第2話 『異世界召喚、そもそもの経緯について』
先に結論から言っておこう。
一ヶ月前、俺は異世界に転移してしまった。
どこまで話したか……そう、『アウトローに生きてやんよ計画』――通称『OIY計画』を練り上げた半年前のところだ。
では、そこから話を再開しよう。誰かに召喚されたとかはさて置き、まずは異世界に来てしまった経緯についてだ。
と言っても経緯自体は至極単純で、説明に多くの言葉は要さない。
あれは遡ること半年前の三月下旬。
大学受験が無事に済み、いよいよ『OIY計画』を実行に移す時が間近に迫っていた。
――ようやく“普通”の日常から抜け出せるんだ。
あの時の興奮は、今でもしっかりと脳裏に焼き付いている。
でも、いざ実際に計画を実行するには下準備をしなければならない。だから俺は、春休みを利用して計画の下準備を始めた。
まず一つ目はバイト。
これは即決だった。大学の近くにある『ヤブン・ヨレブン』というコンビニのバイトだ。
深夜のコンビニバイトに憧れていたというのも一つあるが、色々なバイトを経験する上での出発点としては一番妥当かなと思ったからである。
で、事前に電話して面接行ったら即採用された。まぁ、当たり前っちゃ当たり前だが。
次は、二次元の境地に足を踏み入れることだ。
定義としては些か曖昧だったので、俺はとにかくアニメを見まくることにした。過去に名作と謳われた作品から今季のアニメまで、その全てを網羅したと言っていい。
故に、春休みの大半をアニメ視聴で過ごしてしまった。
かなり不健康な生活は続いたが、正直楽しかったというのが本音だ。原作であるラノベやフィギュアにも興味が湧いたので、この下準備は成功と見ていいだろう。
こうして、二次元に魂を毒された――もとい奪われたコンビニバイトの大学生『糸場有』は誕生したのであった。
……で、こっからが本題なんですね。
それから四月になり――。
俺が大学に入学したと同時に『OIY計画』は始動した。
結果としては成功。人生とは、これほどまでに有意義に過ごせるものなのかと感嘆した。
ただ一つだけ痛手だったのは、大学のゼミで知り合ってから好意的だった女の子に、俺の趣味が“二次元グッズ採集”だということを風の噂で知られ、「糸場君って、実はそっち系の人だったんだね……」と何気に誤解を招きそうな一言を最後に敬遠されたことだ。トホホ……。
そんなこんなで月日は流れ、早くも大学入学から約半年が経過しようとしていた晩夏の頃。
つまり、今から丁度一ヶ月前。俺が異世界へと来てしまった、運命のあの日だ。
あの日の夜中も、俺はいつも通り一人で『ヤブン・ヨレブン』のバイトに励んでいた。
時刻は日付を跨いだぐらいだったと思う。
俺は商品の品出しをしたり、レジのお金を数えたり、エスプレッソマシンのコーヒー豆を足したりしていたのだが、暇過ぎて何度も欠伸が出たことを覚えている。
それは客足が疎ら――いや、あの日はいつも以上に少なかったからだ。
来ている奴と言えば、雑誌コーナーで立ち読みしている上下ジャージ姿の高校生(多分)ぐらい。
それに、その高校生は何回か店に来ていたので面識があった。向こうが覚えているかどうかは知らんが。
「……あの、すいません」
「あ、いらっしゃいませー」
覇気のない声で呼ばれ、反射的に顔を上げると立ち読み高校生がスナック菓子片手に突っ立っていた。
パッとしない黒とオレンジのジャージ姿に黒髪短髪のオールバック、それと三白眼の鋭い目付き。
一見すると厳つい容貌だが、目を伏せがちなのか、どこか暗い印象を漂わせている。
ま、毎度のことなので特に気にはしていない。
「一〇八円になりまーす」
「…………あ、じゃあこれで」
彼はジャージのポケットから小銭を引っ張り出してレジ台に置いた。
チャリン。二〇〇円。
チッ、九十二円も釣り銭出すのか。
まさかそんな心の下卑た声を出すわけもなく、俺は満面の営業スマイルで「二〇〇円お預かりしまーす」とレジをパチパチ打つ。
チン、と出てきたドロアから五十円玉一枚と十円玉四枚と一円玉二枚をちまちま取り出す。
ああ、めんどくせぇ。
