Ⅳ ディープクリムゾン(3)
岳たちの前を不恰好なペンギンが歩いていた。
もちろんそれは本物ではなく、この水族館のマスコットキャラクターの着ぐるみだった。
迷いなく、そして、左右へと身体を大きく揺らしながら、ぴょこぴょことコミカルに歩いていく。
この緊迫した状況において、そのファンシーなビジュアルは、なんとも違和感を禁じ得なかった。
しかし、このペンギンこそは、岳と千恵をこの非常通路へと案内をした張本人なのだった。
ペンギンは時どき振り返りながら、無言で手招きを繰り返すと、二人をさらに奥へと誘導していく。
「堂崎……あれについて行って大丈夫なのか?」
千恵が不安そうに声を潜めて岳へと耳打ちをしてくる。
千恵が声を発する度に吐息が岳の耳をくすぐっていく。
緊迫した状況にも関わらず、そんなことに気を取られている自分に、岳は思わずシニカルな苦笑を浮かべる。
「なんにしても助けてくれたことは事実だ。いまは他に頼るものもないわけだし、様子を見よう」
注意力を途切らせないように意識しながら、岳は前を歩くペンギンの揺れる頭部を見つめた。
そして、岳たちは水槽の裏側を抜け、バックヤードの飼育プールを越えて、ようやく施設の外へと出る避難口までやってきた。
すると、避難口の扉を前にしてペンギンが二人を振り返った。
同時に、なにやらもモゴモゴとくぐもった声を発したが、それは聴き取ることのできるものではなかった。
自分の言葉が伝わっていないことがわかると、ペンギンは腕をばたばたと動かしはじめる。
何事かと岳と千恵が無言で注視していると、どうやら、着ぐるみの頭を外して欲しいというジェスチャーのようだった。
岳は手を伸ばして着ぐるみの頭部を掴むと、ゆっくりと慎重に引き上げた。
「ぷはぁっ! 苦しかった!」
中から出てきたのは、顔を上気させて、額に薄っすらと汗を浮かべた日景智也だった。
「日景さんっ!?」
岳が驚いて声を上げると、日景が目を細めながら片手を上げてみせた。
「やあ、お二人さん。ご無事なようだね。間に合ってよかったよ」
「どうしてこんな所に!? ってか、あいつらなんですか!?」
ペンギンの頭部を抱えたまま、岳が勢い込んで尋ねる。
「博士に関する情報、いや、アウロラに関すると言った方が正解かな。まぁ、情報を集めてるのは僕だけじゃないってことだね」
「どういうことですか?」
「例の研究に出資をしていた企業のひとつだろうね。その中には、外国政府が正体を偽装するために作った会社なんかもあったみたいだから、諜報活動や手荒な仕事はお手の物といったところかな」
「そんな……冗談ですよね?」
岳は突飛とも思える日景の話をすんなりとは受け入れられず、眉を顰める。
「僕も彼らを実際に眼にするまでは半信半疑だったよ」
「じゃあ、あんたも、あいつらのことを誰かに聞いたってことなのか?」
すると、いままで黙っていた千恵が口を挟んできた。
「こんなことやってるわけだからね、僕らもそれなりに網は張っているさ」
言いながら日景は避難口を開けると、高く昇った太陽の光が降り注ぐ、昼間の海浜公園へと足を踏み出した。
その日景の答えを聴いて、岳は彼が組織で動いていることを思い出した。
日景は自分たちが考えているよりも、ずっと深く事態に関わっているのかもしれない。
岳は日景の後に続いて外へと出ながら尋ねた。
「そういえば、あいつら、オレに何かを渡せって言ってたんですけど、いったい何のことですかね?」
自分たちよりもこの件について把握しているらしい日景に、岳は答えを求めてみた。
「具体的には言ってなかったのかい?」
着ぐるみの残りを脱ぎながら、日景が岳へと視線を向ける。
その日景の様子は、まるで脱皮でもするかのようだと、岳は意味もなくそんなことを思った。
「三島木花音から受け取った物を渡せとかなんとか……」
「で、彼女から何か受け取ったの?」
「いや、特にそんな物は……あぁ、ひとつあったっけ」
そう言って岳はカバンの中をごそごそと漁りだした。
そんな岳のことを、最後に避難口から出てきた千恵は無言で見つめていた。
「これだ……」
岳が取り出したのは水族館の小さな包みだった。
それは、昨日、別れ際に三島木花音がお礼だと渡してきた物だった。
しかし、もらった直後にいろいろとあり過ぎたので、岳はその存在をすっかりと忘れてしまっていた。
なので、包みはもらった時の状態のまま、カバンの内ポケットにしっかりと収まっていた。
また、中身があのイソギンチャクのストラップだということが、岳の興味関心を薄める一因になっていたことも否めなかった。
