本当の痛い目
たかが高校生と見くびっていた。
これはその報いだろうか。
詩織との関係を隠すことを止めてからというもの、私たちは下校時共に行動することにしていた。
ここの生徒の殆どは、家から学校まで高級車での送迎が基本なのだが、詩織は徒歩と電車を利用している。
そのことを随分と馬鹿にされてきたようだが、その歳になって電車すら一人で乗れないバカ共に優しさというオブラートに包んだ言葉で嫌味を返してきた彼女は、特に劣等感を持つこともなく寧ろ彼らに哀れみすらもっていたようだ。
話を戻すが、私と詩織の自宅の方向が同じだったため入学当初から時々一緒に登下校していたのだが、こういう状況になってからというもの意識して二人で行動するようにしていた。
…いたのだが。
「詩織がいない。」
ぽつりと呟きながら見つめる先には、待っていると言ったはずの本人がいない空っぽの席。
鞄もないので、見た感じ先に帰ったのかもしれないとも思えるが、彼女が私に何も言わずに先に帰るとは思えなかった。
もし何か用事ができたのなら、メモなりメールなり何らかの言葉を残すはずだ。
彼女らしくない机からずれた椅子に嫌な予感を覚えながら、私は勢いよく踵を返した。
疎らに人の残る校舎を全力で走りながら、人の数倍はいいだろう聴覚を極限まで研ぎ澄ませる。
こんなとき、兄の“鍛錬”はとても役にたったが、それらをもってしても見つからない気配に歯噛みする思いで駆けた。
とにかく、人の近づかない場所。
特別教室棟や会議室の並ぶ廊下を駆け、トイレや体育館、プール裏まで駆け回った。
下から上にくまなく回り屋上までたどりついたとき、流石に息が上がっていた。
まだ肌寒さが残る気温の中、頬を汗が伝う。
一端止まって息を整えたかったがその時間すら惜しくて、走り続けた勢いのままバンと音を立ててドアを開いた。
「詩織…」
無意識に彼女の名前を呟きながら、広い屋上をぐるりと見回す。
もう外は暗い。
こんな時間だからか、生徒の姿はなかった。
と、その時。
「………っ…ぅ…。」
風の音に紛れた小さな小さな声。
それを聞き取った瞬間、私の足は動き出していた。
運悪く担任の荷物持ちとして捕まった蓮に待ってるからと声をかけて、いつものように本を開いたのは数分前のこと。
昨日本屋で見つけたお気に入りの推理シリーズの最新刊を開いたところで、聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。
せっかく読もうとしていたのにと、少し不満を覚えながら顔を上げれば、そこには不気味なほどにっこりと笑う水島さんの姿。
僅かに首を傾ければ、背後にはいつもの取り巻きの二人組みの姿も見えた。
あぁ、何だかとっても嫌な予感がすると思ったけれど、慣れたもので顔には出さず応えるようににっこりと笑う。
「何かご用ですか?」
「えぇ、ちょっと一緒に来て頂きたいのだけれど。」
…何だか一昨日読んだ小説のようね。
彼女たちについて行けば、きっとそのお話と同じ展開なのだろうと予想を立てた。
「ごめんなさい、友人と待ち合わせをしているのですれ違いになりたくないんです。できればこの場でご用を済ませて頂けるか、友人が戻るまでお待ち頂きたいのだけれども…。」
もっともらしく言っては見るけれど、彼女たちは蓮がいない隙を狙って来たのだろうからお願いどおりにはならないだろう。
あぁ、それとも蓮を巻き込まずに済むなら、それもありかしら…いいえ、そうなったら蓮にとっても怒られるし、彼女をとっても傷つけてしまうわ。
ただでさえ、私を巻き込んでしまったなんて、しなくてもいい後悔をしているのに。
こんなときに呼び出すなんて…失礼だけど先生も間が悪いわね。
案の定、私の提案に彼女たちは難色を示し、先程まで上辺だけとはいえにっこりと笑っていたはずの水島さんの表情が一変した。
「松本さん。私が、一緒に来て、と言っているの。」
殊更ゆっくりと、表情を消した水島さんがそう告げた。
背後では取り巻きの二人がにやにやと嫌な笑みを浮かべている。
だから何ですか?
