Ⅴ デザイア(5)
「三島木博士……」
岳は複雑な気持ちで倒れた三島木博士の身体を見つめた。
あの事故の原因を作った人物。
多くの人の運命を変えてしまった男。
そして、自分の人生を変えた人間。
その張本人がいま、絶命しようとしている。
誰にも、何にも詫びることなく、ただ、己の欲望のために消えようとしている。
自分はここで何を思えばいいのか。
なにを思うべきなのか。
岳にはもうわからなかった。
そして、そんな沈痛な面持ちの岳を、千恵は見ていられずに、思わず視線を逸らしてしまう。
すると、その逸らした視線の先では、日景が二人組へ指示を出しながら床を確かめていた。
「あったぞ」
男のひとりが床の切れ目に指を掛ける。
「別荘のラボと同じ造りだな」
男がそのまま腕を引き上げると、エアブレーキの排気音のような音がして、円筒形の水槽がせり上がってきた。
蒼白い溶液で満たされたその中には、白んだ肌をした三島木花音が浮かんでいた。
「ようやくご対面ですね、お嬢様。なんの捻りもないじゃないですか」
薄ら笑いを浮かべながら、日景が水槽へと近づいていく。
そして、男たちが水槽のコンソールへ何かを繋げようとした瞬間、部屋の空気が激しく振動した。
「なんだ?」
日景が訝しんで辺りを見回す。
見た限りでは特段、異常はなさそうだった。
すると、水槽の横にいた男のひとりが、コンソール側にいる相棒を見て尋ねた。
「お前、なんだそれは?」
尋ねられた男は、相手に指で示された自分の腹部へと視線を下ろした。
そこは防弾プロテクターで覆われているはずだったが、いま男に見えているのは、はみ出した自分の内臓だった。
鮮やかなピンク色をしたそれは、スーパーの生肉コーナーに並んでいる豚のホルモンなどよりも、ずっと弾力感に富んでいて、綺麗な造形をしていた。
血が一滴も出ていないせいなのか、男にはそれが現実のものとは到底思えなかった。
不思議と痛みも感じない。
尋ねた方の男が、異国の言葉で早口に何かをまくし立てているが、こっちの男に伝わっている気配はなかった。
すると、次の瞬間、赤い血潮が勢いよく噴き上がった。
その飛沫は、まくし立てる男の口を塞ぎ、温かいぬめりけで全身を浸す。
そして、水槽をみるみる赤く染め上げ、辺り一面を血の海と化していった。
二人のあげる獣のような咆哮が耳をつんざく。
その惨状を眼にして立っていられなくなった千恵は、青い顔をしてその場へ座り込んでしまう。
反対に、岳は眼を見開いたまま、視線を逸らすことができずに動けなくなっていた。
そのまま男たちは不明な言葉で叫び続けていたが、ひとりが事切れたらしく、その勢いは急激に弱まっていく。
「やってくれる……三島木博士か? いや、イノセントブルーか……?」
後退りをしながら日景が誰にともなく呟いた。
そんな距離を取りはじめた日景の姿を見て、残った男のひとりが何かを叫んでいたが、それはもはや言葉なのかもわからない、狂気の雄叫びだった。
すると、何か汁気のある柔らかいものが押し潰されるような音が響き、男の叫び声がぴたりと止んだ。
その一部始終を見ていた岳にしても、いったい何が起こったのかわからなかった。
ただ、眼の前で男の頭が潰れて脳漿が飛び散り、頭のあった場所からは噴水のように鮮血が噴き上がった。
――それだけだった。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
ようやく反応することができた岳が最初にしたことは、叫び声をあげることだった。
「もう、やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて……」
何かが起こったことはわかったが、千恵はそっちを見ることができずに、頭を抱えて蹲るしかなかった。
「イノセントブルーが自動的にやっているのか!?」
水槽からさらに離れながら、日景は岳の姿を探し求めた。
「岳君、君の持っているディープクリムゾンが必要だ。三島木花音が自分の意思でイノセントブルーをコントロールしない限り、あの結晶は主人を守り続ける。岳君が行って彼女を覚醒させてほしい」
茫然と力無く突っ立っていた岳を捕まえると、日景は肩を揺さぶって言い聞かせた。
「君は大丈夫だが、僕とそこの彼女は、さっきの二人のようになるかもしれない。君がやるしかないんだ」
日景は途中、千恵へと視線を走らせながら、諭すようにして岳を促した。
「覚醒させるって、いったいどうやって……」
ようやく眼の焦点が合ってくると、岳は日景を見て助けを乞うように呟いた。
「近くまで行けば、あとはディープクリムゾンがやってくれるさ」
日景にしても確信があるわけではなかったが、いまはそうする以外、可能性のある手が思いつかなかった。
失敗すれば、全員これでおしまいだ。日景は岳の背中を強く押し出した。
岳が足を縺れさせながら水槽の横まで来ると、ポケットに入れていたディープクリムゾンが紅い光を放ちはじめた。
「それで、どうすりゃいいのさ……」
ポケットから輝く結晶を取り出すと、岳は水槽に触れてみる。
すると、全身に電流が走るような衝撃があり、突然、何処かと『繋がった』感覚に見舞われた。
それと同時に、ものすごい量のイメージの塊が意識に流れ込んできた。
圧迫される脳のリソースの片隅で、日景の言っていた神秘的な体験とはこういうものだったのではないかと、岳は取り留めもなくそんなことを思った。
そして、徐々に自分の意識の境界線が曖昧になっていることを認知しはじめた頃、向こう側から何かがやって来るのを感じた。
その感覚にはどこか覚えがあり、岳は妙に懐かしい気持ちにさせられた。
この感覚は……
それは言葉ではなかった。
形を持たないイメージ。
あるいはただの電気信号。
あるいは音。
あるいは光。
あるいは熱。
――三島木花音だった。
「来てくれたんだ」
それは思考の知覚。
言語によるコミュニケーションよりも、もっと高度で齟齬のない、同化や共有といった感覚に近かった。
相手の思考が自分の物のように、いや、それ以上に明確にわかった。
「あぁ、キミを確認したかった」
この状態で、お互いに問いかけや返答が必要なのか疑問もあったが、これまでの人間としての習慣がそうさせた。
それ以外のコミュニケーションの仕方が、まだわからなかったのだ。
「わたしを知りたいってこと?」
温かい何かが頰を撫でていった。ぬるい温水に浸かるように身体が弛緩していく。
「そう。やっぱりキミはあの場所にいたんだろ?」
「もう、その答えは知っているはずよ。何が知りたいっていうの?」
「キミは……キミは誰なんだ?」
「わたしは、わたし」
「答えになってないよ」
「答えはもう、知っているでしょ」
何かが溢れるように岳の中へと入ってきた。
今まで岳の中にあったものが押し出されていくような、そんな感覚に支配される。
それはどんどん自分の中へと侵入してくる。
身体中を巡り、指先や毛細血管の末端まで拡がっていく。
――三島木花音。
彼女が岳の中に満ちていく感覚。
それは至上の快楽を伴う、凄まじいまでの多幸感だった。
きっと、この世のあらゆるドラッグよりも鮮烈で、どんなに深いセックスよりも淫楽をもたらす、禁断の果実。
岳はもう自分を保っていられなくなっていた。
どんどん自分という存在が遠くなっていき、自分を形作る概念が瓦解していく。
あらゆる記憶が濁流のように渦巻き、混沌の向こうへと流されていく。
このまますべてを投げ出して消えてしまっても構わないと、全身の力を抜いたその瞬間、突然、強烈な衝撃によって意識を取り戻すことになった。




