Ⅴ デザイア(6)
全身を覆う倦怠感と、割れるような頭痛に見舞われながら眼を開けると、岳は血塗れの床にうつ伏せで倒れていた。
どうやら血溜まりで脚を滑らせて転倒したようだった。
力がなかなか入ってくれない脚を押えながら、水槽に寄り掛かってどうにか立ち上がると、岳は水槽の中を覗いた。
すると、蒼白い溶液の中で揺蕩う三島木花音と眼が合った。
彼女の右眼は鮮やかな蒼色をしていて、すべてを吸い込んでしまいそうな、そんな危うい美しさを湛えていた。
そして、その口元には蠱惑的な笑みが浮かぶ。
「お嬢様の覚醒だ……」
日景は呟きながら脚を進めると、拳銃を構えて岳へと狙いを定めた。
「さぁ、協力してもらうよ岳君。ディープクリムゾンを持ったまま水槽の中へ入って、彼女と交わってもらおうか」
「なんだって!?」
痛む頭を押えながら、岳は顔を顰める。
「ディープクリムゾンとイノセントブルー。三島木花音と君。それとアウロラの生体。そのすべてがひとつになってオリジナルアダムは再生されるのさ。ほら、早くしないとダークエネルギーの暴発が始まってしまうよ。変わっていく空の色を見ただろう? イノセントブルーはもう神の力にアタッチしたんだ。三島木博士によって賽は投げられたんだよ」
危機を説く日景は、なぜだかとても嬉しそうに見えた。
それはむしろ、ダークエネルギーの暴発を望んでいるかのようだった。
「たがら素直に言うとおりにしろと!?」
そんな日景の思い通りになってしまうことに、生理的な拒否感が込み上げてきて、岳は思わず反抗する。
「君がやる以外に道はないんだ。それとも、このまま大災害が起こってもいいって言うのかい? ひょっとすると、人類は本当に滅亡するかもしれない。ダークエネルギーを制御できなければ、起る惨劇は単幌の比なんかじゃないんだ」
「あなたは、いったい何をしたいんですかっ!?」
岳は搾り出すようにして日景に向かって叫んだ。
彼は滅亡を望みながら、それを防げと言う。
その矛盾した思考ロジックは、岳にはまったく理解のできないものだった。
「僕はただ見たいだけだよ。神の力と、それを巡る人間の業ってやつをね」
にやりと下卑た笑みを口元に浮かべると、日景は拳銃を構え直す。
「さぁ、岳君。世界を救う時間だ。苦しみはないはずだよ。いや、むしろ、この世では決して得ることのできない快楽と引き換えらしい。それは肉体的にも精神的にも自由ということと同義だ。素晴らしいじゃないか。理想郷はすぐそこにあるんだよ」
日景の話に、岳はさっきの体験を思い出してしまう。
そして、信じられないことに、あれを再び味わえるのであれば、日景の言うとおりにしてもいいのではないかと、そう思いかけている自分がいた。
――あの体験を言葉にするのであれば。
――あれが理想郷を体現したものだとしたら。
――その理想郷とは……。
「……エデン」
岳が呟くようにして洩らすと、日景は大声で笑いだした。
「はっはっはっ、そりゃいい。よくできたオチじゃないか。今度は失楽園しないように注意しないといけないね」
日景はしばらく可笑しそうに笑っていたが、少し落ち着いてくると、あらためて銃口を岳へと向けた。
「さぁ、もういい加減、茶番は終わりにしよう。水槽へ入るんだ、岳君」
すると、唐突に部屋の反対側から銃声が響き渡り、場の空気が一変した。
二人が驚いて音のした方を見ると、アウロラの入っていた水槽の横に、拳銃を手にした千恵が立っていた。
「君か……さぁ、そんな危ないおもちゃは下に置いておこう。怪我をしてはつまらないからね」
日景は岳へと銃を向けたまま、千恵を見ながら優しく言った。
「いや、銃を置くのはあんたの方だよ。あたしがこいつを撃てるのは証明したからな。次は当てにいく」
言うと、千恵は拳銃の撃鉄を起こして両手で構えた。
「蒔山っ!?」
