です。