「レシートはご利用ですかー?」
「いや、いらないっす……」
ポイ。
レシートをダストボックスへシュート。
「はい、こちら九十二円のお返しになりまーす」
「あざます……」
丁寧に釣り銭を渡し終えると、俺はスナック菓子を袋に入れる。
「お待たせしましたー」
「あざます……」
彼は俺の手から袋を受け取ると、そのまま逃げるようにコンビニから出て行った。
結局、今回もこちらに一度も目線を向けることなく。
「いつもありがとうございまっすー!」
一応言っておいたが、もう彼の耳にこの言葉は届かないだろう。
コンビニ店員に常連客と認められた者だけにしか使われないワード。どうやら彼には、その証の価値が分からないようだ。
「はぁ…………」
半年間、辞めるに辞められないまま深夜のコンビニバイトを継続している俺が一つだけ言えることがある。
それは、夜中のコンビニバイトは肉体よりも精神的に疲れるということだ。
どうせなら、ラノベみたくコンビニの天井から美少女の一つでも降ってくればと思う。
おっと、決して卑しい思いがあって言ってるわけじゃないぞ。そうなれば気が紛れるというだけだ。
「さてと、店内の掃除でもしておきますか……」
俺は一度大きく伸びをする。
随分と体が凝り固まっていたのか、関節からはパキポキと小気味よい音が響き、目元辺りがじわーっとしてきた。
――と、次の瞬間だった。
「……ん? 何か焦げ臭いぞ」
空気が変わった、とでも言うべきか。
今し方俺が伸びをしている最中に、半年間慣れ親しんだ『ヤブン・ヨレブン』の匂いが一瞬にして消失したのだ。その代わりに、有機物が焼ける匂いと薬品独特の悪臭が俺の鼻腔を刺激した。
――おいおい、薬品の悪臭してる上に何か燃えてるとかマジで洒落になんねぇって。サスペンスドラマかってんだよ。
異変にいち早く気付いた俺は、目を乱暴に擦ってカッと見開く。
するとそこには――
「ひっ……」
フワリとした赤っぽい茶色の長髪に、翡翠色の双眸。それに加えて、キツネのような耳と尻尾を併せ持つ美少女がいた。
しかも、上下白いレースの下着姿で。
しかも、巨乳。やったぜ。
「あ」
現状が一切飲み込めない俺に言葉はなかった。
脳内では思考回路が活動を放棄し、ただ“レディの着替えを覗いてしまった”という罪悪感のみが突き付けられる。
――こ、ここここここれどういう状況!?
取り敢えず、俺は弁明することに決めた。
「……あ、あの――」
「ひっ!」
パサリ、と少女の手から衣服(エプロンドレスとローブかと思われる)が落ちる。
どうやら少女の方も現状を把握できていなかったらしく、俺が一歩近付くと我に返ったのか、同時に数歩後退りされた。
いや、それだと余計に肌が露出してマズい気が……。
「(ガクガクブルブル)」
が、落ちている衣服を拾って渡そうにも渡せない状況。仮に拾ってしまったら、警戒心を強めて逆効果になってしまうからだ。
それに、身を縮こませながら震える下着姿の少女は、今にも羞恥心で顔が爆発寸前。冷静に人の話を聞ける状態ではなさそうだった。
ど、どうしよう。俺、マジで犯罪者になっちまう。てか、俺の立ち位置からして誰にでもそう見えちまうわ……。
「ハッ……!」
その時、俺は遅ればせながら思い出した。
国の法に則り、正義と秩序を体現する者――『警察』という存在を。
「お、お勤めご苦労様ですっ!」
平身低頭――と思いきや、周囲を見渡して戦闘態勢に入る俺。
流石に土下座は男のプライドが廃る。ならばいっそ正々堂々と無実を訴えてやるぞコラと喧嘩腰になった結果がこれだ。
しかし、
「おらおら、こっちは冤罪被ってる身なんだぜ。下手に手を出せば――ってあれ?」
そこに警察の姿は見当たらない。
それどころか、そこは先程まで俺がいた『ヤブン・ヨレブン』ではなかった。
見慣れた商品棚も、レジ台も、エスプレッソマシンも何も無い。
緑の扉、赤レンガで敷き詰められた壁面、その壁面に根を張った植物、ブラケットライトから漏れる温白色の光、ダークブラウンの色調が強い床――。
全く違う、別の店だった。
「……は? いやいやいやいや、まさかそんな」