千恵の取った行動に驚いた岳は、唖然として彼女を見つめるしかなかった。
「はぁ……三島木博士の銃だね。つくづく僕の邪魔をしてくれるよ、あのひとは……」
日景は三島木博士から拳銃を回収していなかったことを後悔したが、取り立てて大きな問題とも思わなかった。
「ねぇ、千恵ちゃん。あぁ、千恵ちゃんと呼んでもいいかな? まず、そいつを下ろしてくれないかな。拳銃ってやつは、何の訓練も受けていない素人が的に当てられるほど、便利で都合のいいアイテムじゃあない。怪我をするのがオチだよ」
日景はどこまでも優しい声音で千恵に語りかける。
その噛んで含めるような語り口は、さながら小学校の教員のようで、順番に物事の道理を説いていく姿は善良さそのものだった。
「それにね、千恵ちゃん。君は心底嫌なんだろうけどね、岳君にやってもらう以外に、もう手段はないんだよ。三島木博士がすでに始めてしまったんだ。悪いんだけど、これは僕のせいじゃない。むしろ、僕はそれを喰い止めようと奮闘している側だ。つまり、僕こそが正義の味方だといってもいいぐらいだ。それに、いまこの状況を端的に言うならば、君が邪魔をして地球人類が全員滅びるか、岳君が三島木花音と交わって、オリジナルアダムとしてダークエネルギーを制御するか。その二択しかないんだよ。それはわかるよね?」
日景は交わるというくだりを、殊更わざと強調して話をした。
それを聴いた瞬間、千恵の眼に負の感情が色濃く浮かぶのを見て、日景は思わず声をあげそうになった。
――歓喜の声を。
日景はネガティヴな人間の感情を否定しない。
むしろ美しいとすら考えていた。
欲望と同じく、途方もないエネルギーを生み出す負の感情は、人間という種の持つ資産だとすら思っていた。
「そんなの、どうでもいい……」
すると、千恵が暗く沈んだ声音で呟いた。
その眼はあらぬ一点を見つめたまま、焦点を結んではいなかった。
「どうでもいい?」
千恵が自分の良心と願望との板挟みで苦悩することを期待していた日景は、予想とは違う角度からやってきた彼女の言葉を、思わず確認してしまう。
「世界がどうなろうと、人類がどうなろうと、あたしにはどうでもいい。あたしはただ、あんたにも、そこの博士にも、そして三島木花音にも、岳は絶対に渡さない」
奥歯を強く噛み締めながら、千恵は震える両手で狙いを日景に定める。
「千恵……」
その二人のやり取りに、岳は割って入ることができなかった。
予想もしなかった千恵の行動に、岳はすっかり混乱していた。
「岳君は自分の物だと? 誰にも渡さない? ……なかなかに美しいじゃないか。愛情も突き詰めれば単なる欲望に過ぎないからね。自分に向ける自己愛の一部が、相手を経由して戻ってくるだけ。それだけのことだ。いや、君は実に面白い人だ。とても好感が持てるよ」
日景はそこで少し肩を揺らして笑うと、さらに続けた。
「で、どうするというんだい? 君の望みが叶って、みんなもハッピーなんて三つ目の選択肢はないんだがね?」
すると、千恵はこの世の全てを呪うかのような暗い眼をしながら言った。
「岳があたしのものにならなくったって構わない。ただ、三島木花音にだけは、絶対に渡さない。それで世界が滅ぶというなら、そんな世界は滅びればいい。他のオンナに取られるぐらいなら、誰かのものになってしまうのなら、あたしがこの世界と一緒に滅ぼしてやる。誰にも渡すもんかっ!」
言い終わるのと同時に、千恵は引き金をひいた。
発砲の反動で千恵の腕は跳ね上がり、危うく銃身で頭を打ちそうになる。
一方の発射された弾はというと、あらぬ方向へと飛んでいき、遠くで甲高い金属音をたてていた。
「いいねぇ、その意気込みと覚悟は非常に僕好みだよ。だけど、頼みの銃は当たらないし、他に打つ手がある訳でもない。これはもう詰んだと言ってもいいんじゃないかな?」
