Ⅴ デザイア(3)
薄暗い構内は延々と同じ作りが続き、時間や深度に関する感覚が徐々に麻痺していった。
無言で黙々と階段を降りていた一同にも、不安と疲れの色が滲みはじめる。
「これってどこまで行けばいいんだよ?」
痺れを切らせた千恵がボヤキを口にする。
すると、岳の握り締められた右手から、紅い光が溢れ出した。
「大丈夫。降りるのはもう終わりだよ」
岳の言葉どおり、少し降りると階段の終わりはすぐにやってきた。
しかし、今度は無機質な廊下が奥へと真っ直ぐに伸びていた。
それを眼にした瞬間、目的地はまだなのかと一同に失望が広がりかけたが、その少し先には扉が小さく見えていた。
「そこが終着点かな?」
ちらりと岳に視線を送りながら日景が尋ねる。
「そのようです。あの向こうに、アウロラ……いや、少なくともイノセントブルーはあるはずです」
岳に知覚できるのは結晶の存在だけだった。
アウロラの気配も思考も、何も感じることはできなかった。ただ、そこに在るという感覚だけが、確かなものとして伝わってくる。
三人はそのまま歩みを進めて、ついに扉の前までやってきた。
窓も取手もない、つるりとしたその金属の扉は、訪れる者を歓迎するのか、はたまた拒絶をするのか。
見たところ、今度は認証のための装置などはなさそうだった。
三人は顔を見合わせると、岳が静かに結晶を握りしめた手を扉へと伸ばした。
すると、岳の手が届く前に、扉が音もなくスライドした。
開いた扉の先は広い空間のようだったが、中は薄暗く、いくつかの仄かな蒼色が、非常灯のようにぼんやりと辺りを照らしているだけだった。
「入れってことかな」
呟くと、日景は先頭に立って中へと脚を踏み出した。
岳と千恵の二人も無言で後に続いていく。
暗闇に徐々に眼が慣れてくると、そこが何かの実験を行う場所だということがわかってきた。
作業台らしき什器が数台。無数のパソコンと数多のディスプレイ。
そして、その先の方には、ひときわ明るく蒼白い光を放つ場所があった。
奥へと引き寄せられるように脚を進めていく三人は、そこで光の正体を眼にすることになった。
――それは少女だった。
円筒形をした培養プラントの水槽に浮かぶ、銀髪の華奢で頼りない肢体。
しかし、千恵は水槽の中身を認めると、思わず目を逸らしてしまった。
少女の左半身は激しく損壊していた。
その凄惨な傷痕を剥き出しにして、少女は蒼白い溶液に静かに揺蕩っている。
「これがアウロラ……?」
胸のムカつきをどうにか堪えながら、岳は日景を見た。
「あぁ、彼女こそがアウロラだよ。こんなに痛ましい姿になっても尚、美しい……」
その水槽を見上げる日景の恍惚とした表情は、どこか狂気じみたものを感じさせた。
「久しぶりだね、日景君」
すると、水槽の裏側から声が響いてきた。
その声音は自信に満ちていて、そして、どこか人を嘲笑するような気配を含んでいた。
声の主がその姿をゆっくりと現す。
タイトなスーツに身を包んだ、精悍な顔付きをしたした壮年の男。
先日、岳が顔を合わせた三島木花音の父親で間違いなかった。
――三島木圭吾
この男があの事故のすべてを知っている。
自分の人生を大きく決定付けた、あの忌まわしい出来事の引鉄を引いたであろう男。
その本人が今こうして眼の前にいる。
岳は無意識のうちに膝が震えはじめていることに気が付いたが、自分ではそれを止めることができなかった。
「三島木博士も、お元気そうですね」
すると、まるで再会を喜ぶかのように、楽しそうな声音で日景が返す。
「いや、君には敵わんよ。こうして精力的に嗅ぎ回って、遂にここまでやって来たのだからね」
「だいぶ探しましたよ、博士。なかなか痕跡を残してくださらないものですから」
「いや、そうでもない。どうやら今回は警戒を緩めすぎたらしい。君の他にもネズミが侵入したようだ」
