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異世界道中のお道具屋さん  作者: 一色創
第一章  普通でない日常の始まり
27/66

第24話 『この広く美しい青空の下で』

 走って、走って、走って――――。


 俺と彼女は大地を駆けた。

 行き先を尋ねようにも、俺の手を強く握る彼女の手がそれを許さない。

 おそらく彼女は冒険家なのだろう。

 だから、本当にこのまま世界の果てまで連れて行かれるのではないかと、俺は眼前で揺れ動く灰色の背中に不安を覚えざるを得なかった。


 ――でも。


 走って走って、徐々に蒼色一色へと移り変わる視界に、胸を躍らせている自分がいた。

 美人なお姉さんと手を取り合いながら、息を切らし、未知の世界を駆け抜ける――。

 たったそれだけのことでも、この代わり映えのない平和な日常を打破してくれるように思った。心の深淵しんえんでずっと眠っていた冒険心をくすぐられ、ワクワクしていたのだ。


 …………てか、ぶっちゃけデートですよねコレ?


「いやぁ、突然連れ出して悪かったね! 嫌じゃなかったかい?」

「い、いいいいいい嫌だなんて! そ、そそ、そんな滅相もございませぬ寧ろありがたき幸せッ!!」

「ハハハ! そうかい、なら良かったよ」


 ――では俺は、今の生活に退屈しているということなのか……? 

 今の環境に飽きている、そういうことなのか……?


 ――いやまさか、そんなはずはない。


 俺は何の特徴もない、何の取り柄もない“普通”な自分を嫌っていた。

 そんな“普通”の殻を破りたいとあれほどこいねがっていた俺が、この“普通”でない世界の、“普通”でない現状に不満を抱いているなどあるはずが――



「……っと。この辺でいいだろう」



 そこまで思い至った時、風が止んだ。

 同時に眼前で揺れ動いていた灰色も、ひたすら動かし続けていた足も止まり、静謐せいひつさを取り戻した。


 フッと手が離れ、俺はようやく行き先の秘境を確認することが許される。

 いつの間にか随分と長い距離を走っていたようで、思ったよりも動悸が激しかった。


 膝に両手を付き、俺は軽く息を整える。

 そして顔を上げ、しっかりと双眸そうぼうを見開くと、そこで俺を待っていたのは、


「…………っ」


 ――上が青で、下が緑。

 その秘境にはその二色しかなく、それ以外は何もなかった。




 どうも俺たちが行き着いた場所は、ざっと周囲を見渡す限り、ポルク村から幾分か離れた所にある草原――『ケープ草原』の一部のようだった。

 かなり遠くまで来てたんだな、と俺は真下――膝辺りまで伸びている若々しい青草と、今や彼方となってしまったポルク村を交互に眺める。


 この草原に足を踏み込むのは、異世界ここに来てから初めてのことだった。

LIBERAリーベラ』を出て、いつも街道一つ挟んだ向こう側に広がっている光景ではあったのだが、遊び盛りの腕白わんぱく小僧――特に野球好きな――でもなければまず立ち入ることはないだろう。

 で、立ち入ってみて思ったのだが……なんともまあ、だだっ広い。

 地平線、と言うのだろうか、ポルク村とは真逆の方向――『ポルクの森』のある方へ視線を投げれば、上の青色と下の蒼色の境界線であるそれを拝むことができる。“その他”が介在する余地など、微塵もない。

 要するにこの草原は、俺たち二人が会話をするにはあまりにも広闊こうかつで、大袈裟おおげさなものだった。


 フワリ、と。

 どこからかやって来たそよ風が俺の髪を優しく持ち上げ、汗のにじんだ額に心地よさを与えてくれる。

 腰に両手を添え、俺は傍らにいた彼女――ルミーネさんに声をかけた。


「……本当に良かったんですか? さっきの公演会抜け出してきて」


 俺と同様に乱れた呼吸を整えていたルミーネさんは、そんな俺の少々呆れた眼差しもお構いなく、ほがらかに笑った。


「ナハハハ! ああとも。君が心配せずとも、大丈夫さ。あそこにいた村人たちには悪かったが、どうせここにはしばらく滞在することになるんだ。旅の話ぐらい、明日でも明後日でも、望むのであれば幾らでもしてあげられるさ」

