Ⅱ リメンバー(1)
「もう起きないと遅刻するよ」
部屋のドアを少しだけ開けて、堂崎茜はなかなか起きてくる気配をみせない甥の様子を窺った。
覗き込んだ視線の先では、ベッド脇の壁に頭を押し付けるようにして丸くなっている堂崎岳の姿があった。
茜はこの思春期を迎えた甥っ子が、最近はあまり多くを語ってくれなくなったことに僅かばかりの寂しさを感じていた。
しかし、母親代わり兼父親代わりを務めてきた自分との関係としては、これは至極一般的で正しいものなのだと、彼女なりに理解をしていた。また、同時に、彼をこの十二年間、きちんと育ててきたという自負も彼女にはあった。
「おーい、千恵ちゃんとの待ち合わせに遅れちゃうよー」
おもいっきり冷やかすような声音でそう言いながら、茜は岳の丸くなった背中を揺さぶってみる。
その広げた掌に伝わってくる感触は、見た目よりもずっとしっかりとしていて、岳が大人へと確実に成長してきていることを茜に再確認させた。
思わず茜は口元を綻ばせる。
「ほら、起きろー」
今度は強めに、その広くなりつつある背中を叩いてみる。
――バンッ
「いった……茜さん。叩かないでよ」
岳は不満そうに苦情を洩らしながら、身体をゆっくりと伸ばして茜を見上げる。そして、うまく寝起きを演じられたかを慎重に確認する。
「遅れると千恵ちゃんに怒られるぞ」
茜はわざとらしいニヤケ顔を作ると、人差し指で岳の肩を突いた。
「だーかーらー、蒔山とは別に待ち合わせなんてしてないんだって。たまたま時間が同じなだけなのっ」
岳は必要以上に不機嫌そうに振舞ってみせて、照れ隠しの演出を付け加える。過剰にならないよう、できるだけ自然な感じで。
「あらそう。まぁ、なんでもいいけど、女のコには優しくするのよ」
そんな岳の思惑など茜が知る由もなく、狙いどおりに年頃男子の屈折した反応だと理解をする。
「あぁ、もうわかったよ」
うんざりしたように岳はベッドから勢いよく降りると、寝癖の頭をかきながら部屋を後にした。
これ以上からかうと二、三日は口を利いてくれないかもしれない。
茜は岳の背中を見つめながらそんなことを思うと、やり過ぎないようにこの辺で自重することにした。
一方、ダイニングへ向かいながら、岳は眉間に深い皺をつくる。
「……また、あの夢を見るようになった」
細部に渡るまで忠実に再現されたフラッシュバックのような悪夢。全身汗水漬くになりながら深夜に跳ね起きると、それから岳は一睡もできなかった。
これ以上、茜に迷惑をかけてはいけないという強迫観念から、今朝は平静を装ってはみたが、またこの悪夢に悩まされる日々がはじまるのかと思うと、岳は気分が重くなった。
「なぜ自分だけが生き残ってしまったのか」
これは、あれからずっと岳に付いて回っている命題であり、また、常に彼を責め立てる内なる声だった。
この命がある限り、過去とは向き合わなければならない。
それは自分に課せられた義務なのだと岳は考えていた。しかし、覚悟を決めたとしても、苦痛を感じないわけではない。今朝も岳の胃は鉛を含んだように重く、そんな原罪の存在を鈍く確かに主張していた。
無意識のうちに胃のあたりを摩りながら、岳はダイニングのテーブルにつくと、大きく息をひとつ吐いた。
それから茜が用意してくれたハムチーズのベーグル、トマトサラダにコーヒーという朝食を無理やり胃に収めると、慌ただしく準備を整えて玄関へ飛んでいった。
「いってきます」
そんな岳の声に、茜がランドリールームから玄関の方へ首を伸ばしてみると、そこにはもう彼の姿はなかった。
「……いってらっしゃい」
閉まりかかった玄関扉を見つめながら、茜は小さくそっと呟いてみた。