「でも、こんなモン欲しがるのかなぁ…」
独り言のように呟きながら岳が包みを開けていくと、中から出てきたのは、例のグロテスクな形状をしたイソギンチャクのストラップではなかった。
それは燃えるような深い紅色をした、小さな球形の結晶だった。
「なんだこれ……。イソギンチャクじゃなかったのか?」
岳はその紅く透きとおった結晶を指で摘むと、そっと太陽に翳してみた。
すると、透過していく眩ゆい光が、レーザー光線のように紅く神秘的な輝きをみせる。
そのあまりの眩しさに、岳は直視していられず、思わず眼を瞑ってしまう。
「うわっ、眩しい! いったい何なんだ!?」
すると、少し固くなった日景の声がした。
「それだよ。狙われていたのは」
「えっ?」
岳が日景を見やると、彼はゆっくりと岳の足元を指差した。
「ちょっ、なにそれ!?」
すると、下を向いた岳よりも先に、千恵が驚きの声を上げた。
そこには芝が敷かれていたのだが、紅い光が当たった場所の芝だけが、周りの芝よりも背が高くなり、茎も太く頑丈なものに変貌していた。
「どうなってんだ……」
岳は慌てて光に翳すのをやめると、結晶をまじまじと見つめた。
「こ、これ、人間が浴びても平気なのか?」
すると、千恵が動揺を滲ませた声で誰にともなく尋ねてきた。
「どうなんだろう……わからない」
そう答えて岳が千恵を見やると、彼女は顔色を変えながら手の甲を摩っていた。
「当たったのか?」
岳が尋ねると、千恵は黙ったまま、こくりと小さく頷く。
「ちょっと見せてみて」
そう言って岳は千恵の左手を取ると、摩っていた部分を念入りに確認した。
こうして触れながら間近で見てみると、千恵の手は岳のものよりもずっと小さく、驚くほどに細くて華奢だった。
体格もさほど変わらず、互いの違いなど瑣末な問題だった昔とはもう違うのだと、そんな当たり前のことを岳は思った。
「見た感じは何ともなさそうだけどな……」
壊れ物でも扱うように、慎重に千恵の左手に触れながら岳がそう洩らすと、日景が落ち着いた声音で応じてきた。
「大丈夫だよ」
その確信に満ちた声に、岳と千恵が同時に日景の方へと視線を向ける。
「僕も現物にお目にかかるのは初めてだけど、そいつは例の遺跡から出てきた物だ。実験のレポートを見たことがある。人体には無害だよ」
淡々と説明をする日景の視線は、岳の手元に注がれたままだった。
「何なんですか、これは?」
岳が手を開いてみせると、結晶は深紅の陰影を岳の掌に滲ませた。
「研究所ではディープクリムゾンと呼ばれていた物だ。でも、それが何なのか正確なことはわかっていない。だけど、はっきりとしている特性がひとつだけある」
「特性……?」
岳が視線を上げると、日景の方から眼を合わせてきた。
「こいつは対になる、もうひとつの結晶と強烈に引き合うんだ」
「もうひとつの……結晶」
「そう、もうひとつの蒼い結晶、イノセントブルーと。そして、それは同時にアウロラと引き合うということでもあるんだ」
すると、『引き合う』という言葉に反応して千恵が口を挟んできた。
「アウロラって、例の遺跡から出てきた女の子のことだろ? どういうことなんだよ?」
岳を巻き込んで遠くへと連れていく。そんなイメージを千恵は感じ取っていた。
「イノセントブルーは彼女の、アウロラの右眼なんだ」
「右眼って……対になるなら、その紅いビー玉みたいなやつと同じ物じゃねーのか?」
眉をひそめながら、千恵は岳の掌に乗るディープクリムゾンをみやる。
「いや、同じ物だよ。義眼ということになるのか、はたまた、生体と同じ眼球として機能するモノなのか、それすら僕らにはわからなかったけれど、アウロラの右の眼窩に蒼い結晶の珠が嵌っているのは確かだ」
言いながら日景は岳の方へと近づいていく。そして、側までやって来ると、徐ろに右手を伸ばした。
岳の眼を見ながら尋ねる。
「触らせてもらってもいいかな? さっきも言ったけど、本物を見るのは初めてなんだ」
「もちろんですよ。どうぞ」
岳が深紅の結晶を丁重に差し出すと、それを受け取る日景の手は僅かに震えていた。
「これが……ヤーヴェの証跡」
日景は小さくそう呟くと、息を呑んで結晶を凝視した。
そして、そのまま掌の中で数回ゆっくりと転がすと、指で摘み上げて太陽へと翳した。
すると、結晶を透過する太陽の光が、紅いレーザーになって芝生へと注がれた。
その光が当たった芝は、先ほどと同じように異常な成長をはじめ、もはや周りの芝とは異なる種にしか見えなくなっていた。
「これが何を意味するのか、あの時、我々にはわからなかったんだよ……」