きっと疲れているのだろうと思い、俺は首を左右に振って瞑目する。
こうした幻覚を見てしまう要因として、俺は一つだけ心当たりがある。それは最近ハマったネトゲだ。
おそらく、それが現実と非現実の区別をつかなくさせてしまったのだろう。
とにかく大学のこともあるし、生活リズムを戻しとかないと……。
決意を新たに、俺はゆっくりと瞼を開く。
「ほら、やっぱり俺の勘違い――」
ではなかった。
目尻に涙を溜めてこちらを窺っている小動物のような少女はまだいるし、緑の扉も赤レンガの壁面もダークブラウンの床もそのまんま。
先程見た光景と何も変わっていなかった。
「あはははははははは! ……………………じゃあここどこだよ!? 気が付いたら下着姿の巨乳獣耳美少女と二人っきりとかどんなエロゲだよッ!!」
バン! と俺は手前にあった机を力任せに叩いた。
衝撃で、数枚の羊皮紙とニワトリのようなヌイグルミがポトンと床に落ちる。金色のカウンターベルが「チーン」と呼応した。
ナイスタイミングな仏具の代用、ご苦労様です。
「「…………」」
「…………」
「…………」
暫し静寂が続く。
と、その時。
柔らかい音色を持った音楽(オルゴール調の狂詩曲?)がどこからか鳴り始めた。
「……あ、開店の時間だ」
隣にいる少女がポツリとそう言った。
「えっ、開店?」
俺が反応に遅れて少女の方を見ると、少女はいつの間にか着替え終わっていた。
長い裾のドレスとローブが尻尾を隠し、頭に被った白い三角頭巾が獣耳を隠したことで、見栄えは十六、七ぐらいの人間少女になっている。
「開店って……ここは一体何なんだよ?」
再度問うと、少女は恐怖と敵意が混同したような視線をこちらに向けて、躊躇うように口を開いた。
「あの……それより、あ、あなたこそ何者なんですか? 珍妙な格好をしてますけど。『人間種』……の方ですよね?」
「俺? いや俺は……」
語尾を濁しつつ、俺は自分の胸にそっと手を置いてみる。
ドクン、ドクン、とまるで秒針を刻むかのような拍動。それは、大きな手に小さな温もりを与えてくれている。“今、生きている”ということを確かに教えてくれていた。
生命の神秘、ここに極まれり。
「人間、ですね」
「哲学っぽい口調なのはなぜですか」
熱い眼差しを向けると、少女の口元が若干引きつる。が、俺には少し表情が和らいだように見えた。
少女は一呼吸置くと、
「……ここは、“雑貨店”ですよ」
「雑貨店?」
「は、はい。便利の旗印、何でもお道具店の『LIBERA』。ラマヤ領、ポルク村付近、です」
「りーべら? らまや領? ぽるく村?」
俺はじっくりと店内を見回す。
雑多な物で溢れ返っている部屋だ。部屋の片隅には本が大量に積み上げられており、大小様々な薬品の瓶、杖、羽根ペン、高級そうな宝石、さらにはコーヒーミルやサイフォンのようなものまで置いてある。
しかし掃除が行き届いているのか、落ち着いた雰囲気を醸し出す店内には塵一つ無く、寧ろ雑多な感じが店内の内装をより引き立てている気もした。
「雑貨店、雑貨店……なるほどなあ。だから、俺が今立ってる所もレジみたいになってんのか」
「あ、あの……だからあなたはどこの誰なんですか? 光に包まれて突然現れるなんて……。召喚魔術の類? いやでも形式的な“陣”――いわゆる魔法陣――とか詠唱の痕跡は見当たりませんし、そもそもそうだったとして、一体誰がこんなことを……」
「一人で何ブツブツ言ってんの?」
「うひゃあっ!? ふ、不意に近付かないでください! ううう訴えますよ、そろそろ訴えますからね!」
「えぇっ!? そっちから近付いてきたのに!?」
「だからあなたは何なんですか!!」
自分の左胸をタッチ。
ドクン、ドクン――。
「人間です」
「それはさっき聞きました」
はぁ、と少女は額に手をやり、短い嘆息を吐いた。
俺とのやり取りに疲れたのもあるだろうが、それ以上に理解が追い付かない現況の始末にほとほと困り果てているようにも見える。ていうかそれは、俺も同じだ。
「――って、ここが雑貨店だと分かって『なるほどなあ』……じゃあねぇんだよっ!! どうやって俺は一瞬でコンビニからこんな場所まで移動できたんだよ!?」
