Ⅲ アウロラ(3)
水族館を出る頃には、辺りはすっかりと暗くなっていた。
訊けば、花音の自宅はさほど遠くないところのようだったので、岳は彼女を送っていくことにした。
道すがら、一緒に並んで歩きながら、他愛のない会話を交わす。
互いに笑い合う二人の姿は、十年来の友人同士と言っても違和感のない雰囲気だった。
弱みをすべて見せてしまったせいなのか、岳は花音に対して、ある種の親近感を抱くようになっていた。
そして、彼らの間にある空気も、それを証明するように、和やかで親密なものに変わりはじめていた。
「もうここだから大丈夫。ありがとね」
そう言って花音が立ち止まったのは、少し小振りなオフィスビルを思わせる建物の前だった。
「すごいな、個人宅って感じがしないね」
岳は驚いて思わずビルを見上げてしまう。
「父親の仕事場でもあるから」
花音も一緒になって上を見上げた。
すると、唐突に花音を呼ぶ声が響いた。
「花音っ! いままでどこへ行ってたんだ! 予定を外れる時は連絡するようにと、あれほど言っておいたではないか!」
言いながら、精悍な顔つきをした壮年の男がビルから駆け出してきた。
その様子から、岳はこの男が花音の父親なのだろうと推測した。
そして、いまの自分はマズイ立場にいるのではないかと、そう思いはじめた。
「早く部屋へ戻りなさい。とっくに予定の時間を過ぎている」
男は花音の腕を取ると、少し荒っぽく自分の方へと引き寄せた。
「お父さん、痛いって」
花音が苦痛に表情を歪める。
「あの、娘さん、痛いって言ってますよ」
そんな花音の様子に、岳は堪らず声をかけた。
「君は誰だ。なぜここにいる。見世物ではないぞ」
「わたしの友達にそういう言い方しないで!」
排他的で高圧的な態度を見せた父親に、花音が怒気を含んだ声を上げた。
「友達だと? そんなもののために時間を使えとは言ってないぞ」
「そんなものとか言わないでよっ!」
花音が絶叫に近い叫び声を上げる。
岳にはここまで感情的になっている花音の姿が意外に思えた。
「止めるんだ。感情に揺れ幅を大きく持たせるのは良くない。落ち着いて深呼吸をしなさい」
花音の様子に、父親が幾分動揺する気配をみせた。
そして、岳の方へと首を巡らせると、口早に言った。
「君はもう帰ってくれないか。そして、もうこの娘には関わらないでほしい。ここまで他者に固執する反応を見せたのは初めてだ。これが何を意味するものなのか、まだ判断がつかない。外界の刺激を取り込むために学校に行かせてみたが、間違いだったか……」
最後の方は完全に独り言のようになっていて、岳にはうまく聴き取ることができなかった。
「岳くん、ごめんね。父にはちゃんと言っておくから、今日はこれで」
一変して、暗い翳りを滲ませた花音の声音に、岳はそこで明確に一線を引かれたような気がした。
他人が容易に踏み込むことを許さない、拒絶するかのような、鋭い響きがそこには感じられた。
「……うん、なんだかこっちこそ悪かったね。また学校で」
他所の家庭の事情に首を突っ込むことは、なんだか犯しがたい禁忌のような気がして、岳はそれを垣間見てしまったことに罪悪感を覚えた。
言われたとおり、今日はおとなしく退散することにした。
岳が身体の向きを変えて脚を踏み出そうとすると、花音がバッグから何かを取り出して岳へと手を伸ばしてきた。
「これ、あげる。今日のお礼」
反射的に手を出して受け取ると、それは水族館の包み紙だった。
瞬時にイソギンチャクのストラップが思い起こされた。
「……ありがとう」
岳の戸惑ったような表情を確かめると、花音はにこりと頰を緩めた。
「大切にして」
そう言い残して、花音は父親とビルの中へと消えていった。
そんな二人の後ろ姿を見送ると、岳は花音の自宅を後にした。
そして、最初の曲がり角へと差し掛かった時、不意に横から鋭く声をかけられた。
「三島木さんと何処へ行ってたんだよ」
その声は多分に苛立ちを含んで響いた。
蒔山千恵だった。
不機嫌そうに唇を少し尖らせて、岳をじとっと睨みつけている。
「うわっ、蒔山!? なんだってこんな所にいるのさ!?」
唐突に声をかけられた驚きと、相手が千恵だったことによる動揺とで、岳は慌てふためいた。
