プロローグ 『とある世界の夜明け、その一幕』
東の空が薄っすらとした白色を帯び始めた頃、一台の荷馬車が『ケープ草原』のなだらかな街道を走っていた。
筋骨の浮き出た逞しい体躯を持つ上等な馬が二頭に、後方の荷台に積まれた幾多もの木箱。
それだけ見れば、荷馬車の手綱を引く御者が如何に優秀な行商人であるかなど自明の事実だろう。
しかしその御者――休み知らずの行商人ことゲル爺は、今朝珍しく寝坊をしてしまった。
無論、行商人を生業として四十年になるゲル爺がそんな愚行を犯したことは一度たりともない。
毎朝三時に起床し、四時間もかかる『リカード王国』の王都にこうして荷馬車をすっ飛ばしては、そこで日が暮れるまで賃金を稼ぐ。これが老練された行商人として長年染み付いた生活だった。
故に、今回の寝坊は自分の矜持と功績に泥を塗ったと言っても過言ではない。
「……はぁ、そろそろ潮時なのかもしれんな。昨日も一件発注の手違いがあったし、ここ最近は毎晩便所で起こされて碌に眠れやしない」
皮と骨が目立つ貧弱な腕を摩り、ゲル爺は無情な時の流れと共に己の老骨を嘆く。
口から細々と漏れた白い息が、向かい風と混じりながら後ろへ流れていった。
「――あのぉ、もしもし」
「ん?」
その時、ゲル爺の背後にある荷台の小窓から二回のノック音と、初老を窺わせる女性の声が耳に届いた。
――ああ、そうだった。
ゲル爺はぼやき、前方に障害物が無いことを確認してから背後を振り返る。するとそこには、荷台の小窓からひょっこりと頭を出している女性がいた。
赤い頭巾帽子と白髪交じりの頭髪が特徴の老女だ。
歳の割にシワ数は少なく、若々しい印象が見受けられる。柔和な笑顔が似合うのは愛想がいい証拠だろう。
「あ、すみません。後どのくらいで到着するでしょうか?」
荷馬車が風を切る中、女性はゲル爺を見上げながら、しわがれた声を懸命に振り絞る。
辛うじて言葉を耳で拾うと、ゲル爺も風の轟音に負けじと声を張り上げた。
「あなたの言ってた目的地の話ですか? だったら心配しないでください。幾分かすれば、もうじき見えてくると思いますよ」
「そうですか! ああ、よかったよかった……」
腹から出す活気のある声はよく通り、長年商売客を惹きつけて稼いできただけのことはある。
老女も再度聞き返すことなく、ゲル爺の言葉に胸を撫で下ろしていた。
「早朝の寒さは体に障る。特にここら『マルチーズ地方』一帯は。着いたらまた知らせるので、荷台にある毛布にでもくるまっていてください」
「はい、ではお言葉に甘えてそうさせていただきます。何から何まで本当に申し訳ありません」
「いやなに、私はリカード王国に用があるだけですよ。見ての通り、行商人を生業としているのでね。こちらこそ、汚らしいボロ荷台で申し訳ない」
老女は微笑むと、静かに首を横に振った。
「いえいえ、非常に居心地のいい荷台ですよ。それに、私が朝一番に街から出る王国行きの馬車の時間帯を勘違いしていたのが原因ですし……」
「ははっ、よくあることですよ。寧ろ、私が偶然にも“馬車駅”で待ち惚けているあなたに会えてよかった」
「ほんとに、どうなっていたことか……。見知らぬ私を拾ってくださって、改めて感謝の言葉しかありません」
律儀に頭を下げる老女を、ゲル爺は手で制した。
「これも何かの巡り合わせですよ。私も、まさかこの時間帯に話し相手ができるとは思っていなかったので嬉しかった……。さ、もうそろそろ荷台の小窓を閉めて暖かくしていてください」
「はい。――では」
最後にもう一度だけ頭を下げると、老女はゲル爺の言う通りに小窓を閉めて荷台へと戻っていった。
「ふぅ……」
また一人きりになると、ゲル爺はため息を漏らしながら手綱を握り直す。
つまり、老女との経緯はそういうことだった。
普段は滅多に荷馬車に人を乗せることがないゲル爺。こうした街道で道に迷っている旅人などを乗せたことは幾度かあったが、普段は商売道具や商品やらが積まれてあるので、多少なりとも人を乗せることに抵抗があった。
が、今日はどうしたことやら、ゲル爺はその老女を放っておけなかったのだ。他人の心配より自分の心配をしなければならないはずなのに。
「ふふっ、そこも含めて歳じゃのう……。随分と丸くなってしまったわい」
長く垂れ下がった白い顎髭を撫でながら、ゲル爺はどこか遠い目で暁の空を仰ぎ見る。
そして、赤茶けたチョッキの懐から木製のパイプを取り出す。毎朝密かに楽しみにしている喫煙の時間だ。
だが、今日の煙の味はいつもとは一味違う、優しい味がした。
「えっと、確か……店の名前は『リーベラ』とか言ったかのう」
パイプを口に咥えたまま、ゲル爺はチョッキの別のポケットから一枚の紙切れを取り出した。
予め老女から渡されていた、目的地の場所が詳細に記されたメモだ。
そこには、
『道具屋・LIBERA
朝一番のリカ―ド王国行き馬車
リカ―ド王国手前のポルク村近辺の街道で下車』
と書かれてあった。
ゲル爺がメモの内容を確認し終えたと同時に、なだらかな街道は下り坂へとさしかかる。
前方に迫るは、ケープ草原を抜けた先にある『ポルクの森』。
その林道を抜ければ、ポルク村まではもうすぐだ。
「さて、久々に少し飛ばすとするかのう」
口角を上げると、ゲル爺は手綱を握る手に力を込める。
パン、という乾いた響きが早朝の空気に染み渡った。