「はぁ……。いやいや甘いよ、甘過ぎるよルミーネさん。あのですね、あいつらは魔族の血を受け継いでいる“ポルクの民”なんですよ? さっきも見ましたでしょ? あいつらが地に伏している俺を見下ろしながらざ……『雑技を極めし魔術師モノ』とか『サボりの魔王』呼ばわりして嘲弄ちょうろうしていたのを。あんなの悪魔ですよ、悪魔の所業に違いないいやもう間違いなくそうなんですよ! そうやって楽観視してると、後で痛い目見ますよ……」

「おおっと、それは心底おっかないね」

「はい。特に村長辺りは怒り心頭って感じかもしれないですね。あのおっかない村で、さらに一番の要注意人物ですから」

「ハハハ、そうかそうか。なるほどな。それなら、後で言い訳を考えておかなくちゃね。……忠告、感謝するよ青年。ナハハ」


 とは言うものの、返答は高らかな笑い声だった。全く気に留めていないのが、緩み切った口元からありありと伝わってくる。

 自由奔放な人だなぁ、と俺は呆気に取られ、今日一番の大きさであろう嘆息たんそくが今し方虚空に吸い込まれていった。

 純白の輝きを放つ太陽――その麗しい外面とお茶目な内面とのギャップにいよいよさいなまれそうだ。


 すると。

 不意にルミーネさんが青天を仰ぎ、頭上に手をかざした。


「にしても……はぁ、今日はなんて良い日なんだ」


 フワリ、と。

 ルミーネさんもまた俺と同様、脇を通り抜ける清涼な風が肌に心地いいのか、薄っすらとまなじりを細める。


「あ、そうっすね。良い天気ですよね」


 ひそみにならい、俺も何気なく天を見上げた。


 何度も言うようだが、今日は本当に空が冴え渡っていると思う。

 それは早朝――『ファクトリー』の例の更衣室で身なりを整え、隣接する“雑貨店”としての建物とを繋ぐ二階部分の渡り廊下を渡った時からだった。

 大抵の人は普段から空を見上げる機会など、ふとした時以外はそうそう無いだろうが、俺は必然的と言うか偶然的と言うか、毎日のように見上げている。

 たかが数メートルの渡り廊下と言えど、あれだけ開放的な空間だ。それに、時として人とは何かを探し求める生き物で、数メートルもあれば“今日の空模様”を見つけることなど造作もない。

 つまり結局、俺は数週間前から二階の渡り廊下で“早暁そうぎょうの空を見る”ということが癖付いてしまって、まるで日課のようにその日の天気を占ったりしているのだ(的中率は現在八割超えです)。


 そんな俺でも、今日はかなりの頻度で空を見上げている気がする。

 でも、無意識の内についつい見上げてしまうのもうなずけた。

 大空がこんなにも晴れ晴れとした青色をしていて、尚且つ清涼なそよ風が大地の緑を揺らしていれば、心に日々募り募っている鬱憤うっぷん倦怠感けんたいかんまとめて洗い流せる気がしなくもない。


