自宅訪問
人間見た目で判断すると、結構痛い目見るからね。
親切にそう教えてあげればよかったんだろうか。
僅かな声を頼りに駆けた先。
果たして、詩織はそこにいた。
腹部を庇うように片手で押さえて、蹲るように。
「…詩織?」
「…れ、ん?」
「詩織っ!!」
ずざ、とコンクリートがすれる音を立てて、蹲る詩織の傍らに駆け寄る。
ゆっくりと身を起こす彼女の肩は小さく震え、動きもぎこちなかった。
僅かに上がった顔を見れば、頬が赤く腫れている。
明らかに、何らかの暴力を受けた後だった。
「…水島…恵美子かっ…」
喉がからからに渇き、呻くように吐き出された声は他人のもののように掠れていた。
ここ数日の騒動の黒幕は判っている。
切欠を与えたのはあの男だが、命令しているのは水島恵美子だ。
「…蓮ったら、ひどい顔。」
きっとかなり痛むのだろう、引きつったままの表情で、詩織が小さく笑った。
こんな状況になってまで私を責めずに笑みを返す彼女に、私の胸が捻じ切れそうに痛んだ。
「…ごめんっ…」
「もう…また謝る。あなたがやったわけではないのに。」
違う、違うよ詩織。
これは思いっきり私のミスだ。
高校生と侮って、適当に返していれば飽きると思って。
ここのお坊ちゃんやお嬢様のやれることなんか高が知れてると思って油断した、私のミスだ。
私は詩織を守れなかった。
そう言うと、詩織は困ったように苦笑を浮かべた。
「蓮、蓮ったら。こっちを向いて頂戴。」
やさしい声に、ゆっくりと顔を上げる。
赤い頬が痛々しく、それを見た途端、私の胸も一層痛んだ。
「またそんな顔をする。」
「…だって…。」
「だってじゃないわ…もう、蓮ったら、私だって蓮を守りたいのよ?」
思わぬ言葉に、絶句した。
きっと私の目は最大限に見開かれているだろう。
「私を…?」
「そうよ、友達なんだから、当たり前でしょう!」
きっぱりしっかりと言い切った詩織は、大きな声を出して身体に響いたのか僅かに顔をしかめた。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
小学校でも、中学校でも、同年代の男の子より運動能力があった私を、守るなんて言うやつはいなかったし、家族といえば誰かを守れるようにと性別関係なく扱きに扱いて鍛える始末だ。
ちょっとだけむずむずするけれど、何だか嬉しい。
でも、それでも…。
「私は詩織に傷ついてほしくない。」
「あら、奇遇ね私もよ。私も蓮に、傷ついてほしくないわ。」
あぁ言えばこう言う。
思えば、入学してこの方詩織に口で勝ったためしが無い気がした。
「それでも、これは私の得意分野だから。」
今度は絶対守るから、私に守らせて。
そう言うと、詩織はまるで子供のように口を尖らせて、
「嫌。」
ときっぱり言い放った。
その日は詩織のご両親に心配をかけないために、詩織はそのまま私の家に泊まることにした。
日ごろ真面目な詩織の言うことに、彼女の両親は疑うことなくOKを出し、数少ない私の友達の訪問に、うちの両親も歓迎モードだった。
電話越しの母の声が幾分弾んでいるのは気のせいではないだろう。
「…うん、うん…わかった、よろしく。」
何だか変なことをしていなければいいのだけれど。
母の対応に少しだけ不安を感じつつ、通話を終えて携帯を閉じる。
「大丈夫そう?」
電話中、少し不安げにこちらを見ていた詩織が、すかさず声をかけてきた。
その表情に苦笑を返してしっかりと頷く。
「うん、全然問題なし。むしろ大歓迎っぽい。」
「本当?よかったわ、突然だったしご迷惑かと思ったの。」
「ないない、うちの両親そういうの気にしないから。」
むしろ代わりに怪我させといてフォローすらできなかったなんてことになったら、それこそ家族全員に何言われるかわかったもんじゃない。
ただでさえ怪我させた時点で既にアウトだというのに。
そういうことには特に厳しい家族、というより私のお師匠様たちの顔が浮かび少しだけ背筋が寒くなった。
「じゃあ、お世話になります。」
そんなことは露知らず、詩織が深々と一礼をする。
私にとっては当たり前のことなので、彼女が礼を言う必要はないのだけれど、その丁寧な仕草の表すままの気持ちに自然と頬が緩んだ。
「言っとくけど、うちボロいからね?」
そんな言葉で照れくささを誤魔化しながら、心の中でしっかりと彼女を守ることを誓った。
「行ってきます。」
「お世話になりました。」
いつものように出掛けの声をかけた私の横で、いつもとは違い詩織が深々と頭を下げた。
「いいえぇ、とっても楽しかったわ!またいらっしゃいね、詩織ちゃん!」
「二人とも、気をつけて行きなさい。」
「詩織ちゃん、また絶対遊びに来てね!」
「待ってるよ」
「蓮、わかってるね。」
上から、母父弟次兄、そして意味深に笑う長兄だ。
どうやら物腰が柔らかく礼儀正しい上、お嬢様なのに謙虚な詩織を家族全員で気に入ったらしい。
私が受験に出るときでさえ見送りなんぞしなかったくせに、今日に限って雁首揃えて玄関に出てきていた。
「ありがとうございます、お言葉に甘えて、是非またお邪魔させてください。」