言うと三島木博士は、岳たちが入ってきた出入り口へと視線を向けた。
「どちらも動かないでもらおう」
すると突然、凄みを効かせた低い声が室内に響き渡る。
そのイントネーションには少しばかりの違和感が感じられた。
その場の全員が声のした方向を向くと、腰を落として拳銃を構えた男が二人、蒼白い明かりに照らし出されているのが見えた。
どちらも力みや無駄のない身のこなしから、十分な訓練を受けていることが窺えた。
「三島木圭吾だな。アウロラとそれに関わる研究データをすべて渡してもらおうか」
男の一人がそう言いながら前進をはじめると、照明の照り返しで、一瞬、その顔がはっきりと見えた。
「あれは、水族館の……」
岳のなかで、水族館で遭遇した警備員の容貌と、そこにいる男の姿形が重なる。
すると、千恵もそれに気付いたようで、岳に目配せをしてきた。
「君たちはどこの手の者かな? 心当たりが多過ぎて、ちゃんと名乗ってもらわないとわからないじゃない、かっ!」
軽口でも叩くように喋っていた三島木博士が急に上体を捻ったかと思うと、次の瞬間、突き出された右手には拳銃が握られていた。
それを受けて、入り口で構えていたもう一人の男が反応をみせるが、先の男が左手で素早くそれを制止した。
「いま、ここでわたしを殺したら、すべてが無駄になるぞ。わたしがいなければ君らは何もわからないままだ。データを寄越せと言ったな? そんなもの、いくらでもくれてやる。しかし、そこから答えは出ないだろう。肝心なデータはここにしかないからな」
言って、三島木博士は自分のこめかみを、左手の人差し指で指し示した。
「三島木博士。ひとつだけ教えてほしいんですがね」
すると、唐突に日景が大声で三島木博士へと尋ねはじめた。
「娘さん、花音さんはいったい何者なんです? 趣味のお人形さんにしちゃあ、やり過ぎじゃないですかね? 見たところ、アウロラは機能するのか疑問を抱くレベルで損傷している。やっぱり依代が必要なんでしょ?」
緊迫した状況をまったく意に介さない日景の質問に、岳と千恵は驚きを隠せなかった。
「日景さん!?」
「っちょっ、あんた、なに言ってんだよ、こんな時に!?」
慌てる二人をよそに、三島木博士は愉快そうに笑い声をたてた。
「あっはっはっ、まぁ、あれを見れば仕方ないかもしれんな。君の言うとおり、アウロラはもう元の数パーセントしか機能しないだろう。アウロラは確かに不老不死だが、不死身ではない。殺すことは十分に可能なのだよ。この点は研究者の間でも誤解があったようだがね」
「いやぁ、誤解もなにも、あなたが意図的にそうしたんじゃないですか」
「人聞きの悪い言い方はやめてくれたまえ。アウロラの再生能力が非常に高いのは事実だよ。まぁ、ブレイクポイントはあるがね。それはデータを読み込めばわかることだ。わたしはただ、その点について言及しなかっただけだ」
「あんな風に巧妙にミスリードされては、わかるはずもないですよ。まぁ、みんな無能だと言われれば、そうなんでしょうけどね。しかし、なぜそんなことを?」
日景は、口元に薄い笑みを浮かべながら三島木博士へ質問を続ける。
「そりゃ、君。アウロラが死ぬなんてことがわかったら、リスクの高い実験はできなくなってしまうからね。お偉いさん方の不安を和らげるためだよ」
三島木博士のその言葉を聴くと、日景は小さくため息をついた。
「はぁ、おかげでこの様ですよ。事故は起こるし、アウロラはダメになってしまう。で、博士。花音さんは依代なんですか?」
「わたしは十二年前の構想を現実のものとした。当時は結晶の力をどうやって継承させるのかが課題だったが、イノセントブルーは花音を器と認めたよ」
「どういうことです?」
ここで初めて日景の声に険が混じる。
