伊織冬夜の日々3
夏川先生と遊んでいたらしい緑ちゃんに連れられて、ひよこ組に入る。
緑ちゃんが開けた引き戸の音を聞いてこっちを向いた晴希が、遊んでいた積木を置いて駆け寄ってきた。
「パパ!」
ボスッと腹に突進してきた晴希を抱え上げて笑う。
「今日も楽しかったか?」
「うん!あのね、お昼にお兄ちゃんと、」
「今日も何事もなかったですよ!」
何か話そうとした晴希の言葉を遮るように言った緑ちゃん。
後ろで夏川先生が引きつった笑顔を浮かべているけど、何事もなかったなら、まぁ……いいか。
「パパ、みどり先生のクッキーあげる」
晴希は棚に入れている自分の鞄を指差した。
「晴希君、私が焼いたクッキーは毎回持って帰りますね」
「俺と希夜にくれるもんな」
「うん!おいしいもん!」
にこにことする晴希。今朝の携帯の事はすっかり忘れているようで良かった。
晴希に帰り支度をするように言って下ろし、何気なく今歩いてきた廊下の方を見ると、渡村先生と九重園長先生がいた。
にわとり組を担当している九重先生は、渡村先生と別れてにわとり組に入って行った。
「伊織さん、お久しぶりですね」
渡村先生はそのまま俺の方へ来た。
「いつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ」
紳士らしい素振りで柔らかく微笑む渡村先生は、いつ見ても憧れの男性って感じがする。
こんな風に優しく冷静で、余裕たっぷりに仕事ができるようになりたいけど、俺には一生無理だろうな。
「冬夜さん、晴希君の準備終わ……あ、怜士先生」
晴希を連れて来た緑ちゃんは、渡村先生を見ると顔を引きつらせた。
「お疲れ様です、緑先生」
にっこりと笑う渡村先生に、緑ちゃんは何処か不自然に笑みを浮かべた。
「あはは、先生もお疲れ様ですぅ……」
「?……晴希、帰るか」
「うん!バイバイみどり先生!れーじ先生!」
ぶんぶんと手を振る晴希を連れて、軽く頭を下げてから車に戻る。
にこやかに手を振る渡村先生の隣で、緑ちゃんも手を振っていた。相変わらず笑顔は不自然だけど。
緑ちゃん、疲れてるのかな。
「今日は希夜も早めに帰ってくるって言ってたし、久々に希夜に晩飯作ってもらおうか」
「キィのごはん、おいしいもんね」
晴希を車に乗せてシートベルトをし、運転席に乗り込んだ。
希夜にはメールで晩飯のこと頼んでみるか。
***
「伊織さんって何となく緑先生に似てますよね。やっぱり叔父さんだからかな?」
「そう、ですかねぇ……」
怜士先生は運動場から出て行く冬夜さん達を見ながら言う。
これは……さっきの覗きがばれてること間違いなし。
「そうだ。先程事務室にいた時、誰かが覗いていたような気がしたんですが」
怜士先生がちらりと視線を向けたのは、園児の玩具を片付けている睦美。
「き、気のせいじゃないですか?」
「そうですね。きっと気のせいですよね。この前私と園長がキスしていたなんて言った緑先生たちも、きっと気のせいですよ。ねぇ?」
口角を上げて私を見た怜士先生。
まさか、わざと見えるようにカーテンを……?
黙っている私から目をそらした怜士先生は、わざとらしく大きな声を出した。
「あーあ。まさか睦美先生と緑先生に覗きの趣味が、」
「気のせいでした!全く人騒がせですよねぇ!あっはははは」
かき消すように声を張ると、怜士先生はくすくすと笑って背を向けた。
「知らぬが仏って言葉、睦美先生に教えておいてください」
「……はーい」
やっぱり、あの人には恐れ入る。
呑気に園児と遊んでいる睦美を見て、抑えきれない疲れがため息となって零れた。
***
帰ってきた希夜の手には、スーパーのビニール袋が二つぶら下げられていた。
「おかえり。晩飯の材料ありがとな」
「俺が作るんだから自分で買って来るしかねぇだろ。それが分かってて頼んできたくせに」
「まぁな。着替えてこいよ、準備しとく」
「おう」
台所に入って袋の中身を取り出すと、どうやらビーフシチューを作るらしい事が分かった。
「晴希、今夜はビーフシチューだぞ」
「わーい!ハルの大好きなのだ!」
はしゃぐ晴希の頭を撫でた希夜は、家着のシャツの袖を捲り上げて手を洗う。
「啓介から聞いたんだけど、冬夜の職場の横にカフェが出来たんだろ?」
「あぁ、シロツメクサってカフェな。今日の昼飯そこで買った」
「ホットドッグとアイスコーヒー」
その言葉に、鍋を用意していた手を止めて思わず振り返って希夜を見る。
「何で知ってんの?」