 それに……ただ単純に美しい。


 今この場所に俺とルミーネさんの二人だけしかいないからかもしれないが、ここだけが世界の一部から切り取られたような錯覚を覚えてしまう。

 本当に、世界には俺とルミーネさんの二人だけしかいないような――。


「…………!」


 と、見惚れている場合ではなかった。

LIBERAリーベラ』で独り寂しく待っているフランカのためにも、早く帰って午後からの店の仕事を手伝わねば。


 俺はそろそろ本題に入ろうと、一度咳払いを挟んだ。


「ところで、ルミーネさんって昨日辺りにポルク村へ来られたんですよね?」


 そう口火を切ると、ルミーネさんは悠然ゆうぜんとこちらに向き直る。

 驚きの二文字を的確に表したような、僅かに眉を上げ、目を丸くして。


「へぇ……よく知ってるね」

「まぁ、人伝で聞いた話ですけど……」

「人伝…………あー、なるほど。あの村の村民たちか」


 嘆息交じりに困ったような笑みを浮かべると、ルミーネさんは肩をすくめてみせた。


「ああ、その通りだよ。つい先日、中央大陸からセリウ大陸にかけての長旅を終えてこの地に足を踏み入れ、ポルク村を訪れたというわけさ。丁度、懐の深い村長さんが寝床を貸してくれたし……。まぁ、今はちょっとした野暮用で滞在していてね。諸事情ってやつだよ」

「…………」

「それが、どうかしたのかい?」

「あ! いえすみません、別に……」


 話を聞く限りでは、これまでに人伝で聞いてきた彼女の噂話との相違はない。

 別に彼女にどうこう疑念を抱いているわけではないのだが、実を言うと最初に彼女を一目見た時から、頭の片隅に何かが引っかかっていたのだ。

 それは、ポルク村に来るまでの道中で感じたあの感覚――“違和感”と似ていて……しかし結局、今回も何も掴めないまま、正体は黒い霧の中へと姿をくらました。


「では……私も君に、幾つか質問をしても構わないかな?」

「……え? あっ、質問、ですか……?」


 虚をかれ、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。


 分かってはいた。

 分かってはいたから、多少なりとも身構えていた。

 彼女が俺をわざわざこんな遠方の秘境にまで連れて来た理由――。

 それは、“俺に何か訊きたいことがあるから”なのではないか? と。


 ……でもまさか、ここでルミーネさんが質問返しをしてくるとは予想だにしていなかった。たまたま思考にふけっていたことも、相俟あいまっていたのかもしれない。

 それ故に、彼女の一声で途端に全身が強張り、動揺してしまったのだ。


「お相子、というやつさ。……良いかな?」

「あ……ええ、はい。答えられる範囲でなら、何なりと」


 片言な返答を告げると、ルミーネさんは心底安堵したような表情で口元を緩め、静かにまぶたを閉じ、瞑目めいもくした。


 一体何を、どんなことを訊いてくるのだろうか……。


 薄紅色で厚みの薄い唇から放たれる第一声――。

 それを今か今かと待ち望むが、しかし情欲を露わにはせず、努めて平静を保ち続ける。


 端的に言って、好きな人(俺の場合はマイハニー・フランカ)からの告白を待っているかのような気分だった。

 鼓動が高鳴り、背中をう妙な緊張感を拭おうにも拭えない。そんな気分。


「…………」

「…………」


 ――そして、ルミーネさんはゆっくりと瞼を開けた。


「先程――中央広場にいた時、君はあの雑貨店の店員と、そう言ったよね? 確か……リーベラと言ったか」

「……あ、はい。お渡しした名刺の通りなんですけど……そこで雑貨店の店員をやらせてもらってます」


 結論、なんてことのない話題だった。

 少々膨らませていた期待をあっさりと打ち砕かれ、俺は拍子抜けしてしまう。


 一方で、ルミーネさんはわずかに顎を下げ、何かを考え込むような素振りを見せていた。


「ふーむ、そうか……。と言うことは、あの『獣人種』の娘も一緒に働いているということか……」


 思わぬ単語ワードが俺の耳に付いた。


「あれ……? ウチの店長のこと知ってるんですか?」


 尋ねてみると、ルミーネさんはさも当然であるかのようにこう言った。


「フランカのことだろ? ああ、彼女となら昨日の丁度この時間帯ぐらいにポルク村の露店街で出逢ったのさ」

「露店街で?」


 要領を得ていない俺に、ルミーネさんは続けざまに次の句を紡ごうとする。が、どこか口の開き方がぎこちない。舌の上で飴玉あめだまを転がすように、何かを言いよどんでいるようだった。


