Ⅴ デザイア(8)
一方、千恵の残した巨大な黒い球体は、漆黒のフレアを噴き上げながら膨張を続けていた。
球体は室内の機械設備をはじめ、天井や壁、その周辺の空間など、すべてを飲み込んで肥大化し、止めどなく広がっていく。
岳は黒い球体を黙って睨みつけながら、奥歯を強く噛み締めた。
――もう他に手は残っていないのか……。
向こうでは配電盤がショートして、小さな稲光を起こしている。
「腹は決まったかな?」
にやにや笑いを浮かべながら、日景が岳に尋ねた。
「それしかないんでしょう?」
岳はそう答えると、据わった眼で日景を見返す。
「いい顔だね。恐怖と諦めの混ざった人間らしい顔をしているよ」
言って、日景はいやらしい笑い声をたてながら、岳の背中を押し出した。
日景に促されるまま、岳は重い足取りで花音の側までやってくると、視線を上げて彼女の顔を見た。
「そんなに嫌そうな顔しないで。結構、傷付くから」
花音はそう言いながら岳の腕を取ると、自分の元へと引き寄せた。
「わたしとひとつになるのは嫌?」
岳の耳元で花音が艶めかしく囁く。
岳は背筋がぞくりとするのを感じながら答えた。
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
花音は岳の眼を覗き込みながら尋ねた。
「オレは……ただ怖いんだ。だってそうだろ? 自分じゃなくなるんだ」
「消えて無くなるわけじゃないよ。形と解釈が変わるだけ。それが今とそんなに違うこと?」
花音は岳の首に両腕を回すと、首を傾げながら問いかけた。
「オレには想像もつかないよ」
言いながら岳は花音の眼を見つめ返す。
その右眼は、どこまでも美しく透きとおる蒼色をしていた。
「千恵を助けられなかったというのに、オレは……オレは……死にたくないんだ」
――何を喋っているんだろうか自分は。
そう思いながらも、岳は自分が心情を吐露してしまうことを、止められなかった。
「酷いと思わないか? 自分だけは生きていたいだなんて……こんなの、千恵があまりに可哀想だ」
言って、岳は倒れている千恵へと視線を向けた。
千恵の溶化は確実に進んでいるらしく、もう人の形を成しているようには見えなかった。
「大丈夫。すぐに会えるから」
花音は慈愛に満ちた柔らかい声音でそう言うと、両手で岳の顔を自分の方へと向かせる。
そして、唐突に、何の躊躇いもなく唇を重ねた。
突然のことに岳は驚きながらも、それを拒みはしなかった。
丹念に愛撫するように花音は唇を舐っていく。
口腔に舌をねじ入れ、上唇を啄ばみ、官能的な水音を響かせる。
岳の方も貪るように花音の柔らかい唇を求めた。
この状況での自分の行動に呆れながらも、岳はそれを止めることができなかった。
――彼女だけが、この残酷さを忘れさせてくれる。
岳はそんな観念に取り憑かれて、まるで飲み干すかのように花音の温かく湿った吐息を食み続けた。
すると、部屋の反対側から爆発音が響き、大きな火の手が上がりはじめた。
膨張する千恵の黒い球体が、電力パイプやガス管などを脈絡なく次々に断ち切るため、辺りはあっという間に炎に包まれていく。
そして、球体に侵食されていく壁や天井の隙間からは、空や雑木林が覗きはじめ、この部屋が山中の切り立った崖の上に位置していることが見てとれた。
「急がないと」
花音は一瞬、唇を離してそう言うと、あらためて覆うように岳へ口付けた。
すると、その瞬間、岳の左眼が眩い深紅の光を放ちはじめる。
「きた」
花音は光を確認すると、そう呟きながら岳の頰へ手を添え直す。
そして、岳の顔を傾かせると、紅く輝いている左眼に唇を這わせた。
「うわぁぁぁぁっ!」
岳の叫び声が響き渡る。
花音の舌が怪しく蠢き、岳の左の眼窩に押し入ってくる。
窪みの形状に合わせるように舌は動いていき、眼球の裏側を丹念に舐りはじめる。
そして、花音は口を窄めると、眼球を強く吸引した。
「あぁっ! あぁぁぁぁっ!?」
岳がその異質な感覚に耐えきれずに声を上げる。
それは痛みとも快感ともつかない、岳がこれまでに体験したことのない未知の感覚だった。
そして、ずるりと何かが引き抜かれる感触がやってきて、その異質な感覚は終わりを迎えた。
花音の唇が離れていくと、岳は残った右眼で彼女の顔を見た。
花音はその桜色のぷっくりとした可憐な唇の間に、紅く輝く眼球を挟み込んで微笑を浮かべていた。
その微笑みは息を飲む程に美しく、岳はその瞬間、時間が止まるような感覚に見舞われた。
そして、花音は笑みを深めるように口角を少し上げてみせると、おもむろに眼球を頬張った。
――ぶちゅり
柔らかな形を潰す音が響き、花音がゆっくりと咀嚼をしていく。
「いっ、いったい何を……」
左眼のあった場所を押さえながら、岳は唇を戦慄かせる。
――ぬちゃ
花音は桜色をした形の良い唇をぱっくりと開くと、舌の上に乗せた深紅の結晶を見せてきた。
「そいつを……どうするつもりなんだ!?」
岳が声を上げたその時、背後で大きな爆発が起こった。
実験設備に引火をしたらしく、崖側に面していた部屋の壁が崩落し、岳たちは外気に剥き出しになる。
「助けた側としては、やっぱり生きて欲しいと思うものじゃない?」
すると、爆発などまるで意に介した様子もなく、結晶を口の中で転がしながら花音が尋ねてくる。
「それはどういう……」
すると、続いてまた大きな爆発が起こり、岳の声はかき消されてしまう。