詩織がふわっと花が綻ぶように笑えば、うちの家族はもうメロメロである。
特に弟、稔は顔に出まくりだ。
朝っぱらからだらしがないったら…ていうか、どうでもいいけどお前もう学校行く時間過ぎてんだろが。
軽く遅刻だぞ、誰か注意しろよ。
「詩織、行こう。遅刻する。」
「えぇ、では失礼します。」
限が無いので軽く詩織の背を押せば、彼女は軽く会釈をして踵を返した。
一瞬、不満げに私を見た稔を睨みつける。
少し歩いて振り返った詩織につられると、そこには未だ気持ち悪いまでににこにこと笑顔を浮かべたまま手を振る家族が並んでいた。
「素敵なご家族ね。」
昨日の凶事の影も見せず、詩織はふんわりと笑った。
「……私は気持ち悪かった。」
「ふふ、蓮ったらやっぱり照れ屋さんね。」
「いやいやいや、いろいろ間違ってるよ、詩織。」
何だか朝からどっと疲れた。
そう呟いてぐったりと肩を落とせば、隣を歩く詩織がくすくすと笑う。
一通り笑った詩織が小さく息を吐いた。
「それにしても、蓮のお家は道場だったのね、びっくりしたわ。」
「ガキ共相手のボロ道場だけどねー。」
「そんなことないわ!趣があってすっごく素敵じゃない。」
「ま、確かにみんなで磨いてっから、築年数の割りに綺麗かも?」
「ふふ、道場なんて初めて入ったから、とっても楽しかったわ!」
きらきらと目を輝かせて詩織が語る。
それに、と彼女は続けた。
「前から蓮は運動神経が人よりずっといいと思ってたけれど、小さいときからご家族を先生に武道を習っていたからなのね。」
深く頷く彼女の言葉に、試練の日々を思い出してこれまたがっくりと肩を落とす。
「…ぶっちゃけイジメだよイジメ。いや、イビリ?」
「あら、愛じゃない!」
「いやいやいやいや、そこは否定させて!」
マジで。ホントに。
「愛よ、愛!蓮が強くて素敵な女性になれるよう、育ててくれたのよ。」
「素敵な女性は物理的に強くなくてもいいんだよ、詩織さん…。」
「そうかしら?強い女性は素敵よ!」
まぁね、私も強い女の人は好きだけどね。
強いにも種類と限度があるんだよ。
詩織は鬼のような奴らの扱きを知らないから言えるんだー!
寸でのところで叫びそうになった言葉を飲み込み、視覚できそうなほど大きく長い溜め息を吐き出すと、再び隣からくすくすと笑う声が聞こえた。
昨夜、帰宅した私たちを迎えた母は、詩織の動きからすぐに彼女の容態に気付いた。
一瞬顔をしかめた母に詩織は誤解をしたようだが、あれよあれよという間に連れてこられた母屋の一室で母が救急箱を広げた瞬間、全てを察したようだった。
申し訳無さそうに縮こまる詩織に、母が笑顔を向けつつ、詩織の気付かぬところで私に厳しい目を向ける。
その目は、後できっちり説明してもらうから、と言っていた。
「それで、どういうことかしら?」
母の厳しい声がかかる。
詩織が風呂を使っている間、私は父母と長兄の前で正座させられていた。
いつもは率先して口を開くのは兄だが、詩織の傷を見たのは母なので今日の代表は彼女である。
私はこうなることを覚悟していたし、私自身当たり前のことだと認識しているので、詩織が怪我をするに至った経緯を事の発端から全て隠さずに説明した。
「…情けない。」
聞き終えた母の第一声である。
「友人一人、守れないなんて。」
溜め息混じりに呟かれた言葉に、反論する気は更々無い。
御剣の人間が、守ろうと思った人間を守れなかった。
その事実はいくら独り立ち前の未成年とはいえ、恥ずべきことである。
兄たちも私も弟も、そう育てられてきたし、そこに不満は何一つ無かった。
だからこれは私のミス、私の驕り、そして恥だ。
詩織がどう庇おうと、私の認識は変わらない。
膝に置いた手を悔しさに握り締めれば、父が大きく溜め息を吐いた。
「最近、気を抜きすぎていたかもね。」
父の言葉に私の眉がひくりと反応する。
「すみません、父さん。僕も手を抜きすぎていたかもしれません。」
環境が変わったから、ちょっと甘くしすぎたかな。
そう続けた兄の言葉に、私の肩がびくりとはねた。
もう条件反射だ。
兄が全てを言わずとも解る。嫌な予感しか感じない。
ちらりと伺うように兄――諒を見上げれば、そこには誰もが天使の笑みと評価するだろう、兄の端整な顔があった。
が、騙されてはいけない。
あの天使の皮の下に悪魔よりも性質の悪い本性が隠されていることを私は嫌というほど知っている。
見ろ、顔は笑っているが、目は氷の彫刻みたいじゃないか。
詩織を守れなかったことは心から反省しているが、それとこれとは話が別だ。
だらだらと冷や汗を流す私に、父が再び大きな溜め息を吐いた。
「…蓮。」
「……はい。」
「二度は無いよ。」
「はい。」
空気を一変するような父の声。
いつもは物腰の柔らかい彼の厳しい瞳に、少し身じろぎして姿勢を正した。
兄も父が遮ったことで、それ以上何か言うことを止めたようだ。
私は改めて父母と兄を見回し、心に刻むように両手に力を入れると、しっかり息を吸い込んで口を開いた。
「御剣の家名と、尊い者のためにあるこの名にかけて、必ず詩織を守ります。」
この手の台詞を言ったのは、人生で二度目だった。