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Ⅱ リメンバー(3)

 学校に着くと、同じクラスではあるが、千恵と教室の入り口で別れた。

 席が物理的に前と後ろということもあったが、他の生徒の眼を意識している部分も否定はできなかった。

 千恵との関係を何と定義していいのかわからなかったし、それを茶化されるのは、いつだって気分のいいものではなかった。

 一人になって、いつものように自分の席へと座る。

 その途端、堰き止めていた水が溢れるように、昨夜の悪夢が岳の心に渦巻きはじめる。

 軽く瞳を閉じると、直ぐに外界の音は遮断され、瞼の裏にはあの光景が鮮明に蘇ってくる。

 焼け焦げる臭いや、耳をつく爆発音までもが克明に再現される。

 そして、少女の凜とした眼差しと別れの言葉。

 自分は彼女を知っている。しかし、彼女の名前を思い出せない。

 自分は彼女を何と呼んでいただろうか。

 不意に岳は肩を軽く叩かれた。

 反射的に叩いた手の主を見やると、後ろの席に座る矢田というクラスメイトだった。立っている矢田は、惚けたような岳の視線を認めると、顎をしゃくって前を指し示した。

 岳が促されるようにして前を向くと、教壇には担任教師の河野の姿があった。

 慌てて岳も起立をして周りの動きに合わせる。そして、ちらりと肩越しに矢田を振り返ると、無言で礼を伝えた。

 そんな岳の姿を、教室の後ろで見ていた千恵は、岳の様子がいつもとは違っていることに気が付いていた。

 着席の号令がかかって生徒が椅子に腰を下ろすと、河野は教室を見渡しながら声を張った。

「あー、今日からこのクラスに仲間が一人加わることになった。紹介するから、お前ら騒ぐなよ」

 河野は教壇を下りると、開けたままの扉から廊下を覗き込んで手招きをする。

「おぉーっ」

 扉をくぐって教室に入ってきた転校生を見るや否や、クラス中の男子が感嘆の声をあげた。

 夜の藍色を熔かしたような、艶やかに流れる長い黒髪。

 色素の薄い、でも、確かな温かみを感じさせる新雪のような白い肌。

 少しだけ吊り気味の茶色い瞳に、桜色の光沢に潤う形のよい唇。

 その少女の佳麗な姿に、教室にいた誰もがその視線を奪われた。

 しかし、そんな周りの反応など意に介した様子もなく、少女はいたって平静に教壇へと歩いていく。

 そして、彼女が正面を向いた途端、岳は落雷にあったかのような衝撃を受けた。

 ――彼女だ。

 間違いない。あの少女だ。

 周囲の男子たちが喧しく騒ぎ立てる中、ひとり両眼を見開いて驚愕している岳の姿に、千恵は言いようのない胸騒ぎを覚える。

「じゃあ、自己紹介をしてもらえるかな」

 担任の河野にそう促されると、少女は小さく頷いてから、あらためて前を向き直った。

「三島木花音です。よろしくお願いします」

 少女の声は、見た目の印象に違わず美麗な響きを持って教室に響いた。

 少女が下げた頭をすっとあげると、その動きで艶めく黒髪がふわりとなびき、眩い光の粒が溢れた。

 教室が息を呑んだように静まり返る。

 しばらくすると、早く進めろと言わんばかりに、一人二人と生徒が自分に視線を向けてきたので、河野は慌てて先を続けた。

「……えっと、なんだ、えらい簡素な挨拶だなぁ。まぁ、いいか……。どうせ、お前らいろいろ聴きだすんだろ? 積極的に話しかけてやれ。いい会話のきっかけになるだろ」

 三島木花音の何でもないはずの所作に思わず見惚れてしまい、河野も簡潔すぎる挨拶を咎めるタイミングを逸してしまった。

 容姿も言動も高校生は基本的に子どもだ。

 そんなに長くはない教師生活だが、これまでの経験から河野はそう考えていた。

 だが、時々いるのだ。既に完成された娘が。

 これは不思議なことに男子には存在しない。

 自分の性別がそう思わせるのかとも考えたが、同僚の女性教師も似たような感想を持っていたので、おそらく間違ってはいないのだろう。

 もしかすると、生物的に女性の方が早く成熟することと関係があるのかもしれない。

 そう。三島木花音は完成されている。

 時々現れる、そうした種類の人間だ。

 ホームルームを終えて教室を出ながら、河野はちらりとクラスメイトに取り囲まれている花音へと視線を向けた。

「ねぇ、三島木さんって、どこから転校してきたの?」

「いまどこに住んでんの?」

「部活はなんかやってた?」

 最初に花音の存在に沸き立ったのは男子たちだったが、いざ話しかけるとなると尻込みしてしまい、あっと言う間に女子たちが花音を取り囲んでしまった。

 もう、男子たちが割って入る余地など残されていない。

 遠巻きに様子を窺いながら、聴き耳を立てる他はなかった。

 しかし、そんな中で例外がいた。

 ――岳だった。

