Ⅲ アウロラ(2)
券売機から出て来たチケットを手に取ると、岳は振り返りながら花音を探した。
平日午後の水族館は人出もまばらで、花音の制服姿はすぐに見つかった。何やら入口の横に並んでいるパネルを熱心に見つめている。
「水族館、好きなの?」
岳は驚かさないように足音を立てながら花音の後ろまでやって来ると、そう問いかけた。
「わからない。来たことないから」
パネルから眼を離さずに花音は答えた。
「そうなんだ。ここら辺だと、小学校、中学校の時に必ず学校の行事でここに来るんだよ。まぁ、この歳になると、普段はあんまり来ないけどさ」
岳も一緒になってパネルを見上げた。
そこには、この水族館の特徴と、その学術的、文化的意義について、控えめながらも少しだけ誇るようにして書かれていた。
「近いと却って行かない。地元だとそんなもんだよね」
岳はそう続けると、見上げていた視線を花音へと向けた。
「……そんなのもったいないよ」
すると、花音の方が先に岳のことを見ていたらしく、彼女と静かに眼が合った。
「当たり前のモノなんて存在しない。みんな、本当に一瞬でなくなるんだから」
花音の瞳には、悲しみとも憐れみともつかない色が浮かんでいた。
そして、それを眼にした岳は、不意に心の奥底を激しく揺さぶられる。
「っ!? それって……」
しかし、岳が口を開きかけると、それを押し留めるように、花音が岳の手を引いて歩きはじめた。
「ほら、行こうよ」
そして、午後の少しだけ傾きはじめた陽の光の中で、彼女は完璧な笑顔をしてみせる。
微かに漂ってくる潮の香りが、海の近さを想わせた。
館内へと入ると、薄暗い照明が、隣りを歩く花音や他のギャラリーの姿を曖昧にしていた。
同じように、自分の姿もはっきりとは見えていないのだと思うと、岳は心に少しだけ余裕が生まれた。
「オレ、子どもの頃に事故に巻き込まれたことがあって、その時、三島木さんにそっくりな娘と一緒だったんだ」
岳はいまなら感情的にならずに話せそうな気がして、水槽を覗き込んだまま花音へと語りかけた。
視界の先では、ナポレオンフィッシュが鮮やかな青色の巨体を、岩陰へとゆるやかに滑り込ませていく。
「あんまり似ているからさ、三島木さんがその娘、本人なんじゃないかと思って」
花音から何の反応も返ってこなかったが、その気配からは、きちんと話しを聴いてることが伝わってきた。
岳は視界の端に花音を捉えたまま、水槽の奥を見つめて続けた。
「その娘に命を救われたんだ。でも、一緒にいた他のみんなは助からなかった。その娘も……。オレだけなんだ、生き残ったのは」
光の加減で、水槽のガラスに自分の顔が映り込む。
水の中の自分と眼が合った。
「なんで自分だけが生き残ってしまったのか……オレはそれを知りたいんだ」
そう言って岳は水槽から視線を引き剥がすと、横でナポレオンフィッシュを見続けている花音の方を見た。
すると、花音はゆっくりと撫でるように、水槽のガラスへと指を沿わせていく。
「キミはさ、みんなと一緒に死んでしまいたかったの? なんだか、生き残ったことが悪いことみたいに聴こえる」
岳の方を見ずに、花音は淡々とした調子で尋ねてきた。
「そうなのかもしれない。少なくとも負い目は感じている」
みんなの生きることができなかった明日に、いまの自分は生きているのだ。
そうした想いが岳にあるのは確かだった。
「そんなもの、感じる必要なんてないよ」
言うと、花音はナポレオンフィッシュの動きに合わせて首を傾けながら続けた。
「生きることに意味なんてないんだから。すべてはただの偶然なんだよ」
「偶然?」
「そう、偶然」
すると、花音は岳の方を向いて微笑んでみせた。
「起こった出来事のすべてに意味を求めていたら、時間なんていくらあったって足りないよ。それにね、その答えはないの。誰も知らない、誰もわからない。そもそも正解がない。そんなものが存在してるだなんて、本当に言えるの?」
軽く首を傾げながら、花音は試すように岳の瞳を覗き込んでくる。
「それは……」
岳が言い淀んでいると、花音はさらに続けた。
「意味を求める行為ってね、単なる娯楽なんだよ。それ自体がレクリエーションなの。貴重な人生の時間っていう賭け金を支払って、うんうん頭を悩ます遊びなんだよ」