俺は自分の顔を少女の鼻先に近付ける勢いでまたも肉薄し、それから肩を掴んでブンブンと前後に揺さぶった。
そんな俺にアワワワ! と戸惑う少女の上半身はまるで振り子のように揺れ動き、けれど律儀にも返事を寄越した。
「し、知りませんよ、そんなこと私に聞かれても。あっという間の出来事だったんですから……。寧ろこっちがあなたにそれをお聞きしたいぐらいですっ!」
最後は半ば逆ギレ気味に語気を強める少女。
そこで、俺は必死になっていて我を失っていた自分に気付き、「すまん……」ときまりが悪い感じで謝ると、少女の肩からスッと両手を離した。
対照的に少女は「?」と不思議そうに小首を傾げながら、その無垢さを象徴する丸々とした瞳で俺の情けない表情を真っ直ぐ見つめている。
「…………」
口元を摩る。
と、一度冷静になったところで、雑然とした思考の海の中から先程の少女の言葉が脳内再生される。
そして、俺は重大なことに気が付いた。
「って、ちょっと待て。じゃ、じゃあ、まさかここって……その、つまり……」
「? 何ですか?」
言いかけて――ゴクリ、と生唾を飲み込む。
こんなことを口にするのは、本当に頭がどうにかなってしまったのではないかと懐疑し、もしそうであった場合の自分を自嘲したからだ。
しかし、今そこにいる少女を前にして、これを確かめずにはいられなかった。
そう、俺はあまりにも滑稽で非現実的で、それでいて“普通”でない一つの可能性に気が付いてしまったのだ。
「……『異世界』ってこと?」
「……イセカイ? イセカイ……ああ、異世界って、あの天界とか魔界のことですか?」
部屋の壁に立てかけてある箒を取りに行こうとしていた少女の肩を掴むと、ギョッとした顔をされた。
そんなに嫌そうにしなくてもいいじゃんか。まぁ、色々見ちゃった上にさっきの言動は悪かったけどさ。
「ラマヤ領、ポルク村……。だよな、明らかに日本の地名じゃないし、俺が学校の世界史で知っている限りでもそんな地名は聞いたことない……。それに、あの子が『異世界』という言葉を別の意味で解釈してたし、『エロゲ』って言葉にも反応できてなかった――いや、それただの変態じゃねぇか」
「?」
口に手を当ててしどろもどろしている俺に、少女はきょとんと首を傾げる。
やはりそうか。
「あんまし超常現象とかは信じないタイプだけど……」
俺の目線は少女の頭とお尻に注がれた。
「つまり、俺はたった今、何かしらの理由によって異世界に召喚されたと考えるべきか……。いや、もうそうとしか説明がつかないというか……。うん、それなら、キツネの耳と尻尾が生えてる獣族美少女が一人二人いても頷けるっちゃ頷けるし……」
「――――ッ!」
そう言った途端、少女の顔は再び熟れたリンゴのように真っ赤になり、頭とお尻のそれぞれを片手ずつで慌てるように隠した。
あ、あれ、まさかの藪蛇?
「……み、見たんですか?」
「いや、み、見たというか何というか……あれは不可抗力ってやつで」
言い訳が下手くそすぎて情けなくなる今日この頃。
「見たん、ですね……?」
「ごちそうさまでした」
「あわっ……あわわわっ、うわぁぁああああああああん!!」
どうやら少女の羞恥心が限界に達したようで、菩薩顔で合掌する俺の頭を箒で叩こうとしてきた。
「い、痛い痛い! ちょ、待っ――」
「見られたくなかったのに見られたくなかったのに見られたくなかったのに見られたくなかったのにぃぃいいいいッ!!」
店内で軽い鬼ごっこが始まった。
俺は店内をぐるぐると周回するように、所狭しと並ぶ雑貨を器用に避けながら逃げ続けるが、何やら背後でドンガラガッシャン!! と愉快な騒音が聞こえてくる。
振り返らずとも、泣き喚く少女が頭上で箒をブンブン振り回しながら暴走している姿が目に浮かんだ。
「だから君の着替えを覗いてしまったことは不可抗力だったんだって! 犯人は俺をこの世界に招いた誰かさん! そいつを通報するのが一番妥当なのでは、と糸場は強く進言致しますが!?」
「着替えとか下着姿なんてどうでもいいんですっ! それよりも耳と尻尾を……うわぁああああん!!」