 そして、その理由は直ぐに分かった。


「……。恥ずかしながら、ここに来るまでに路銀が底を尽きかけていてね……。空腹で飢えに飢えて、露店街で石ころのように行き倒れていた私に、彼女が近くの酒場で昼食を振舞ってくれたんだよ。勘定も全部、彼女が受け持ってくれて……。いやぁ、ホントに。何度豊穣の女神に感謝しようと、これだけは感謝しきれないよ」


 頰を掻きながら自嘲じちょうすると、ルミーネさんは薄っすらと紅潮した顔貌がんぼうを悟られないように、横に視線をらした。


「へぇ〜、そうだったんですか」


 初耳だった。

 俺の記憶が正しければ、昨日の時点ではおそらく、フランカは“ルミーネさんに出逢った”ことなど一言も喋ってはいない。初対面の人と仲良くなると、その日の夕食の席にでも直ぐに話題に引っ張ってくる彼女にしては珍しいことだ。


 では、そんな人懐っこくて明るい彼女が、なぜ昨日は何も喋ってくれなかったのか……。

 うーむ、としばし黙考し、俺は昨日の出来事を脳裏に思い起こしてみる。


 ――すると、



『なぁ……ポルク村で、何かあったのか?』



「――――!」


 これは、とある会話――。

 そう、ポルク村まで買い出しに行っていたフランカが帰ってきて、そこでクソジジイによって『ファクトリー』から無理矢理外に放り出された俺と鉢合わせた時だ。

 俺がその時、フランカに聞いたのだ。“太陽”が代名詞の彼女に垣間見えた、妙なかげりに違和感を感じて。


 ではフランカはその時、何と返答していた……?


『い、いえっ、別に何もありませんよ。あ、あるわけないじゃないですか。えへへ……』


 ――笑っていた。太陽のように。

 元気一杯に口元を動かし、耳と尻尾もその動きに合わせるようにして忙しなく動いていた。


「――――」


 まただ。

 また……あの“違和感”だ。


 しかし今度はポルク村までの道中で感じていた“違和感”とは違い、また別の“何か”が不安の種となって胸中に根を下ろしていた。

 それに、今度の“違和感”の正体の輪郭りんかくは比較的はっきりと捉えていて、黒いもやで曖昧になっている感じはない。


「いやまったく、あのは小柄な風貌ふうぼう並みの小さな器では収まりきれないほどの、慈悲と優しさと……それから“愛”を兼ね備えた少女――正に天使だよ」


 頰の熱が治まったルミーネさんは、再び流暢りゅうちょうに、流れるように、独り語り始める。


 彼女が“ああいう”素振りを見せる時というのは、大体決まっていた。

 ――“何か嘘をつく時”。

 これは異世界ここに来て一ヶ月、俺が毎日一緒に彼女と雑貨店の仕事をこなし、日常的な生活をし、そしていつも隣にいたからこそ確信を持って言えることだった。

 純粋で、誠実で、真っ直ぐで、時々鈍臭くて……でも優しい女の子だということを知っているからこそ、言えることだった。


 つまり彼女フランカは――


「……君も、そう思わないかい?」



 ――俺に、“()()()()()()()()……?



「……………………」


 その時。

 コホン、とルミーネさんの軽い咳払いが俺の鼓膜を揺さぶり、思考の大海から意識を引き揚げられた。

 そして、こう訊ねられた――。


「好きなのかい? 彼女のことが」

「……………………へ?」


 いつの間にか、こちらに背を向けて青草の絨毯じゅうたんに腰を下ろしていたルミーネさん。

 顔だけを僅かにこちらへ向け、優しい慈母の如く微笑んでいた。それこそ、子供を見守る母親のように。


 暫し時を要して、俺は言葉の意味をようやく理解する。

 と、徐々に顔が熱を帯びてきて、


「べっ、べべべべ別にそんなことはありませんのよッ!? あ、あああいつ、じゃなくて、ふ、ふふふふらふらフランカとはただの――そう! ただの職場仲間っス!!」

「ん〜? ホントかい? 私の目には、君がかなり動揺しているように映っているが?」

「し、してりゃせんのよッ!!」


 もはや呂律ろれつすら回っていなかった。


「ハハハ、まぁこれからも、そのいささたくましい二の腕で大事に守ってやれよ青年。何せ彼女は……天使のように可憐かれんな乙女なのだからね。そりゃ、あんなに素敵な少女を常に傍らに置いているのだから、同性からのやっかみも絶えないとは思うが……」