「遊びだって!?」
岳は自分の苦悩を嘲笑されたように感じて、思わず気色ばんでしまう。
「怒鳴らないんじゃなかったっけ?」
花音が醒めた眼をしながら、平坦なトーンで尋ねてくる。
「いや、確かにそうだけどさ、そんな言い方はあんまりじゃないか」
花音に指摘をされて、岳はバツが悪い思いをしながらも、反論せずにはいられなかった。
「まぁ、気に障ったらならごめんね。でも、キミを否定した訳じゃないんだ。この世のあらゆる物事には、元々意味なんて用意されてないってだけのことなんだよ」
「どこが違うって言うんだ」
岳には花音の言っていることが、詭弁にしか聴こえなかった。
本質的には同じことを言っているのではないか。
すると、花音はため息と一緒に呆れたように言い放つ。
「キミもわかんない人だね。意味は自分が与えるんだ。他の誰でもない。自分が生き残った意味? そんなことは自分で定義するんだよ」
眇められた花音の眼が、射抜くように鋭く岳を捉える。
しかし、岳はそんな説明では到底納得できなかった。
「自己完結して済むなら、こんな苦労はしてないんだ! 自分で意味付けをする!? そんな独りよがりが何を解決するっていうんだ!」
もう岳は歯止めが利かなくなっていた。
自分のすべてを否定されたかのようで、とても冷静ではいられなかった。
すると、そんな岳の左頬をいきなり鋭い痛みが走った。
一瞬、岳には何が起こったのかわからなかったが、振り抜いたままの形で止まっている花音の右手を見て、自分は頬を張られたのだと理解した。
「甘えないで。苦しいのは自分だけだなんて、そんな訳ないでしょ」
そう吐き捨てるように言う花音の瞳は、深い悲哀の色に沈み、ここではない何処かを見つめているかのようだった。
頰に熱い痛みを感じながら、岳は少なからず動揺していた。
これまでに茜をはじめ、女の人に叩かれた経験など一度もなかったので、実際の頰の痛み以上に強い衝撃を受けていた。
そして同時に、こんなことで動揺してしまう自分を、情けないと思わずにはいられなかった。
「でもね、辛いのはわかるよ」
するとそんな岳に、花音は一転して優しい声音で語りかける。
そして、ゆっくりと手を伸ばすと、薄っすらと赤みのさした岳の頬へ、掌を柔らかく添えた。
「キミは……キミは篠宮花音じゃないのか?」
岳は混乱する思考の中で、核心へと性急に手を伸ばしてしまう。
「……残念だけど。わたしはキミが求めている人間とは違うの」
その花音の声はどこか物悲しげで、それでいて、どこまでも優しく、慈愛に満ちていた。
「そうか……」
潮が引くように、自分の中で何かが消えようとしているのを、岳は他人事のようにぼんやりと遠くに感じていた。
それからは、もう二人がその話題を口にすることはなかった。
そして、二人は何かが吹っ切れたように、必要以上にはしゃぎながら、次々と大小さまざまな水槽を覗いていく。
「南の魚はカラフル過ぎて美味しそうに見えないよ」
「この虫っぽいグロテスクなビジュアルをよく食べようと思ったよね。まぁ、美味しいんだけどさ」
「大昔は毒のあるなしって、食べないとわからなかったんだろうね。我々は数多のチャレンジャーのおかげで、今日も美味しく海の幸をいただけるわけだ」
「キミは食べる話しばっかりだね。情緒に欠けるよ」
そう言って花音は、堪えきれないといった様子で笑い出した。
「どう取り繕ってみたって、人間は他者の生命を喰らわなくては生きていけない。情緒じゃ腹は満たせないからね」
「はははっ、うん、そうだね。んー、じゃあ、わたしもちょっと情緒以外の物で小腹を満たしたいかな」
言って花音は悪戯っぽい笑みをみせる。
その笑顔に、岳は彼女の違う一面を見たような気がして、思わず頰を緩めた。
「なら確か、ここの水族館には名物があったはずだよ。結構美味しかったと思う」
「ほら、あそこに」そう言って岳が指差したカフェテリアには、魚の形をしたパイが並んでいた。
甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
「チョコレートとブルーベリーチーズクリームだって。どっちにする?」