日景の優しさは弱者に、敗者に向けられた残酷な憐れみだった。
すると、千恵がにやりとこの状況に相応しくない、太々しい笑みを浮かべた。
「あんたの敗因はさ、三島木博士を軽くみていたことだよ」
言うと、千恵は水槽横のコンソールパネルへと手を伸ばす。
その画面には、『Done』『Cancel』とボタンが二つだけ表示されていた。
「あの博士。最後に何をしようとしてたんだろうな。あの状況でやろうとしていたんだから、形勢逆転を狙える何かだったんじゃねーのか? そうは思わないか?」
日景の脳裏に、三島木博士が最後にパネルを操作していた姿が蘇ってきた。
「あれは……苦し紛れではない……と?」
「さーね。わからないけど、もう打つ手のないあたしは、それに賭けるよ」
言い終わるのと同時に、千恵は『Done』のボタンに指で触れた。
すると、溶液を排水しきった水槽に再び電源が灯った。
そして、その中に横たわっていたアウロラの半身が、蒼白い光をゆっくりと放ちはじめる。
アウロラは既に腐食が進行しており、場所によっては液状化しているような状態だった。
その液状化した肉体の一部が、意思を持った生物のように波打ち、動きはじめる。
「まだアウロラが生きている……!? いったい何をしたんだ!?」
日景の表情に僅かに狼狽の色が浮かぶ。
溶液を抜いてもアウロラが生きているとは、完全に想定外だった。
そして、アウロラの形を保っていた他の部分も液状化していき、アメーバのように広がっていく。
その中心には、まるで細胞核のように蒼い結晶が輝いていた。
「まさか……イノセントブルーは三島木花音の元へその力を移したはずでは!?」
日景は花音が浮かぶ水槽を見やる。
すると、花音の蒼い眼と視線が合った。
花音は微笑むように、少しだけ口角を上げてみせる。
日景は忌々しげに口元を歪めると、花音を鋭い眼で睨みつけた。
「分裂したと言っていたな……。一時的に結晶が二つ存在することもあり得るということか」
視線を戻すと、日景は岳へ向けていた銃口を千恵の方へと向け直した。
状況の重要性が日景の中で変わった証拠だった。
しかし、銃口の先では、さらに想定外の事態が起こっていた。
不定形な流体となったアウロラが、千恵を取り込もうと全身を広げて彼女に覆い被さっていた。
「馬鹿なっ!? 遺伝形質に同質性が認められない個体では、融合することはできないはずだっ!」
「あぁ、蒔山……」
日景と岳が驚愕の面持ちで見つめるなか、アウロラは完全に千恵を取り込んでしまう。
そして、蒼白い光が強さを増したかと思うと、流体が人の形へと整いはじめる。
「そんなことが……これでこの場には二人のアウロラが、いや、イヴが存在していることになるのか!? そんな馬鹿な……」
自分の仮説では予想もしなかった事態に、日景は動揺を隠せなかった。
これから何が起こるのか、まったく見当もつかない。
ただ、ひとつだけ確かなことは、誰も無事では済まないだろうということだけだった。
「蒔山ぁっ!」
岳が必死の形相で呼び掛けるが、千恵は反応を示さない。
アメーバの塊は、刻々とその造形を精緻なものへと変えていく。
既に日景の拳銃は岳を狙っていなかったが、岳は脚に根でも生えたかのように、その場から動くことができなかった。
しかし、形を整えていく人型をした流体が、アウロラと千恵の外見的特徴を兼ね備えているということは、その場所からでも十分に見てとれた。
「岳……あたしとひとつになろう。いま、アウロラとあたしは同じものになったよ。それであれば、あたしでもいいんだよな?」
千恵のものでありながら、どこか違和感を感じさせる声で、かつて千恵だったものが岳へと問い掛ける。
「ま、蒔山……おまえ……」
「あたしとだって世界をどうにかできるんだろ?」
「だけどな……」
「岳は……岳は三島木花音を選ぶのか?」