 岳は、花音の周りを取り囲むようにして連なる女子たちを、どうにか搔き分けようと近づいていったが、彼女たちのかしましさに行く手を阻まれていた。

「ちょっと堂崎、必死すぎ」

「意外に積極的じゃん」

「蒔山ぁ、堂崎ほっといていいの!?」

 女子集団の中で完全に異物となった岳は、さすがに彼女たちの勢いに呑まれてしまいそうだった。

 すると、岳の肩を後ろから掴んでくる手があった。

「堂崎、あんたどうしちゃったのさ? なに、あぁいう娘が好みなわけ?」

 振り返ると、蒔山千恵が不機嫌そうにしながら、岳を睨め付けてくる。

 事実、千恵にしてみれば岳の行動はおもしろくなかった。千恵はそのまま続ける。

「まぁね、なかなか綺麗な娘だよ? でも、あんた、そんなみっともないぐらい必死にならなくってもさ。見てるこっちが恥ずかしくなるだろ?」

 さっき誰かが千恵のことを呼んでいたが、クラスでは岳と千恵との関係は、そのように理解されているらしかった。

 そしてまた、二人がそれを否定も肯定もしないことが、暗黙の了解を事実のようにみせていた。

「いや、おまえ何か誤解してるぞ。そういうんじゃないから。もっと切実な問題なんだよ」

 そう言って千恵の手を少し荒っぽく払うと、岳は無理矢理、人の壁を押し退けはじめた。

「ちょっ、いたっ、触んなよ堂崎っ」

「悪い、ちょっとそこを空けてくれ」

 そうやって三島木花音の前に躍り出ると、岳は勢いよく尋ねた。

「三島木さんっ、君は北海道の単幌町にいなかったか!? いや、いたはずだよ」

 岳は、まるで花音の瞳の奥に求める答えがあるかのように、瞬きもせずに彼女の眼を覗き込む。

 一方の花音は、そんな岳の勢いなど気に留める素振りもなく、平静を保ったまま、ゆっくりと岳を見つめ返す。

 そして、一瞬の沈黙を挟んで花音が口を開く。

「そんな町は知らないよ。行ったこともないかな」

 花音の軽い調子の答えに、岳が苛立つようにして喰いさがる。

「そんなはずはないっ、四歳の時だ。よく思い出してくれ」

 しかし、花音はそれが癖なのか、下唇を指先で折るようにして摘むと、少しだけ思案をしてから、あっさりと答える。

「んっ、やっぱり知らないよ。生まれてからずっと長野だったし」

 すると、岳はそんな花音の返答にまったく聴く耳を持とうとせず、彼女の机を両手で叩いた。

「いったい、どうやって君はあの爆発から助かったんだ!?」

 場の空気が一気に冷たいものへと変わろうとした瞬間、千恵が岳の腕を掴んで机から引き離した。

「ちょっといい加減にしろよ堂崎。おまえ、ホント変だぞ!?」

 そうやって千恵が岳に詰め寄るのと同時に、教室のドアが大きく開かれた。

 その音に反応して、二人へ集まりかかっていた視線が一斉に入口へと注がれる。

「……えっ? なに? どうかしたの?」

 一限の英語の授業を受け持つ女性教諭だった。

 するとそれを合図に、それぞれが無言で席に戻りはじめる。

 千恵は何かを言いかけたが、岳の方が先に視線を外してしまったので、そのまま言葉を呑み込んだ。

 普段、眼にすることのない岳の直情的な言動に、千恵は言い知れぬ不安がじわじわと胸に拡がるのを感じていた。

 その後の休み時間も、岳は三島木花音とまともに話す機会を得られなかった。

 朝の一件があったためであろう、彼女の周りが岳を近寄らせなかったのだ。

 一方の岳にしても、教室で悪目立ちしてしまうことは避けたかったので、強引に出るようなやり方は自重していた。

 しかし、機会を窺うように、視線だけは常に三島木花音へと向けることを忘れなかった。

 そんな、花音に執着をみせる岳の姿に対して、千恵は明らかに苛立っていた。

「堂崎っ、どうしたんだよ!? そういうのストーカーって言うんだぞ」

 放課後、三島木花音を探して階段を駆け下りる岳をつかまえて、千恵はできるだけ感情を抑えながらその行動を咎めた。

 しかし、彼女が思っているほどには、それはうまくいっていなかった。

 どうしたって語調が強くなってしまう。

「……オレが子どもの頃の事故は知ってるだろ?」

「お、おう……」

 黙っていることで妨害を受けるよりも、事情を説明して干渉させないことに決めた岳は、その脚を止めて千恵に説明をはじめた。

「三島木花音は、その時、一緒にいた一人だ」

「でも、彼女、そんな町は知らないって言ってただろ。人違いじゃねーのか?」

 千恵には、岳がそこまで自信を持って言い切れることが不思議でならなかった。そこまでの証拠を、岳は持っているということなのだろうか。

 妙な力みをみせる岳の瞳が、千恵には知らない他人のもののように思えて、背筋が僅かにぞくりとした。

「確かに、事故より前の記憶は曖昧になってるけど、あの時の光景だけは、いまでもはっきりと思い出せる。それこそ、さっき眼にしたことのように克明にね」

