伊織緑の日々1
水蓮と書かれた看板の手前で右折する。
そこそこ広い駐車場に車を止め、鞄と鍵を持って外に出る。
奥行きがある店内の清掃から始まる俺の仕事。ベルがついたドアを押して店内に入ると、いつも一番に店に来る青野君がカウンターの清掃をしていた。
「おはようございます、伊織さん」
「おはよう青野君。いつも偉いね、早く来て」
「いえ。この店は俺が受け継いだ店ですし、誰よりも先に来て準備しないと……というより、単純にあいつらが遅いだけですよ。伊織さんを見習うべきです」
「え?あ、あはは……」
軽く唇を尖らせ、モップを持って手前の通路をすいーっと滑るように拭く青野君。
今は他の町で仕事をしている彼の両親が若い頃に始めたのが、この古本屋、水蓮だ。
青野君が二十歳になった年に両親から受け継いだらしく、彼が店長となってからは、確か七年が経っていると思う。
鞄をカウンター裏の事務室に置く。上着を脱いでエプロンをつけ、「伊織」と書かれた名札を胸元につけた。
「あと二分だ」
「何が?」
本を綺麗に並べる俺の後ろをモップを持って通り過ぎた青野君は、カウンターの後ろにある壁にかかっている丸い時計を見て嬉しそうにそう言った。
「昨日、龍也と賭けたんです。開店三十分前までに来なかったら、龍也が前髪にこれをつけて一日仕事するって」
ピッと右手の指の間に挟めて青野君が俺に見せたのは、向日葵がついたヘアピンだった。
きっと青野君をからかう為に沖君が用意したんだろう。
「それは嫌だな」
「だから罰ゲームにふさわしいんですよ」
「もし三十分前に来たら?」
「俺がつけるんですけど、この感じだと俺の勝ちは見えてますよ」
ふっふっふっ。と笑う青野君。でも沖君はいつも一枚上手だったはず。油断してると……。
「おはようございまーす」
ほら、やっぱり。
カランカランとベルの音を鳴らして入ってきたのは、欠伸を噛み殺しながら口角を上げた沖君だった。
「青野、油断してたでしょ?」
「……だからお前ってむかつくんだよ」
青野君は左寄りに雑な動作でヘアピンをつけた。
「可愛いよ、せっかちゃん?」
「下の名前で呼ぶなバカ」
むすっとした青野君は、モップをロッカーに片付けて事務所に入って行った。
「本当、可愛い」
「俺は沖君の方が可愛いと思うけどなぁ」
沖君は、明るい茶髪の跳ねた髪に、丸い瞳が可愛らしい青年だ。
青野君みたいな黒髪ツンツン短髪の好青年とは違い、童顔で悪戯好きのようだ。
二人は高校生の頃からの付き合いらしく、青野君が店を継いでから一緒に働いているようだ。
俺は四年前に働き始めたから、あまり詳しい事は知らないけど。
「そういう可愛さじゃないんですよ?」
「どういうこと?」
「へへ。そういえば、今日オープンですよね」
沖君は俺の問いには笑って誤魔化し、エプロンに名札をつけながら言う。
まぁ追及することでもないから、いいけど。
「あぁ、駐車場挟んで隣にできたカフェでしょ?」
「今日お昼に皆で行ってみません?」
「俺、パス」
事務所から出てきた青野君は沖君の背中を叩いて通り過ぎる。
「えぇー?行こうよ、せっかちゃん」
「雪加ちゃんって呼ぶなって言ってんだろ!」
沖君はわざと青野君の下の名前を呼んでいる。
ヘアピンをしているから、女の子みたいな名前をしている事を利用してからかってるんだろう。
「じゃあ伊織さん、行きましょうよぉ」
「明日、真央君誘えば?」
もう一人の従業員である真央君は、今日は来ていない。
別のバイトが入っていて、その後は大学に行くからとメールがきていた。
「あいつは嫌です」
きっぱりと言い放った沖君。青野君にベタベタする真央君があまり好きじゃないようだ。
「でも、あそこのカフェって女性が注目してるらしいぞ」
青野君の言う通り、そういう噂を聞く。
確か男性店員しかいなくて、しかも格好いい人が多いとか。
だからあまり行くのは気が引ける。
「今日だけ!ね?」
「……分かった。いいよ」
仕方ない。このまま粘っても彼は折れないだろうし、今日くらいいいか。
「やった!さすが伊織さん」
にっこりと笑った沖君は、青野君へと顔を向ける。