横に並んで一緒に看板を見上げていた花音に、岳は尋ねた。
「悩むなぁー」
花音の視線が右へ左へと忙しなく動いている。右のチョコか左のブルーベリーか。
そして、無意識のうちに、右手の指先が下唇へと触れる。
岳はそんな花音の仕草へ、ちらりと静かに視線を向けた。
「よし。ブルーベリーチーズクリームにする」
岳の方へと向きなおると、花音は一大決心でもしたかのように意気込んで宣言をした。
「わかった。じゃあ、買ってくるから座って待ってて。飲み物は何かいる?」
「ううん。何もいらない」
適当な席に付くと、花音は機嫌良さげにハミングをしながら周りを見渡した。
館内の人口密度を考えると、このカフェテリアはかなり繁盛していると言えた。
来場者のほとんどが立ち寄っているのではないだろうか。テーブル席の空きはそう多くなかった。
席を埋めている大半は仲睦まじげなカップルで、年齢層は幅が広いようだった。
この水族館は年代を問わず支持を集めているらしい。
そうやって花音がぼんやりと人々の顔を眺めていると、岳が木製のトレイを持ってやってきた。
そして、花音の向かい側に腰を下ろす。
二人の間にはトレイに乗せられたパイが二つと、テイクアウト容器に入ったコーヒーが一つ置かれた。
「どうぞ。焼きたてらしいよ。タイミングがよかった」
そう言って、岳は「ブルーベリー」と小さくスタンプが押された紙包みを花音へと差し出した。
「ありがと」
かさかさと乾いた音を立てながら包みを受け取ると、花音はすぐにかぶりついた。
「んっ! おいしい!」
花音は眼を見開きながら感嘆の声を上げると、すぐに勢いよく二口目を続けた。
「さくさくで、んー、甘い!」
花音が本当に美味しそうに食べるので、岳はそれを少し嬉しく思いながら、自分もチョコレートの方を手に取って囓ってみた。
「そうそう、これだよ」
岳は懐かしい甘さを感じながら、最後にこれを食べたのはいつだろうかと記憶を辿ってみたが、うまく思い出せなかった。
「ちょっとそっちも食べたい」
そんな花音の声に視線を上げると、岳の眼の前には、尻尾の欠けたブルーベリーチーズクリームの魚が突き出されていた。
「一口交換しよ」
「いいよ」
岳はそう答えると、頭の欠けたチョコレートの魚を花音へと差し出した。
「頭から食べちゃうなんて、なんだかかわいそうだよ」
花音が上目遣いで、わざとらしく詰ってくる。
「どのみち食べることになるんだから、順番に意味はないんじゃない?」
岳の方も、わざとらしくとぼけてみせた。
「だからキミは情緒に欠けるんだよ」
すると、花音は差し出されたパイにそのままかぶりつく。
「ちょっ、情緒に欠けるのはどっちだよ!? せめて受け取ってからにすれば?」
「いいろ。んっ! こっりもおいひい!」
もごもごと不明瞭に感想を述べながら、花音は右手で突き出したブルーベリーパイを岳の方へと更に近付ける。
そんな囓りかけのパイの断面に、岳の視線は無意識に吸い寄せられる。
花音がパイにかぶりついていた様子が、岳の脳裏をちらりと掠めた。
すると次の瞬間、「んっ」と花音が低く声を発したかと思うと、半ば強引に岳の口元にパイを押し付けてきた。
「うんぐっ!?」
意識が少し散漫としていた岳は、これをそのまま口で受け止める。
そして、一口囓ると、ブルーベリーの甘さと濃厚なクリームチーズの風味が、ふわっと口中に広がった。
「うん、うまいけど、結構甘いね」
言いながら、おどけるように眼を瞬かせてみせると、岳はコーヒーを手に取って、一口静かに啜った。
「やっぱり、それも一口ちょうだい」
口をむぐむぐと動かしていた花音は、パイをすべて咀嚼すると右手を伸ばしてきた。
「熱いよ」
花音へとカップを渡しながら、岳は彼女の桜色をした唇をちらりと盗み見る。
花音はそんな視線には構うことなく、受け取ったカップへと唇を柔らかく押し当てた。
そして、ゆっくりとカップを傾けながら、白くほっそりとした喉を小さくこくこくと上下させる。
そんな花音の些細な所作が、岳にはなんとも生々しいものに感じられて、彼の心を落ち着かなくさせた。
「ふうっ、ありがと」
花音が口元に微笑を浮かべながら、カップを返してきた。
艶めく桜色をした唇。