「何処へ行ってたのか訊いてんだよ」
そんな岳の様子に、さらに苛立ちを募らせながら千恵は重ねて詰問をする。
「いや、三島木さんが案内してほしいって言うからちょっと……こっちが割り込んじゃった手前もあったし……」
「何処なんだよ!?」
「……浜の水族館」
そう言うと、岳は視線を千恵とは反対方向へと泳がせる。
浜とは、ここら辺で、海辺周辺の公園一帯を指す俗称だった。
「……浜の水族館って、あたしがあれほど行こうって言っても行かなかったくせに、三島木さんとは行くのかよ!?」
千恵は驚きと同時に、悔しさで猛烈に腹が立ってきた。
これまでに、再三行こうと誘っていたにも関わらず、一度たりとて良い返事をしなかった岳が、来たばかりの転校生と、しかも容姿の優れた女子とは簡単に行ったという事実に、千恵は憤慨していた。
「いや、だって、お前とはいつでも行こうと思えば行けるだろ!?」
「じゃあ、いつ行こうと思うんだよ!? 思わないじゃん!」
岳の言い訳は、さらに火に油を注ぐことになった。千恵は完全に激昂していた。
すると、そんな二人の口論に割って入るように一人の男が声をかけてきた。
「あの、すみません。お取り込み中のところ悪いんですけど、ちょっと訊いてもいいですかね?」
物腰の柔らかそうなその男は、一見、大学生ぐらいにも思えたが、その一方で、どこか妙に落ち着いた老成したような雰囲気もあって、見た目の印象以上に大人であるらしかった。
岳と千恵が訝しげに無言のまま視線を向けると、男は単刀直入に本題へと入った。
「えっと、君たちは三島木花音さんとは知り合いなの? もしそうなら、ちょっと教えてほしいことがあるんだけど……」
尋ねられた二人は、無言で互いに視線を交わす。
この状況が怪しくないわけがない。
この男と関わるのは避けるべきではないか。
タイミングをみて立ち去ろう。
そんな意思の伝達がなされたのかはわからないが、二人はこくりと頷きあった。
「ごめんなさい、先を急ぐのでオレらはこれで」
視線を合わせないようにしながら岳は脚を踏み出すと、千恵の手を取って踵を返した。
「行こう」
言って岳が少し強めに千恵の手を引くと、千恵は手を握られたことに気を取られていて、一瞬、反応が遅れてしまう。
「うわっ、ちょっ、待ってよ堂崎」
すると、男が身を乗り出すようにしてその名前に喰いついてきた。
「堂崎!? もしかして堂崎洋史博士と何か関係が!?」
「っ、ど、堂崎洋史は父、ですけど……」
岳は突然出てきた父親の名前に、思わず反応をしてしまう。
「じゃあ、君は……確か、岳君!?」
男は父親の名前だけではなく、岳の名前までもを口にした。
そのことに岳は驚いて、眼を見開きながら男の顔をまじまじと見返した。
この人は何者なんだ。
少なくとも自分は知らない。
自分と父親を結びつけて考える人など、これまでに現れたことがない。
「自己紹介が遅れました。僕は日景智也といいます。いまは、とある財団で研究員をやっていますが、」
日景と名乗った男はそこで一旦区切ると、岳の眼を覗き込むようにして続けた。
「以前はファーイースト製薬単幌研究所に在籍していました」
その日景の言葉に、岳は強烈な衝撃を受けた。
この日景という男はあの事故の生き残りなのか。
そんな人間がなぜ自分の前に。偶然だとでもいうのだろうか。
「あぁ、僕はあの日、東京に出張していたので難を逃れたんですよ。悲しいことに、仲間のほとんどは亡くなりました。僕の上席にあたる堂崎博士もまた……」
「えっ!? じゃ、じゃあ、あなたは……」
「えぇ、僕は堂崎博士のチームで働いていたんです。なので、岳君。君のことも博士から話に聴いていましたよ。しかし、まさか、こんな所で会うだなんて夢にも思っていませんでしたが」
「あ、あなたはあの事故の詳細を、原因を知っているんですか?」
岳は震える両腕で日景の肩を掴むと、急かすように揺さぶりはじめた。
「堂崎っ、ちょっと落ち着けって」
そんな岳を千恵が慌てて引き離すと、日景は岳の眼を見ながら頷いてみせた。
「そうですね、岳君。僕は知っていることのすべてを、君に伝える義務があるのかもしれません」