そう返したいのは山々だけれど、ここで下手に刺激するのは得策ではないわね。
「わかりました。」
これはもう、観念するしかなさそうだわ。
溜め息混じりに返事をすると、水島さんは満足したのか満面の笑みを浮かべて踵を返した。
「ほら、何をグズグズしているの!さっさとついてらっしゃい!」
とりあえず携帯電話だけは持っていこうと鞄を探っていると、取り巻きの一人から甲高い声が放たれる。
これ以上刺激するのも避けたいし、仕方なく鞄ごと持って行こうと乱暴に掴んで慌てて席を立った。
あぁ、蓮に心配かけちゃううわ。
…先に帰ったと思ってくれるとありがたいのだけれども。
向かった先は屋上。
今日は風が強いためか人の姿が無いその場所に小さく溜め息を吐いた。
いつもなら数人は絶対にいるのに、今日に限って誰もいないなんて…。
あわよくば良心の呵責に耐えかねた誰かが、こっそり教師にでも告げ口してくれないかと淡い希望を持っていたのだけれど。
いつの間にか取り巻きの二人に両脇を固められ、まさに連行されるように辿り着いたのは、皮肉なことに蓮といつも昼食をとっているあの場所だった。
この場所に全くと言っていいほど人が近づかないことは、嫌になるくらい知っている。
もう何度我慢したか解らないほど漏らしそうになった溜め息を噛み締めていると、先行していた水島さんが、優雅な動作でくるりとこちらを向いた。
それに倣うように、両側の二人も踵を返して私に向き直る。
「さて、松本さん。あなた、今ここにいる理由を理解なさってるのかしら?」
いつも通り腕組みをした水島さんが、意味深に笑った。
「そうですね…何か私に仰りたいことがあるのではないかと。」
曖昧に返せば私の態度が気に入らなかったのか、取り巻きの二人が眉を顰める。
そのまま非難の声を上げようとしたが、水島さんが軽く手を振る動作をすると萎むように身を引いて口を閉ざした。
うちの太郎さんより躾が行き届いているのではないかしら。
因みに、太郎さんは私の小学校時代からのパートナーでシェパードという種類の…
「ちょっとあなた、聞いてらっしゃるの?」
「えぇ、勿論ですわ。」
嘘です、ごめんなさい、完璧に聞いていませんでしたわ。
水島さん、何かお話をされてたんですね。
何かに集中するとそればっかりになってしまうこの癖もそろそろどうにかしなければ。
「ですから、明日の夕方、ここに御剣さんを連れてきて頂けないかしら、と言っているのよ。あの方、いくら私や私の友人がお誘いしても良い返事をくれないばかりか平気で約束を破られるの。でも、普段よくお話ししてらっしゃる松本さんなら、御剣さんも来てくださると思って。」
蓮ったら、お誘いまで受けていたなんて、初耳だわ。
それにしても、何があるか判っていてノコノコと誘い出される蓮ではないし、彼女は身軽で頭もいいから、きっと今日の私のように両脇を固められる前に彼女たちの思惑ごとするりとかわしていたのね。
…決して私が鈍いというわけではないのよ。寧ろ運動は好きなほうだし。
ふとした瞬間たまに思うのだけれど、蓮ってかなりの運動神経を持っているのではないかと思うのよね。
みんな気付いていないみたいだけれど。
にしても…。
「蓮は簡単に約束を破るような人ではありません。彼女がそうしたならば、余程の理由があったのでしょう。彼女は私の大切な友人です。水島さん、申し訳ありませんが私は友人の意に沿わないことはやりたくありませんわ。」