「ぶっ、はは!絶対そうだと思った。冬夜の昼飯ってその組み合わせがほとんどだよな」
把握されてる食べ物事情に、何となく恥ずかしさがこみ上げる。
「お前は今日の昼飯、からあげ弁当だろ?」
今度は希夜が振り返った。
「何で分かったんだよ!?」
予想が当たったのが少し嬉しくて、飲み物を冷蔵庫に直しながら無意識に口にした。
「お前の親だからな」
「……ふーん」
「っ……」
本当の親じゃないのに、何言ってんだ俺。
間を空けて返事をした希夜を恐る恐る見ると、野菜を切っていた希夜の頬を少し赤らんでいた。
「……何だ?照れてるのか?」
「ち、げぇよ……馬鹿」
よかった。昔の事を思いださせてしまったかと思った。
わざわざ掘り返すような言葉、口にしないって決めてたのに。
気をつけないと。
「それでさ、今度の休みにそのカフェ行きたいんだけど」
「ん?あぁ、いいよ」
丁度俺も同じ事を思っていたから、好都合だ。
晴希が希夜の左足に抱き着いて、彼を見上げた。
「どこに行くの?」
「カフェ。昼飯買いに、晴希も一緒に行くぞ」
「うん、いっしょに行く」
ぎゅっと抱き着く腕に力を込めた晴希の頭をこつんと小突いた。
「希夜の料理の邪魔になるから、こっち来い」
「はーい」
居間に晴希を押し入れてドアを閉める直前、希夜が呟いた言葉が聞こえた。
「ずっと一緒だから大丈夫だ」
俺は、何も言わず、居間に入ってドアを閉めた。
あんな風に、まるで、自分に言い聞かせるかのように呟く希夜を見る度に思ってしまう。
俺は過去の希夜に何もしてやることはできない。
だからこそ、これからは希夜を苦しませない様に、二度とあの日見た死んだような光の無い目をさせない様に、守ってやらないと。
「パパ?」
険しい顔をしてしまっていたんだろう。
不安そうに俺を見上げる晴希に、「大丈夫だ」と言った声は少し上ずっていた。
***
午後七時。戸締りを済ませて、龍也と一緒に店を出た。
「うっし。今日もお疲れ」
「お疲れ~。そのヘアピン似合ってたよ」
にやつきながら言う龍也の背中を叩いてからヘアピンを外す。
「本当に悪趣味だなお前は」
「まぁまぁ。明日はどんなゲームをする?それともまた賭ける?」
「もうやらない!」
ピンを龍也に押し付けて、右肩にしかかけていないリュックを背負い直す。
「負けるのが嫌だから?」
「うっ……、それもあるけど」
ムカつくことに、こいつにゲームで勝ったことがない。
どれだけこっちが有利でも、最後には必ずこいつが勝ってしまう。
「……仕方ない。君に有利なゲームにしよう」
「だからいいって。俺がかなり負けず嫌いな奴みてぇだろ」
「負けず嫌いでしょ?」
そうだけど……そうだけどさ!
龍也は俺の目の前に来ると、自分の唇に人差し指を当てた。
「青野って結構はっきり言うじゃん?」
「は?あぁ、まぁな」
「だから、俺が決めた台詞を先に言ったら勝ちってのにしよう」
「何だよそれ。そんなのお前が有利じゃねぇか」
龍也の横を通り過ぎて歩き出す。
「有利じゃないよ」
龍也は後ろから声をあげる。
立ち止まって振り返り、龍也の目と目が合った瞬間、心臓が跳ねた。
珍しく、真面目な、目。
「……龍也?」
「俺ははっきり言えない臆病者だけど、君ははっきりと言う。真実だけを、本当の事を、嘘偽りのないことだけを」
何が言いたいんだ?
「嘘つくの、嫌いだからな」
「青野、ゲームする?」
いつもみたいな勝気な笑みなんかじゃなくて、真剣な、龍也。
心臓が、うるさい。
「……してやるよ」
何で、こんなにうるさいんだ?こいつが珍しく真面目な顔してるからか?
「先に言ったら勝ちだからね」
「分かってるから早く言えよ」
龍也は俺の前に来ると、俺の目をまっすぐに見つめた。
「……」
口を開いた龍也。
けれど、肝心の台詞はバイクの喧しい走行音に紛れて聞こえなかった。
「悪い、聞こえなかったからもう一回」
「駄目だよ。はい、ゲームスタート」
俺の胸をぽんっと押した龍也は、そのまま歩き出した。
「え!?ちょっと待てよ、聞こえなかったって!」
「俺が先に言ったら俺の勝ちってことで君に教えてあげるし、君が言った時も君の勝ちだって教えてあげるよ」
「何だよそれ……」
「このゲームが終わるまでは他のゲームはしないからね。じゃ、お疲れ」
にこっと笑った龍也は、そのまま駆けて行ってしまった。
さっさと言ってしまえば勝てるのに、訳が分からん。
「俺に有利、か」
龍也、お前は何て言ったんだ?
To be continue…