「青野にも買ってきてあげるよ?何がいい?ストロベリーチョコマシュマロクレープ?」
「何でそんな可愛いものの詰め合わせ的なクレープなんだよ。そもそもねぇだろ、そんな物」
「今日は可愛いせっかちゃんだからねぇ」
「ホントにむかつくんだけど」
眉間に皺を寄せる青野君の隣をすり抜け、沖君は店の奥へと歩いて行った。
「はぁ。すいません伊織さん。あいつ本当ガキで」
「いいよ別に。どうせ仕事終わりに昼飯買わないといけなかったし、好都合」
「それならいいんですけど。あ、時間ですね。開けてきます」
出入り口の鍵を開けに行った青野君から離れて、カウンターに入った。
昼飯、何を買おうかな。
***
時刻は十一時。今日も来るんだろうか。あいつは。
「みどり先生?」
足元から聞こえた声に、保育園の閉まっている門を見ていた視線を足元に移す。
晴希君がいた。
「晴希君。どうしたの?」
「先生どっかいたいの?」
「え?ふふ、大丈夫だよ。さ、中に入ろうね」
晴希君を室内に入れ、ドアを閉める前にもう一度門を見る。
誰もいない。きっとまた昼前に来るんだろうな。
「いい迷惑なんだよ……」
呟いてドアを閉めた。
お父さんには、お前は嫌いな人間にはとことん性格が荒くなると注意され続けているけど、変える事は出来ない。
迷惑な奴にはそれ相応の対応をしないと。いつか面倒なことになる。
「緑ちゃん」
わいわいと騒がしい室内の中にいるのは、ひよこ組を私と一緒に担当している睦美だった。
「睦美、どうしたの?」
「園長先生がまた……」
睦美に連れられ、トイレを挟んで隣の年少組であるたまご組に入る。
中では、腕を組んで困った顔をしている怜士先生と、笑っている能天気な後輩の松子。
真ん中では園児に服を脱がされそうになっている、三十路手前なのに童顔で可愛い顔をしている九重園長がいた。
「園長、また襲われてるのね」
「どうしよう。助けてあげてよ緑ちゃん」
「え?また私が?」
いつものやんちゃな男の子三人組に脱がされそうになっている園長。ぶっちゃけ可愛い。
「このえーぬいでー!」
「園長」じゃなく、名前で呼ばれ、園児に好かれまくっている園長だけど、あの三人組には毎日のように悪戯されている。
あれも彼らなりの甘え方だとは分かっているけど。
「嫌だよぉ……やめてよぉ……」
泣きそうな顔でズボンを押さえている園長に3人は楽しそうに笑う。
「このえまた泣くのー?大人なのに泣きむしー!」
「いにゃああ!お、お尻触らないでぇ!」
「あ!いまおっぱい見えたよ!」
「ふえ!?やああぁ!」
うん、あざといよ園長。貴方は男だから胸元見えても別に大丈夫だと思うんだけどなぁ。
「緑ちゃん!見てないで早く!」
急かすように睦美が私の背中を押す。
「はいはい。ほら三人ともやめなさーい」
止めに入ると、男の子の一人が私を見上げて文句を言ってきた。
「みどり先生!じゃあさ、なんでれーじ先生はこのえのおっぱい見てもいいのぉ?」
「……は?」
園児の発言に、私の背後で睦美が怜士先生を見たのが気配で分かった。
「怜士先生、園長の胸見たんですか?」
「睦美、そういうのはプライベートよ」
「まさか、そんな事しないよ?」
怜士先生は紳士らしい微笑みを浮かべて否定する。けれど、明らかに園長の顔は赤くなっていた。
睦美はますます興味深そうに首をつっこむ。
「うっわー。保育園で愛を育んでたんですね。いつからですか?」
「睦美!そういうのは聞いちゃ駄目だって高校の時から言ってるでしょ。人にはそれぞれあるんだから。例えこの前キスしてる現場を私達が見たからってそういうのは触れてほしくないでしょ?」
「うわああ!れ、怜士先生やっぱ見られてたんですよこの前!もうやだぁ!」
「おや、気のせいだと思うけどね?」
あくまでも認める素振りをしない怜士先生に、睦美が更に追い打ちをかけようと何か言いかけた時だった。
「まぁまぁ、とりあえず落ち着きましょうよ皆さん」
遮る言葉。
聞きなれた声に、全員がドアを見る。
そこには、茶色のロン毛をなびかせる自称イケメンの成司さんがいた。
出たな、変態ストーカー。
To be continue…