漫画みたいな展開で
次の日からは、それはもう面白いくらいに漫画のような制裁という名のイジメが始まった。
まずは靴箱。
これはご丁寧に表面は判らないよう汚さなかったのか、開いた瞬間別世界が広がっていた。
真っ白な壁の中に、ぽっかりと開いた穴から腐界が顔を出している。
あぁ、もう思わずまじまじと見てしまったじゃないか。
こんなことは予測済みだったので、鞄の中から持参してきた携帯用のスリッパを取り出す。
靴箱の惨状を掃除している時間はなかったので、私はそっと腐界に蓋をすると、とりあえず後回しにして教室へと足を進めた。
「……。」
何だろうコレ。
馬鹿にされてんのかな、私。
思わず溜め息を吐いてしまった私を誰が責められるだろう?
教室へと足を進めた先に待ち構えていた次なる罠は、何ともお粗末なものだった。
教室の入り口が僅かに開いている。
つい、と上に目を向ければべっとりとチョークのついた黒板消し。
ホームルームはホワイトボードなので、これを仕掛けた奴はわざわざ特別教室棟の黒板教室まで取りに行ったのだろうか。
…馬鹿じゃないのか。
何だか虚しさを覚えながらも、少し身を引いた体勢でドアを引けば、支えを失った黒板消しが寂しげに降ってきた。
可哀想なのでせめて手で受け止めてやろう。
でも手が汚れるのは嫌なので、持ち前の反射神経を駆使して持ち手の方をキャッチする。
まさか掴まれるとは思わなかったのだろう、少々ざわついた室内に目を向けると、教室中の視線が一斉に私から逸らされた。
中に約一名悔しげな視線があったので、馬鹿はこいつかと検討をつけた。
黒板消しは持ったままというわけにはいかないので、とりあえず後ろの棚に置いておくことにした。
勿論返しに行く気は一切無い。
私が持ち出したわけでもないのに、何故時間を使ってまで特別教室棟なんかに行かなきゃならないのか。
特に落ち込んだ様子も見せず、ずんずんと自分の席まで進む私を、クラスメイトがちらちらと見ていた。
おそらく次の反応を見たいのだろう。
案の定席に到着してみれば、今度は私の机の中が腐界と化していた。
昨日のうちに、ある程度のことを予想していた私は、帰宅後詩織にメールを打っていた。
内容は単純明快、明日から私に関わるな、というものだ。
ソッコーで返ってきた彼女のメールには、一言“嫌。”と打たれていた。
しかし今までどおり私と共に行動しては、彼女も必ず何らかの被害を被る。
詩織もそれは解っている上で拒否してくれているのだろうから、ありがたいことはありがたいのだが、彼女が思っている以上に私の神経は図太いのだ。
私の本性を知っている詩織も流石に今回は私が泣きをみると思っているのだろうが、高校生のイジメくらい兄の扱きに比べれば、である。
家の権力を使おうものなら、こちらにも考えはあった。
なので、あれこれと理由を並べ立て、出方を見たいのだと必至に説得した結果、本当にきつくなったら相談するという条件付で私の希望を呑んでくれた。
というわけで現在しっかり私の隣には詩織が席についているものの、彼女がいつものように私に話しかけてくることは無い。
「御機嫌よう、御剣さん。」
皮肉なことに、今朝一番に挨拶を交わしたのは、証拠は無いが確実に一連のイジメの首謀者である水島恵美子その人だった。
席に着いたまま見上げれば、取り巻きを従えたお嬢様が腕を組んでいる。
どうでもいいが、腕を組むのは彼女のデフォルトなのだろうか。
「朝からお掃除大変そうね。」
「まったく、整理整頓も碌にできないなんて。」
「こんな方と同じクラスなんて、私嫌だわ。」
水島さんを筆頭に、口々に嫌味を述べる女の子達。
私はその声に応えることなく、黙々と机の中を綺麗にしていた。
紙くずにびしゃびしゃの雑巾、ガムテープ。
生ものが入ってないだけ予想よりずっとマシである。
これなら授業が始まる前に片付きそうだ。
「ちょっと、聞いてらっしゃるの?」
「水島さんが声をかけてらっしゃるのよ?」
あー、あー、あー、また水島さんね。
あんたらそれしか言えないのか。
うっとうしげに彼女達を見上げれば、メガネと髪で隠しているとはいえ私の表情が雰囲気でわかったのだろう、苛立ちを顕にした女の子たちが色めき立った。
「皆さん、いいわ、気になさらないで。」
「でも、水島さん!」
「このこ、失礼よ!」
失礼はどっちだ。
何だかシンデレラにでもなった気分だな。
「下賤の方に何を言っても伝わらないわ。」
にっこりと笑った水島恵美子は継母役決定だな。
ただ、ちょっと義姉の数が多過ぎやしないか?
