伊織冬夜の日々2
アパートの自室につくと、少年を玄関の壁に一度もたれかけさせ、タオルと必要な衣服を取りに部屋に入る。電気をつけ、上着を適当に放り投げる。
タオルだけをもって玄関に戻ると、はるきが泣いていた。
「うわあぁ!きぃが、きぃがしんじゃう!」
「大丈夫だから泣くな。お前の濡れてるんだから拭け」
落ち着かせる様に背中をぽんぽんと叩き、はるきにタオルを渡す。
それから少年の体をなるべく優しく拭く。腕にはタオルを巻きつけ、とりあえず血が垂れないように縛る。
靴を脱がせて抱え、部屋に入る。
「はるき、こっち来い」
「ぐすっ……うん」
リビングに敷きっぱなしの布団に少年を寝かせる。
着ている服は汚れたワイシャツとズボン。学生服のようだ。
意識を失っている少年の顔は、少し火照っている気がした。熱があるのかもしれない。
カッターシャツのボタンを外して胸元を広げる。
先程の野良犬に襲われたものとは無関係に、幾つも何かの痕がついていた。
「何だこれ……」
とにかくタオルで軽く肌を拭いてから、救急箱と体温計、ペットボトルに入った水を持って戻る。
先程置いておいた衣服を傍に手繰り寄せた。
「よし、はるき、今からこいつの治療するから、お前はそっちの部屋にいろ」
「でも、」
「大丈夫だから。な?」
「……うん」
気が散ってしまうから、はるきを半ば無理矢理隣の部屋に行かせて、俺はまず濡れている服を着替えさせようと少年のズボンを脱がせた。
「何してんだテメェ」
と、半分ほど脱がしたところで少年が目を覚ました。
「着替えさせてんだよ」
「男が男に欲情すんな」
「何言ってんだ、お前の治療するためだろうが。いいから寝てろって」
「余計なお世話なんだよ。放っておいてくれ」
「駄目だ」
起き上がろうとした少年を寝かせる。
「何でだよ」
「困ってる人を助けるのは当たり前だ」
「偽善者ぶってんじゃねぇよ」
少年の目は、相変わらず冷たい。
助けてやろうとしているのに、煩わしそうにする少年の言葉に少し苛ついた。
「痛いけど我慢しろよ」
このまま大人しく着替えてくれる様子はない。
ズボンを脱がせてひとまず下半身に布団をかぶせ、巻いていたタオルを外して消毒液を大量に吹きかける。
大人げないが、ワザとだ。
「っ、いっだああぁあぁ!」
「きぃ!?」
痛がった少年の声ではるきが入ってきてしまった。
「きぃをいじめないで!」
「苛めてないって!いいから大人しく、」
「やめろ変態!はるきに触るな!」
「変態じゃねぇ!」
「うるせええ!」
騒ぐ俺達の部屋に入ってきたのは、合鍵を持っている俺の兄貴、夕夏だった。
「で?犬に襲われてたこいつらを助けてここに運んだってことか」
「あぁ、まぁな」
夜に騒ぐなと叱られて、三人揃って頭を叩かれた俺達の前で胡坐をかいて座っている夕夏。
渋々着替えてくれた少年は、布団に座ってまだ警戒した目で俺達を見ている。
夕夏は少年と傍にいる子供を見て口を開いた。
「お前、名前は?」
「は?何でテメェに教えな、」
「言え」
名前は「ゆうか」だなんて可愛い女の子みたいなくせして、見かけはオールバックの夕夏の顔が怖かったのか、少年は口ごもった後にぼそりと言った。
「……きよ。希望の希に夜って書く」
「希夜か。そっちは?」
夕夏に指差されたはるきが俺の後ろに隠れる。
「はるき」
「快晴の晴に俺の希って漢字で、晴希」
晴希の名前を希夜が説明する。
「じゃあお前らは兄弟か」
「そうだよ」
ぶっきら棒に言った希夜。兄弟なのに髪の色が違う。希夜が染めてるだけなのか?