岳が反射的に上がる火の手へ視線をやると、そこで日景と眼が合った。
日景の足元は今まさに、燃え盛る炎の中で崩れ落ちようとしていた。
「そんな事をしても無駄だっ! みんな死ぬんだっ! これで世界は終わるんだよっ! 素晴らしいっ! 最高じゃないかっ!」
「日景さん、あなたは……」
狂喜の叫び声をあげる日景が、岳にはとても憐れで哀しい殉教者のように見えた。
そして、彼の立つ床が崩落する。
彼がいったい何に殉じたのかは理解ができなかったが、遥か崖の下へと落ちていく日景の姿には、喜び以外の感情を見出すことができなかった。
この爆発の中で、喜悦の叫び声だけが響き渡るようだった。
岳が口を開いて何かを言いかけると、それを遮るように花音が耳元で囁いた。
「細胞が記憶を持つって話し、知ってる?」
「何を言って……」
爆発も日景の転落も、まるで何もなかったかのように、動じることなく花音が続ける。
「細胞の記憶転移。臓器移植を受けた人なんかが、ドナーの記憶を引き継ぐことがあるんだって」
「だから、いったい何を……」
「わたしにも転移してるの」
花音は大きな瞳を見開いて、岳の右眼を覗き込んだ。
「えっ?」
岳の戸惑いには構わず、吐息をはくようにして花音はそのまま言葉を続ける。
「わたしの記憶」
「ってことは、じゃあ……」
その意味を岳もようやく理解する。
「イノセントブルーが馴染むにつれて、記憶がどんどん戻ってきているの」
花音の右眼が鮮やかな蒼色に輝き、岳はその色に魅入られる。
「……篠宮、花音」
「半分はアウロラだけどね。でも、だからできるんじゃないかな」
言って、花音は悪戯っぽく微笑むと、ディープクリムゾンを、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
「レシピどおりの分量ではないんだろうけど、これで材料は揃った。ディープクリムゾン、イノセントブルー、それから、キミの眼とわたしの身体」
「あははっ、レシピか……千恵もそんなこと言ってたよ」
岳は急に、日景に向かって啖呵を切る千恵の様子を思い出して、こんな時だというのに笑ってしまう。
「そう。あとはその蒔山さんと同化した、アウロラ本人の生体ね」
言って、花音は右手で岳の身体を撫で回すと、彼に付着していたピンク色のスライム状をした物体をかき集めた。
その掌を花音が広げると、そこには人の手のように見えなくもない塊が現れた。
そして、それはすぐに花音の掌の中に、沈むようにして消えていく。
「ひとりじゃ可哀想だもんね」
花音の眼が寂しげに細められる。
「それでキミがオリジナルのアダムになろうっていうのか?」
その様子を見つめながら、岳はあらためて花音に尋ねた。
「まぁね。わたしが暴発するのは時間の問題だし、どうせ止められないなら、完全再現じゃなくても試す価値はあるんじゃないかな」
花音は軽い調子で事もなげに答える。
それに対して、岳は神妙な面持ちで告げた。
「オレを使えば、キミにも希望は残ると思うけど――」
そう言って、岳は唾を飲み込んだ。
花音の気持ちひとつで自分の運命は決まるのだ。
「岳くんには、そのまま生き残って欲しいんだよね」
しかし、花音はあっさりとその案を否定する。
「でも……」
花音の選んだ選択肢は、ダメなら全滅、うまくいったとしても花音が無事であることはない。
どちらにしても、彼女には利のないものだった。
「大丈夫だよ。また会える確証は得られたからね。わたしはなくならない。それがわたしにとっての希望」
そう言って岳を見つめてくる花音の右眼は、透きとおる程に蒼く、美しかった。
「いや、でも……」
言い澱みながら、岳は無意識に花音へ手を伸ばしていく。
「あの時の約束をわたしは守ったよ。こうしてまた逢えた。でね、今度もまた守れると思うんだ」
花音の左眼が紅く輝きはじめる。
「だからさ」
彼女は両腕を軽く突き出すと、少しだけ岳の肩を後ろへと押しやった。
「またね」
岳がそれに気付いた時には、もう遅かった。
後ろへと退がった左脚は、床に着くことなく宙を掻く。
あったはずの床は、既に崩落していた。
身体は均衡を失い、崩れた床から崖へと吸い込まれるように落下をはじめる。
――まただ。
また彼女をこうやって失いながら、自分だけが取り残されるのだ。
岳は、自由を失った身体を重力に任せながら、遠ざかっていく彼女の姿だけを視界に捉えていた。
深い藍色をした彼女の黒髪は逆立ち、銀とも蒼ともつかない色へと変わっていく。
彼女は薄い唇に笑みを浮かべながら、こちらをずっと見つめていた。
その瞳は、紅く、蒼く輝き、次第に混ざり合っていく。
そして、頭上に浮かんでいた花音の黒い球体は急速に膨張をはじめ、千恵が出現させた球体を侵食していく。
彼女がだんだんと遠くなっていく。
もう彼女の姿が判別つかないぐらいに小さくなった頃、激しい爆発と轟音が響き渡った。
そして、その爆風に押し付けられて、どこかへ荒っぽく落下した衝撃が背中にやってきた。
全身を巡る激しい痛みと、頭蓋を強く揺さぶられたことで、岳の意識は遠のきはじめる。
そして、その手放しかけた意識の中で、薄っすらと記憶が蘇ってくる。
「――んちゃん……」
岳のその呟きは声にならなかった。
そう。確か、自分は彼女をそう呼んでいたはずだ。
右の頬を涙が伝うことに、岳は気が付かなかった。
そして、世界は爆炎に包まれた。