「い、いえいえそんな……」

「フフッ、なぜそこで謙遜けんそんするんだい? 誇っていいと思うぞ、私は」


 それは意地悪ではなく、ルミーネさんの本心からの言葉だと俺は思った。

 根拠があるわけではないが、ただなんとなく彼女の薄っすらと微笑む横顔を見てそう思ったのだ。


 フワリ、とそよ風が青草の大地を吹き抜け、俺とルミーネさんの髪をもてあそぶ。


「よし! じゃあ最後にもう一つだけ、質問しても良いかな?」

「え、もう一つですか……?」

「ナハハハ! そんなに嫌そうにしないでくれよ。直ぐに終わるからさ」

「ま、まあ、直ぐに済むのなら……」


 そろそろ帰らないと本当にマズい気がするんだけどな……。フランカさんのお怒りゲージが五割を超えていないことを祈ろう。


 とは言っても、不安が鎌首をもたげてきて仕方がない。が、ここは割り切ろう、と俺はそんな一切合切の不安を紛らわすように後ろ頭を掻く。

「さてと……」と、ルミーネさんもゆったりとした動作で腰を上げ、軽く伸びをし、こちらに向き直った。


 そして、こう言った。



「――――ところで、君は一体誰なんだ」



「――――――――へ?」


 その笑顔は――笑っていなかった。


 いや、正確に言うと、笑っているのは口元だけで、それ以外はまるで感情が死滅しているというか。

 まるで、先程までとは別人のような人格が憑依ひょういしているというか……。


 フワリ、とそよ風が二人の合間を吹き抜けていった。


 それによって、両のてのひらにジワっとした嫌な手汗が噴き出ていることに気付いた。


「ああっと、質問が悪かったね。……では、質問を変えよう」


 言葉を失っている俺に、ルミーネさんはそう言った。

 一度深呼吸でもするかのように、鼻から息を吸い上げると、



「――――君は、どこから来たんだ」



「ッ!?」


 その瞬間。

 その一言が圧倒的な衝撃をって、俺の全身を貫いた。


 今度は明確に、はっきりと聞こえた。分かった。間違いじゃない。俺の耳と頭がおかしくなっていなければ、彼女は今俺に向かって、俺に対して確かにこう言ったはずだ。


 ()()()()来たんだ、と――。


「……………………」

「……………………」


 時間が、永遠になってしまったかのような、そんな奇妙な錯覚を覚えた。

 それと同時に、心の奥底から一息で湧き上がってきたのは――例の“違和感”。

 ポルク村に来るまでの道中で感じた、そしてつい先程感じたあの違和感が忘却の淵より迫り上がり、おどろおどろしい不穏な黒い霧を胸中に張り巡らせる。


 まただ…………。また、これだ……。


 その反面、それを言い放った張本人は相変わらず飄々としており、


「君はこの世界の住人ではない。もっと別の……どこか遠くの異郷の地からやって来た。――そうだね?」

「な――――ッ!!」


 俺は思わず後ろ足を一歩引いた。


 脳か脊髄せきずいに直接電流を流し込まれた――先の一言にも勝り、これはそれぐらいの衝撃だった。

『なんでそのことを』と言ったつもりだったが、喉に何かが詰まってき止められているせいで、上手く言葉を吐き出せない。おそらく連続的に飛来した衝撃に脳の思考回路が活動を停止し――いや暴走し、指先の末端に至るまでの全神経に“混乱”を振りいたのだろう。