私がそうはっきり告げることで、これからの展開がどうなるか。
我が身に降りかかるものは、決していい事柄ではないだろう。
最悪、私には耐え切れないような傷をつける凶事が降りかかるのかもしれない。
それでも、明らかに友人にぶつけられるだろう目の前の彼女たちの悪意を知りながら、安易に友人を裏切ることはしたくなかった。
たとえそれが、蓮にとっては軽くかわすことのできるような些細なものだとしても。
私の予想通り、言葉を聞き終わった水島さんたちの表情がみるみるうちに般若へと変わる。
あぁ、噂の恋人に見せて差し上げたい。
水島さんには悪いけれど、まさに百年の恋も一瞬で冷めてしまいそうなお顔よ。
そんなことを思っていると、突然、ドンっと肩に衝撃が走った。
咄嗟のことに身構えることができず、一歩後ろへよろめくように後ずさると、更にそこへ追い討ちが来た。
「…つっ!!」
ぱぁん、と小気味良い音と共に頬に走る熱と痛み。
水島さんから平手を受けたと気付いたときには、反対の頬にももう一発受けていた。
鈍い痛みが頬を走る。
思わず、叩かれたそこを掌で覆えば、再び肩に衝撃が走った。
「きゃ……あっ!!」
取り巻きの一人に思いっきり肩を押されたらしい。
上手くバランスが取れなかった私は、その勢いのまま屋上の硬いコンクリートに尻餅をついた。
脳天に響くような痛みが走り一瞬息が止まるも、何とか耐えながら身を起こす。
「あなた、何か勘違いされているのではなくて?」
ずい、と追い込むように水島さんが私に近づき、見下すように言い放った。
逆光で暗く翳った彼女の顔を見上げれば、その瞳だけが爛々と不気味に輝いていた。
そこに浮かぶのは明らかな憎しみ。
「何をどう思われたのか知らないけれど、あなた方と私とでは立場も身分も違うのよ。本当なら、クラスメイトという括りに入っていることすらおこがましいの。」
ぎり、と歯の軋む音と共に、水島さんの顔がぐしゃりと歪んだ。
「それを…ちょっとこちらが手加減してあげただけで、私たちに対抗できると思うなんて…呆れて物も言えないわっ!」
ドスっと、鈍い音が身体に響く。
はしたなくも、目の前のお嬢様は思いっきり私の腹部を蹴り上げた。
そのぎこちない動きを見ながら、ふと誰もいない公園で空き缶を蹴り上げていた蓮の姿が頭に浮かぶ。
同じ動作でも蓮の動きにはしたなさなど終ぞ感じることはなく、寧ろ不思議なくらい綺麗なモーションだったのを思い出した。
「…っ!!何を笑っているの!?馬鹿にしてらっしゃるのかしら!?」
「……ぐっ…!!」
どうやら私の口は無意識に弧を描いていたらしい。
再び襲った腹部への衝撃に、口からひしゃげたような声が漏れた。
うっとうしく垂れた髪の隙間から見上げた水島さんの顔は真っ赤に染まり、僅かに息を荒げている。
その勢いに乗るように、両脇の取り巻き二人も私に近づいてきた。
「水島さん、綺麗な脚が汚れます。」
「そういうことは私たちがやりますから!」
そんなに媚び諂って、何が楽しいのかしら。
いいえ、きっと彼女が、正確には彼女の家が怖いのね。
あからさまに媚びる二人に、水島さんも落ち着きを取り戻したのか、乱れた髪を横に流して深く息を吐いた。
次いで先程同様暗い笑みでにっこりと笑いながらこちらを見据える。
真っ赤な夕焼け越しに、濁った三対の瞳が鈍く光った。
「同じ女性として、顔はもう止めておいてあげるわ。」
それから日が落ちるまで、彼女たちは私に暴行を加え続けた。