えぇ……やっぱりそっちなのね。
これではまるで、他人の家の食卓から香ばしい匂いを放つ焼き魚を盗み食いした泥棒猫になって追いかけられている気分だ。……って、俺は一切無実なんだが。
だがこうして幾ら無実を訴えかけたところで、我を失っている今の彼女が聞く耳を持つとは到底思えない。
そんな堂々巡りの鬼ごっこにとうとう我慢できなくなった俺は、
「ていっ! 逃げるが勝ち!」
「あ!」
カランカラン、と店の外へ飛び出した。
すると、扉を開けた先に――
「…………っ」
深夜とは一転、眩し過ぎる早暁の世界が広がっていた。
まだ日が昇って浅いからか、朝霧の名残が残る空気はひんやりと肌を刺し、頭上に浮かぶ羊雲の切れ間より射し込む暁光は、周囲一帯を仄かな光のベールで包み込んでいる。
それと、徐々に明順応してきた俺の瞳に映り込んだのは、店先で横一直線に伸びている砂利道の街道と、青々しい若草の生い茂った、大海原にも似た広闊な大地――。
と、丁度その時。
「おい兄ちゃんッ! ボサッと突っ立ってると危ねえぞ!」
「モォオオオオオオオオ!!」
上半身が人間で下半身が闘牛のような風体をしたミノタウロス(みたいな生物)と、そのミノタウロスが引っ張る荷馬車の手綱を引く中年の御者が、土埃を巻き上げながら俺の眼前を猛スピードで過ぎ去っていった。
僅かに地が揺さぶられた直後、横薙ぎの微風に煽られ、毛髪が左右に靡く。
やがてゆっくりと荷馬車の過ぎ去った方――右方に視線を向けると、緩やかな左カーブを描きながら地の果てまで伸びている街道の道中に、一定の距離を空けてポツポツと立ち並ぶ質素な家々が、屋根の煙突から白煙を立ち上らせているのが拝めた。割と近い所に村落も見える。
次に左方へ視線を移すと、こちらも街道が地平線の彼方まで続いており、右方と似通った光景が見受けられた。
ただ特筆すべきは、遥か遠方で朝の来訪を告げている真っ赤な太陽と背の高い木々が密集した森林地帯。それらだけでも、風光明媚で壮観な大自然の一片を十二分に担っているのではなかろうか。
また、先程の半獣人とは違い、何となく見たことのあるような家畜類が所々で呑気にのさばっていた。
どちらも、俺の元いた世界――厳密に言うと“日本の都会にあるコンビニの店先”においては絶対に有り得ない光景で、本当に異世界に来たのだと改めて実感させられる。
「…………」
そして、最後に背後を振り返る。
今し方俺が飛び出してきた木造建築物が一軒と、その左横で蒸気を吹き鳴らす木造建築物が一軒。
さらに、それら隣接する二軒の建物を枝葉の影ですっぽりと覆い、こちらを俯瞰していたのは樹齢何百年――あるいは何千年にも見て取れる巨大樹。
そんな息を呑む情景の数々を前に、
「すげぇ……」
筆舌に尽くし難い感動が胸裏で渦巻き、打ち震える。
しかし高揚する心が絞り出したのは、結局ありふれた讃美の一声だけ――
「見られたくなかったのにぃーっ!」
「ぬはっ!」
バシン! と。
正面に視線を戻そうとした矢先、俺の前頭部に箒の穂の部分が直撃した。
それによって幻想的な夢の世界は終わりを告げ、強制的に現実へと引き戻されてしまう。
生で見る非現実的の世界に陶酔して忘れかけていたが、そういえば俺は箒片手に暴走する獣耳美少女と鬼ごっこをしている最中だった。……“獣耳及び尻尾覗きの罪”という理不尽な冤罪を被せられて。
「うぅ~~!」
未だに暴走少女の溜飲は下がっていないようで、俺は一頻りポカポカと箒で頭を叩かれた後、次は素手で胸をポカポカと叩かれる。
――あれ? なぜだろう……こうされると逃げられない……。
涙目になりながら精一杯の力で叩いてくる少女。正直痛くも痒くもない攻撃だったのだが、無理矢理引き剥がすと余計に激昂しそうな気がしたので、しばらくそのまま受け続けておくことにした。
その間に少女を一発で宥めさせられる、何か良い方法を考えねば。
「はぁ……。せめて、こういう時に気の利いた一言を瞬時に思い付くイケメンに生まれたかったな……」
一度天を仰ぐと、この逃げ場の無い現状に誰かを巻き込みたいわけではなかったが、俺は打開策の手掛かりでも求めるようにフラフラと視線を宙に彷徨わせる。
