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Ⅱ リメンバー(2)

 岳がマンションの敷地を出て通りの坂道を登っていくと、坂の上に蒔山千恵が立っているのが見えた。茜にはあんなことを言ったものの、実際、二人は毎朝、揃って登校をしていた。

「別に約束はしてないし、あいつが勝手に待ってるだけだ。嘘はついてない」

 千恵の姿を視界に捉えながら、岳は誰にともなく、言い訳するように口の中で呟いた。

「よおっす、堂崎。今日もふて腐れた顔してんなぁ」

 蒔山千恵はそう言って跳ねるように岳の横に並ぶと、ショートの髪を揺らしながら、にいっと口元に笑みを浮かべて岳の顔を覗き込んだ。

 その大きな瞳に浮かぶ力強い光は、彼女の活発で屈託のないキャラクターをひと際印象付ける。

 岳はそんな千恵の快活な気質をとても好ましく思っていたが、知り合ってからの十年間、本人にそのことを伝えたことはなかった。

 それは明確に言葉にしてしまうと消えてしまうような、いまの岳には手に余る感情だった。

「顔のことはほっとけ。それに蒔山には言われたくない。造作具合ならいい勝負だ」

 岳はさっき鏡の中でご対面した、寝不足で眼を腫らした自分の顔を思い出しながら、憎まれ口を叩く。

「へぇー、あたしとおんなじぐらいだなんて、あんたさぁ、結構、自己評価高くない?」

「はぁ?」

「だって、こんなにカワイイ千恵ちゃんを掴まえてだぞ? 自分とおんなじぐらいだなんて……へそでコーヒー沸かしちゃうぞマジで」

 そう言って腹を叩いて笑う千恵を見ながら、岳はため息まじりに呟いた。

「はぁー。沸かすのは茶だろ」

 岳は千恵との会話に、さっきまでの憂鬱な気分が遠のいていくのを感じていた。

「さしずめ、甘々のホイップたっぷり、でも、ちょっぴりビターなチョコレートモカってとこか!?」

 一方、千恵は岳の指摘など気にもかけず、一人で楽しそうに笑う。

 事実、千恵としても、岳とのこうしたやり取りは大いに気に入るところだった。

 学校に着いてしまうと、他の人間関係も関わってくるので、二人だけでこんな会話をする機会はそれほどあるわけではない。学校までの道のりは、千恵にとっては特別な時間だった。

 だからこうして、毎日、岳が坂の下から登ってくるのを千恵は待っていた。

 そう。特別な時間は自分で作っていかなければいけないのだ。

「あのさぁ、駅前にジェラートの店が新しくできたの知ってる?」

 千恵はちらりと岳の顔を横目で窺う。

「んっ、いや……」

「なんかさぁ、結構おいしいんだって」

「ふぅん……」

 千恵は普段見せている快活さとは無縁に思える緊張を胸の奥に押し込めて、なんでもないことのように軽い調子で切り出した。

「だからさぁ、今日の帰りにでも、ちょっと覗いてみようぜ?」

 二人の関係を側から見れば、その程度の誘いは覚悟を必要とするものではないように思えた。

「……いや、ごめん。今日は中央図書館に行く予定なんだ。……また今度じゃだめかな?」

 しかし、千恵の誘いに岳が乗ってきたことは、これまでにも数えるほどしかなかった。そして、「また今度」があった試しなど、千恵の記憶にある限りは一度もなかった。

 千恵は振り絞った勇気が容易に挫かれてしまったことに、軽い失望と僅かな苛立ちを感じながら、思わず批難めいた調子で言ってしまう。

「また図書館……。堂崎、あんたの境遇は知ってるし、どういう思いでやってるのかもわかってるけどさ、もう前を向いた方がいいんじゃねーのか? あたしもさ、子供の頃のことあんまし覚えてねーから、自分の過去を知りたいって気持ちは、まぁ、わからんでもないよ。でも、生きてる今をちゃんと見て、いい加減、未来に興味を持てよ」

 過去に捕らわれて今日をもがく岳の姿は、千恵からはとても痛ましいものに見えた。

 人は過去には生きられない。

 起こってしまったことは何をどうやったって変わらない。

 それは千恵にとって、いや、人間にとって不変の真理であり、疑いようのない理のはずだと彼女は考えていた。このルールから逃れられる人などいないのだから。

 それなのに、どうにかできると、何かが変わると、根拠もなく盲信している。

 千恵には岳がそんな風に思えてならなかった。

「これが……、これがオレにとっての前へ進む方法なんだよ」

 いつもは千恵がこの話をすると、岳はきまって機嫌が悪くなるのだが、今日は少し様子が違っていた。

 岳は少し寂しそうな眼をしながら、口の端を少しだけ上げてみせる。

 千恵が常に心配をしてくれていることは知っていたし、それについては感謝もしていた。でも、自分がすべきことを踏まえた上で、それにどのように応えればいいのか、岳にはわからなったのだ。

 そんないつもとは違う反応をみせた岳に、千恵は僅かな機会を感じて、もう一度踏み込む勇気を奮い起こす。

「じゃ、じゃあさ、こ、今度って、……いつだよ」

 岳の顔を見ることができずに、千恵は思わず下を向いてしまう。

 頰が紅潮しているのが自分でもわかる。

 周りに見せている姿に自覚がある分、千恵はいまの自分が「らしくない」と感じられて、とても落ち着かなかった。

「えっ? あー、そうだな……じゃあ、明日?」

 岳にしても、いつもとは違う千恵の反応は意外で、少しだけ動揺をしてしまう。明日は何か用事があっただろうか。

「あ、明日だな……じゃあ、忘れんなよ」

 俯きながら眼だけで岳を見ると、千恵は解けていく緊張と一緒に、頬が緩んでしまわないよう意識した。

「あぁ、うん……」

 なんだか、いつものやり取りとは様子が違っていたので、岳は急に居心地の悪さと照れ臭さを感じて、逃げるように千恵から視線を逸らしてしまう。

 確実に時間は過ぎているのかもしれない。しかし、千恵の言うとおり、自分は未来に眼を向けてもいいのだろうか。

 今回の悪夢に決着がつけられれば、自分の中の過去にも引導が渡せるのかもしれない。

 岳はそんなことを考えながら、妙に上機嫌になった千恵と一緒に、学校への道のりを歩いた。

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