 そして、宣言でもするかのように、岳は力強くゆっくりと言った。

「彼女の手でオレは生かされたんだ。見間違えるはずがない」

 三島木花音について岳が熱っぽく語ることなど、これ以上聴きたくないと千恵は思いながらも、同時に、その先を知りたいという欲求を抑えることができなかった。

 自分から話の先を促してしまう。

「彼女のおかげで、生き残ることがてきたってことか……?」

「そう。彼女に助けられた。そして、残ったのはオレだけなんだ……。あの事故からずっと、なんで自分だけが生き残ってしまったのか、それだけを考えてきた。眼の前で消えてしまった人たちのことをどう考えればいいのか、オレはいまでもわからないんだ」

 そこで一旦区切ると、岳は視線を落として自分の掌を見つめた。

「あの時、彼女は『またね』って言ったんだよ。オレの中で、彼女はいつまで経っても四歳の姿のままだ。彼女だけじゃない。あの瞬間に同じ絶望を見た全員が、オレの中ではあの時のままなんだ。オレだけなんだよ……ずっとそう思ってきたんだ」

 岳は徐々に感情的になってきていた。

 頰が引き攣り、声に震えが混じりはじめる。

「そしたら、彼女が現れたんだ。あの記憶を、この感情を、彼女ならどうにかできるんじゃないかって、オレがそう思ったって仕方がないだろ!? だって十二年だぞ!?」

 振り絞るようにして吐露される岳のその言葉に、千恵は自分では力になれないのだと言われたような気がして、胸の奥に鋭い痛みを覚える。

「み、三島木さんとなら、答えが見つかるのか……?」

「……そういう気がするんだ」

 岳は真っ直ぐに千恵を見つめながら、小さく頷いてみせた。

「でも、三島木さんは本当にその彼女なのか? 本当にそうなら、なんで知らないだなんて言うんだよ?」

 千恵はどうしても岳の感情を否定したい衝動に駆られて、しつこく喰い下った。

 その根底に、嫉妬や焦燥といった感情があることなど、千恵は意識をしていなかった。

 心はいつだって合理的には作用しない。

「本当に知らないのかもしれない」

「えっ?」

「解離性障害。強いストレスを心が受け止めきれなくなると、人は自分を守るためにその記憶を忘れてしまうことがある。人間ってやつは良くできているんだよ」

 そう説明すると、岳は千恵から視線を逸らすようにして窓の外を見やった。

「じゃ、じゃあ、三島木さんは本当に知らない、っというか覚えてないってことか?」

「そういう可能性もある」

 窓の外を見つめたまま、岳はゆっくりと答えた。

 しかし、その岳の答えに、千恵はいまいち合点がいかない。

「んー、それじゃあ、実際どうなのかはわかんないじゃん。堂崎は勝手に確信してるみたいだけどさ、憶測じゃなくて、事実としてその場に居合わせていたかどうかって、確認する方法はないのかよ?」

 千恵は岳の思い込みを簡単に受け入れる訳にはいかなかった。

 それは二人の繋がりを暗に認めることに他ならない。

 千恵は自覚をしていなかったが、心のどこかが、それを強く拒絶していた。

「あるよ」

 しかし、そんな千恵の本人すら気付いていないような心の葛藤など知る由もなく、岳は視線を戻すと、千恵の眼を見ながら事も無げにそう答えた。

「あんのかよ!? 早く言えよな。んで、なんなんだよ?」

「名簿があるんだ」

「名簿?」

 千恵には、岳が言っていることの意味が直ぐにはわからなかった。

「大規模な事故だったからね。避難所で生存者や被害者の所在を確認するために名簿が作られたんだよ」

「でも、そんなモン残ってるのか?」

「それが残っているんだ。図書館に」

 そこで千恵は、岳の図書館通いの目的に思い当たった。

「見たことあんの!?」

「あぁ。ここの中央図書館の新しい試みでね、地方の図書館でしか蔵書していないローカルな書籍や資料をデータ化して、図書館同士のネットワークで共有しているんだよ」

 岳は少しだけ得意げになって説明をするが、千恵の表情は明らかにわかっていない人のものだった。

「すべての蔵書を対象にするのは難しいからさ、リクエストのあったものからデータ化されているんだ。でも、データ化って言っても、正確には画像化なんだけどね。今でもマイクロフィルムだなんて、これだけはイケてない。中身の検索はかなりの手間だ」

 さらに補足のつもりで続けてみたが、千恵の理解には役立たなかったらしい。

「あー、つまり、中央図書館に行けば名簿が見れるってことだよな?」

 しかし、話の要点はしっかりと押さえていたようだった。

「そういうこと」

 岳がこくりと頷いてみせると、千恵はスクールバッグを肩にかけ直して、ひとり気を吐いた。

「よしっ! じゃあ、いまから中央図書館に行くぞっ!」

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