そこでふと視界の端に映ったのは、雑貨店の店頭に置いてある、カラフルな模様を添えて『LIBERA(ローマ字?)』と表記された立て看板。
「『LIBERA』、ねぇ……」
それを暫し見つめて黙考し――すると俺の脳内に閃きの電流が迸った。
「あー…………わかった。罪滅ぼしと言っちゃ何だが、それなら俺がここで働いてやるよ」
「見られたくなかった見られたくな――――えっ?」
白旗を上げ、観念したように音を上げると、少女の密接攻撃がピタリと止んだ。
「君の着替えを見てしまったお詫びだと思ってくれ。ここ、雑貨店なんだろ? だったら手伝えること沢山あると思うし、経営とか経済についての知識も少しぐらいはあるからさ」
「で、でも……」
それは申し訳ないですよ、と少女が言う直前に言葉を手で遮る。
その言葉、待ってたぜ。
「まぁ、これも何かの縁だよ。それにほら、丁度バイトの制服も着てるし。異世界に来てしまった以上、元の世界に戻れる保証も無いわけだしさ。それに俺、召喚魔術? ……か何か知らないけど、いきなりこっちの世界に連れてこられたからさぁ、ぶっちゃけ衣食住の整った生活場所もどこかへ行く当ても無くて困ってるんだよ」
「な、中々に大変な身の上ですね」
「だろ? そうだな……仮に例えるなら、今の俺は生まれたての雛鳥と同じで、ここから外の世界へ一歩踏み出しただけで右も左も分からないって感じなわけ。三日もしない内にそこら辺で野垂れ死ぬのは目に見えてる」
「えぇ……。それは、ちょっと……困りますね。それであなたに野垂れ死なれたら、私の責任になっちゃいますし……」
「なんかすげー自然に言ってるけど、俺的にはかなりグサッときてますからねその言葉。……俺、まだきちんと両親に恩返しできてないし、生い先も長いからさ、だからあんまり若くして死にたくは……ないかな。グスン」
追い討ちをかけた。すると案の定、少女は困惑した表情で「あー」とか「えー」とか「でもー」と返答を渋り始める。
――もうワンプッシュか。
俺の口角が無意識に吊り上がるのを感じた。
「ね、悪くない話でしょ? 頼むよぉ〜。君が“食”と“住”さえ提供してくれれば、その代わりに俺がここで精一杯働く――いえ、精一杯働かせていただきますっ!!」
「だ、大丈夫なんですか? ホントに」
「ダーイジョブダイジョブ。言語は通じてるようだし、仕事内容とか読み書きは随時覚えていけば問題ナッシング。それとレディ、現代社会で最も重要視されてるのはコミュ力だよオーケー?」
「は、はあ……」
曖昧な相槌を打ちながら、少女は顎に手を当てて黙考する。
そして、首を小さく縦に振った。
「……はい、わかりました。状況が状況ですので、そこまで仰るのであれば。男手が増えるのは私にとっても嬉しいことですし」
「うっし!」
理解のある子で助かったと胸を撫で下ろしつつ、俺は内心で渾身のガッツポーズを決める。
これこそ正に計・画・通・り!……っと、落ち着け俺。あくまで紳士的にだ紳士的に。
まずは、親睦を深めるために自己紹介からだ。
「コホンコホン。初めまして、俺の名前は糸場。――ああ、下の名前は有。どっちで呼んでくれても構わないけど、これからよろしく頼むよ」
そうして手を差し出す。
すると、ようやく警戒心が緩んできたのか、少女は俺の手と顔を交互に見ながら破顔した。
「はい、こちらこそよろしくお願いします! 私の名前はフランカ=バーニーメープル。この『LIBERA』で店長を務めています!」
お互いに自己紹介を終え、ガッチリと握手。主に俺が愛と力を込めて。
――優しい温もりと心地良い柔らかさを内包した一陣の風が、二人の合間を通り過ぎていった。
果たして俺はこの世界の神様から祝福を与えられ、歓迎されているのか、それとも――。
いずれにせよ、もうとっくに朝が来ているという事実に変わりはない。
「んじゃ、早速仕事始めようぜ。フランカ店長」
「はい! い……イナバさんっ!」
「おい、俺はウサギじゃねぇよ」
「ほえ?」
こうして、俺の『異世界雑貨店生活』は幕を開けたのだった。