不確かな足取りで千恵は岳に向かって歩き出す。
「そうじゃない。そうじゃないんだ……ただ、」
岳は後退りしそうになる身体を、意志の力でどうにか抑えつける。
「そんなに三島木花音は特別なのかよ!?」
「だから! そうじゃないんだって!?」
岳は声を荒げて否定をする。
――この事実を自分は伝えることができるのだろうか。
心臓が早鐘を打ち、こめかみの血管が激しく脈打って、耳障りな音を立てる。
――だめだ。できそうにない。
「千恵ちゃん。まぁ、そう岳君を追い詰めないであげてよ」
すると、様子を窺っていた日景が、横から岳をフォローしてきた。
しかし、その軽い口調の割には、日景の声音には固いものが混じっていた。
「あんたは黙っててくれよ。これは、あたしと岳の問題なんだ」
「いや、岳君には無理そうだからね。僕が言うしかないだろう」
「……なんの話だ?」
「千恵ちゃん。君……自分の身体がどうなっているか、知ってるかい?」
日景は重たくならないように切り出したつもりだったが、上手くいったとは到底思えなかった。
「身体……?」
千恵が首を傾げながら、自分の指先を見つめる。
「……えっ? どうして?」
千恵の指先は、溶解してこぼれ落ちようとしていた。
そして、それは指先だけではなかった。
もはや全身が崩れはじめ、形を維持できなくなりつつあった。
「なんでっ!? どうしてっ!?」
狼狽える千恵は、ヒステリックに叫び散らす。
「だって、あたしが岳とひとつになるのにっ! こんなこと、あるわけないっ!」
怒声をあげて力むと、緩くなった千恵の表皮が上下に波打つ。
「さっき君が実行したのは、おそらくダークエネルギーへのアタッチだ。消えゆくアウロラのイノセントブルーで、神の力を取り出そうとしているんだよ。でも、力を失いつつある結晶では、そいつを制御できない。だから、取り出してしまったダークエネルギーが安定せずに、自身の肉体を侵食しているんだ。そもそも、完全な状態のイノセントブルーだって力を制御できないっていうのに、そんな劣化した結晶じゃなおさら……」
「日景……さん。じゃあ……じゃあ、千恵はどうなんるです!?」
状況を冷静に分析する日景に、岳はなかばパニックを起こしたように尋ねる。
すると、日景は薄笑いを浮かべた。
「はははっ……解き放たれたダークエネルギーが全てを消し飛ばすだろうからね。千恵ちゃんだけじゃなくて、全員助からないよ。それどころか、この国だって残るかどうか……」
「そんな……」
岳の表情に絶望が色濃く浮かび上がる。
これまでにも危機的な状況だとは聴かされていたはずなのに、岳には今までその実感が乏しかった。
あまりに突飛な出来事の数々は、どこか遠い世界の話のように現実感が希薄で、認識と感情がどうしても一致しなかった。
しかし、千恵が眼の前で崩れ落ちようとしている光景に直面して、ようやくこの状況の深刻さが、リアルな現実として岳の精神に食い込んできた。
「いや……いや……あぁぁぁぁぁぁっ!」
千恵が絶叫を上げる。
するとその頭上に、彼女の叫び声に呼応するようにバレーボール大の黒い球体が突如現れた。
異様な質感をしたその球体の表面には、太陽のように無数のフレアが激しく蠢いており、不気味な存在感を放っていた。
「あれは……」
「たぶん、圧縮された高密度のダークエネルギーじゃないかな。いよいよ始まるんだよ、世界の終わりが……。不憫なひとりの少女の嘆きによって世界が終焉を迎えるだなんて、なかなかに情緒的じゃないか。儚く、とても美しい」
日景は恍惚とした表情をしながら呟く。
この状況に、彼はこれまでの人生で一番の幸福感を感じはじめていた。
しかし、一方の岳には、この状況が情緒的にも、美しいものにも思えなかった。
あるのはただ、どうしようもない絶望感だった。