少し考える素振りを見せる夕夏は、頷いて俺を指差した。
「なるほど。詳しい事情は聞かない。ただし、今は冬夜の言う通りにしておけ。じゃなきゃまた殴りに来るからな」
「うぜぇ親父」
ぼそりと呟いた希夜の言葉は静かな室内じゃ余裕で聞こえる。
「何だと?」
「何でもねぇよ」
夕夏の声音が苛立ちを纏う。希夜はふいっと顔をそらすと晴希の頭を撫でた。
「……冬夜。そいつの手当て、さっさとしちまえよ」
「分かったよ」
「晴希は邪魔になるから隣の部屋にいような」
「う、うん……」
まだ少し怯えている晴希の背を優しく押して、夕夏は晴希と一緒に部屋から出て行った。
「続けるぞ」
「……」
仰向けに寝転がった希夜の腕に包帯を巻いていると、ぼそりと彼が呟いた。
「とうやって、どう書くの」
俺の名前のことか。包帯に顔を向けたまま答える。
「冬に夜。で、冬夜」
「……ふーん」
「何だよ」
「綺麗な名前だと思って」
巻いていた手が止まる。無意識に言ったのだろうか。
「褒めてくれてんのか?」
「……は!?べ、別にそんなんじゃねぇよ変態!」
「だから変態じゃねぇって」
「俺の服脱がせてたじゃん」
「それは着替えないと汚ぇからに決まってんだろ。つーかお前、何歳?」
希夜は少し目を泳がせて、ため息をつくと呟いた。
「……16」
「じゃあ高校生になったばかりか?」
「……知るかよ」
希夜は腕を投げ出したまま、瞼を閉じた。
すぐに寝息が聞こえる。
自分のことなのに、「知るかよ」ってどういうことだ。
「何者なんだよ、お前たち」
体の痕。
兄弟なのに色が違う髪と瞳。
何なんだ。一体。
それから、行く宛が無いと言った希夜と話をして、俺はあまり詳しく聞くことはせずに二人を息子として育てることにした。
数日前に三十路になって、特に恋愛をしたいとも思わずに暮らしてきた俺が少し寂しさを感じるようになっていたから、いい機会になったのかもしれない。
二人とも俺に慣れてくれて、俺も二人に慣れて、今では本当の家族のようになっている。
それでもまだ三ヶ月しか経っていない。知らないことは、多い。
何より一番気になっているのは、希夜の、体に残っている不気味な痕だ。
行く宛が無く、幼い晴希と二人で公園にいた、汚れた姿の希夜。
あれは、あの痕は、もしかして。
「……馬鹿か」
やめよう。
希夜に尋ねて、もしも本人が思い返したくない出来事を思い出させてしまったら、心苦しい。
「伊織さん?」
「うひゃあ!あ、ふ、藤崎君……」
駐車場でぼんやりと当時を思い返していた俺は、希夜の友人であり同僚の藤崎君に声をかけられた。
希夜と同じように跳ねている黒髪に優しい雰囲気を纏っている彼は、首を傾げて俺を見る。
「どうかしました?」
「あ、そうだ。希夜いる?」
「あぁ、ちょっと待ってくださいね」
藤崎君はにっこりと笑うと、ホテル内に入って行った。
希夜が務めているホテル、シーサイドホテルは人気が高いホテルで、給料もそこそこだ。
希夜は入ったばかりだからまだまだだけど。
「冬夜。どうしたの?」
藤崎君と一緒に出てきた希夜に、携帯を渡す。
「家に置いてあったぞ」
「あ、悪ぃ。助かったよ」
「じゃあ俺仕事だから、ありがと、藤崎君。頑張れよ希夜」
「お気をつけて」
「おう」
礼儀正しく頭を下げた藤崎君と手を振る希夜に見送られ、俺は職場の古本屋へと向かった。
***
携帯を家に忘れるなんて。中を見られたらやばかった。
「希夜」
「ん?」
冬夜が来てることを教えてくれた彩都が、俺の方を見てむっとした。
「携帯持ってるなんて知らなかったんだけど」
「あ、えっと……。別に言わなくてもいいかな~っと、思って、さ……」
「希夜。メアド交換しようって言ったとき、携帯持ってないからって断ったよね」
「う……」
「どういうことかな?」
「……あー仕事仕事」
「ちょっと待ってよ!」
彩都の横をすり抜けてホテルへと戻る。
「彩都は駐車場の掃除だろ?頑張れファイト!」
「ちゃんと答えてよ希夜!」
俺を追いかけようとした彩都。だけど先輩に見つかってしまった。
「藤崎!掃除担当だろう!」
「あっ、すいません!」
「じゃあね彩都」
「ちょっと!」
先輩に捕まってぺこぺこ頭を下げている彩都を横目で見ながらホテルの中に戻った。
携帯をこっそり開いて、一人笑みを浮かべる。
教えてなんかやらない。
だって、メアドにお前の名前が入ってるから。
「絶対秘密だけどな」
友達に貰った彩都と俺の隠し撮りツーショット写真が待ち受けになっている携帯を閉じて、事務室へと向かった。
To be continue…