同時に、日景は三島木博士へ睨みつけるような鋭い視線を送る。
「やはり机上の推論どおりに物事は進まないということだ。器を用意したら何が起こったと思うかね? なんとイノセントブルーは分裂したのだよ!」
拳銃を構えた腕をもどかしそうにしながら、三島木博士は大きな手振りを交えて説明をする。
「分裂!? そんなバカな……」
その事実は日景にとっても意外だったようで、彼の顔には動揺の色が僅かに浮かんでいた。
「まったく予想だにもしなかったことだ。しかし、偶然が次の扉を開けることは珍しくない。何事も実践あるのみだよ日景君。だが、まぁ問題もあった。分裂した後、オリジナルの結晶は徐々に力が弱まってきている。いよいよアウロラの最後も近いということだ」
そう言って三島木博士は、アウロラの浮かぶ水槽へと顎をしゃくってみせた。
どうやら、水槽を満たす溶液が青白く輝いているのは、その結晶の為せる技のようだった。最初に見た時よりも、幾分、色が薄くなってきている。
「イノセントブルーの力は、その分裂した方へと移ったということですか?」
「そうだ。バックアップデータを別のハードへ移すかのようにな」
「新しいイノセントブルーは花音さんに?」
「イノセントブルーが器として認めたと言っただろう」
すると、三島木博士を睨みつけたまま、突然、日景が指をパチンと鳴らした。
「いいぞ」
――パンッ、パンッ
乾いた破裂音が室内に鳴り響くのと同時に、三島木博士が呻き声を上げて倒れ込む。
「っうぅ……」
「えっ!? なにっ!?」
急な出来事に、理解の追いつかない千恵は狼狽えた。
「三島木博士が撃たれたんだ」
岳が入口の方へと視線を向けると、拳銃を構えた男たちが静かな殺気を漲らせていた。
「それって、どういうことだよ!?」
千恵はさらに混乱しはじめる。
――男たちが三島木博士を撃った?
――その合図をしたのは日景なのか?
――偶然?
――それとも……いや、ということは……。
「彼らは日景さんの仲間ってことだろうね」
岳は日景へと視線を戻すと、その人の良さそうな顔を睨めつけた。
「いやぁ、二人とも水族館ではすまなかったね。怖い思いをさせてしまったかな? 彼らも、もう少し愛嬌があるといいのにねぇ」
言って日景は二人の男たちへ視線をやった。
「岳君が三島木花音からディープクリムゾンを受け取っているのか、どうしても確信が持てなくてね。水族館ではひと芝居打たせてもらったよ。いや、もっと言えば、ディープクリムゾンが本当に現存しているのかも疑問だったんだ」
「日景さん……あなた、最初からすべてわかっていたんですね?」
岳が鋭い視線を向けるが、日景はにやりとほくそ笑んでみせる。
「悪かったよ。でも、実際にディープクリムゾンをこの眼で見たときには心が震えたね。あの爆発でも失われなかったとは……。僕は賭けに勝ったんだ」
そう言いながら、日景は陶然とした表情を浮かべて悦に入る。
すると、倒れ込んだ三島木博士が荒い息遣いと共に顔をゆっくりと上げた。
「……はぁ、日景ぇ、ふぅ、はぁ、貴様……」
「おや、まだ生きておられたのですか三島木博士」
言いながら日景は三島木博士へ向かって歩きはじめる。
そして、上着の懐に手を入れると、流れるような仕草で拳銃を取り出した。
「わ、わたしがいなければ……はぁ、何もできんぞ……」
血まみれになりながらも、三島木博士は什器に身体を預けるようにして上体を起こした。
「いえ、あなたがいなくてもダークエネルギーは手に入りますよ。ご心配なく」
三島木博士を足下に見下ろしながら、日景は鈍く輝く拳銃をゆっくりと構えると、シニカルに微笑んでみせた。
「うっ、日景……知っていたのか……? あれが何なのかを……」
痛みに顔を歪めながら、三島木博士は日景を見上げる。




