くまさん2
「くまさん。こっち、こっち」
風呂から部屋に向かおうとしていると、裏木戸の方から声がかけられた。
「この臭い毛皮、捨ててもいい?」
「ま、待ってくれ。それ作るの大変だったんだ」
慌てて庭に向かう。
無理もない。革というのは破かないように皮を剥ぐところからすでに大変で、薄皮の様に張り付いた肉の削ぎ落としや、天然のタンニンだって必要になる。時間も手間も半端じゃないのだ。
「じゃ、この木箱に入れて庭に置いておくか、自分で洗って」
「ああ、迷惑をかけるな」
「いいよ。それよっか、散髪するからここに座って」
「あ、ああ」
久しぶりに人と話すせいかそのスピードについてゆけない。断りにくいと言うか、まあいいかと切株に腰を下ろした。
「ちょうど、ハサミが手に入ったんだよね」
敷物のような物を着せてくる。
「むしろか、懐かしいな」
「体験学習の成果。荒縄もお手製。すごいっしょ?」
「ああ、大したもんだ」
へへっと言いながらハサミの音が聞こえ始めたが、腕前のほどは聞かないのが礼儀だろう。
「なあ?改めて聞きたいんだが。嬢ちゃんは日本人なんだよな?」
「嬢ちゃんじゃなくてミュレー。前世が日本人というか、その記憶があるだけ。そんなことより、くまさんはどこから来たの? もしかして、中央山脈とか言っちゃう?」
「いや、ああ、そうか。確かに記憶があるだけだな。いたのはたぶんその山だと思うが、何か問題でもあるのか?」
日本人かどうかは重大事だと思っていたのだが、彼女にはそうでもないらしい。
「魔物が多いんでしょう?」
「魔物? それって、なんだ?」
「うーん。なんだって言われてもよくわかんないけど。魔石を持つ凶暴な獣かな?」
「魔石ってやつかどうかは知らんが、体内に綺麗な石がある奴はいるな」
「それだよ。だけど、魔物って強いって聞いていたからさ。弓道の経験があるとはいえ倒せるものなのかなって?」
分からない者同士だが、それでも何とか意味は通じたようだ。
「ちょっと待ってくれ」
「なに?」
リズミカルなハサミの音が止まった。
「いや、散髪の方じゃなくて。なぜ、弓道をやっていたのが分かったのかと思ってな」
「ああ。風呂に行く前に部屋を覗いたのよ。張顔までは見てないけど、置いてあった強弓の下から三分の一のところが黒くなっていた。そこを持つのは弓道をやっていた人だけだからすぐわかったよ」
再びハサミの音が聞こえ始めた。
「いや、普通そうだろう。そこを持たないと矢は当たらないぞ」
「構造が違うのよ」
「構造?」
「そう。和弓は弦を離した振動が弓に響くから下を持つし、右に曲がるから返しもいる。アーチェリーの弓は振動を吸収するし、くぼみに矢をつがえるから返しも必要ないの」
「よく知ってんな?」
すらすらと答えが返ってきて感心してしまう。
「職人たちの飲み会というかサークルがあって、いろんな話を聞いたからね。工房にもお邪魔したし、出来ないけど知ってはいる。そんな感じかな?はい終わり。で? くまさんは何しに来たの?」
散髪が終わったようだ。
「え?何って。えっとだな。その、何だろう?」
「なに、それ?」
戸惑ったのは急に話が変わったからじゃない。来てみたかっただけなので、目的を聞かれても困るのだ。
ミュレーと名乗る小女は笑いながら切った髪を払い落とし、むしろをとった。
「はい、土に帰ってね」
穴を掘って髪を入れ、土をかぶせて終わりのようだ。
「行くとこ無いんなら、しばらく泊まっていってもいいよ」
「いいのか?」
「日本人の知識があるし。ここは商人の宿だから、それがお金になるかどうかすぐにわかるしね」
元日本人に巡り合えた以上、お近づきになりたいに決まっている。まさに渡りに船の申し出だ。ところが、このお嬢さんときたらお願いをする暇も与えずにさっさと裏木戸のほうに行ってしまう。
あやうく置いていかないでくれと言いそうになりながら、慌ててついて行った。
「使える知識と使えない知識があるのよね」
店に入り、カウンターに並んで座った。
得意不得意もあるし、日本では何をしていたのかと聞くミュレー。
「名前は三上譲二。ジョージと呼んでくれ」
くまさんはポツリポツリと話し出した。
「商社マンってやつだな。毎日が遅く、唯一の趣味が大学時代からやっていた弓道だった」
とまあ、この辺りまではよかったのだが、定年間際にリストラされて落ち込んだことや、熟年離婚されて生きる希望を無くしたことなど、なんともやりきれない話に変わっていった。
「俺の人生って何だったんだろうって、思ったもんだ」
父親が水の入った木のコップを差しだした。
「生まれ変わったら猟師だった。最初は驚いたが、これこそが俺の生きる道だと思った。誰にも命令されないし、誰にも迷惑をかけない。自分で考え、好きなように行動する。生きるっていうのはこういうことか、ってね。獣に襲われて両親を失ったが、それでも山を下りる気にはならなかった。そんな俺がなぜ山を下りる気になったのか? 正直、自分でもよくわからない。ひとこいしくなったとか、案外そんな女々しい理由かもしれんな」
じっと聞いていたミュレーだったが、改めてくまさんを見つめた。
「考え方を変えるとさ。いい人生だったのかもしれないよ」
「どう言う意味だ?」
先ほどまでとは違って、ゆっくりとした話し方に変わった。
「もしリストラされなかったら、引き際を誤っていたんじゃないかな。会社に残っていても醜態をさらしただけ。老兵は消え去るのみって、潔くやめたのはかっこいいと思うな。奥さんにしたってさ、夫婦は二人三脚でしょう。ここまでこれたのは奥さんのおかげでもある。その奥さんの願いなら、どれほどつらい事でも黙って判を押してあげた。それって、かっこいい生き方だと思うのよね」
「ふむ」
たしかに、そういう考え方もある。
日本にいた時に聞けば違ったかもしれないが、すでに遠い過去の話だ。聞く耳を持つ余裕があった。
「確かに、そう考えればいい人生だったと言えなくもないか」
「そう。そう考えた方がお得よ。過去は変わらないんだしね」
そう言って笑うミュレーに、悩んだこと自体がばかばかしくなり、つられて笑ってしまうくまさんだった。
「私は造り酒屋の娘でね。杜氏さんになりたかったのよね」
挨拶をされたら返すように、ミュレーは過去話を始めた。