Ⅳ ディープクリムゾン(1)
玄関先にあるインターフォンを鳴らす。
ここを訪ねるのは何年ぶりのことだろうか。門構えが記憶にあるものよりも小さく感じられた。
「はーい、いま行きますから、ちょっと待ってね」
スピーカーから返ってきた電気的な歪みを帯びた声は、聴き覚えのある千恵の母親、聡子のものだった。
彼女とは、たまに近所で会えば挨拶を交わすこともあったが、こういう形で顔を合わせるのは久しぶりだった。
いまの今まで、日景に聴かされた昨日の話をずっと反芻していた岳は、急に緊張が胸にせり上がってくるのを感じて僅かに狼狽えた。
「おはよう、岳くん。ウチに来てくれるなんて、久しぶりだよね」
そう言いながら、聡子が玄関ドアを開けて岳を出迎える。
満面の笑みを湛えた、どこか少年っぽさを想わせる整った顔立ち。
千恵はこの母親の特徴を色濃く受け継いでいるといえた。
知らない人であれば、千恵と聡子の間柄は姉妹か親子かで判断に迷うところであろう。
「ご無沙汰してます。叔母がよろしくお伝えするようにとのことでした」
「あらあら、まぁ、ご丁寧に。茜ちゃんとはよくお茶するんだけど、岳くんにこうして会うのは久しぶりだもんね。千恵はもうちょっとかかると思うから、あがって待ってて」
そう言う聡子にリビングへ通されると、この家を訪れていた頃の記憶が、鮮明に蘇ってくる感覚があった。
「あの娘ったらね、朝早くから気合い入れておしゃれしてんのよ。いじらしいでしょ? あっ、コーヒーでいい?」
「あぁ、いえ、どうぞお構いなく」
「母親のわたしが言うのもなんだけど、ウチの娘、なかなかいい物件だと思うんだけどな。岳くんになら文句なしにあげちゃうんだけどね。どう? いまならそうだねぇ……この取っ手のとれるフライパンセット付けちゃう。新品未使用」
そう言って聡子が、カラフルなフライパンの写真が印刷された箱を、抱きかかえるようにして見せてきた。
「いや、そんな通販風に言われても……」
「ママ、変なこと言わなくていいからっ!」
そこへ、転げるように二階から降りてきた千恵が、ヒステリックに話へ割って入る。
母親をじろりとひと睨みした後、自分に向けられている岳の視線に気付いて、慌てて取り繕う。
「よ、よう。早かったな」
頰をあからめながら、ぶっきらぼうにそう言う千恵の装いは、制服でも普段のマニッシュな格好でもなく、シンプルで洗練された印象を受ける、高いウエストラインをした藍色のワンピースだった。
「お、おう……」
そんな千恵の見違えるような姿に、岳は驚くのと同時に、どうしたわけか、妙な緊張を覚えた。
「ほら、ちーちゃん、そんな言葉遣いはやめなさいって。せっかくのオシャレが台無しになっちゃうよ。黙ってれば、あんた、かわいいんだから」
岳へコーヒーを出しながら、聡子が茶化すように千恵へと小言を言ってみせる。
それは、何かの前振りらしく、ちらちらと送られてくる聡子の視線に、岳が気付かないはずもなかった。
岳が聡子へと視線を合わせると、彼女は声を出さずに、口をゆっくり動かして言葉を形作った。
「ほめて」
昔からのことではあるが、千恵はこの母親にこうして甘やかされて、そして、いつも遊ばれていた。
それにこの母親。自分の楽しみのためには、容赦無くひとを巻き込んでいくところがあり、岳はいつでもその被害者だった。
「べ、べつに、かわいいとかはいいしっ」
そう言いながらも、ちらりと岳の表情を窺う千恵。
ここまであからさまに期待をされてしまうと、長年の付き合いのある岳としては応えない訳にもいかなかった。
瞬間、思案してみてから言葉を選んで口にする。
「……に、似合ってるじゃん。普段からそういう格好したらさ……」
「格好、したら?」
褒められる恥ずかしさに赤面しながら、千恵は上目遣いに岳へと続きを尋ねる。
「モ、モテるんじゃないの……?」
想定を上回る千恵の喰いつきに、岳はしどろもどろになりながら、無意識に上体を反らしてしまう。
「……誰に?」
微妙に不機嫌さを滲ませて、千恵の問いかけが低く響く。
「が、学校の連中に……?」
――ガンッ!
岳の座っていたダイニングチェアの脚を、抗議でもするように千恵が小さく蹴飛ばした。
「はい。岳くんアウトぉ」
白い眼をした聡子が、大げさに失望してみせる。
「いや、アウトと言われても……」
なんの臆面もなく、歯の浮くような甘い言葉をさらりと言ってのけるには、岳はまだ若過ぎた。
気の利いたセリフには、下地になる経験と、肯定されたことのある記憶と自信が不可欠だ。
「まぁ、今日一日のどこかで挽回だね」
そう言って聡子は、にひひと冷やかすように笑った。
「堂崎、ほら、行くぞっ」
すると、用意が整ったらしい千恵が岳を急かしてきた。
ひとりさっさと玄関へと向かってしまう。
「あぁ、ちょっ、待って」
岳は慌ててコーヒーカップを手に取ると、くいっと一気に呷った。
コーヒーは思ったよりも熱く、一旦、手が止まりかけたが、岳は構わずそのまま流し込んだ。
舌の上では苦味と酸味が広がり、芳ばしい独特の香りが鼻腔を抜けていく。
「ごちそうさまでしたっ」
席を立ちながら聡子へそう礼を述べると、岳は慌てて千恵の後を追った。
「楽しんできてねぇー」
シンクで洗い物をしながら、聡子は顔だけを向けて、岳の背中へ声をかけた。
靴を履いて岳が玄関扉を開けると、すぐそこで千恵が落ち着かなげに立っていた。
「お母さん、なんか変なこと言ってなかったか?」
「いや、楽しんできてねって言ってたよ、ママは」
言って、岳はにやりとすると、千恵のつま先に脛を蹴られた。
「別にいいだろ、TPOってやつだよ。あげ足とんなっ」
「痛っ、暴力反対」
「大げさな。チカラなんて入れてねーだろ」
「今日の格好に暴力は似合わないんじゃないかと思ってね。せっかくかわい――あぁ、いや……」
口ごもりながら岳は誤魔化すように視線を空中に彷徨わせる。
「な、なに言ってんだか……」
千恵は岳が言い淀んだ言葉を察して、思わず耳まで赤くしてしまう。
言われたら言われたで、なんとも落ち着かない気分になってしまう。
バカ、そうじゃねーだろ!?
素直に反応できない自分を心の中で罵ってみても、やっぱりそんな風には振る舞えそうになかった。
千恵はそわそわとしながら、話を逸らすように顎をしゃくって岳を促した。
「ほら、もう行こうぜ」
岳の視線から逃げるように、くるりと千恵が向きを変えると、スカートの裾がひらりと舞って翻り、いつもとは違う空気が二人の間に流れた。