「…嫌だわ、言葉も通じないのかしら。」
「柏木様に、あんな口を利いたのですもの、通じるわけがありませんわ。」
柏木様、という名が出た瞬間、水島恵美子の目の色が一変した。
「…そうね。」
一瞬で笑みを消し去り、凍りついた瞳には明らかな憎しみと嫉妬。
どうやら、昨日の迷惑な男は柏木啓輔というらしい。
ネクタイの色から一つ上の先輩ということだけは判っていたのだが。
それ以上特に何を言うことも無く、水島恵美子は無言で踵を返すと、そのまま自分の席へと戻っていった。
柏木財閥。
私のような上流階級に興味が無い人間でも、その財閥の名くらいは聞いたことがある。
全国どころか世界にも支社のある、国内屈指の大財閥だ。
機器の細かい部品から、建築、不動産、金融関係、果ては宇宙産業まで幅広く扱う柏木財閥は、柏木に睨まれたら国内で生きていけないと言われるほどの力を持っている。
あながち嘘でも無さそうなのが恐ろしいところなのだが、そんな大財閥の跡取りがまさかあれかと思えば、何だか世の中の理不尽に叫びたくなってしまった。
果たして、あの男に柏木財閥を背負えるのか、甚だ疑問である。
まぁ、一般人の私に心配される謂れなんぞ欠片も無いのだろうが。
先日、たった一度会っただけの男の死人のような瞳を思い出し、不意に背中を走った悪寒に私は小さく身震いした。
この歳になってまで、一人が寂しいとは言わないが。
今までずっと隣にいた存在が、突然ぽっかりといなくなってしまうと、私の気分も流石に落ちた。
一人で食べる弁当が、こんなに侘しいとは思わなかったよ。
まぁ、自分で詩織に頼んだことなので今更何を思っても仕方ないのだけれども。
それもこれも、あの迷惑な男のせいだと思えば余計に腹が立った。
「はぁ…つまんない。」
「あら、人はそれを自業自得と言うのよ。」
突然聞こえた馴染みの声に、私は驚いて箸を咥えたまま振り返った。
「ふふ、お隣いいかしら?」
「…関わるなって言った。」
「みんなの前では、関わらないわ。」
何か問題あって?と首を傾げる様は、まさに癒し系の皮を被った小悪魔だ。
あれだけ言っても言うことを聞かない詩織に、頑固者と苦く呟きつつも、いつの間にか消え去っていた物足りなさと温かな彼女の笑顔につられるように、思わず私も笑みを浮かべていた。
初日から少しずつエスカレートする嫌がらせに、特に動揺することなく全てを綺麗に受け流す蓮。
すぐに音を上げるだろうと予想していた周囲の生徒達は、まったく堪えない蓮に焦りを覚え始めていた。
それもこれも、失敗するたびにクラスの頂点である水島恵美子が苛立ちと不快感を募らせていたからである。
彼女の苛々は頂点に達していた。
「何であんな娘一人潰せないの!?」
バン、と大きな音を立てながら生徒会室のドアが開いた。
と同時に、苛立ちも顕に水島恵美子が、髪を振り乱しながらずんずんと室内へ入ってくる。
彼女が向かう先は生徒会室の更に奥、硬く閉ざされた会長室だった。
先程の勢いはどこへやら、いったん扉の前で止まった恵美子は、一度大きく深呼吸をすると細心の注意を払うように緊張した動作で扉を打つ。
「啓輔?入っていいかしら?」
「…あぁ。」
中からは低い男の声が聞こえた。
その答えにぱっと満面の笑みを浮かべた恵美子が、いそいそと部屋へ入る。
そこには、窓際のソファで気だるげに横たわる、柏木啓輔の姿があった。
ただ寝そべっているだけでも絵になる姿。
明るめの茶髪は窓から差し込む陽射しでまるで金糸のように輝き、筋肉質だがスレンダーな肢体はすらりと長く、まるで名のある芸術家の残した彫刻を見ているようだ。
髪よりも濃い色の眼は切れ長で、僅かに細められただけでドキリとするような色を持っていた。
同じ歳の男子高校生など比べ物にならない程整った容姿と彼が持つ独特の雰囲気に、殆どの人間が呑まれてしまうのだ。
恵美子もその中の一人であり、またその中でも特別な部類なのだと自負していた。
そう、彼女は彼の人の恋人という位置にある。
その位置に、柏木啓輔がどれほどの意味を見出しているかは不明だが、少なくとも恵美子は、そこを守るために多くの努力と犠牲を払ってきた。
なのに。
「あの女、どうなった?」
「…っ!!」
初めてだった、啓輔が“女”に興味を持ったのは。
確かにそれは、ただの気まぐれかもしれない。
あんな野暮ったい見た目の、それこそどこの馬の骨とも知れない女、自分の脅威になるはずがないとも思っている。
しかし、今までどんな女に対してもまるで存在すらしていないように振舞う啓輔が、はっきりとその目に映したのだ。
今もまた、御剣蓮のことを口にしている。
恵美子はそれが、許せなかった。
「今までのと同じ、何の抵抗もできないみたいね。もうもたないんじゃないかしら?」
「ふうん。」
これ以上彼に興味を持たせたくなかった恵美子は、辛うじてそう答えた。
どこか興が冷めたように啓輔が応える。
恵美子がほっと、小さく息を零した。
啓輔は恵美子や蓮より一つ学年が上だ。
なので、他が何か言わない限り、また彼自身が一年の教室に近づかない限り、啓輔に御剣蓮の情報が入ってくることは無い。
他からの情報は恵美子が全て抑えているので間違っても蓮の異常な打たれ強さが啓輔に伝わることは無いだろう。
それに、いくら興味を持ったとはいえ、彼自身がわざわざ一年の教室に足を運んでまで、御剣蓮の情報を得ようとするとは思えない。
とにかく、今の状況を啓輔に伝えるわけにはいかなかった。
全ては、恵美子の女の勘である。
「啓輔が、気にかけるほどではないわ。」
にっこりと笑みを浮かべたその背後で、真っ白な恵美子の拳がぎりぎりと軋んだ。