 現に俺は現状をまるで把握できず、さらに言うと“俺は今あの人と何をしていて、どうしてこうなっているのだろう”ということもあやふやになってきていたのだ。


「………………」


 ポタリ、とあご先まで伝ってきていた冷や汗が重力に逆らわずして地に落ちた。

 両の掌だけに噴き出ていた汗は、いつしか全身にまで及んでおり、じっとりとした不快さを俺にもたらす。

 身体は些か冷えていた。

 胃の中に鉛の塊でもブチ込まれたのか、腹の底にドス黒くて重々しい物体が鎮座しているのを感じる。


 意味が分からなかった。訳が分からなかった。

 ――ルミーネさんが俺に『どこから来たんだ』と尋ねたこと。

 ――ルミーネさんが“俺がこの世界の住人ではない”という事実を知っていたこと。

 その他諸々、“違和感”に関して言えば枚挙にいとまがないが、取り敢えずはこの二つ。特に二つ目の方は、ルミーネさんの言い方からして、自分の推論にほぼ確信を得ているのがうかがえた。でないと、こちらを正面から見据えたまま『そうだね?』などとわざわざ確認を取ったりはしないだろう。


 言うわけがない。言うはずがない。

 俺が、こちらで言う“現実世界イセカイ”からやって来たことなど――。


 そりゃそうだ。

 だってルミーネさんとは――――()()()()()出逢ってから、まだほんの()()()()()しか経っていないのだから。


「………………っ」


 …………なんなんだ……。


 ドクン、ドクンと。

 拍動が早い。呼吸も浅い。

 無意識に、手が左胸に伸びる。


 ……なんなんだ、この人…………。


 ギュウッ、と服にシワを寄せながら、そのまま胸を締め付ける。少し痛いほどに。

 妙な胸騒ぎを覚えた。

 ここまでくると、ポルク村の道中で起きたことが再現されているようだが……違う。

 これは明らかに違う、と本来の機能を失いかけていた脳神経が僅かな余力を懸命に振り絞り、内側から警鐘けいしょうにも似た悲鳴を上げ、叩く。


 ――『これはじょうだんなどではなく、真実ほんきだ』。

 ――『だから』。

 ――『早く目の前の“()()”から逃げろ』、と。


 そう、胸騒ぎを覚えさせてくる。


 危険……? ……危険? “危険”って何が……? 誰が? 一体何のこと? 目の前……? それって、つまり――――。


「…………ッ」


 ――顔を上げ。

 よもやどんな表情になっているか分からない、恐い顔を上げると、世界は何も変わらず……。

 彼女はそこにいた。目の前に。

 レモン色の瞳を細め、ただ悠然とこちらを見据えたままでいる。


 この、広く美しい蒼の大地と共に。

 そしてこの――広く美しい青空と共に。



「――――君は、この世界に何を望む……?」



 不意に問われた。

 かなり一方的な質問だった。そんな質問は、この十八年の人生の中でたったの一回でも問われた試しは無いし、それは異世界こっちにきてからだってそうだ。


 ……でもなぜか、俺はその質問に対する回答を知っているような気がした。いや知っていた。


 だから、俺は答えることができた。

 何らかの呪縛から解き放たれた鳥のように、自由に口を動かし、唇から言葉をつむぎ。

 そしてついうっかりと、心から零れ出てきてしまったのだ。――想いが。



「平和。……………………以上」



「…………」


 ルミーネは怜悧れいり美貌びぼうを一片も崩すことなく、その場で完璧であり続けた。

 ただ一つだけ。

 静かに――いや、はっきりと驚いたように目を見開いていること以外は。


「――――」


 やがて瞑目し、ルミーネは久方ぶりの笑顔同様、ニッコリと口元を緩めた。

 実に、実に穏やかな表情で。


 ――髪が、なびく。


「…………そうか。なら――――」


 音も無く。

 本当に握手を求めるぐらい自然な動作で、ルミーネは片手を前に翳し、一言だけこう告げた。



「――――死んでくれないか」



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