「どういたしまして」
言葉に余裕をみせながらも、岳はこんな他愛のないことを妙に意識していることが、自分の青さの証明であるような気がして、羞恥にも似た感情を覚えずにはいられなかった。
「……」
意を決して飲み口へと唇を近寄せる。
ごく自然に、淀みなく、なめらかに。
こくりこくりと、口腔から喉へと熱い液体は流れ込んでいく。
コーヒーの芳醇な香りが鼻腔へと抜けていくのと同時に、胃の中が暖かくなっていく。
頰が紅潮し、額に薄く汗が浮かぶ。
「ふぅ……」
意識などしない。
平静を保つのだ。
そして、ゆっくりと視線をあげると、花音と眼が合った。
花音は緩く口角をあげると、意味ありげに薄く微笑んでみせた。
カフェテリアを後にすると、二人は隣接されているグッズコーナーへと立ち寄った。
花音はなにやら一人で騒ぎながら、手当たり次第に、あちこちの棚を物色して歩く。
そんな花音を視界に捉えながら、岳は同時に、さっきの彼女の微笑を思い出してしまう。
「オレはどうかしてる……」
呟いて、雑念を振り払うように上げた視線の先には、水族館のマスコットキャラクターであるペンギンのイラストが描かれたグッズが並んでいた。
それを眼にした途端、以前からしきりに一緒にここへ行こうと千恵が言っていたことを思い出して、岳は不意に後ろ暗い気分に見舞われた。
すると、そんな背中へ、跳ねるような明るい声がかけられた。
「ほら。このストラップかわいいよ」
そう言って花音が見せてきたのは、イソギンチャクのフィギュアが付いたストラップだった。
そのリアルな造形は、岳にしてみれば『かわいい』という感性とはかけ離れたものに思えた。
「これ、かわいいの?」
「かわいいじゃん! キミ、センスないなぁー。んじゃ、これ買ってこよ」
言うと、ストラップを手にした花音は、そのままレジへと歩いていった。
花音が持っていったイソギンチャクのストラップには他の種類もあるようで、同じ棚にはアメフラシとナマコのストラップも置いてあった。
「ってことは、これもかわいいんだろうか……」
岳が手に取ってまじまじと見ていると、すぐに会計の済んだ花音が戻ってきた。
「えっー、キミ、そっち!? やっぱセンスに難ありだね」
「えっ、いや、ちが……」
正直、違いがまったくわからない。
花音のやれやれ顔に対して、岳は言い返すこともできずに言葉を濁すしかなかった。
そして、見学順路へ復帰した二人が屋外の展示スペースへと出てみると、外は夕陽に照らされて、すっかり茜色に染まっていた。
夕陽は今まさに海へと沈もうとしている。
「夕陽、綺麗だね」
屋外展示の目玉であるペンギンプールをよそに、花音は夕陽に魅入られたように陶然と彼方を見つめる。
「そうだね。普段、ちゃんと見ることってないかもしれない」
こうして夕陽を眺めるだなんてことは、いつもの日常にはないことだった。
流れていく毎日の中で、特段意識をすることもない。
でも、こうして眺める今日の夕陽には、言葉にはできない何かがあるような気がした。
妙に優しい気持ちが満ちて来るような、仄かな温かさが感じられた。
そんな夕陽の緋色を眼に焼き付けながら、岳はふと花音へと視線をやった。
その花音の横顔は、夕陽の暖色に柔らかく照らされて、ある種の彫像のような神々しさを感じさせた。
この時、岳は初めて、この少女は美しいのだと、頭ではなく感覚として理解をした。それは理屈ではなく、もっと原始的で根源的な深い感覚だった。
「なに?」
真剣な岳の視線に気付いて、花音が顔を覗き込むようにして尋ねてきた。
「いや、なんでもないよ」
岳は名状しがたい感情が胸にせり上がってくるのを感じていたが、それを上手く言葉にできる自信がなかったので、そのままにしておいた。
「そっ」
花音はくるりと身を翻して岳の正面に向き直る。
「じゃ、帰ろうか」
そう言うと、花音は右手を差し出してきた。
彼女の手を取れということなのだろう。岳は一瞬、躊躇った後、そっと花音の手に触れてみた。
なぜだか、彼女の手は冷たいのではないかと思っていたが、そんな予想に反して、花音の手はとても温かかった。
その温もりは、掌から伝わって、身体のどこか奥にまで届くような、そんな気がした。