自嘲するかのように日景は小さくそう洩らすと、深紅の結晶を岳へと返してきた。
その日景の表情には、興奮とも後悔ともつかない複雑な感情が浮かんでいた。
「うわっ! ちょっと何あれっ!」
岳の掌に結晶が戻るのと同時に、千恵が向こうの空を指差しながら大声を上げた。
指し示された空を日景と岳が仰ぎ見ると、西の空がまるで夕焼けのように緋色に色づいていた。
「夕焼け!? いや、まだ日暮れには早すぎる。っていうか、太陽はまだそこにあるじゃないか!?」
手で光を遮りながら、岳は頭上の太陽へと視線を移す。
嫌な予感がしてくる。岳は緋色の空を見た瞬間から、胸の動悸が止まらなくなっていた。
そして、空はその色を変えはじめる。
緋色から徐々に青味が差していき、鮮やかな紫色が空一面を染め上げた。
「アウロラだ」
日景が呟くように、しかし、確信を持って言い切る。
「じゃあ、単幌と同じことが!?」
日景へ詰問するように岳が尋ねた。
心臓が別の生き物のように激しく脈打ち、全身に冷たい汗が浮かんでくる。
「あぁ、数時間以内にはあの悲劇が繰り返されるだろうね。実は、あれから直ぐに長野の件を確認したんだが、言っていた親族名義の物件は、三島木博士が別荘として使っていたということがわかった。そして、その別荘の敷地には、最近まで使われていたであろう地下施設があってね、そこで一緒に生体用培養プラントの痕跡も見つかった。オリジナルかはわからないが、博士がアウロラを保持しているのは間違いないだろうね」
「三島木博士は何がしたいんですか、いったい!?」
「僕にも動機はわからないけど、このままにしておくわけにはいかない、ということだけは確かかな」
「んなこと言ったって、どうするつもりだよ!?」
目まぐるしく変わる空の色を視界の端に捉えながら、千恵が日景へと突っかかる。
この状況には、千恵も嫌な予感しかしていなかった。
岳は解決に加担させられる、いや、自分から首を突っ込むだろう。
その時、自分には何ができるのか。いつだって岳の助けになると約束した気持ちに嘘はない。
それは、千恵の切実な願いでもあったからだ。
千恵は睨みつけるようにしながら、日景の答えを待った。
「君は気に入らないと思うけど、岳君ならどうにかできる可能性があるんだ」
そう言うと、日景は岳の方をちらりと見た。
「どういうことだよ!?」
岳が口を開くよりも先に、千恵が強い口調で問いただす。
千恵の嫌な予感は確信に変わっていた。
やはり岳が巻き込まれることになるのだ。
いや、はじめからこの日景によって、そう差し向けられていたのかもしれない。
「たんぽろ幼稚園にいた園児たちは、偶然あの施設にいたんじゃない。彼らは、」
「うわぁぁぁっ!」
すると、突然、岳の叫び声が日景の話を遮った。
「堂崎っ! どうしたんだ!?」
驚いた千恵が慌てて走り寄ると、岳の様子が明らかにおかしかった。
何処を見ているのか眼の焦点が定まっておらず、そして、酸欠の金魚のように口をパクパクとさせて低く呻いている。
「大丈夫か!? しかりしろよっ!」
手荒に岳の肩を揺さぶりながら、千恵が大声で呼びかける。
「あぁ……つ、つつじヶ丘だ。ここはつつじヶ丘に違いない……」
すると、岳が惚けたように言葉を洩らしていく。
「つつじヶ丘って、街外れの展望台があるところか!? それがどうしたんだ!?」
「蒼い光が……光が見えるんだ……」
「呼ばれているんだよ、イノセントブルーに。ほら、見てみなよ」
岳の手にあるディープクリムゾンを日景が指差すと、深紅の結晶は煌々と光り輝いていた。
「すごいぞ、これは……」
その日景の声には、明らかな興奮の色が滲んでいた。
――彼はこの事態を想定していたのだろうか。
――何処までが日景の思惑どおりなのだろうか。
――それとも、これは単なる偶然なのか。
――自分の考え過ぎなのだろうか。
千恵は自分がどう動くべきなのか確信を持てなくなっていた。
「行こう。そのつつじヶ丘に。答えはそこにしかない」
そんな千恵の混乱を見透かしたかのように、日景が次に取るべき行動を口にする。
「アウロラが待っている」
力を込めて言うと、日景は岳の肩を支えて歩きはじめた。
そんな日景の姿を見つめながら、千恵は決断を迫られていた。
――岳の運命を彼に委ねてもいいのか。
――自分も彼に従うべきなのか。
一旦、脚を止めて思案を巡らせてみる。
しかし、その答えは出そうになかった。
――事態を判断できる時まで、ひとまず日景について様子をみよう。
そう決心した千恵は勢いよく顔を上げると、離れはじめていた日景と岳の背中を目指して、力強く足を踏み出した。




